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1 誘拐事件
スミス誘拐事件の詳細を以下。
ある日スミスは三歳の時にスミスの母の兄であるストラセンリ城城主の城の側を遊んでいた。すると女のジプシーにさらわれてしまったのだ。ジプシー発生の原因はラン・リグ制という分散耕地制と貴族の収奪、フランスとの戦争の影響で町が腐敗してしまい起こったといわれる。当時、家畜の収奪がスポーツのように行われていたというほど、町は荒れていた。また17世紀末から18世紀初頭にかけておこった大規模な飢饉も影響していた。
スミス誘拐事件の話に戻るが、誘拐されてまもなく捜索隊によってスミスは無事保護された。あやうく世界を牽引する大経済学者がなくなるところであった。
2 学生時代
スミスは、7歳でカーコルデイ市立学校入学、14歳でグラスゴー大学に進学する。
貴族的な首都エディンバラとは対照的にグラスゴーは「ビジネスの都市」に成長していたため、グラスゴー大学は生学費、学費が安く、また学生の出身も多様な大学であった。
この大学はアイルランド出身の学生が多いのが特色だった。後に説明するがスミスの敬愛する先生「フランチス=ハチスン」もアイルランド出身である教授であった。
この大学ではリージェント制のかわりに専門教授制を採用したことにより、教師の質を高め、よりよい教育を施すことが可能になった。
スミスは「国富論」のなかで教授の給与のあり方を指摘をしていたのだけど、この大学改革の重要性は見落とすことができない。それほど、スミスにとって良い影響を与えた。
3 ハチスン
先に登場した「ハチスン」なる人物の説明をする。
ホッブスやロックの人間論・社会契約論を批判し、利己心を利他心により神についての知識なくとも善悪の判断は可である、このように主張したのがハチスンであった。ハチスンのこのような考えは、当然、スコットランド長老制教会の激しい攻撃をうけた。
だが、大学内では、こういった圧力を激しい対立ののち跳ね返してしまった。このような時期にスミスは入学したのであった。おそらくスミスはこの対立をはらはらして見ていたに違いない。
4 その他教授陣
その他、ギリシャ語の「ダンロップ」、ユークリッド幾何学の難問に説明を加えた「ロバート=シムスン」といった教授がグラスゴー大学にいた。このように天才スミスを育成するには十分すぎるほどの教授陣がそろっていたのであった。
参考図書:清水書院:アダムスミスP24〜30
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