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私たち全共闘世代にとって、67.年10月8日の羽田闘争、68年10月21日の新宿闘争、69年1月18〜19日の東大安田講堂攻防戦、は今でもそれぞれの心の内にしっかり刻まれているのだと思います。
安田攻防戦は、結果として、全共闘運動の終焉の象徴とも思いますが、あれから45年、日本の歴史は少しでも前進したのでしょうか。
以下、昨年の拙記事より。
 
 
 
 
                                                 いちご白書をもう一度  
 
 
私は当時高校3年、受験直前の時期でしたが、『ヴェトナム反戦』、『大学解体』を唱える全共闘に共感し、集会やデモに参加していました。
18日も同じ高校の仲間と共にお茶の水駅まで行き、駅周辺で多くの学生達と東大を目指して機動隊との攻防に加わっていました。
その日、安田講堂は厳しい戦いを耐え抜き、攻防は、翌日に持ち越されました。
私たちは、日大に泊まり込み、翌日も駅周辺で、多くの学生達と解放区を作って機動隊と対峙し続けていました。
そして、その日の夕刻、安田講堂は落城しました。
 
 
『最後の時計台放送』
われわれの闘いは勝利だった。
全国の学生・市民・労働者の皆さん、
われわれの闘いは決して終ったのではなく
われわれにかわって闘う同志の諸君が、
再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、
一時、この放送を中止します。
 
『大学ゲリラの歌』
言うなかれ君よ疲れを
世の常を又勝ち負けを
戦いのはるけき果てに
今やはた何をか言わん
赤き旗を打ち振る者の
大いなる肩を抱けよ
落日をヘルメットに砕きて
暫しただ歌い勢えよ
我は行く駒場の封鎖
君はよく病院を突け
この闘争相離るとも輝かし
ゲリラの歌いつの日か又歌わん
言うなかれ君よ疲れを
世の常を
見よ大学と名の付く所
我ら行き我ら殺すを
 
 
 
あの頃、なぜ大学をあれほど憎まなければならなかったのか。それは、原発事故後の今では、国民の殆どが知ったように、当時から、大学は、支配階層(政官業学報)の養成機関としての役割を果たし、差別構造を支える存在であったからだと思います。
そして、教授達は、知識人としての責任を放棄し、その特権的地位に甘んじるばかりか、学生を人間として扱わぬ不当な処分を平気で行っていました。
そして、学園闘争後の日本社会の更なる劣化を招いたものと思います。
 
せめて、全共闘の学生たちと、正面から向き合って話をしようとする大学教師が一人でもいてくれたら。
あるいは、教師だって生活していかなければならないんだから、正しいと思っても言えない状況があるのが君達にはわからないのか、と本音で答えてくれる人がいてくれたら、多分、学運闘争が全国に波及することはなかったのだと思います。
 
 
 
全共闘というのは、自由な個人の連合体で、入るも自由、出るも追わず、といったゆるやかな組織で、イデオロギーに頼らず、自立して始められた個人を主体とする運動で、いわゆるセクトの運動とは異質なものでした。
現在の官邸前の行動などと同質のものと思います。
 
 
 
  
 
 
原発事故後の脱原発闘争には、かつて全共闘運動に参加していた方々も再結集し、様々な活動をされていますが、戦いの勝敗は、全体とは別の次元で、個人が、自分自身に敗れない限り、決して敗北は訪れないのだと思います。
 
 
 
 
 「連帯を求めて 孤立を恐れず
 我、力及ばずして倒れることを辞さぬが
 我、力尽くさずして挫けることを拒む!」(安田講堂落書)
 
 
                          ◇
 
 
 
 
                         ピンキーとキラーズ 涙の季節
 
 
 
 
 
あの頃、私たちは、反日共系と言われましたが、60年安保頃までは、日本の共産主義運動は、唯一の前衛党と自負する共産党が、一党支配していました。
学園闘争時代にも、彼らは、まだ、大学を革命の砦に!などといって、大学当局と一体となって私たちに敵対してきました。自ら暴力を行使しながら、私たちを暴力学生と非難し、その矛先は、決して国家権力には向けられませんでした。
 
彼らにとって、一番大切なことは、自らの組織の維持拡大なのだと思います。
今でも、小沢事件のような不当な国策捜査にも何ら異議を唱えず、逆に権力に加担する姿は、余りにも情けない。
この国を変えるためには、国民自身がしっかり自立し、党派性を乗りこえること(普遍性を獲得すること)が、何より大事なのでしょう。
 
その後、失敗したとはいえ、2回も政権交代がこの日本で起きるとは、あの頃全く想像できませんでした。
名護市長選、都知事選、に勝利できれば、確実に、日本の歴史を進めることが出来るのだと思います。
 
 
 
10月21日は、私たちヴェトナム反戦世代には、国際反戦デーとして記憶されていますが、高校3年の頃参加した681021日の国際反戦デーは、当時の運動として最大のものでした。
 
 
 
以下、過去記事より。
 
この年、ヴェトナム反戦闘争の一環として米軍ジェット燃料輸送車阻止の戦いが新宿で行われてきていたが、この日は全国でおよそ30万人の学生、労働者、市民が参加して一斉に抗議行動が行われた。国会、防衛庁へ向かった党派もあったが、新宿には活動家数千人と共に多くの市民が参加し、合わせて数万人が結集した。60年安保以来、街頭闘争としては最大規模のもので、さすがの機動隊もなすすべがなく、私達高校生の部隊からは、機動隊ははるか遠くに見えただけだった。
 
67年の羽田闘争では学生達は孤立した戦いを強いられたが、その後の佐世保エンプラ寄港阻止闘争、王子野戦病院反対闘争、では多くの市民が学生達の反戦闘争を支援するようになっていた。そして、この国際反戦デーこそ、日本におけるヴェトナム反戦闘争の頂点の戦いであった。この日新宿に集まった群衆は、活動家達が退去した後もなおガス銃を撃つ機動隊と対峙し続け、深夜に至りついに騒乱罪が適用され、無差別に750名が逮捕された。その多くは普通のサラリーマンや新宿で生活するボーイさんなどであった。
たった一日とはいえ、パリ・コミューンのような解放区を作った戦いは、参加した多くの人間の胸に刻まれたことと思う。
 
当時、学外での反戦闘争と共に、全共闘の学生達は、学内でも様々な闘いを行っていた。旧帝大系の東大などでは、官僚養成機関である大学の解体を、また、学生の人権を無視した処分を平気で行う特権化した教授会(いわゆる進歩的・民主的知識人)などの大学管理体制の打倒をスローガンに掲げていた。
その後、彼ら特権的教育者達は、大学の自治やら学問研究・真理探究の自由を守るため、と称して教え子である学生達を権力に売り渡していったが、彼らの言っていた真理や自由がいかに欺瞞的、体制的、反国民的なものであったか、は現在の惨憺たる日本の情況が物語っているのではないだろうか。
 
あの頃の私達の心情は現在ではなかなかうまく伝わらないと思っていますが、かなり的確に表現してくれていると思われる詩を紹介しておきます。
 
 
『死を死にきることのできない君の今日を錯乱の中へたたき込め
錯乱!
空白の断片をかき集めながら
腐蝕したイマージュをつなぎ合わせたところで
最早耐えることなどできはしないということを知ってしまったから
君は、    はるか
美しいものへの憧れを拒絶する
記憶したのは言葉の影にすぎないということを知ってしまったから
君は想念のテロルを開始する
戦いが戦いであるために
君は武装し
悲しみが悲しみであるために
君は暗示された明日を拒否する
優しさどころか人の影すらない“そこ”へ出てしまった時
君の背によりそうものは完結した悲哀   何処
君は、    はるか』
             「絳雲そして」より
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
60年安保、60年代後半のヴェトナム反戦・学園闘争、沖縄闘争、と日本の民衆の闘いは、常に「非戦」が大きなテーマとなってきたように思います。現在の脱原発運動も、命や健康に直結する問題だから大きな力となっているのでしょう。
その思いが結実するするためには、やはり、国民が政治的主権を回復し、国の政策を根底から変えていくしかないと思います。
 あの頃からおよそ半世紀が過ぎ、歴史の進歩を感じる反面、まだまだ無力と懐疑的にもなりますが、諦めずに声を上げ続ける人たちがいる限り、希望は確かにあるのだと思います。
 
イメージ 1
                                山崎博昭さん
 
                   「あなたはなぜ戦争に反対するのですか」
                    「それは醜いからです」 




 
イメージ 2

                          67.10.8羽田弁天橋 


10 月 8 日がくると、やはり、山崎博昭さんのことが思いだされます。
1967 年 10 月 8 日、秋晴れで、さわやかな風の吹く日で、私は当時 16 歳、高校 2 年でした。
その日、佐藤訪ヴェト阻止闘争があることは知っていましたが、まさかそんな激しいデモになるとは 予想していなかったので、その渦中で、彼(京大 1 年で 享年 18 歳 )が亡くなったと知った時は、とても衝撃を受けました。
当時、多くの高校生や学生だけでなく、広く国民の中にも静かに悲しみが広がっていきました。
その後全国的なヴェトナム反戦運動・学園闘争に発展し、69年の安田講堂攻防戦がその頂点となりましたが、元々勝つ見込みのない戦いであり、そんな時、今年亡くなった藤圭子さんの歌が、私たちの心に沁みわたっていったのだと思います。
山崎博昭さん、藤圭子さん、のご冥福をお祈りします。
 
 
 

                        藤圭子 圭子の夢は夜ひらく

                       藤圭子さん 中学2年の時の詩
 
                       昨日の町が遠くになって
                 明日の町が近くになる
                 私はいつも
                 祈るの
                 こんど行く町は
                 絵本でみたような
                 夢のある町でありますよう にって……
 
 
 
 
 
 
44年前の118日、東大安田講堂攻防戦が行われました。
既に、直接この戦いを知る人も少なくなってしまったと思いますが、全共闘世代の人間として、やはり、振り返っておきたいと思います。
 
 
196911819日【東大安田講堂攻防戦】
 
 
 
                            いちご白書をもう一度          
 
私は当時高校3年、受験直前の時期でしたが、『ヴェトナム反戦』、『大学解体』を唱える全共闘に共感し、集会やデモに参加していました。
18日も同じ高校の仲間と共にお茶の水駅まで行き、駅周辺で多くの学生達と東大を目指して機動隊との攻防に加わっていました。
その日、安田講堂は厳しい戦いを耐え抜き、攻防は、翌日に持ち越されました。
私たちは、日大に泊まり込み、翌日も駅周辺で、多くの学生達と解放区を作って機動隊と対峙し続けていました。
そして、その日の夕刻、安田講堂は落城しました。
 
 
『最後の時計台放送』
われわれの闘いは勝利だった。
全国の学生・市民・労働者の皆さん、
われわれの闘いは決して終ったのではなく
われわれにかわって闘う同志の諸君が、
再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、
一時、この放送を中止します。
 
『大学ゲリラの歌』
言うなかれ君よ疲れを
世の常を又勝ち負けを
戦いのはるけき果てに
今やはた何をか言わん
赤き旗を打ち振る者の
大いなる肩を抱けよ
落日をヘルメットに砕きて
暫しただ歌い勢えよ
我は行く駒場の封鎖
君はよく病院を突け
この闘争相離るとも輝かし
ゲリラの歌いつの日か又歌わん
言うなかれ君よ疲れを
世の常を
見よ大学と名の付く所
我ら行き我ら殺すを
 
 
 
あの頃、なぜ大学をあれほど憎まなければならなかったのか。それは、原発事故後の今では、国民の殆どが知ったように、当時から、大学は、支配階層(政官業学報)の養成機関としての役割を果たし、差別構造を支える存在であったからだと思います。
そして、教授達は、知識人としての責任を放棄し、その特権的地位に甘んじるばかりか、学生を人間として扱わぬ不当な処分を平気で行っていました。
そして、学園闘争後の日本社会の更なる劣化を招いたものと思います。
 
せめて、全共闘の学生たちと、正面から向き合って話をしようとする大学教師が一人でもいてくれたら。
あるいは、教師だって生活していかなければならないんだから、正しいと思っても言えない状況があるのが君達にはわからないのか、と本音で答えてくれる人がいてくれたら、多分、学運闘争が全国に波及することはなかったのだと思います。
 
 
 
全共闘というのは、自由な個人の連合体で、入るも自由、出るも追わず、といったゆるやかな組織で、イデオロギーに頼らず、自立して始められた個人を主体とする運動で、いわゆるセクトの運動とは異質なものでした。
現在の官邸前の行動などと同質のものと思います。
 
 
 
  
 
 
原発事故後の脱原発闘争には、かつて全共闘運動に参加していた方々も再結集し、様々な活動をされていますが、戦いの勝敗は、全体とは別の次元で、個人が、自分自身に敗れない限り、決して敗北は訪れないのだと思います。
 
 
 
 
 「連帯を求めて 孤立を恐れず
 我、力及ばずして倒れることを辞さぬが
 我、力尽くさずして挫けることを拒む!」(安田講堂落書)
 
 
40年前、戦いの歌といえば、「インターナショナル」「ワルシャワ労働歌」といった、外国で生まれた社会主義的なものしかありませんでしたが、これからの時代、どのような歌がうまれてくるのでしょうか。
 
 
 
 
                  連帯を求めて
                   
                  【PVGIVE ME FIVE ! ダイジェスト映像 / AKB48[公式]
                  http://youtu.be/UqmHCxRjcGY
 
                        僕たちは逃げ出さない
                      たとえ何かに傷ついて
                      赤い血が流れたって
                      放っておいたらいつの日か
                      瘡蓋になる

                     『NEW SHIP』秋元 康  詞(本DVD所収)
 
 
 
 
 
 
                    孤立を恐れず
 
 
 
ファイト!吉田拓郎&中島みゆき&満島ひかり&福山雅治 修正版
 
                             
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                  

連合赤軍事件から40年

今年は連合赤軍事件から40年。そして、社会にその実像が伝わらぬまま歴史から消されていくことに異議を唱えるように「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を制作した若松監督も事故で還らぬ人となってしまった。
 
今年、5月13日に「連合赤軍事件の全体像を残す会」主催の「浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍」シンポジウムが開かれましたが、以下、そこでの当事者たちの発言。


青砥幹夫(赤軍派)『連合赤軍が、その中の人間に対して、死を突きつけてもいいんだという状況があったことは確かだと思う。それに対して抵抗する気持ちも当然たくさんあった、ためらいもあったが、一方で共産主義化とか、援助のための暴力であるとか理屈を受け入れていく自分もあった。ためらいと、そういったものを受け入れていく自分があった。』

植垣康博(赤軍派)『略。当時は党のためとか言われると、そこで思考停止という人間でした。残念ながら、それ以上、物事を考えることができなかった、ということです。もう一つは、自分自身が武装闘争の中で死ぬんだ、という思いでいるので、自分が死ぬということを前提にすると、他人に対しても死を強制していくということに対して、それ程の緊張感が無かったという面もある。』

雪野建作(革命左派)『その当時、我々がやろうとしていた武装闘争、その思想、それを私が支持していた、そこに責任を感じる。そういう闘争を支持していたから、準武力的な闘争を一部含めることについては同意していた。それについて責任を感じる。だから、銃を持ってきたとか、それを作ったとか、渡したとか、それよりも責任を感じるのが、当時の我々の政治思想、軍事方針。』  
 
            
 
                             ◇
                                                        
 

「T君の死を知らぬ父上の呼掛けを   籠城の吾ら俯(うつむ)きて聞く」
 
 
                                          坂口弘『歌稿』
 
 
「T君」とは寺岡恒一さんのことで、すでに浅間山荘に籠城している坂口たちによって殺害されていたのですが、まだその事実を知らぬお父さんが、恒一さんも中にいるものと思い、武器を捨てて出てくるように必死で呼掛けていた時の気持ちを、のちに坂口弘が詠んだもの。
坂口弘は「恒一君の父親の呼掛けの言葉が我々5人の胸に重くのしかかり、胸中つらく苦しかった」と述べている。
                                ◇
 
連合赤軍事件の当事者たちが、特に他の人と違っていたとは思いません。本当は、人が人として尊重され生きられる社会を、より強く望んでいた人たちなのだと思います。
 
 
あの頃、私も、共産主義には興味を持ったものの、本を読んでも理解するのは難しく、また、ロシア革命の初期から、ボルシェビキは地域ソビエトを弾圧し、強力な中央集権化をはかったことを知ってから、あまり興味を持てなくなっていました。そして、学園闘争で、個人を主体とした全共闘運動が出現したときは、とても希望を感じたものです。
 
高校の頃のリーダーだったA君も、某新左翼セクトのシンパで、熱心に活動していたのを思い出します。
ある日、私たちの活動拠点であった部室に行くと、彼が、仲間の女性たちにいっせいに非難されていました。
彼は、すでにセクトの大学生たちの集会にも出ていましたが、その前日のデモで、初めてゲバ棒を持ち、機動隊とぶつかったようでした。
 
彼は、「俺にはできなかった」と言っていたので、それは誰だってこわくてできないよ、と私は思いましたが、そうではありませんでした。
「いくら、相手が機動隊でも、相手にゲバ棒を振り下ろすことなんか、俺にはできない」と言いながら涙を流していました。
しかし、まわりの女性たちは、「そんなことははじめから分かってることでしょ。そんなことで革命なんてできるわけないじゃない。」と彼を責め続けました。
私は、彼女たちに同調はしなかったものの、彼を弁護することもできませんでした。
彼は、その後、大学へは行かず、自分の道を歩んでいきました。
 
 
なぜあの時、彼をかばえなかったのか、と後悔します。
ただ、あの頃は、私たち社会を何とか変えたい、と思う人間には、まだ、「革命」は絶対的なものだったと思います。
それを信ずるものにとっては、「命」も、それに比べれば小さなものとの意識は少なからずあったと思います。
 
あれから40年、今の脱原発デモを見ていると、社会の進歩を感じます。
人を傷つけずにすむ社会を私たちは望んでいます。
そして、その目標にふさわしい方法で、社会を変革することも可能となりつつあると思います。
 
やはり、リーダーのA君の感性は、とてもまともだったのだと思います。
 
 
連合赤軍事件で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

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