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甲状腺がんだけではないのでしょうが・・・。
以下、

「福島の子供の甲状腺がん発症率は20〜50倍」 津田敏秀氏ら論文で指摘



投稿日: 2015年10月08日 21時02分 JST 更新: 2015年10月08日 21時15分 JST
                                                                                           
                
    
2011年3月の東京電力福島第一原発事故による放射性物質の大量放出の影響で、福島県内ですでに甲状腺がんが多発しており、今後さらに多発することは避けられない――。
こうした分析を、岡山大学大学院の津田敏秀教授(生命環境学・環境疫学)らの研究グループがまとめ、国際環境疫学会が発行する医学雑誌「Epidemiology」(インターネット版)で発表された。
8日に東京の日本外国特派員協会で記者会見した津田氏は「チェルノブイリ原発事故で4年以内に観察された甲状腺がんの多発と同様の現象が起きているが、日本国内ではこのことが理解されず、何の準備もされていない。よく準備して対策をとるべきだ」と訴えた。
津田氏は、福島県内で2011年10月から実施されている、甲状腺がんの超音波スクリーニング検査数値を分析した。
調査は事故当時18歳未満だった福島県民全員、約38万5000人を対象に、段階的に実施されている。このうち、2011〜13年度に検査を受けた約30万人について、100万人あたり3人程度といわれる、ほぼ同年齢の日本全国での1年間あたりの発症率と比較した場合、福島市と郡山市の間で約50倍、福島原発周辺地域で約30倍、少ない地域でも20倍となった。2013年調査のいわき市で約40倍となるなど、潜伏期間を考慮すると発症率がより高いとみられるケースもあった。
1986年にソ連(現・ウクライナ)で起きたチェルノブイリ原発事故では、14歳以下の甲状腺がん患者の発生が5年目以降に急増したという。津田氏は「福島県内において甲状腺がんの著しい多発が起きていて、チェルノブイリで4年以内に観察された甲状腺がんの多発と一緒であり、チェルノブイリ同様、5〜6年目以降の大きな多発は避けがたい状態だ」と指摘した。
福島県の検討委員会は8月31日時点で、事故当時18歳未満だった計104人が甲状腺がんと確定したことを明らかにしているが「現時点では原発事故の影響とは考えにくい」とし、理由としてスクリーニング検査による精度の向上や、治療の必要がないのに陽性と診断する「過剰診断」を挙げている。津田氏は「精度向上や過剰診断ではせいぜい2〜3倍、あるいは6〜7倍、1桁の上昇しか説明できない。統計学的な誤差の範囲もはるかに超えている」と、国や福島県の姿勢を批判した。
その上で「詳細な情報を与えるだけで、有害な暴露は桁違いに少なくなる。きめ細やかな、コストのかからない対策はいくらでも思いつく。被曝量の多い場所を見つけて滞在時間を少しでも短くすることで大きく変わってくる。不要な被曝を避ける手段が、まったくとられていない。福島県に住み続けなければならない人ほど、そういう知識をきちんと与えられなければならない」と指摘した。
国民の側に立つ機関は皆無なのでしょうね。
以下、阿修羅様より。



泉田知事と初会談 狼狽する田中・原子力規制委員長(田中龍作ジャーナル)
http://www.asyura2.com/15/genpatu43/msg/688.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 8 月 24 日 18:12:00: igsppGRN/E9PQ
 
 

泉田知事と初会談 狼狽する田中・原子力規制委員長
http://tanakaryusaku.jp/2015/08/00011824
2015年8月24日 17:15 田中龍作ジャーナル


http://tanakaryusaku.jp/wp-content/uploads/2015/08/2906dce66beda2fea9a16398c93ac4b0.jpg
泉田知事は田中委員長に対して幾度も不信の目を向けた。=24日、原子力規制庁 写真:筆者=


 一番会いたくない相手と とうとう 会うハメになった―


 原子力規制委員会の田中俊一委員長が、きょう、泉田裕彦氏と会談した。新潟県知事ではなく全国知事会・防災委員長(※)としての泉田氏とである。


 泉田知事は「住民の避難対策が不十分なままの原発再稼働はありえない」として田中委員長に面談を求めていた。原子力規制庁の発足直後からだから3年越しとなる。


 しかし田中委員長は、避難対策は自治体が決めること、として面談を断り続けてきた。


 経産省資源エネルギー庁出身で、原子力行政の手の内を知る泉田知事は手強い。田中委員長は逃げていたのだ。


 きょうの会談でも攻める泉田知事に対して田中委員長は防戦一方だった。泉田知事はヨウ素剤の配布、SPEEDIの公開など避難にあたって必要なものを求めた。田中委員長からは明確な答えが返って来なかった。


http://tanakaryusaku.jp/wp-content/uploads/2015/08/3d4f4f82d1b1c5ddf5cb196fbdc093b2.jpg
落ち着きを失っていたのか。田中委員長の両手は、驚くほど早いテンポで踊った。=24日、原子力規制庁 写真:筆者=


 田中委員長はノラリクラリとかわせるものとタカをくくっていたのだろうが、そうは問屋が卸さなかった。3年間、業を煮やし続けた知事が強烈なアッパーカットを見舞ったのだ―


 泉田:「田中委員長が『原子力避難計画を作ること自体は規制庁の仕事ではない』と発言したと承知している…(中略)…山谷(えり子・防災担当)大臣からも望月(義夫・原子力防災担当)大臣からも『(それは)規制庁の仕事なのでお伝えしておきます』言われている。このあたりの仕事は規制庁の仕事と考えてよろしいか?」


 田中:「いや、必ずしも私がここで一存で決められることではないので、検討させて頂く・・・」


 泉田:「(緊急時の避難作業において労働安全法と原子力災害対策指針との法整備が必要なので)勧告権の行使をしていただけないでしょうか?」


 田中:「いや、勧告権というのは、法的には私ども持っていますけど、やたらとそれなりに意味のある勧告でないと。勧告したけれども、勧告しただけでは私としても本意ではない」。


 田中委員長の答えは理屈になっていなかった。声はふるえ、時おり吃った。手は机の上でバタバタと躍った。明らかに狼狽していた。


 田中委員長にとっては途方もなく長い30分間だった。面談の後、泉田知事だけが、ぶら下がり記者会見に応じた。


 「勧告権をなぜ使わないのか、相変わらず分からなかった。必要なものは各省庁に勧告権を行使してほしい」。泉田知事は田中委員長の消極的な姿勢を批判した。


http://tanakaryusaku.jp/wp-content/uploads/2015/08/52d0a47cc762a166660b0c6d2beeff85.jpg
田中委員長は「(弾道ミサイルが原発を直撃するケースは)規制にない」と答えていた。参考人席・最前列中央が田中委員長。=7月29日、参院安保特委 写真:山本太郎事務所=


 筆者は質問した―「田中委員長の姿勢からは、原発を動かすことの危機感、万が一の事故があった時の危機感が感じられたか?」と


 泉田知事は次のように答えた―


 「規制委員会のミッションは何なのか? 制度設計をした際に規制委員会の果たすべき役割は国民の生命・安全を守ること。(なのに)住民目線というところのお話が必ずしも伝わってこなかったなというのが印象だった」


 「住民の健康を守るという視点で何が必要か、まず勧告を出すという姿勢がないと。政府から独立して勧告を出すという本来の役割が果たせないんじゃないか。規制委員会は独自の立場で言えるという事でないと保安院時代と変わらない」。


 7月29日、山本太郎議員が国会で弾道ミサイルが原発を直撃した場合の被害を質問したところ、田中委員長は「(そうしたことは)規制にない」と答弁した。この問題について筆者は知事に聞いた。


 泉田知事が明快に答えた―


 「政府部内を規制委員会がしっかり統括するしくみができていない。原発が攻撃されたらどうなるかという被害想定を外務省が過去やっている。内部文書も存在している」


 「田中委員長が知らないということであれば、日本の原発の安全性の確保というのは、一体どうなっているのか?」


 住民の安全を第一に考える泉田知事と見切り発車で原発を再稼働させた田中委員長の初顔合わせ。この会談で原子力行政のいい加減さがモロバレになったことは、じつに“有意義”だった。


 〜終わり〜


 ※
正式名称は「全国知事会危機管理・防災特別委員会委員長」。


福井地裁、高浜原発再稼働認めず 仮処分で運転禁止決定は全国初

福井新聞ONLINE 4月14日(火)14時9分配信
 関西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の安全対策は不十分として、周辺の住民らが再稼働差し止めを申し立てた仮処分で、福井地裁(樋口英明裁判長)は14日、再稼働を認めない決定をした。仮処分で原発の運転を禁止する決定は全国初。決定はすぐに効力を持つ。
関電は不服を申し立てるとみられ、主張が認められない限り再稼働できない。

 2基は今年2月、九州電力川内原発(鹿児島県)に続き、政府が「世界で最も厳しい」と強調する原子力規制委員会の審査に合格したが、司法はこれを事実上否定する判断をした。11月の再稼働を想定し、地元同意の手続きに入っている関電のスケジュールに影響が出るのは必至。原発を「重要なベースロード電源」と位置付ける政府のエネルギー計画の見直しを求める声が上がりそうだ。

 住民らは、関電が想定する基準地震動(耐震設計の目安となる揺れ)を超える地震により、放射性物質が飛散する過酷事故に陥る可能性があると主張し、人格権が侵害されると訴えていた。

 樋口裁判長は昨年5月にも福井地裁で、関電大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の差し止めを命じる判決を言い渡しており、控訴審が係争中。住民らは12月、再稼働が迫っているとして、高浜と大飯計4基の差し止め仮処分を福井地裁に申し立てた。大飯の2基の審理は分離された。

 裁判長の樋口氏は大飯原発3、4号機の運転差し止めを認めた地裁判決を出した。1日付で名古屋家裁に異動したが、名古屋高裁が福井地裁判事職務代行を発令し、引き続き担当した。
福井新聞社
最終更新:4月14日(火)14時9分

転載元転載元: mimiの日々是好日

何事も力ずくの政権ですが、自らの責任を果たすのが先でしょう。
以下、阿修羅様より。



強制排除を前に緊迫 経産省前・脱原発テント(田中龍作ジャーナル)
http://www.asyura2.com/15/senkyo180/msg/875.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 3 月 04 日 18:06:05: igsppGRN/E9PQ
 
 

http://www.asyura.us/peterimg/1014.gif

強制排除を前に緊迫 経産省前・脱原発テント
http://tanakaryusaku.jp/2015/03/00010787
2015年3月4日 17:06 田中龍作ジャーナル


http://www.asyura.us/bigdata/up1/source/40206.jpg
「3年半に及ぶ 経産省前テントひろば の戦いは何人もこれを無にすることはできない」。記者会見で声明を述べる渕上太郎(左)、正清太一共同代表。=4日、経産省前 写真:筆者=


東京地裁は先月26日、経産省前の脱原発テントに明け渡しを命じる判決を言い渡した。判決には仮執行が付いていることから国はいつでもテントを強制排除できる。


 緊急事態を受け、テント前できょう記者会見が開かれた。


 「いつ(強制執行に)来てもおかしくない、緊迫している」。被告(テント代表)側代理人弁護士の大口昭彦氏が冒頭から危機感を示した。


 明日未明に、執行官が夥しい数の制服警察官と作業員を連れてテントを強制排除に来ても不思議はないのだ。


 焦点は国が強制執行に乗り出した時のテント側の対応だ。テントは原発再稼働に反対する市民が24時間体制で守っている。


 テント共同代表の渕上太郎氏は「撤去を拒否する」と明言した。そのうえで機動隊の攻撃には「したたかに柔軟に対応していきたい」とした。


http://www.asyura.us/bigdata/up1/source/40207.jpg
珍しくテレビ局のカメラが複数あった。NHK(中央)が来ていることは国の本気度を表している。=4日、霞が関 写真:筆者=


 テントを守る市民の層は硬軟幅広いことから、対応を予め一つに絞ることはできないという意味だ。


 「自主撤去はあるのか?」という記者団の質問に渕上氏は次のように答えた―


 「テントはどういう力によって支えられてきたのか? (テントを維持してきた)1271日を相当深刻に考えていきたい。原発廃止を願う全世界の声がそこにある」。簡単には明け渡せないという意思表示でもある。


 事故の原因究明も果たせず、東電は補償を満足にしていない。それでも国は原発を再稼働させる。これこそ不法ではないだろうか。


 「原発事故がなかったらこのテントが建っていることはなかった」。裁判でも貫かれた渕上氏の一貫した主張だ。




                                  ◇





声    明
経産省前テントひろば

 2月26日東京地裁では、テントを巡る第1審の判決が出された。その内容は、原告の請求提訴内容を全面的に認めるというものであった。①被告はテントを撤去し該土地を(国に)明け渡せ、②被告は損害賠償金(約2800万円)を払え、③以上の2つについて「仮執行宣言」(ただし、損害金に関する仮執行対象額は約1,100万円)」を付す、というものである。
これは明らかに不当な判決であって、当然ながら我々は承服できない。この判決は司法の独立性をみずから踏みにじり、今の政府を支配下におく安倍内閣の意向に全面的に沿った、きわめて反動的なものである。
この判決を書いた村上裁判長は、2011年の3・11東電福島第1原発の深刻きわまりのない未曽有の大事故とこの事故の責任について、そもそも被害者・国民の立場から真剣に考えたことがあるのか。同様にいまだに続く事故の継続(例えば手の打ちようがない汚染水の問題)について自らの問題として一時でも考えたことがあるのか。そして何よりもこの事故で甚大なる被害を受け、今も受けつつある福島の住民の痛みについてわずかにでも心をはせたことがあるのか。村上裁判長は司法の正義を国ないしは安陪内閣に売り渡し、その見返りとして結局のところ、つまらない自らの出世の道を選択しただけではないのか。
だが、いかなる判決であろうが、われわれは法律的に可能な対応(控訴、執行停止の申立等)を含めて、断固として闘いを継続する。われわれには恐れるものは何もない。われわれが、例えとるに足らない微小なものであっても、無力ではないし、例え非力であったとしても、全国・全世界には何百万、何千万、何億の人々の「脱原発・反原発」の願いと無数の力があり、連帯したこの力は、巨大な力を発揮し得るという確信のもとで、以下のように闘う。
もっとも大事なことは、こうした潜在的な力を具体的・政治的な力として、例えわずかずつでも白日のもとに実現していくことである。そのためには、あきらめず、しぶとく、しなやかに闘わねばならない。第二に福島の事故を忘れず、福島の人々を忘れず、全国各地、とりわけ原発立地でしぶとく闘い続ける人々との連帯を時間もかけて実現していくことである。少々の意見の相違を誇張するのではなく、互いの違いをむしろ前提にして、互いに尊重し、連帯を最優先すべきである。肝心なことは人と人との連帯であるからだ。
第三にわれわれの重要な特徴でもある「テントの精神」を全国的に理解してもらい、これを大胆に押し広めること。テントの精神とは、一言で言えば、脱原発を掲げ、可視化された日常的・持続的・実際的な存在であることである。だからこそ脱原発運動に一定のインパクトをもたらし、一種の拠点となったのである。全国各地の可能な所から、可能な人々によって始められ、やがて無数の脱原発テントが筍のように生えてゆく。壊されたらまたどこかに立てればよい。経産省前テントひろばはまさにそのような存在である。
共に闘おう!
2015年2月27日

声 明 2
1.2月26日、東京地裁民事37部の村上裁判長は経産省前テントをめぐる第1審の判決を下しました。
  内容はテントが立つ土地の明け渡しと損害賠償金の支払いを命じ、更にこれらについて判決確定前の仮執行を可能とするものでした。
  この判決は、原告—=国・経産省の請求を容認するもので、私たち(被告)が原告の権利濫用、原告の損害程度、独立訴訟参加の可否等、8つの争点について、ことごとく、原告の主張内容をそのまま全面的に認めるものでした。しかも、突然の結審により私たちの本案準備書面の提出の機会を奪うなど、私たちに主張・立証の機会を与えないままに下された、明らかに不当な判決であって、私たちはこの判決を断じて受け入れることはできません
2.私たちは、上記のような仮執行宣言付きの判決を受けて、次のように 闘うものです。
1)この判決を断じて受け入れることは出来ないので、東京高等裁判所に控訴します。同時に仮執行宣言についても、執行停止の申立を行います。
2)私たちはこの度の判決によって新たな局面に立つに至りました。私たちは国によるテント撤去を拒否します。福島の人々を始めとする全国の人々の切実な願いを踏みにじるテント撤去という国の暴挙が、いつなされるか予測することは私たちにはできません。けれどもこの3年半の間、全員が立脚してきた非暴力・不服従の原理と決意を新たにし、強制撤去の攻撃に対しては、したたかに、かつ柔軟に対応していきたいと考えています。
3)3年半に及ぶ「経産省前テントひろば」の闘いは、何人もこれを無きものにすることはできません。そしてテントとしての闘いの現場は、私たち自身が選択します。私たちの強固な意志と、「テントの精神」を活かしながら、闘いは継続されます。例えいっとき、テントが見えなくなっても、「経産省前テントひろば」は、新たに、適切な場所に適切に再建されるであろうことをお約束したいと思います
4)損害賠償金への対応を含めて脱原発運動全体の力強い前進のために、「1億円寄金活動(仮称)」を大胆に提唱・推進します。こうして集められた寄金は引き続く「テントと命を守る裁判」にも活用されますが、全国各地の脱原発運動にも活用されるものです。
  2015年3月4日
                       経産省前テントひろば
このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)を紹介しているが、この日誌の中では、差入れされた本への感想(書評)も「読んだ本」というコーナーに掲載されている。
このコーナーは、「日誌」の中の読んだ本への記述をオリーブの樹編集室が抜萃したものである。今回は、「オリーブの樹」123号に掲載された中から2冊の本の感想(書評)を紹介する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【原発は滅びゆく恐竜である】
『原発は滅びゆく恐竜である』(水戸巌著 緑風出版)を読み終えたところです。
こんなに深く胸に残る本は稀です。本のタイトルは、原子核物理学者であり、まだ原子力発電が素晴らしいと言われていた初期から原子力発電の危機を訴えて来た著者の言葉から付けられたものです。この本は、涙なしには読めません。水戸巌という著者がどんな人だったのか、その人柄が語られる度に、涙があふれてしまいます。
「はじめに」は、小出裕章さんの文です。まず、本の構成を目次から示すと、「反原発入門」という第1章では、原子力発電はどうしてだめなのか? 17の質問に答えるスタイルで、原発の基本的問題を説明し、第2章では、「スリーマイル島とチェルノブイリの原発事故から何を学ぶか」を語り、日本の原発が同じ危険にあること、「3・11フクシマ」を明確に予測しています。1979年から1986年にも! 第3章は「原子力―その闘いのための論理―」で、危険性を解明し、「原子力発電は永久の負債だ」「原発は原水爆時代と工業文明礼讃時代の終末を飾る恐竜である」と喝破し、「う〜んと唸りたくなるほど、水戸さんらしく、また原子力の本質を余すところなく捉えた表現だと思う」と小出裕章さん。第4章は「東海原発裁判講演記録」と各章編まれています。「あとがき」は、後藤政志さんで、70年代80年代に構築した水戸巌さんの論理がいかに「フクシマ」の危険に言及していたのか、その論理の鋭さ、正しさを原子炉設計にかかわった者として、自分も含めて、科学技術的に解説しています。
 この本は原発に対する明快な圧倒的な論理を学習できるばかりではありません。その後に、「水戸巌に捧ぐ」とさまざまの方の惜別の追悼文、そして最後に「発刊に寄せて――水戸巌と息子たち」夫人の水戸喜世子さんが「特別寄稿」しています。この本は一個人がこれほど誠実に生き、闘い続けたのか、そして突然の息子二人(二人とも父のように生きようと京大、阪大で物理学などを研究する学生だった)と共に、剣岳で消息を絶った水戸さんの人柄がくっきりと浮かび上がってくる本なのです。この本の著者に対する他の人々の深い思いが胸を衝き、この本を深いものにしています。そういう意味では、この本は、「はじめに」の小出さんの文、そして水戸喜世子さんの「特別寄稿」をまず読んでから、じっくりと原発に関する内容に触れ、学習するのがよいと思います。
「はじめに」で小出さんは、当時、東大原子核研究所の助教授だった水戸さんについて、出会いをこんな風に記しています。
「私自身は、1970年秋から東北電力女川原子力発電所に対する反対運動に参加していた。女川でぼろぼろの長屋を借りて、ビラを書き、海沿いに連なる小さな集落を回って、ビラを配って歩いた。(中略。そんな中で、女川から原子力発電所まで、淡水を送る工事が行われるようになり、座り込んで数名の仲間が逮捕された。)自分たちの行為が正当なものであることを示そうと『略式起訴』を拒否し、原子力発電の是非を問うための正式な裁判を受けることにした。国を相手の裁判に協力してくれる学者、専門家はほとんど居なかったが、水戸さんは快くその裁判の証人になってくれた。小さな田舎の集落で開かれる小さな集会にも来てくれ、住民たちに原子力発電の危険性を話してくれた。東北大学で開いた学生相手の講演会にも来てくれた。それも貧乏学生だった差し出すほんのわずかの謝礼も受け取らない人だった。」
「私に原子力のことを教えてくれた人はたくさんいる。……しかし、私が恩師と呼ぶ人は片手で数えるほどしかいない。その一人が水戸さんである」と記されている。
追悼の文や小出さんの文も「水戸さんを慕う何よりの理由は、水戸さんが誰よりも優しい人だったからである」。権力には決して屈しない一方、「社会的に弱い立場の人たちに徹底的に優しかった」と述べています。
その水戸さんがチェルノブイリ事故の86年の暮れに剣岳で消息を絶った様子は、夫人の喜世子さんの淡々と記された文をぜひ読んでほしいです。水戸さんに対する脅迫の電話が頻発する中で、安全な子育てのために、東京と大阪に離れて暮らさざるを得なかったご家族。巌さんと同じような人柄の喜世子さんは、3人の不明の捜索によって他の友人たちや人々が二次、三次災害を起こすことがないかと気遣いなから死を確認していった様子は、涙涙で読みました。なんとすばらしい愛情で結ばれたご家族だったのだろう。反原発の人々の多くが体験しているように、脅かしに抗して父の信念と共に生きた息子、妻たち。死の現場もなんだか不可解もあったのですね。87年にアラブで水戸さん遭難を知った時、「謀殺されたのでは?!」と訊ねたほどです。私のまわりには「謀略」や「暗殺」がうごめいている地下戦争の地で、水戸さんの死をなんだか一つにつなげて考えてしまったためです。どれほど当時の時代の要の人だったか、知る人ぞ知る人でしたから。
私の知る水戸さんは60年代の反戦反体制運動に対する厳しい弾圧、逮捕、拘留に対して救援の手を差し伸べ、ご夫妻で「救援連絡センター」を創設した水戸さんです。あの頃大量逮捕と拘留も2泊3泊から23日拘留に変わり始めた時です。警察に留置された学生たちの歯ブラシやタオルの差し入れ、弁護士の接見派遣と「救援連絡センター」が活動し始めたのは巌さんと事務局として身を粉にして闘った喜世子さんの努力からです。私も69年秋、初めて逮捕され、「救援連絡センター」の恩恵を受けた一人です。また、当時の党派の「内ゲバ」で救援ができなくなるのを憂慮し、反弾圧で権力に対して闘う者を差別しない原則を築いたのも水戸夫妻です。また、リッダ闘争支援岡本公三さんの軍事法廷で一人裁かれる岡本さんに対して、庄司弁護士は駆けつけてくださったのに、イスラエルは入国を拒否し、飛行機から降りることも許しませんでした。この時のことを後に庄司先生から聞き、水戸さんらの不屈の尽力に驚き感謝したものです。この本には、そうした水戸さんの「反弾圧戦線」での闘いには触れていませんが、是非「水戸巌さんの生き方」として喜世子さんに「特別寄稿」に記された内容をさらに一冊上枠してほしいと思います。
本の装丁がまたすばらしいです。喜世子さんを父、兄弟の死後、生き支えてきた娘さんの装丁でしょうか。(4月6日)』


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【戦後左翼たちの誕生と衰退・10人からの聞き取り】
『戦後左翼たちの誕生と衰退・10人からの聞き取り』(川上徹著・同時代社)を読みました。
著者は1940年生まれ。60年に日本共産党に入党。64年から66年まで全学連(民青系)委員長。その後90年に共産党を離党した人です。この著者が委員長の時代、私たちは明大二部学苑会の高橋事務局(民青系)から、学費闘争をめぐって学苑会を66年に私たちの側に( 新左翼系に)変えたのを思いつつ読みました。
帯に「戦後新・旧左翼にフロント、解放派、第4インター、ブント赤軍派、中核派、社会主義協会、共産党など、かつては所属し、あるいは現在も所属している10人。彼らはそれぞれの道を歩んできた。自らを振り返りつつ衰えの時代を共に考えた」と記されています。今の「危ない時代」の始まりを予感し、「多くの人が一種の喪失感を味わっている時期、10人への聞き取りを行っていった」著者。「ほぼ完全に左翼と名のつくものは日本現代史の舞台から消え、衰勢に歯止めがきかなくなったのには根拠があり、それが何なのか? 権力によって打倒されたのか、それとも左翼自身が抱える内的要因によってなのか。とにかく私が左翼(日本共産党)であったころ、対立しあっていた人々が衰勢の中で今何を考えているのか、感情でも反省でもいい、語れる範囲で聞いておきたいと考えた。」
もう一つの主眼として、一人ひとりの左翼の「誕生」、つまり「なぜその道を選んだのか」、「損得」ぬきのファイティングポーズをとったのか、その飛躍の実相を記録したい。それは時代の息吹が刻印されているはずだという問題意識です。かつての「日共」の著者が、違った党派の人と向き合い、誠実に時代と一人ひとりの若者の姿を描こうとしているものです。
登場する人々は本名で当時の自分を率直に語っていて、同時代を生きた私には多く身につまされ、また共感し、立ち止まって考えるところがありました。ことに「何故その道を選んだのか?」どの人も、友人や家族、環境の変化や出会いの中できっかけができ、正義や良心の命ずるままにふみだしていきます。敵権力に対する革命の実現の希望と共に、義理や人情、葛藤、様々な思いに駆られまた飲み込んで生きてきたのだな……。読みやすく心に届くのは、ここに登場する方々が、かつての“党”を背負わずに、“個人”として自らの革命参加の関わりを述べておられるからです。実に素朴で志に燃えた初心が、どの人からも伝わります。それが当時の時代の中で良心にかられた多くの若者たち(私も)共通のものであることに気付きます。こうした個々の謙虚な心情を大切にしていたら党派の傲慢な過ちも少なかっただろうなあ……。衰亡の根拠は、党の「無謬性」に価値を置いて、「無謬性」「唯一性」を争い、現実を変える力を社会から学びえなかったからだと思います。個々の良心は、党の「無謬性」や「指導」の観念に収奪されてしまったのでしょうか。
10人の聞き取りの一人である水谷さんを例に触れておきたいです。私と同年の水谷さんの父は、敗戦の8月、皇居前で同志12人と共に自決したとのことです。「母が身重の時に死んだわけです。子供が生まれることを知りながらなぜ? というのがぼくの長い間の疑問でした。」母親は、自らを戦争の犠牲者として納得できない怒りを秘めて、母一人子一人の戦後の出発を強いられたのです。母親は小学校の教師となり、日教組の組合員でもあった中で水谷さんを育てたと、自分史を語っています。早稲田大学雄弁会で左翼に初めて会い、その傲慢さに驚き、しかしあらゆる権威に対する批判精神を見た気がして、これまで自分を育てた文化を卒業したとのこと。さらに革マル非革マルの対立にカルチャーショック。中核派を選び取っていく中で、早大学費闘争を闘い無期停学に。「なぜ中核だったのかと問われれば、そこに中核派があったからとしか言いようがない。」そして、水谷さんは79年から革協同政治局員として活動し、2006年に離党。著者は、「中核派を辞めるに至った事情経緯やその過程で、水谷自身が味わった苦渋なども正直に語ってくれた」と記しているが、それらはこの本には記録されていない。
 インタビューを受けたお連れ合いのけい子さんの切実な問題意識も読みごたえがありましたが、やはり紙面の足りなさでしょうか、もっと知りたい。「ぼくが指導部にいて多くの党員や関係者にかけた恥多き誤りや迷惑について、きちんと自己批判し謝罪しなければならないと思っています」と水谷さんは語っています。水谷さん、水谷さんの生きてきた歴史を率直に語り記録することは、きっと多くの旧友や未知の方々に教訓を伝えることになると思います。
友人小嵐さんをインタビュアーに、出生の時からの物語を一冊にしたためてほしいと思っています。
(4月19日)』


【お知らせ  映画「革命の子どもたち」7月5日より上映中!】
2010年に作成され、アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭などで上映されてきた映画「革命の子どもたち」が7月5日(土)よりテアトル新宿で上映されています。

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<朝日新聞記事 2014.7.4 朝刊>
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詳細は以下のサイトでご覧ください。
重信メイさんのトークショーも開催されます。

革命の子どもたち公式サイト

<映画パンフレットより>
「1968年、学生たちによる革命運動のうねりのなか女性革命家として名を馳せた重信房子とウルリケ・マインホフ。
ベトナム戦争で行なわれた虐殺に戦慄した彼女たちは、世界革命による資本主義勢力の打倒を目指し、それぞれ日本赤軍とドイツ赤軍を率いて活動した。
本作はふたりの娘である作家兼ジャーナリストの重信メイとベティーナ・ロールが、母親である房子とウルリケの人生をたどり、現代史において、最も悪名高きテロリストと呼ばれた彼女たちの生き様を独自の視点から探ってゆく。
母親たちが身を隠すなか、ある時はともに逃走し、誘拐されるなど、メイとベティーナは過酷な幼年期を過ごし、壮絶な人生を生きてきた。
再び民主主義の危機が叫ばれるなか、彼女たちは自身の母親たちが目指した革命に向き合う。 彼女たちは何のために戦い、我々は彼女たちから何を学んだのか?

若松孝二監督が公開を熱望した、 
最後の遺言とも言えるドキュメンタリーが遂に公開! 
これまで非公開であった革命軍のキャンプ風景が初めて明かされる!
東京、ベイルート、ヨルダン、ドイツにて撮影された本作は、1968年当時の貴重なニュース映像や、二人に接した人たちのコメントを交え、テロリストと呼ばれた母親の素顔とその娘たちの生き方を重層的に、そして現代が失った変革を恐れぬ勇気を象徴的に描き出した。
監督はアイルランドの気鋭ドキュメンタリスト、シェーン・オサリバンが務め、ヨーロッパ各地でセンセーションを巻き起こした。
国籍や名前を変えて生きなければならなかった房子の娘であるメイは、その苦悩と母への想いを涙ながらにカメラに向って語る。
革命家であり母親でもある彼女たちの生き方、また革命家の娘として生きた子どもたちの人生は、“幸福な社会”とは何かを、私たちに激しく問いかけてくるであろう。」

転載元転載元: 野次馬雑記

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