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(*画像:官立弘前高等学校のアルバムから見つかった太宰治の写真 弘前大学提供)


(2010年1月1日アクセスウィキ 太宰治をベースに新潮日本文学アルバム太宰治に拠り大幅に加筆訂正を行い勉誠出版太宰治辞典による追記という形で記事を作成しました)



1 7歳(小学入学)から21歳まで(東京帝国大入学まで)

1916年(太宰 7歳)(大正5年)、金木第一尋常小学校に入学します。
県内の行財政を牛耳っていた県内長者番付4位(明治37年)の津島家の子弟は小学校でも特別待遇を受けましたが、太宰の学力は名実ともに抜群でした。ここで、連続漫画執筆、読書に熱中します。

6年間全甲主席で金木第一尋常小学校を卒業した太宰でしたが、学力補充という屈辱的な理由で1年間明治高等小学校へ通わされました。

金木町と近隣3ヶ村共同の組合である明治高等小学校は津島家の威力が及んでいなかったこともあり喧嘩等により日常の不遜な態度に成績は「操行」が「乙」と評定されました。

1923年(太宰 14歳)(大正12年)、青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)入学。その直前の3月、「父」が死去します。


1926年の(17歳)習作「最後の太閤」を書きます。また同人誌「蜃気楼(17歳時)」を発行。

同人は「津島修治」「礼治」宿止先の豊田家の若夫婦、級友等の10人でした。「温泉」「犠牲」「地図」「負けぎらひト敗北ト」「私のシゴト」「針医の圭樹」「瘤」「将軍」「哄笑に至る」「モナコ小景」「怪談」「名君」、その他20編の創作・随筆を残しています。(辞典 283)

執筆・編集の他、毎号表紙絵まで書くという熱中ぶりでした。太宰は作家を志望するようになっていました。

夏休み帰省中の中学4年時には三兄圭治と同人誌「青とんぼ」を発刊。第二号まで続きます。「一戸正三」「泉谷清一」「金室雅楽」「仲村貞次郎」「八木隆一郎」「槇島真三」を含めて8名が同人で、「口紅」「埋め合わせ」「再び埋め合わせ」と短章雑文を掲載しました。(辞典 283)

官立弘前高等学校文科甲類時代。太宰は文科甲類1組38名中、第6席を占めました。原則入寮すべきところを太宰はルーズな面を加味し共同生活を懸念した母の希望で病弱を理由に親戚筋の藤田豊三郎方に止宿することになります。下宿から学校までわずか数百メートルの道のりをマントに羽織で通学する太宰でした。
この時代、太宰は泉鏡花や芥川龍之介の作品に傾倒すると共に、左翼運動にも傾倒します。
当時の弘前高校は太宰と入れ違いに卒業した田中清弦(のちの再建共産党キャップ)らによって組織された弘高社研が文部省からの解散通達後も活発な地下活動を続けていたという状態でした。

1927年の芥川の自殺の報には、2ヶ月前に芥川の講演を聴いた直後だけにショックでありました。入学以来学業に専念してきた太宰の生活は芥川の自殺を境に急激に変貌します。

1927年8月上旬から竹本咲栄のもとで義太夫を習い、芸者の世界に憧れ秋ごろから花柳界に出入り。ここで芸こ紅子(小山初代 15歳)としりあい交情を深めます。このあたりから学業を怠りはじめます。

江戸の遊里文学・俳諧・近松の戯曲や泉鏡花、芥川作品等に心酔します。
このとき、校友会雑誌第11号に同期生上田重彦(作家石上玄一朗)のプロレタリア文学的好短編が掲載され、太宰の創作意欲を刺激します。
2年に進級した太宰。35名中第31席まで成績は下降します。進級が決まった3月15日に、いわゆる3・15事件があり、この直後から弘前高校左翼活動家に対する警察の内偵が学校当局の協力の下はじめまれます。





1929年(昭和4年)、2年に進級してまもなく、当時流行のプロレタリア文学の影響で同人誌『細胞文芸』を発行する太宰。

創刊時同人は「富田弘宗」「津島衆二」「三浦充美」。創刊号で「無間奈落 一」、第2号で「無間奈落 二」第三号で「股をくヾる」第四号で「彼等と其のいとしき母」を発表します。 (辞典 284)。
この頃は他に小菅銀吉、または本名でも文章を書いていました。
創刊号に掲載した「無間奈落」で亡父をモデルにした悪徳地主の告発を描きます。

曽祖父惣助や父源右衛門が零細農民に高利の金を貸し付け、冷害続きの不作で返済不能になった田畑を次々と収奪して雪だるま式に膨張してゆく蓄財のカラクリを「内側」から暴露したのでした(辞典 252)。

ここにはもちろん、時代の文芸思潮に便乗しようとする太宰の打算もありました。この作品「無間奈落」は長兄の叱責にあい連載2回目で中絶します。

第4号で廃刊した細胞文芸ですが、その後青森市の同人誌「猟騎兵」に加わり、また上田重彦の編集責任者になっている新聞雑誌部の委員にもくわわります。

猟騎兵は第四号から対馬修治として同人となります。小菅銀吉の名で第六号に「虎徹宵話(昭和4年7月)」を掲載します。(辞典 284)





さてこの年の1月に弟礼治が敗血症で急死し太宰はショックを受けています。2月には校長の公金無断流用に端を発したストライキ時には新聞雑誌部が陰から生徒を煽動して校長を辞職に追い込みます。太宰もストライキはを積極的に支持します。

12月、期末試験の前夜、カルモチン自殺を図ります。思想的苦悩、新聞雑誌部の仕事、学業成績の低下、芸子との結婚問題など、いろいろなことが要因したことが推測されます。
自殺未遂におわった太宰は弘前郊外の大鰐温泉に出かけ冬休みを過ごし、休み明け、弘前警察署が不穏分子として左翼関係の生徒たち(上田重彦ら)が検挙され計16名も処分されるという事件がおこります。しかし、太宰は検挙されることはありませんでした。

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