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(*画像:斜陽館こと太宰の生家)


(2010年1月1日アクセスウィキ 太宰治をベースに新潮日本文学アルバム太宰治に拠り大幅に加筆訂正を行い勉誠出版太宰治辞典による追記という形で記事を作成しました)



1 太宰治の幼年時代 (0歳〜小学校入学まで)


作家こと太宰治は、1909年(0歳)(明治42年)6月19日、青森県北津軽郡金木村(現在の青森県五所川原市、旧北津軽郡金木町)に、県下有数の大地主である津島源右衛門(1871-1923)、タ子(たね)(1873-1942)の6男・津島修治として生まれました。

当時の津島家は、多人数を抱えた30名を越す大家族でありました。
曽祖父惣介の代に農地と金貸業を基盤にして急激に膨張した新興商人地主で、多額納税による貴族議員有資格者でもあったのが父・源右衛門でした。

父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で、惣介が隠居したのち家督を相続、私設の津島銀行から合資会社まで発展した金木銀行の頭取となり、土地・金融機関をバックに、政治嫌いの先代の忠告を押し切って県会議員、衆議院議員となります。多額納税による貴族院議員等をつとめた地元の名士が父・源右衛門でありました。

津島家の先祖について、1946年(太宰、37歳)(昭和21年)に発表した「苦悩の年鑑」のなかで次のように記述しております。

「私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。私は、無智の、食ふや食はずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助の時代からであつた 」



両親(源右衛門 夕子<たね>)の間には11人の子供がおり、太宰治こと津島修二は10番目でした。(但し、太宰が生まれた時点ですでに長兄・次兄は他界します)。
県内長者番付第1位の佐々木家を模した新築邸宅で生まれた最初の子が太宰(津島修二)でした。

母が病弱のために乳母たるタケとともに叔母のもとで寝食ともにした生活を送った太宰。
タケを通じて地獄図絵を見せてもらい善悪を教わり、読書や道徳の教育を受けました。

成長した太宰はいつのまにか叔母を実母と思いこむようになり、政治家妻である母とは多忙なこともあって疎遠になります。叔母との生活は小学校にあがるまで続きました。



(つづく)

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