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以下の文章は、1月10日頃書き始め、推敲を重ねた末、本日26日に脱稿したものである。この間、パレスチナを巡る情勢は目まぐるしく変化した。オバマの大統領就任演説が行なわれた後の今となっては若干時期遅れのものとなっているが、書かずにはいられない。
「護憲」とは、歴史的に「九条」を護る運動として位置付けられてきた。前文に謳われている日本国憲法の理念は、具体的には「九条」に結実しているからだ。ここで言う「護憲派」も、その意味で用いる。
日本人は平和ボケしているから、軍事力で平和が守られると勘違いする。
あの戦争の惨禍を忘れてしまう程になってしまったということ。日本国憲法は、その記憶も生々しい頃に誕生し、二度と同じ惨禍をくり返さないとの決意を宣言した。広島平和公園の碑文にも、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」とある。これには異論もあるが、当時の大多数の日本人の決意であったろう。
あれから60年以上もの間、憲法のおかげで、日本は一度も戦争に直接手を下すことがなかったし、日本人が戦争で死ぬこともなかった。しかし、そうして日本人の平和ボケも始まった。軍事力に頼ることしか眼中にないアメリカから国際貢献を請求されて、戦争の(後方)支援しか発想できなくなってしまった。こうした動きに対して、護憲派は、「一国平和主義」との汚名を返上すべく「九条」の精神を広く世界に届ける運動に繰り出した。私も、その末席に名を連ねてきたつもりである。
その仲間達の間に、今、パレスチナ・ガザ地区で起きているイスラエルによる大量殺戮にどう対処すべきか、水面下で深刻な対立がおきている。イスラエルを非難する抗議の嵐の中、「ハマス」の武力に頼る強硬路線への批判がおそるおそる、またある時は声高に表明され、その溝は確かに広まっているのだ。そのよってきたる足場が、日本国憲法前文と「九条」の理念に基づいているだけに根は深い。
私自身は、罪もない多数のパレスチナ市民の命が日々奪われているという緊急の事態に直面しているとき、第一義的には、イスラエルの無差別殺戮への非難の声をあげ、あらゆる機会をとらえて世界世論の包囲網の存在をイスラエル政府に自覚させ、無差別殺戮をただちに中止させるよう圧力をかけるべきであると考えている。日本人がなしうる行為としては、イスラエル大使館への抗議行動もその一貫として有効であろう。しかし、このような提案に対してさえ、対話の機会を損なうものであるとの批判の意見が表明されている。(注1)
今、この原稿を書いている時点で、イスラエル政府が「一方的停戦」を宣言した。この点についてのマスコミ論調の大勢は、イスラエル側として、ハマスはテロ組織でありこれを交渉相手とすることはありえないとの立場を世界に向けてあらためて宣言し、併せて戦略的優位を狙ったものとの認識で一致しているようだ。しかし、イスラエル政府がその気になれば、圧倒的軍事力でもってガザ地区を制圧し、ハマスを武装解除することも可能であったろう。そうした行為を歴史的にイスラエルに思いとどまらせているのは、やはり世界世論の圧力を気にし、孤立することを恐れてのことであると考えたい。もし、イスラエル政府とその後ろ盾となっているアメリカ政府を支える「人々」の全体が、そうした、人としての「道理」のかけらも持ち合わせていないエイリアンだとしたら、我々の抗議行動の全ては無意味である。我々が非難の声をあげるのは、その声が届くことに一縷の望みを賭けているからであり、つまり、かれらを人として認めているからであり、自己満足のためではない筈だ。
では、ハマスという存在に向けて、どのようなスタンスを執るのがあり得べき「護憲派」だろうか。一発のロケット弾を打ち込んだら所かまわず自動的に百発のミサイルのお返しをするようプログラムされた「マシン」に向けて、その一発を打ち込むハマスの行為をどう理解したら良いだろう。
少なくともガザ地区では、ハマスは多数派の支持を得ていて、民主的に選ばれたかれらの代表組織であるに違いない。しかし、代表組織であるというだけでその正しさが担保されないのは、イスラエル政府とて同じという意味で、我々がそれを支持する根拠にはなり得ない。ハマス、あるいはハマス的なるものは、歴史的にイスラエルの行為が生みだしたものだ。主犯であるイスラエルとそれを支えてきたアメリカへの非難が第一義的であるべきことは論をまたない。だからと言って、「護憲派」である我々がハマスを支持する根拠にはなり得ない。憲法前文と「九条」の理念に照らして、そう考えるべきだ。
憲法発布当時、多くの日本人が「九条」の理念を納得したのは、誰かに説得されたからではなく、もっぱら戦争の惨禍の経験によっているだろう。戦後世代がそれを受け入れたのは、その記憶の伝承によっているだろう。第三世代に「九条」離れがおこっているのは、その伝承が途絶えてきたからだろう。しかし、戦時中、凄惨のさなかで戦争への疑問と指導部への不審を抱く者がいたとしても、かれらの多くが、日本国憲法前文の理念にまで到達し得たかどうかは疑問だ。おそらく、戦後という、身に降り掛かった出来事を冷静に考えることのできる時代の到来が必要だったのではないかと思う。(文献1) しかも、日本の場合は、自国に非がある戦争であったし、パレスチナにとっては、相手に非のある「戦争」である。
そうだとしたら、日本人が現在の「高み」からハマス的なるものを批判しても、決してその声が届く事はなく、結局自己満足に終らざるを得ないのだろうか。もし我々がそう思うなら、我々自身が日本国憲法前文および「九条」の理念の普遍的価値とその実効性に、そもそも信頼を寄せていないということになる。
けれど、思い起こそう。イスラエルとパレスチナの双方に、武力および武力を後ろ盾とした圧力によらず、純粋に相手を思いやり、対話を通じて問題の解決を図ろうとする勢力が確かに存在しているという事実を。そうした運動体は、次のリンク集をたどるだけで、いくらでも見つかる。
http://www.palestine.jp/link.htm
http://www.jca.apc.org/~p-news/houhuku/unndou.htm
それらは、女性の平和運動であったり、イスラエル・パレスチナ双方の戦争遺族が共に手を携える会であったり、イスラエルの兵役拒否運動、ユダヤ教聖職者の団体などである。(注2)
そうした発想をなすこと自体がありえないに等しいほどに、かれらを取りまく政治的風土は巨大な逆流となって武力に魅了されている。おそらく、身の危険をも伴う活動であるに違いない。しかし、かれらの一世紀に及ぶ戦争の経験が、かれらをしてついに、軍事力で平和は守れないという境地へと到達せしめたのではないだろうか。平和ボケした日本人は、かれらにこそ学ぶべきだ。
2002年4月、当時のパレスチナ自治政府情報文化大臣とイスラエル前法務大臣による「イスラエルとパレスチナが交渉のテーブルに戻るために」と題するル・モンド紙に掲載された共同声明の和訳を次のサイトで読むことができる。
http://www.diplo.jp/articles02/0204-4.html
そこでは、イスラエルとパレスチナ双方の平和運動の共同のプログラムとして設立された「平和をめざすイスラエル=パレスチナ連合」の背景、理念、経緯が述べられている。この声明は、次のように結ばれている。
「このイスラエル=パレスチナ連合は、容易に維持できるものではない。われわれが大きな支持を得ているのは事実だが、激しい批判を受けているのも事実である。暴力がやまず、罪もない人々が双方で殺されているさなかに、会合と対話を行おうとすれば、それは必ずや利敵行為として糾弾される。だからこそ、広範に認知され、国際的に正統性を与えられ、そして平和を信ずる世界中の人々から支援されることを、われわれは必要とする。」
かれらの存在自体が、護憲派である私たちをいかに励ますものであるかを想うとき、政治的に孤立しているであろうかれらに、篤い連帯の意思を伝える義務が私たちにある。今、護憲派である私たちがなすべきことは、ハマスの評価を巡って対立することではなく、イスラエルとパレスチナにそうした平和勢力が存在しているという事実を広く世に伝え、かれらに向けて連帯の想いを伝え、かれらを励まし、みずからも励まされる絆をむすぶ、そうした運動に集中することではないだろうか。そのことが、「一国平和主義」との非難の声を自らの中で無力化し、日本国憲法前文の精神を世界にむけて発信しようとする、私たち自身の運動の原点を見失わないためにも必要なことと考える。
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注1)公開されているAML保存書庫の本年(2009年)1月期の討論を参照
http://list.jca.apc.org/public/aml/2009-January/thread.html
注2)イスラエル国内の平和運動に対しては、この問題の本質から目をそらすものとの批判もある。結局、そうした問題は対話を通じてしか解決できないとする日本国憲法前文に示された「方法論」への信頼の問題なのである。
文献1)早坂隆著『祖父の戦争』(現代書簡 2005)
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日本国憲法(9条)を「善し」とする国際社会など、どこにもないでしょう。
デタラメな「平和願望信仰」が平和を遠ざけている現状でしょうね。
可笑しな人たちがいる間は、平和は来ないものと思いますよ。
2009/1/27(火) 午前 1:34 [ 正義の味方 ]
このエントリー、護憲派の平和に対する覚悟が現れていると感じました。我々は平和を「誠実に希求」し続ける、と。
いつでも、どこにでも、平和を望む人々はいます。その、あるいは苦境に陥っているかもしれない人達の目に「不断に誠実に平和を望む」人がどううつるのか。そうあることを自ら望んだ人々がどう振る舞うべきか。
>日本人は平和ボケしているから、軍事力で平和が守られると勘違いする。
面白い視点であると思います。護憲派に対しては、時に思考停止であるという非難が(まあ、↑の様な脊髄反射的な非難、というより言いがかりもありますが)浴びせられますが、むしろ軍事力によって平和を保とうとする思想自体に含まれる思考停止性、脅威に脅威を上書きするような安易な姿勢にこそ、その批判が向けられるべきであるかもしれません。
2009/1/27(火) 午後 5:24 [ t_3*on ]
正義の味方さん、さっそくおこし下さいましてありがとうございます。
>日本国憲法(9条)を「善し」とする国際社会など、どこにもないでしょう。
「国際社会」とは、私たち地球人の社会ということですから、一つしかなく、どこにあるか探す対象ではないですね。「国」という意味なら、日本があるし、コスタリカなどもそうでしょう。おかげで両国は平和です。私たちは、この新しい価値観を世界に先駆けて想像する、名誉ある地位を得ているのだと考えましょう。
>可笑しな人たちがいる間は、平和は来ないものと思いますよ。
「国際社会」では「九条」の理念を受け入れ難く思う人々が多数派であるという現実がある。同時に、この社会には戦争が絶えないという現実がある。この二つの事実の共存が意味することは、「九条」こそが、真に平和を確立する理念であるということです。
2009/1/28(水) 午前 1:43 [ さつき ]
t_3donさん、私の言いたい事を的確に捉えて下さって、ありがとうございます。
このような支持表明が励みとなり、力の源泉ともなるという思いをあらたにします。
2009/1/28(水) 午前 1:45 [ さつき ]
ご紹介の公開ログにある「護憲派内部」の論争らしいものを、ざっと拝見しました。
インターネット上の「議論」の宿命なのかも知れませんが、表向きは「平和の実現方法」での論争のように見えますが、「噛み合っていない」印象が強いのです。「友好」概念からして、展開の中で明るみに出たように微妙に違っていましたし。
さつきさんの「ものの考え方・考えの進め方」には、かなり共感を覚えます。
ただ、あのログでも、誰かが一言だけいっていたような気がしますが、結局、素朴に「殺戮をやめろ!」が真っ先に来るはずだと思います。「平和」は個人の「平和的生存権」のために守られる必要がある、ということです。
「平和」がなぜ追求されるべきなのか、「人権」がなぜ護られねばならないかを突き詰めないまま、「友好」や「人権」や「国連決議の正統性とその射程」や「国際人道法」や「国際刑事裁判所への提訴」が、あたかも自明のことであるかのようにひとり歩きしている、という印象が強いのです。
2009/1/28(水) 午前 4:34 [ 樹々の緑 ]
さつきさんがいわれる「九条の理念」にしても、「戦争の放棄」「交戦権の否認」「戦力の不保持」に結実する根拠にまで遡る「思想」として主張する必要を感じます。だから、「ハマス的なるもの」への違和感が、さつきさんにも残るわけでしょう?
日本の「第三世代への継承不全」を支えているのは、単純な「経験の継承の風化」ではなく、第二次大戦後半世紀以上も経った現状への「絶望」だと思います。そしておそらく、「ハマス的なるもの」も、同じ「絶望」の土壌から生じているのではないかと思います。その意味で、さつきさんは、イスラエル国内の少数派の言動に着目されていますが、私はむしろ、パレスチナの人々の中で、「ハマス的なるもの」を拒絶する少数意見がどれくらい出てきているのかに関心があります。
2009/1/28(水) 午前 4:36 [ 樹々の緑 ]
イラクでも、先日来日したカーシム・トゥルキさん(20代男性)の変化に対する高遠さんの説明で、そうした観点の大事さを感じました。現在のカーシムさんには、本当に粘り強い落着きを感じましたね。内心では絶叫したいはずでしょうが。
もしも「政治的」「文化的」にたたかうことが無理であって、「軍事的」にたたかうことしかできないのであれば、何がその「無理」の根拠になっているのか、私はパレスチナ問題には「ど素人」ですので指摘できませんが、そこを突く必要を感じます。
そして、この「絶望の土壌」を打ち破るのに、ICCへの提訴が有効かどうか、白燐弾や劣化ウラン弾の使用、無差別攻撃などが許されないことはもちろんですが、「法的主張を掲げて政治的にたたかう」ことと、実際に「国際法廷の場でたたかう」こととは、必ずしも直結しないと思っています。
2009/1/28(水) 午前 4:36 [ 樹々の緑 ]
樹々の緑さん、お久しぶりです。
AMLはブログではなくメーリングリストで、「保存書庫」は交信内容を公開したものです。あくまで情報交換の場であって、議論は必要最小限にとどめるというのがルールのようです。
>私はむしろ、パレスチナの人々の中で、「ハマス的なるもの」を拒絶する少数意見がどれくらい出てきているのかに関心があります。
私も同じです。かってあったパレスチナ内の平和運動のウェブサイトのいくつかが、現在閲覧できなくなっているのが気がかりです。私の記事中の「イスラエル・パレスチナ双方の戦争遺族が共に手を携える会」は下記です。
http://www.theparentscircle.org/
これは、かなり以前にNHKの特集番組で紹介されたのを見て、その活動を知りました。
高遠さん達がイラクで拉致される少し前に、イラクで非暴力平和運動を主催している方を招いての集会に参加した経験が、私のベースになっています。他にもありますが、下記の本を読んでからお返事したいと思います。
http://www.koubunken.co.jp/0300/0283sr.html
2009/1/28(水) 午後 6:55 [ さつき ]
大西洋上のスペイン領カナリア諸島に、「ヒロシマ・ナガサキ広場」と日本国憲法九条の碑があるのだそうです。先ほどTBSのNEWS23で現地取材のレポートを伝えていました。「九条」の文言はスペイン語で刻んであります。
80年代にスペインがNATOに加盟するかどうかで揺れていた頃、大学の法学部で「九条」に接して感動した経験のある市幹部職員の女性が発案し、市の主導で建立されたとのこと。カナリア諸島は、フランコがクーデター開始の第一声を発した場所で、独裁政権樹立後は反対派の多数が捕らえられ、行方不明になったそうです。その苦い経験から、今は平和運動が盛んだということです。ガンジー、マリア・テレサ、ジョン・レノンの像も建っています。
世界のほとんどの人は「九条」の存在をまだ知らないというのが現状です。「九条」は、世界の多くの人を感動させる力があることに確信を持ち、もっともっと広めなければと思います。
2009/1/29(木) 午前 1:03 [ さつき ]
<樹々の緑さん、
今の時点で書けることを一点だけ、
>・・・現状への「絶望」だと思います。
確かに日本では、現状に絶望するあまり、いっそ戦争にでもなってほしいと書く若者の本がもてはやされたりしていますからね。しかし、そうした発想もやはり、戦争というものをリアルに想像するためのいろいろな理性的および感性的情報の欠乏が背景としてあって生まれてくるのだと思います。そうした状況は、政治的にも作られているでしょう。
日本で一番凶悪犯罪が多かったのは、あの「三丁目の夕日」が描く、昭和三十年代です。少年による年間の殺人事件件数も現在の5倍以上でしたし、個々の犯罪もそれぞれに凶悪極まりないものでした。
http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Jisatu.htm
若者の自殺率も昭和30年がピークで今の4倍ほどありました。
http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Jisatu.htm
こうしたデータを見る限りでは、絶望や閉息感ということで簡単には片付けられないと思います。
2009/1/29(木) 午前 1:27 [ さつき ]
↑リンク先URLの訂正です。
「少年犯罪統計データ」は、下記
http://kangaeru.s59.xrea.com/toukei.html
2009/1/29(木) 午前 1:39 [ さつき ]
>そうした発想もやはり、戦争というものをリアルに想像するため
のいろいろな理性的および感性的情報の欠乏が背景としてあって
生まれてくるのだと思います。そうした状況は、政治的にも作ら
れているでしょう。
その点は同感です。現在若い人たちと話していると、私たちがよく解りもせずに囓っていた社会科学的知識の基礎が、そもそもどこからも伝達されていないような不審な感じに襲われますから。
ただ、少年犯罪発生率や若年者自殺率と、私がいう「絶望の土壌」とがリンクするとは思われません。
2009/1/30(金) 午前 1:23 [ 樹々の緑 ]
例えば、昭和30年代は、高度成長のとば口にあって、普通の庶民の誰もが未来を肯定的に展望していたような気がします。統計的にどのデータを参照すればよいか、思いつきませんけれど…。私が「絶望」といっているのは、当時とは違って、現在の普通の庶民には、現状よりも未来がより改善されているという展望が持てなくなっている、ということです。これは、バブル崩壊後(多分、オイルショック後)、ほとんど一貫している傾向だと思っています。
そういう感覚で、戦後50年以上を振返ってみると、高度成長期はむしろ例外であって、「絶望」こそが基調であったと総括する思潮が出てくるのも、一蹴できないと思います。そしてそれは、新たな「戦後民主主義は虚妄であった」論に繋がると思われるのです。
2009/1/30(金) 午前 1:26 [ 樹々の緑 ]
これと、生まれてこの方「戦争状態」しか知らない世代がほとんどを占めつつあると思われるパレスチナは、その「深さ」は別論としても、「絶望の土壌」において共通するものがあるのではないか、ということです。
だから、「ハマスのような行動に出る切迫性を理解せよ」とか、「もともとそこに住む民衆を追い出したのはイスラエルだ」とか、主張したとしても、当事者たちは、外野から暢気な応援をしている、程度にしか感じられないのではないか、と思いますね。パレスチナ・イスラエルの子どもの交流の取組みを伝えたテレビ番組は、どの局だったか忘れましたが、私も観ました。
イラクを引き合いに出したのは、アメリカによる占領後、国境が事実上開放されて、アラビア語ではなくペルシャ語を話す人々が大量に流れ込み、「内戦」を煽っている一方で、依然としてアメリカによる不法な殺戮が継続されている、そのどうしようもない状況で、イラク人が武器を持ってたたかう方向ではなく、自治による治安の維持と破壊からの建設、政治的な団結に力を注いでいることを、指摘したかったからです。
2009/1/30(金) 午前 1:41 [ 樹々の緑 ]
護憲派にも色々あると思いますが、「武力行使は正当防衛に限定」という意見が多いように個人的に思います。
イスラエルは報道を見る限り先に手を出していて、ハマスは過剰防衛という感じがします。
翻って日本を見ると、正当防衛というためには、威嚇も問題ですので、自衛隊は行き過ぎ。
2009/2/23(月) 午前 3:53 [ 護憲派です ]