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(画像:太宰の論争相手であった川端康成)

●24歳から、32歳(戦線布告時期1941年12月8日)まで (小説家時代)



(2010年1月1日アクセスウィキ 太宰治をベースに新潮日本文学アルバム太宰治に拠り大幅に加筆訂正を行い勉誠出版太宰治辞典による追記という形で記事を作成しました)




芥川龍之介を敬愛しつつ1933年(太宰24歳)(昭和8年)、短編「列車」を『サンデー東奥』に発表し、同人誌『海豹(昭和8年1月19日発刊)』に参加し、創刊号の創作欄巻頭に「魚服記」を発表。新人として太宰はスタートします。



続いて第二号4月号に「思い出」の一章を、第四号6月号に「思い出」二章を、第五号7月号に「思い出」の三章を掲載します。海豹は11月号まで出して解散しています。(辞典 284)


次いで季刊文芸誌「鷭(昭和9年4月1日発刊)」に「葉(創作巻頭欄に掲載)」「猿面冠者(第二号に掲載)」を発表して注目を浴びます。(*鷭は第二号で廃刊となります。)(辞典 285より)

「鷭」を通じて壇一雄と交友を深めます。やがて、太宰は今官一・壇・久保隆一郎らと同人雑誌「青い花(昭和9年12月創刊)」を創刊し、中原中也や津村信夫ら詩人をも仲間に引き入れます。

同人は岩田九一・伊馬鵜平・斧稜・太宰治・壇一雄・津村信夫・中原中也・太田克己・久保隆一郎・山岸外史・安原善弘・小山裕士・今官一・北村謙次郎・木山捷平・雪山俊之・宮川義逸・森敦。
創刊号創作巻頭に、「ロマネスク」を掲載。しかし、第一号で休刊。(辞典 285)

船頭が多すぎて暗礁に乗り上げ、創刊号きりで終わったのでした。
発表誌を失った太宰の仲間は、昭和10年3月創刊の同人誌「日本浪漫派」の第三号から合流し「道化の華(第一巻第三号掲載)」を発表します。

同人は緒方隆士・亀井勝一郎・木山捷平・今官一・新保光太郎・太宰治・中谷孝雄・中村地平・三好達治・保田興重郎・山岸外史などが参加します。
8月発行の第六号から12月発行の第九号まで随想「もの思ふ葦」を連載。昭和11年1月発行の第二巻第一号から同年三月発行の第二巻第三号まで随想「碧眼托鉢」を連載します。(辞典 285)
(*山岸は日本浪漫派が生んだ最大のデカダン作家こそは太宰治だったといいます。「最も左翼的良心を持っていながら、しかも強い脱落意識の自覚と苦悩をもっていたからである(人間太宰治 p41)と述べる 辞典405」

文藝2号に「逆行1935年(昭和10年)」を発表。これは、商業文芸雑誌に掲載された最初の作品でした。

新進作家としてデビューした太宰は大学卒業を引き伸ばすことで生家からの仕送りを得ていたのですがこの年(昭和10年)がタイムリミットであることに慌てて都新聞社に入社試験を受けますが、失敗。3月中旬、「東京八景」の「死ぬ時がきた、と思つた」にあるように鎌倉山で縊死を図ります。しかし未遂におわります。連れ帰るという長兄に井伏・壇が懇願し、あと1年だけ仕送りを続けることで了解を得ることができます。
この事件の直後の急性盲腸炎による入院をきっかけにパビナ-ル中毒となってしまう。
退院後の千葉県船橋町での生活のとき佐藤春夫の義兄から「道化の華」「逆行」が芥川候補に選ばれたことを知らされます。
初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、憧れの第1回芥川賞候補となったが落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。選考委員であった川端康成から
「作者、目下の生活に厭な雲あり」
と私生活を評され、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌「文芸通信10月号」上で反撃します。 これに対し、川端は太宰の誤解をたしなめ自分の不遜の暴言を素直に動詞11月号にてわびました。また、この年、佐藤春夫を知り師事します。佐藤も選考委員であり、第1回の選考時では、太宰を高く評価していた。
第2回を太宰は期待し佐藤も太鼓判を押しましたが、結果は「受賞該当者なし」となりました。
芥川賞問題応酬のころ太宰の創作集晩年刊行の話が壇の奔走で持ち上がり具体化。6月に出来上がります。同時にこの頃太宰は佐藤のすすめでパビナール中毒治療のため済生会芝病院に10日で退院させられるまで入院します。

8月初旬第三回芥川賞候補に晩年があがっていることを佐藤から知らされ借金返済のための副賞500円に受賞に熱意を抱きます。しかし、第3回では仇敵であった川端康成にまでも選考懇願の手紙を送っているが、過去に候補作となった作家は選考対象から外すという規定がもうけられ候補にすらならなりませんでした。佐藤に裏切られたとおもった太宰は「創世記」の中で攻撃、佐藤も「芥川賞」で応酬します。この応酬のさなか1936年(太宰27歳)(昭和11年)、前年よりのパビナール中毒治療のため板橋の武蔵野病院に1ヶ月、井伏らの説得で強制収容させられることを引き受けます。太宰はみずからに人間失格の烙印を押すこととなってしまったのでした。
精神病強制収容期間中に妻初代が身内の青年と姦通事件をおこします。
太宰は谷川岳の山麓で初代とカルチモン心中自殺をしますが、未遂となります。
7年の結婚生活にピリオドをうって初代と離別します。初代は青森の実家へ、太宰は井伏家近くの鎌滝方に止宿することになりました。一年間筆を絶ちます。

1938年(太宰29歳)(昭和13年)、井伏鱒二の招きで山梨県御坂峠にある天下茶屋を訪れ、井伏の仲人で甲府市出身の石原美知子(1912-1997)と結婚。甲府市御崎町(現・朝日)に住み、精神的にも安定し、「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの優れた短編を発表しました。
太宰が長兄との間でとりきめた約定によると昭和14年の11月までが月額90円の仕送りの期限でありました。再婚についても生家からの関与を一切拒絶された太宰は過去を葬り去って再出発したのですが、家郷に再度恋着しはじめているのを作品で垣間見られます。口述筆記「黄金風景」は「故郷もの」の始まりでした。
太宰は甲府の新居で次々と佳作を発表。「愛と美について」「女性徒」と相次いで刊行します。

昭和14年9月、甲府の家をひきはらって東京の三鷹に新築まもない借家に転居します。東京での友人たちの交友をここで温めることができました。昭和14年から昭和15年は創作活動が拡がるにつれ原稿の注文も増えて、全部の注文に応じきれないほどでもありました。
この時期太宰は、執筆の合間井伏や伊馬らと温泉で遊んだり、井伏亀井との旅行先での水害、佐藤井伏と葡萄狩りを楽しむなど以前のすさんだ生活が嘘のようでありました。太宰を慕って訪れる文学青年も増えその対応にも忙殺されはじめます。このとき「女性徒」が北村透谷賞の次席に選ばれます(第一席は荻原朔太郎の帰郷者)。

(この女性徒は太宰作品の読者である「有明しず子」が送付してきた伊東屋の大判のノートに基づいて書かれたもので、題名の女性徒はフラピエの岩波文庫本の女性徒(桜田左訳 昭和13年9月1日)からつけたと美智子はいいます 辞典925)

戦時色が深まるにつれて表現活動の制限も厳しくなり、太宰作品も翻訳ものや他人の日記をもとにした作品が見え始めます。
昭和16年6月長女園子が誕生、同年8月母たねの容態が思わしくないことから知人の計らいで10年ぶりに生家に帰ります。帰京してまもなく太宰ファンと称する太田静子ら三名の女性の訪問を受けます。11月には文士徴用で南方は駆り出される井伏らを東京駅から徴用免除となった太宰は見送ります。


(メモ:山岸外史:1935年(昭和10年)、日本浪曼派の同人となる。1939年(昭和14年)、第一書房刊『人間キリスト記』で第3回透谷文学賞受賞。
著書『人間キリスト記 或いは神に欺かれた男』は太宰に多大な影響を与えた。
*太宰は人間キリスト記について、私自身の開眼のために<たくさんの人に読んでもらい・・いつはらざる感想を>聞いてみたい、と言っている。(辞典 405)
さらに、『人間太宰治』の中では、太宰の短篇「二十世紀旗手」の冒頭に掲げられた有名なエピグラフ「生れて、すみません。」が、山岸のいとこにあたる詩人寺内寿太郎の一行詩「遺書」(かきおき)の剽窃であることを明らかにした。寺内は「二十世紀旗手」を読んで山岸のもとに駆けつけるなり、顔面蒼白となって「生命を盗られたようなものなんだ」「駄目にされた。駄目にされた」と叫び、やがて失踪してしまったという。
2010年1月3日アクセス ウィキ 山岸外史より)

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訪問&コメどうもあ(・∀・)り(・∀・)が(・∀・)と(・∀・)う!
てか、どうして太宰治について興味があるんですか?
私も実は唯一好きな作家なんだけど・・・・

2010/1/5(火) 午後 6:48 pur*ton*99

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はじめまして、ももこ様。
罪への肉薄の仕方・表現方法、共に私にあっていたものですから、おそらく知らぬ間に太宰治さんが好きになったのでしょう。

2010/1/18(月) 午前 3:14 [ sat**ukurod*wi* ]


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