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・画像上:田部あつみ。妻こと小山初代との結婚まもなくカルチモン心中を田部と図る太宰。一人助かります
・画像下:太宰は、22歳のとき小山初代と1回目の結婚をします

(2010年1月1日アクセスウィキ 太宰治をベースに新潮日本文学アルバム太宰治に拠り大幅に加筆訂正を行い勉誠出版太宰治辞典による追記という形で記事を作成しました)











1 21歳(東京帝国大学入学)から22歳(非合法運動脱退)まで 


1930年(太宰21歳)(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業します。

3月4日のこと。太宰は東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学者選抜試験のため上京します。
国語・漢文・外国語・身体検査、そして特別試験(仏文和訳・仏蘭西語作文)を受けます。そして3月23日に合格発表。見事、太宰は入学の資格を得ることができました。(辞典 907)

フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学。しかし、高水準の講義内容が全く理解できなかったうえ、非合法の左翼運動にのめり込み、授業にはほとんど顔を出しませんでした。大学は留年を繰り返した挙句に授業料未納で除籍処分を受けます。
卒業に際して口頭試問を受けたとき、教官の一人から、教員の名前が言えたら卒業させてやる、と冗談を言われましたが、講義に出なかった太宰は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられています。

上京前から同人誌「座標(昭和5年1月1日発刊)」連載の「地主一代」がプロレタリア文学志向なる印象を周囲に与え、共産党員工藤永蔵の訪問で、月額10円の資金カンパすることでシンパを引き受けることとなります。
この前後に小説家になるために井伏鱒二に弟子入りします。
この頃から太宰は、本名の津島修治に変わって太宰治を名乗るようになります。
(*座標は第八号で長編「学生群」を発表しますが昭和7年の8月1日、第三巻第7号で廃刊します 辞典 284)

この時期、大きな出来事が2つ起こります。
〇扱察Ψ充の結核による病死(6月21日)紅子の出奔、です。
この年から昭和7年の2年間は事件の連続なのです。

圭治危篤のしらせでかけつけた兄文治が修治の社会主義活動支持運動を知るとともに地主一代の発表を中止させました。このことで地主一代は未完となりました。(辞典 907)
この頃の太宰は授業に出席せずにほとんど社会主義運動に没頭しており、座標11月号には大藤熊太の名で「スパイ」「裏切りもの」を発表します。

小山初代の落籍問題については太宰の詳細な支持のよって青森から本所区東駒形の大工棟梁の2階に住まいを決めさせ、そののち分家除籍を条件に兄文治から太宰は結婚承認を受けます。

後11月に銀座のバー・ハリウッドの田部シメ子19歳と太宰はカルチモン自殺を図ります。

服用したカルチモンは男女共に致死量以下。しかし吐いたものが咽喉につまって田部は窒息死したのでした。(辞典 229) 

この事件は、分家除籍を条件に小山初代との結婚の承認後に太宰の左翼運動を牽制する長兄の老獪な仕打ちによる憤りからの心中事件といわれています。太宰は自殺幇助罪容疑で取りしらべをうけますが、厭世による心中自殺として起訴猶予されます(ここは人間失格にも記述されています)。
これら事件にあるように結果的に、長兄との覚書<分家除籍条件に初代との結婚了解。財産分与なし。大学卒業まで月120円仕送り>、シメ子の死に対する罪意識、に苦しまなければなりませんでした。

(シメ子の婚約相手であった高面順三は、上京後の太宰の面倒をみていた呉服屋の中畑慶吉から刑事を立会人に100円を受けたのち、親類中の恥になると思い転落死亡とシメ子の死亡届出をおこない、余生を広島で結婚・次女とともに爆死するまで過ごしたのでした。 辞典232 909) 


昭和6年2月に初代との結婚生活がはじまりますが、それは何の刺激もない同棲でありやがて党活動家のアジトに利用。太宰直属指導者工藤が検挙されてからは転々と居所を変更し、結局青森警察署と長兄の勧告で昭和7年7月青森警察署に出頭し左翼運動と絶縁することを誓われます。
そして同年12月下旬青森検事局に出頭を命じられ左翼運動からの離脱を誓約しました。
(つづく)

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