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1 はじめに 東浩紀編集の思想地図ボリューム1で、哲学者永井均さんの記事を発見しました。 これがニーチェだ!の冒頭にあった、なぜ人を殺してはいけないか、の問いへの説明に関連したもの、死刑囚が判決後「満足した」と述べた点を扱っていたのを発見しました。 犯罪者が、死刑判決を見越して、殺人を行う。見事死刑判決が下されたとき反省が行えるという意味で「満足」した。 かの死刑囚。果たして、永井均さんは、彼の行動をどう見たのでしょうか。そういうことを記事にしていたのです。 2 反省を先どる 罪と罰の関係のうち、罰は、対象者たる犯罪者を威嚇する効果がなければならない。 題材になってる犯罪者(以下A)は、犯罪を犯し罰を受けることをなんとも思っていない。故に効果はない。 罰のうち、もう1つ倫理的な意味での罰がある。殺してはいけない。そういう威嚇である。 これは物理的に体に危害を加えるわけではなく、〜してはいけない、と社会からの批判を受けることで、完了する。 Aは批判を受けることで罰は完了している。 さて、Aの問題は、実は、根本的なところにある。 それは、「わたし」の問題である。�と�にわけて説明する。 �時間軸で考えると、並べられた自分と言う「総体」は存在しない。 にもかかわらず、�を含めた、2つの矛盾を実行する。 �未来の自分を客観化しルール侵犯の快感を目論むありうる矛盾をする。 「死刑になって反省を<先どる>」 �と�をAは行うのである。 これこそ、不可能なことをさもしている風に見える。 3 Aにあえて忠言する哲学者とは �のうちのルール侵犯を「自堕落」と言われ、�の侵犯は「馬鹿げたこと」と言われる。
哲学は、馬鹿げたことを「鈍感」な人で成り立ってもいる社会に、�で言われるような馬鹿げたこと、について語る営みだ。 |
哲学
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キルコゲールは真の絶望は、救済への穴が傍らに設けられていると、美的実存、倫理的実存、宗教的実存の階段をつかって説明したのでした。
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フーコーが面白いのは近代国家成立以後、より一層鮮明になった窒息しそうなほどの権力の空間をゆびさし、我々は、アレへの服従なしには主体となりえない、と述べたところでした。
僕が今、課題とする「けんりょくへの意思」とすごく重なるから、またまたカテゴリ論文に書いた、生存触発理論独特のヘドロの匂いを想起させる。 |
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認識の前提となる地盤に注目したフッサールは数学者ゆえに無前程な基礎上にある哲学を見直そうとしたのでした。
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フロイトのエディスコンプレックスを構造主義的に再構成したラカンは、鏡像段階といって、他人を鏡がわりにすることで自己を見出す過程と、シューマLといふ父親・母親の関係を自我確立と関連付けさす機能とを指摘したのでした。
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