学問の部屋

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(画像:太宰治の尊敬する作家の1人、ドストエフスキー。太宰はドストエフスキーから、罪の対義語は「罰」と閃いたとき、そこには喜びがあったのでしょうか?)



第一回から第5回まであります。
太宰0歳から、太宰39歳(自殺)までの人生すべてをカバーしています。
太宰治の人生全体を眺めたい方は、以下の記事をご利用ください。






<全5回>


1 太宰治の人生総覧  5/1  #太宰治 12
http://blogs.yahoo.co.jp/satorukurodawin/30918261.html



2 太宰治の人生総覧 5/2 〜7歳(小学入学)から21歳まで(東大入学まで)  #太宰治 13
3 太宰治の人生総覧 5/3 〜21歳(東京帝国大学入学)から22歳(非合法運動脱退)まで # 太宰治 14
4 太宰治の人生総覧5/4 24歳から、32歳(戦線布告時期1941年12月8日)まで    # 太宰治 15
http://blogs.yahoo.co.jp/satorukurodawin/30940001.html



5 太宰治の人生総覧 5/5  32歳<開戦(1941年)時>から39歳の自殺まで  # 太宰治 16
http://blogs.yahoo.co.jp/satorukurodawin/30952949.html

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画像:太宰治は39歳のとき、自殺しました。


32歳開戦(1941年)時から39歳の自殺まで


(2010年1月1日アクセスウィキ 太宰治をベースに新潮日本文学アルバム太宰治に拠り大幅に加筆訂正を行い勉誠出版太宰治辞典による追記という形で記事を作成しました)





昭和16年12月8日の日本の米英にたいする宣戦布告で沸き立つ多数の国民とは裏腹に生来臆病な太宰は厭戦主義者としてこれを受け止めておりました。この間、先の太田静子と逢引をするようになり、最初の中篇小説「新ハムレット」をはじめ次々と単行本を刊行しますが、「花火」は時局上好ましくない題材という理由で当局から前文削除されることもありました。
昭和17年10月には妻子をつれてはじめて病気の母のもとを訪ねます。これを契機に太宰への義絶も自然解消し、中編小説「(若い頃の宿題である)右大臣実朝」「(心象風土記たる)津軽」という作品執筆につながります。
(<昭和16年7月>新ハムレットに関連して「ユダ」をとりあげます。<昭和15年5月>走れメロスで述べた「永遠の裏切り者」「地上で最も不名誉な人種」を太宰はユダにみました。だからハムレットに「僕は、平和な御家庭に火を放けました。僕は、ユダです。ユダより劣つた男です。僕は愛している人たち全部を裏切つてしまひました(新ハムレットより)」に言わせたのでした。<姥捨で「私は、歴史的に、悪役を買はうと思つた。ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのやさしさの光が増す」とユダに存在的に意味を認めたように、太宰にとってユダは、己の醜悪な部分とつながる人物であるとともに、それを意味づける存在であったようです。辞典 413 より)

戦時下であっても比較的安定した生活をおこっていた太宰でしたが国策と無縁ではありませんでした。「惜別」は日本文学報国会からの委嘱で執筆したものでした(彼に国策文学としての意識があったかどうかは別として)。
米軍機の東京空襲がはじまり防空壕に非難する日々であっても太宰の創作はとまることはありません。井原西鶴の作品をパロディー化した「新釈諸国噺」や「御伽草子」。太宰の生活は三鷹から甲府へ疎開、しかし甲府の石原家も空襲で全焼したために津軽疎開するという慌しい状態にありました。
8月15日の終戦を津軽で迎えた太宰は、戦後第一作「パンドラの箱」を新聞小説として連載します。64回までかろうじて連載されます。また、この前後、「惜別」「御伽草紙」が刊行、「愛と美について」が再刊されるなど、戦中・戦後を通じて太宰の創作活動は絶えることはありませんでした。
他方、太田静子との関係は、津軽疎開中も文通により続けられます。
太田は母を亡くして途方にくれていたところ、太宰をげます手紙をしたためます。また、戦後の農地改革によって地主ヤマゲンが農地改革によって解体する姿に祖国日本とともに没落する生家を強く実感します。井伏宛の手紙にいまとなっては生家はチェーホフの桜の園だ、といったところからも斜陽の構想がこのあたりから十分うかがえます。
津軽滞在中の太宰へ連日訪れてくる郷里の知人・文学青年との対応に忙殺されながら戯曲「冬の花火」「春の枯葉」を書き上げ、無頼派を宣言し政治主義者のイデオロギーと対決する保守派の姿勢を示しました。
昭和21年4月、戦後最初の衆議院議員選挙にて長兄が当選。津軽引き上げを考えていた矢先に祖母イシが90歳で他界。滞在を延長させ仏事を済ませ金木を発ちます。上京後、次々と太宰ファン等が押しかけます。別途仕事部屋を借り、太宰は執筆に専念します。この時期、坂口安吾や織田作乃助と座談会に出席、ともに飲み歩いたりもしました。
昭和22年に入り、手紙で約束していたとおりに太田静子との逢引が始まります。
いつのまにか三鷹の太宰の仕事部屋にも太田は訪れるようになります。母を失った後、神奈川県下曽我の広い山荘で、太宰ひとりを頼りにして生きてきたのです。
新潮社から連載小説の依頼を受けた太宰は、生家の没落と静子の日記をとも結びつけた「斜陽」の構想を立てます。
2月21日に太宰は静子から斜陽の題材となる日記を借りに雄山荘に静子を訪れます。5日間の滞在でした。
そのあとに静岡県三津浜の安田屋旅館に止宿して斜陽の執筆に取り掛かります。チェーホフの桜の園版が斜陽だという触れ込みではじまった執筆に、太宰はふと三鷹駅前いきつけの屋台で山崎富栄え(27歳)と名乗る美容師と知り合います。初対面にもかかわらず意気投合。富栄はひとときの語らいで太宰の言葉の虜になります。次女里子が誕生する三日前のことでした。
このとき太宰は後に富栄と特別な間柄になるとは思ってもいませんでした。むしろ、一週間前ほどに太田静子から懐妊したことを打ち明けられた衝撃のほうが太宰の生活を狂わせるほどのものでした。
まもなく、斜陽も完成し、新潮7月号から連載がはじまります。太宰は一躍流行作家として脚光を浴び、放送・映画・舞台などにも作品が登場するようになります。
斜陽脱稿の頃から不眠症・胸部疾患に苦しみはじめ、太田静子から逃れるような形で山崎富栄にもたれかかります。富栄の下宿先を仕事場として利用します。
11月12日に静子に女児誕生。太宰は認知書を富栄の部屋でしたためます。
連載中好評を博した斜陽は12月に単行本で出されるとたちまちベストセラーに。斜陽族という流行語まで生みます。
昭和23年に入ってからは残り少ないチューブの絵具を絞りだすように遂弱した肉体に鞭打って執筆を続けました。この時期の富栄の日記には太宰が何度か喀血したことが記されています。
太宰は、桜桃などの好短編発表のかたわら志賀直哉君臨する文壇への挑戦状「如是我聞」の連載もはじめます。志賀直哉批判は自殺行為に等しいこと。太宰は捨て身のプロテストを試みたのでした。
太宰にはもう一つの仕事、「人間失格」を書き上げることにも心血を注ぎます。富栄を同伴し熱海の起雲閣館にこもり3月8日から人間失格の執筆を始めます
「人間失格」「如我是聞」を平行して書き進めた太宰の披露は極みに達し愛人・看護婦・乳母・秘書4役をこなしていた富栄は、太宰にとってかけがえのない存在となっていました。日記によると太宰はいつでも死ねる覚悟が、できていた、といいます。
昭和23年6月13日夜半、富栄の部屋に2人の写真を飾って間に合わせの仏壇をしつらえたあと、ふりしきる雨の中を太宰・富栄は近くを流れる玉川上水に入水。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、愛人による無理心中説、狂言心中失敗説等が唱えられています。6月19日の早朝、投身推定箇所より二キロほど下流で2人の遺体は発見されます。その日は奇しくも太宰の誕生日でした。
『朝日新聞』に連載中だったユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となりました。
奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクスを暗示した、太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もあります。
遺書には・・
「美知様 誰よりもお前を愛していました」
「長居するだけみんなを苦しめこちらも苦しい、堪忍して下されたく」
「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」
旨が記されていますが、自身の体調不良や、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の原因のひとつだったとする「説」もあります。





(太宰の死後)
既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論「如是我聞」の最終回は、死後に掲載されました。太宰治は杉並にて荼毘に付されています。戒名は文綵院大猷治通居士。生前の太宰の願いを容れて、墓は三鷹の黄檗宗禅林寺にある鴎外・森村林太郎墓と向かいあわせに建てられました。
6月19日 。この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなんで、桜桃忌(おうとうき)と呼ばれ、墓のある三鷹の禅林寺には多くの愛好家が訪れる日となっています。
太宰治の出身地・青森県金木町でも桜桃忌の行事をおこなっていましたが、生地金木には生誕を祝う祭りの方が相応しいとして、遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めました。




(終わり)

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