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カール・ポパーは、絶えざる進歩こそが科学の最も科学らしい特徴であると考えた。進歩は、一度否定された説が復活したりしないことで保証される。そこでポパーは、科学の進歩は、「誤りの明確な認識」をもとに、誤った説をキッパリと捨て去るという態度によってもたらされると考え、「反証可能性」のテーゼを提唱した。しかしポパーは、それが科学に進歩をもたらす方法論に過ぎないことを自覚せずに「科学」の定義にまで拡張しようとした。以上のことは、前回までのエントリーで述べたことである。
なぜポパーによる科学の定義が受け入れ難く思われるのかと言えば、科学には、外的世界に生起する事象(事実の集合)に学説の基礎を置く(証拠として採用する)というもっと本質的な特徴があるからだ。近代的な学問の体系においては、自然の中に存在する事実に基礎を置くのが「自然科学」、社会に存在する事実に基礎を置くのが「社会科学」、人間の文化の中に存在する事実に基礎を置くのが「人文科学」などと分類・称されている。事実を基礎とせずにいろいろな問題を論じたり、未来を(勝手に)予測したりすることも普通に行なわれているが、そうしたものは「科学:science」とは呼ばないことが暗黙の了解事項となっている。
私は、科学とそれ以外のいろいろな文化的営為(宗教や芸術など)との間での優劣を論じることはできないと考えている。しかし、外的世界に生起する具体的な問題に直面したとき、多くの者は、心の中で念じるだけではその問題が「我々」にとっての本質的な解決に至ることはないと、経験的に知っているだろう。また、「事実」について一言も触れずに外的世界(たとえば社会)の問題を論じることは、実際上不可能であることも知っている。特に、社会的な問題を再大多数の「参加者」のために正しく解決したり、未来に備えたりすることが求められる政治の世界においては、事実に基礎をおく「科学的」な態度が肝要であるとの認識が一般的なものであると思う。
その時、「事実」とされたものが、本当に万人が認めることのできる実体のあるものであるかということは本質的に重要である。そこで近代的な科学では、それが科学であることを保証する手続きとして証拠の再現性(任意の第三者による検証可能性)を求めることになった。実際上、私は、科学であることの要件としてはこれ以外のことがらは不要であると考えている。
科学に求められる「論理性」の問題も重要である。論理学そのものは事実に基礎を置く学問ではなく、それ自身は「科学」ではない。しかし、論理学や、ことにそのひとつの態様である数学は、古来より科学と寄り添い、科学を実行に移すための重要なツールとして発展してきた。そのため数学は、無限に可能なシステム(体(てい):body)の中から、外的世界を記述するのに都合の良いシステムを選びとり、一つの体系として発展させてきた。ほとんどの大学で「数学科」が他の自然科学の諸分野と同じ学部に配置されているのはそのことが意識されているからであろう。
論理性そのものは、科学だけに求められるものではないが、無限に存在する「事実」の中から有限の「事実」を選びとる基準や、その有限の「事実」から推論がどこまで可能であるかの限界を定めたりすることは論理に頼る他はない。そこで、科学の持つ、「事実に基礎を置き論理的であろうとする態度」が守られている限り、結論実証の前段階としての、仮説そのものとしての正否の検討可能性がひらかれることになる。
科学の仮説構築のプロセスにおいては、証拠の妥当性や論理性についての検討が繰りかえされ、誤りがただされ、完成へと導かれる。科学論文の査読過程においても同様の検討が複数の査読者によってなされ、その学説の仮説としての正否が判断される。その過程でなんらかの欠陥が発見された場合、多くは部分否定にとどまり、その誤りを修正することによって、その仮説をより「正しい」ものに近づけることができる。これは「進歩」の一形態である。繰り返すと、科学におけるこうした「進歩」は、それが、事実に基礎を置き論理的であろうとする態度に貫かれている限りにおいて享受される性質のものである。
ところで、論理の正否は論理に頼って検討せざるを得ないという「同語反復」の罠によって、「事実に基づいて正しく推論したとしても間違った結論が導かれる可能性」も生じてくる。そこでラカトシュは、ポパーによる学説の「結論の反証可能性」を科学の定義として用いることはできないけれども、科学の進歩を保証するものとしての重要性は少しも殺がれないと考え、このアイデアを大切にして発展させようとしたのである。
さて、以上のことを念頭に哲学について考えてみよう。哲学は「知を愛し」、個別諸科学によって得られた「知」を集大成して、世界のありようや人の生き方の指針のようなものを提示しようとして構築された体系であろう。そうした哲学の中にも外的世界に生起する事実に基礎をおいて展開されているものがあり、多くは論理性を重んじていると思う。もちろんそうではなく、思念的に構築されたものもあるし、具体的な証拠の再現性には拘ったりはしないのが哲学らしく思われてもいるようである。ウィトゲンシュタインが「哲学とは、さまざまな科学による証拠なしに真であると想定される、すべての原始命題である」と語ったのも、哲学の独特の地位を表現していよう。
しかし、事実に基礎をおき、論理性を重視しようとする態度に貫かれているものである限りにおいて、その哲学が「正しい」かどうかを検討することが可能になり、否定される可能性もあるということになるだろう。そして、哲学が広い分野の様々な学問の集大成として構築されたものであることから、その否定は、多くは部分否定にとどまり、そのことによって、その哲学の体系自体を進歩させることもまた可能になると考えられる。たとえば、「論理実証主義」の部分否定からポパーの「反証主義」へ、さらにラカトシュの「精緻化された反証主義」と帰納法の復権を経て、今日議論されている科学哲学の体系へ至る一連の歴史は、やはり、一つの進歩の歴史であったと考える。結果として、ポパーの学説も全否定された訳ではなく、その重要性は今日でも様々な局面で言及されている訳である。
私は、マルクスの学説もまた事実に基礎をおき、論理性を重視して構築されたと考えているが、そうである限りにおいて、この学説もまた部分否定され、そのことを契機として進歩を続ける可能性があると考えている。もちろん、その基礎となる事実なり論理性なりが全否定される可能性もある。日本では社会主義体制の崩壊後、マルクス主義は全く不人気極まりないが、それでも、資本主義の矛盾に由来する様々な不幸の現実は、しばしばマルクスの学説を参照しながら語られ続けているのである。
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失礼します。偶然yahoo blogで発見しました。科学と認識論(哲学)を分離すべし、と言うのがガリレオの主張だったそうです。何故でしょう。本来科学と言うのは、事実にもとずいた法則的事実を指している様に思います。それを説明する論理が必要でしょう。しかし、論理の中には事実と異なる概念が潜り込む可能性が多いのです。事実にもとずいて論じても、事実ではない”概念”が含まれていれば、それは誤った論理に成ります。哲学的論理(科学哲学的論理も含み)には基本的部面で誤った概念が含まれている事が多いのでは有りませんか。注意すべきだと思います。灯台守
2008/5/27(火) 午後 11:02 [ 由井寿一 ]
灯台守さん、いらっしゃいませ。
しかし、何をおっしゃりたいのかよく理解できません。
>科学と認識論(哲学)を分離すべし、と言うのがガリレオの主張だったそうです。
ごく常識的なことだと思います。私もまた両者を明確に分けて議論しているつもりです。
>本来科学と言うのは、事実にもとずいた法則的事実を指している様に思います。
「事実の集合の中にある法則性を明らかにしたり、新しい事実を発見したりするために工夫された学問の一形態」というのが、さしずめの私の「科学」の定義です。
>論理の中には事実と異なる概念が潜り込む可能性が多いのです。
「論理」と「事実」は最初から違う概念だと思うのですが・・・
「事実」とされたものが、実は実体のないものである可能性については私も言及しています。
>哲学的論理(科学哲学的論理も含み)には基本的部面で誤った概念が含まれている事が多いのでは有りませんか。
どの哲学のどの部分が誤りであるかを具体的に論じるのでなければ無意味だと思います。
「さざ波」での問いかけは、あちらで返答いたします。
さつき
2008/5/28(水) 午前 2:09 [ さつき ]
すみません! 覗いてみました。。。
2008/6/8(日) 午後 0:32 [ フリーマン ]