さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

全体表示

[ リスト ]

 前回のエントリーでは「水からの伝言」を批判する私の視点が「疑似科学」へ向けてのものではないと述べた。この例のように、「科学を装い、基本的な部分において虚偽の内容を主張するような科学に叛く行為」を、大阪大学の菊池誠氏の定義に従って「ニセ科学」と呼ぶことにしよう。「ニセ科学」の目的は、科学の社会的権威を利用して何らかの便益もしくは利益を得ようとするものであることが多い。一方、科学を志しながら科学の域に達していない段階にあるものを、ここでは「未科学」と呼ぶことにする。これもきっと誰かが既に定義しているに違いない。

 二十世紀初頭の「ウイーン教育研究所」の哲学教授であったビュラーが「現実の科学者は、まず先に解答を思いえがき、それからそれをささえる事実をさがし始める」と述べたように、この意味での「未科学」は、実は科学の世界にありふれている。一般論として言えば、「未科学」は、科学的でありたいとの反省を繰り返すことで、やがて科学へと成長し、科学としての成果を生みだす可能性を秘めている。「未科学」の中には、真に科学を志してなされているという意味において、本質的には既に科学であると言ってよいものもある。

 では「疑似科学」とは何だろう。字義からすると「科学に似ているが科学ではないもの」ということになる。ポパーは、反証可能性のないものを「疑似科学」としてこれを批判したが、本年5月の「『科学的』とはどういうことだろう」と題した一連のエントリーで明らかにしたように、反証可能性を科学の要件とすることはできない。それが科学であることの唯一の要件は、「外的世界に生起する事実に学説の基礎を置く」というものであり、反証可能性を重視することや論理性は科学の進歩を支える方法論であるに過ぎない。

 科学のコミュニティでは、それが科学であることを保証するために任意の第三者による<事実>の再現性が求められる。科学をなす者はその要求に応える義務があるとの暗黙のプレッシャーのもとで仕事をする。結果として科学の学説は、その基礎となる<事実>が再現可能であることを示す体裁を整えた上で公表・主張されることになる。「未科学」ではそれが不十分な段階にあるわけだ。また、<事実>の選択に明らかな恣意性が認められるもの、ある<事実>から出発してどこまで言えるかといった推論に、「可能性」を主張する以上の無理があるものなどを含めても良いだろう。そうした欠点が大きいと「事実に学説の基礎を置く」という科学の態度に実質的に反することになるからである。

 そこで、「未科学」の段階にあるものに対していろいろな批判や助言がなされるが、中には、そうした批判や助言に耳をかさず、これで十分科学の域に達していると開き直るものがある。ここではそうした態度をとるものを「疑似科学」と呼ぶことにしよう。SFのように科学に似せて語られるフィクションは、それが真の科学ではないことを暗黙のうちに自己申告しているという点において、ここで用いる「疑似科学」からは除外される。

 「疑似科学」の生態学的な特徴は、科学の権威を認めながら、その実、人の文化としての科学そのものの価値を軽んじ、科学を護り育てようとの意思が認められず、「科学的」とはどういうことであるかについて日々反省したりせず、結果的に科学の権威を貶める役割を果たしていることにある。このことは、「疑似科学」の目的が、科学の権威を利用して、その成果や波及効果や科学のポーズをとること自体に何らかの便益なり付加価値なりを期待することにあって、科学の営為そのものものではないことに由来する。その意味では「ニセ科学」に似ているが、「ニセ科学」がもっぱら虚偽の「事実」の提示をもってなされる点で異なる。

 科学に社会的権威の存在を認めることと、人の文化としての科学そのものの普遍的価値に信念を持つこととは全く別のことなのであるが、ネット上では両者を混同した議論が散見される。すなわち「疑似科学」や「ニセ科学」は、科学の権威に立脚してなされるという意味において「科学主義」の一つの亜流であるとの主張である。しかし「疑似科学」や「ニセ科学」は、より科学的であろうと苦闘し、もって、科学を護り育て、人の文化としての科学の普遍的価値を高めることに貢献しようとする意思を示すことはなく、むしろこれに叛く態度をとり続ける。結果として科学の権威を貶める役割を果たすという点で、科学にとって闘うべき敵であることは明白である。

 ところで、こうしてみると、ある学説が単なる「未科学」であるのか「疑似科学」であるのかは、その外見だけから容易には判断できないことに気づくはずだ。その判断は、批判や助言にどのような態度で応じてくるかという視点から、その「行動」を通して次第に明らかになる性質のものである。科学と科学の成果を混同しないように注意しながら、科学は、静的存在ではなく、文化の一つの態様としての人の営為、もしくはある種の「態度」であるとの視点に立つなら、そう考えざるをえないのである。したがって、ある学説が「疑似科学」であるかどうかは第三者だけでいくら議論しても判らないことが多い。具体的な批判や助言はおおいになされる必要があるが、少なくとも特定の学説について第三者だけで議論する際には、「疑似科学」のレッテルを用いるに細心の注意が必要ということだ。

 科学が一つの文化として社会の中で生かされている存在であることから、アマチュアであるか職業科学者であるかにかかわらず、科学を志す者は、常に「疑似科学」に堕ちる危険性と共にあることを自覚しなければならない。マルクスの言う「疎外」が人の文化にも不可避的に伴われるものであるとすれば、科学もまた例外ではありえない。その意味では、科学として出発しながら「疑似科学」へ変質したもの、変質しかかっているものなど、グレーゾンは案外広いのかもしれない。「病的科学」と称されるものもこうして「疑似科学」に一歩足を踏み入れていると言えるだろう。科学の歴史が、科学に反するものとの絶えざる闘いの歴史であったことを思い起こすとき、その闘いの場で「疑似科学」がどちらの側に与するものであるかは明らかである。科学を志す者としては、常にこれに対する警戒を怠ってはならない。

 なお、ここでは「科学主義」を擁護する主張をしたが、そのうち「科学至上主義」を批判する論考をまとめる予定である。


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事