|
以下は、前回までに「「科学的」とはどういうことだろう」と題して(その1)から(その5)までアップしたシリーズの要点からなる二十世紀科学哲学の見取り図である。
「観察の知識(理論)負荷性」と帰納法の否定
二十世紀初頭にウイーン学団によって構築された論理実証主義では、科学は、まず事実を収集し、既知の法則を適用した論理思考によってその事実の群れの中にある新たな法則性を導きだし、その新しい法則の正しさを別の観察事実によって実証する、というように、帰納と演繹の循環によって進歩すると考えられた。これに対してポパーは、観察という行為は、あらかじめ知識や理論がなければ行使できない演繹的な行為であり、しかも有限の事実を集めることによって法則を導きだすという帰納法は、そもそも方法論として誤っていると主張した。→ (その1-2)
「検証と反証の非対称性」
ある学説が正しいことの証明(検証)は、その学説の帰結としての全ての事象についてもれなくテストしなければならないので事実上不可能である。一方、ある学説が間違いであることの証明(反証)は、その学悦の帰結の一つでも誤りであることがわかれば達成される。→ (その2-3)
「反証主義科学哲学」
そこでポパーは、科学の進歩は、間違った学説をきっぱりと捨て去る消去法によってのみもたらされると考え、反証不能で間違いであることをチェックできないような学説は科学に進歩をもたらすことがないと主張した。ポパーは、ある学説が「科学的」なものであると言えるための要件は、間違いであることを明確に検証(つまり反証)する手だてがその説自身の中に明示されていること(反証可能性)であると結論し、これをもとに「科学」と「疑似科学」を識別できると考えた。この新しいアイデアは、ウイーン学団が築き上げて来た論理実証主義の体系を突き崩し、ポパーは一躍、科学哲学界の第一人者となった。→ (その2-3)
ラカトシュによる批判
ポパーは結局、科学を後退させないための方法論的な原理に則していることを「科学的」であることと等価に扱ったが、ポパーの弟子であったラカトシュは、そうした語法には意味論的混乱があると批判し、ポパーの学説を「方法論的反証主義」と呼んで限定的なものに押しとどめた。→ (その2-4)
「精緻化された反証主義」
ラカトシュはまた、「反証」の手続きそれ自体が科学の営みそのものであることから、反証テストそれ自体の能力を絶対視できないことに気が付いた。そこでラカトシュは、ひとつの科学理論は、主張の根幹である「中核部分」と、これを取り巻いて支える保護仮説、初期条件、実験技術や誤差論などの「保護帯」からなるとし、反証テストに際しては「中核部分」に変更を加えることなく「保護帯」の調整を可能な限り続けるべきであって、そうしてどのように「保護帯」をいじってもついにテストに耐えられなくなった時点で「中核部分」の反証が完了すると考えた。→ (その2-4)
ポパーによる歴史科学批判
ポパーは、マルクス主義に代表される「歴史科学」は帰納法に頼って構築されたもので、反証可能性もなく、科学ではないと批判した。→ (その2-5)
ポパー理論の問題点
一般に歴史科学のように、結論が過去形で語られる学説はタイムマシンでもないかぎり反証不能である。しかし、同じ歴史科学でも地質学が厳然として科学の地位を占めているのはなぜか。おそらく、ポパーの考察から漏れた論点があるだろう。→ (その3-6)
同語反復の罠
「論理実証主義」を築いたウイーン学団の精神的支柱と目されていたウィトゲンシュタインは、数学的な証拠や論理的推論のみからなる学説は、どんなに精緻なものであっても単なる同語反復にすぎず、本質的に新しい発見をもたらすことがないことを論証していた。反証可能性が「科学」の定義であるかのように主張したポパーの学説に意味論的混乱を発見したラカトシュの批判は、結局、「科学」の定義に「科学」の営みである反証テストを基礎に置いたという同語反復のナンセンスへの批判であった。→ (その3-6)
科学の多様性
ポパーは、出来合いの理論が科学的かどうかを論じたが、科学の行為としての理論構築のプロセスについては考察しなかった。「科学的」かどうかを論じるには、「科学」が人のなす行為である以上、そのいとなみそのものに目を向ける必要があるだろう。→ (その3-7)
フッサールの現象学と帰納法の本質
歴史科学は、結果から原因を推定する手法としての「インバージョン」を意識的に追求することで近代化をなしとげた。外的世界の認識の理論を建設したフッサールの「現象学的還元」という手法もまた、「インバージョン」の一種である。フッサールが明らかにしたように、人は、言語化される以前の生の自然(外的世界)を観察することによって、新たな概念理解を生み出し、そこから新しい言葉も誕生した。この行為こそが帰納法の本質であり、ポパーによる帰納法の否定は誤りである。→ (その3-8)
現代科学における「科学」の要件
現代科学を疫学的に検討すると、「科学的」とみなされるための要件としては、証拠の再現性(第三者による検証可能性)と推論の論理性以外になく、しかも、後者にはかなりの曖昧さもつきまとう。現代科学においても相変わらず帰納法は重要視されているのである。→ (その3-9)
武谷三男の「三段階論」と帰納法の復権
理論物理学者であった武谷三男氏は、自然の法則的認識は、1)現象論、2)実体論、3)本質論の三段階を経て深化していくと考え、帰納法の段階である現象論的な研究の重要性を説いた。この認識論は、湯川秀樹による中間子理論の構築に貢献した。武谷氏はまた「(自分の信じる)一つの認識論を主張する人は、その認識論をあらゆる局面にわたって馬鹿正直に適用する」ことを求め、世の中に流布している認識論はその過程で淘汰されると主張した。→ (その3-10)
ポパーの功罪
ポパーの理論は、武谷氏が求めたように、その理論をあらゆる局面でばか正直に適用してみると「使えなさ」が際立つ。しかしポパーは、私たちが、間違いであることがまだ発覚していないというだけで特定の学説にしがみつく存在であることに気づかせてくれた。さらにまた、正統な証拠に基づいて論理的に正しく推論された結果であっても間違った結論が導き出だされる可能性があるということにも気づかせてくれた。それはもちろん、「正統」だとか「正しい」だとかの判断を人がするものだからである。そうすると、論理性を「科学」であるかどうかの判断基準にできないことになる。結局、人の行為としての「科学」の定義としては、「証拠の再現性」を重視する行為手続き上の態度に基礎を置くほかない。→ (その3-11)
ポパーによるクーン批判
ポパーに遅れて、クーンの「科学革命論」もまた二十世紀の科学論に一石を投じたが、その学説の克服にポパーの貢献があった。→ (その3-12)
曖昧な科学の合理性
現代の科学論ではベイズ主義のように、科学に曖昧性を認めようとの立場が主流である。科学に曖昧さがつきものだとしたら、我々に求められるのは、その信頼性を客観的に評価する方法論である。なぜ、信頼性を評価する必要があるかと言えば、社会がその学説をどのように取り扱ったらよいかを判断するために必要だからである。そのことから、「合理性」という基準に接近せざるをえない。→ (その3-12)
以上が、前回までに述べた二十世紀科学哲学の見取り図である。この後に続けるべきは、二十一世紀の科学哲学であるが、その前に私自信に残された課題があると感じている。それは、生きた言語の曖昧さの中にある「言語の謎」を解こうとしていたウィトゲンシュタインの問題意識が、科学の生態と関わっているという予想である。
|
tikani_nemuru_Mさん、トラックバックありがとうございます。
私の拙いブログ記事を「マジにお奨め」いただき恐縮です。
「地下生活者の手遊び」も、たびたび参照させていただいておりました。
「科学は【書き換え可能な神話】である」というのは、実に正当な指摘だと思います。
今ちょっと、日常にありふれた人々の行動規範という視点から、「科学」を見直してみようと考えているのですが、ちょっと根源的な再構築を要するので、いつになるかわかりません。
その節は御批判下さい。
2008/11/22(土) 午後 11:42 [ さつき ]