さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

全体表示

[ リスト ]

 科学理論を含む全ての言説は、そこで展開される論理を遡っていくと、最後には必ず<自明なこと>に行き当たる。全ての言説は自明なことを出発点にしていると言って良い。そこで前提されていることはあまりにも自明なので、しばしば、明示されることがないばかりか、意識さえされていないこともある。

 例えば交通ルールは、別々の物質は同一の空間を共有することはないという、いわば「実体論的排他律」とでも呼ぶべき原理の下に決められている。この原理に反して人は他の物体をすり抜けることができると考える者はまずいない。走っている車の前に飛び出したらたちまちはねられてしまうことなど直感で分かることだ。「衝突」にまつわる物理学の問題は、この原理が前提とされていることをわざわざ明示したりしない。

 逆にまた、ひとつの物体は別々の空間を占めることはないという、いわば「実体論的同一性律」とでも呼ぶべき原理が自明のこととして受け入れられているので、犯罪捜査においては目撃証言やアリバイが決定的なものとして重要視されている。これもまた、直感において自明なことだ。その直感が経験に由来するかどうかはここでは問わないが、こうした意味での「自明なこと」を「直感的原理」と呼ぼう。

 ウィトゲンシュタインが言うように、「哲学とは、さまざまな科学による証拠なしに真であると想定されるすべての原始命題である」とすれば、本来、原理とはこのような意味での哲学を構成する個々の原始命題のことと考えて良い。相互に矛盾する原理はあってはならず、しかも、本来完全に排他的で、他の原理と部分的にでも重なり合うことはないということ。数学の公理もこれに相当する。ただし、数学はいわば循環論法の体系なので、科学における原理の概念とは何らかの区別を設けるべきかもしれない(注1)。

 バートランド・ラッセルは、「論理学的原理」についてのアリストテレス以来の成果を、同一性の法則、無矛盾律、排中律(注2)の三つにまとめあげている。例えば、「ある事象がある属性を持つと同時に持たないということはあり得ない」という無矛盾律は、特定の言説の矛盾を指摘する際に実社会で普通に用いられている。

 たしかにそれは自明なことではあるが、一般論として言えば、よくよく考えてみて初めて「証拠は無くても真である」と分ることもある。つまり、原理とされているものの中には、直感だけによっては得られないものがあるということであり、「自明」すなわち、「自ずと明らか」なこともまた、必ずしも全てが直感的に直ちに明らかとまでは言えない。したがってここでは、「自明」ということの意味を、よくよく考えてみたら自ずと明らか(その正しさに証拠の必要がないと分ること)である場合に拡張して用いることにしよう。

 本来的な原理から出発した理論で定説の地位を獲得したものに、原理と同等の扱いを受けているものがある。

 例えば、日常的に用いられているほとんどの物理理論は、最後にはエネルギー保存則と質量保存則という独立した2つの法則に行き当たり、これらを、その真偽をいちいち問うことなしに原理として採用している。もちろんそれらは、ニュートン力学の守備範囲内の条件下であることが前提とされている。また、「地質学原理」と称されるものに「(地質学的)斉一説」がある。これは、現在の時点で正しく成立している諸法則、例えば堆積時には新しい地層は古い地層の上に重なるとする「地層累重の法則」などは、過去においても正しく成り立つとする原理であるが、これも無制限の過去にまで遡っての適用はできないことが暗黙の了解事項とされている。

 このように、原理とされているものの中には、暗に、それが自明であり得る適用範囲が仮定されている場合がある。その仮定の妥当性は経験によって確信されているので、このような意味での原理を「経験的原理」と呼んでおこう。その自明性は一般に低い。

 一方、理論物理学のように、宇宙の根本法則や本質論的原理そのものの構築を目指すような分野においては、普遍性の要請から原理の適用範囲を仮定しない。この場合、理論の出発点となる原理は、それ自身、仮説の地位に甘んじざるを得ない。

 例えば、アインシュタインが特殊相対性理論を構築するに当たって根本原理として採用したのは、全ての慣性系に対して物理学の諸法則が常に同じ形で成り立つとする「相対性原理」である。これなど、ニュートン力学ではそもそも自明のこととして前提されているのであるが、それをわざわざ理論の出発点として明示したのは、「原理」とは言いながら、それが正しいものと<仮定した>ということになる。それは、自明ではないと宣言したに等しい。アインシュタインが仮定したもう一方の「光速度不変性の原理」(注3)が正しいとすると、「相対性原理」が正しくない可能性が浮上するからだ。

 「相対性原理」と「光速度不変性の原理」の両者が共に正しいと仮定すると「特殊相対性理論」が導かれる。これを重力場に延長して構築された「一般相対性理論」は、エネルギーと質量の等価則を導き、エネルギー保存則と質量保存則を統一したのであるが、それ自体一つの科学理論(仮説)として検証(反証)の対象となった。それはつまり、前提として採用された二つの原理が共に普遍的に正しいという仮定そのものが、この理論から導かれる種々の帰結を通して検証(反証)に付されたということだ。

 では、「相対性理論」においては、他にもっと根本的で自明な原理は何も採用されていないかというとそうではない。まず、正しい推論のためのいろいろな「論理学的原理」が採用されている。そして何より重要なのは、この理論が、観測事実に反してはならないという原理の上に築かれていることである。「相対性原理」が自明ではないとしても、事実によって検証できるし、事実を頼りにすることができるという原理的発想から出発していると言っても良い。

 これは、全ての科学理論において普遍的に採用されている原理という意味で「科学原理」と呼んでも良いが、それ自体は自明であると言うよりむしろ、そもそも科学とは何かといったことがらに関係しているので、科学以外についての類似の概念を含めて一般化する意味で「存在論的原理」と呼んでおこう。科学について言えば、これこそ科学の本質であると考える唯物論の立場からはその自明生は明らかであるが,実存主義の立場からは,その自明性は個々人の科学観に依存することになる。

 冒頭で、全ての言説は自明なことを出発点にしていると述べたが、倫理的な言説についてはやっかいだ。何を根本原理とするか、また、それが自明なことかどうかは個々人の価値判断に大きく左右されるからだ。

 例えば、「人間中心主義」を根本原理とするにしても、その具体的な内実についての人々の受け止め方は個々に多様である。そのため、人類にとっての多くの不幸は人間が増えすぎたことに原因があるので、時々戦争や災害が起こって人口が減れば不幸の総量は減少するし、種の延命にとっては必要なことであるというアイデアも成立しうる。人類の繁栄のためには劣った遺伝子を積極的に淘汰すべしとする優生思想も成立しうる。それらが私にとって受け入れがたく思えるのは、そもそも「人間中心主義」に反するからではなく、価値判断のバイアスによってその解釈が異なっているからだ。

 この「人間中心主義」から「博愛主義」や「人道主義」を分離して整理し直したとしても、それが「主義」である以上、普遍的で自明な原理とは言い難い。このような原理を「価値論的原理」と呼ぼう。「○○原理主義」とよばれているものは、この「価値論的原理」を行動原理としているが、各々にとっては自明でも普遍性がないので、実社会において争い事の種になる場合が多い。「人道支援」と称した活動に異論が出されるのも、そのせいだろう。

 では、倫理的な言説には、普遍的で自明な原理など何もないのだろうか。倫理的な言説から自明でないあらゆる要素をはぎ取ると、その果てには、「誰でも自分の意見を主張する権利がある」といった、いわば、「言説」そのものの存在理由のようなものだけが残る。これを「実存的原理」と名付けよう。「権利がある」と主張するのである以上、任意の当人にとって「権利がある」ことは自明なのである。この原理こそが民主主義の基盤であるのかもしれない。

 倫理的な問題についての議論が長引くのは、往々にして、明示されているのと異なる原理を立論の前提としていることに気づかない者や、それを故意に隠そうとする者などがいるためである場合が多いようだ。誰でも自分の価値観に基づいてその意見を主張する権利がある。それぞれがどのような「価値論的原理」を採用しているのかについて整理した上で明示することは、議論を有意義なものにするのに効果的だろう。

-----------------
注1:このことは、下記のエントリで論じたことと関係している。
「数学は、ある種の言語についての学である」
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/29030326.html

注2:「排中律」とは、全ての事象は、ある属性を持つか持たないかのどちらかであると説明される。「同一性の法則」についてはややこしいので省略。

注3:マイケルソンとモーレーの実験結果は光速度不変性を「原理」として良いかどうかとは無関係。これを「原理」として採用したのはアインシュタインの直感によるだろう。私が参考にしたのは下記:
「光速度不変性の原理の地位」
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kairo09.htm

「科学と認識」書庫の記事一覧

閉じる コメント(2)

顔アイコン

自明の理

理論をつくるとき、あたりまえの事をはじめとして、演繹してゆく。1+1=2も、あたりまえだが、これを温めて全加算回路で自動化してゆくとコンピューターができ、様々な生活機器に付加されて、非常に役立っている。
自明の理は、形式的なものばかりではなく、実際的なものにもある。例えば、人は食べねば生きられぬ、というのもあたりまえである。これをはじめの自明の理として、農業や食品産業に従事する事の、必要性と意義を演繹してゆける。この農業を深く追求して、温め続けて、一万6千個トマトの成ったトマトの木や、百個メロンの成ったメロンの木などを作り出した、ハイポニカ農法もできてきた。
生き物の幸せの基本は健康である、というのもあたりまえである。ここから、医療や健康食品や、清潔の為の御風呂や洗濯機などの使用が演繹されてくる。
存続してきた人間を考えるとき、当然、人間は生まれ、育ち、学び、結ばれ、産み、育み、送り、働き、食べ、老い、死にゆく者であることが、みちびかれる。それぞれの局面が人生の中にあり、そこからまた仕事がみちびかれ、意義が示されてくる。
あたりまえを見つけ、深めてゆ

2012/9/12(水) 午後 3:43 [ 地下水 ]

顔アイコン

地下水さん、コメントありがとうございます。

>1+1=2も、あたりまえだが

1+1=2は,人が定めた演算ルールに過ぎず、それを「自明の理」と混同しない方が良いと思います。そこから演繹されたことは全て同語反復(トートロジー)であって、それ自体、何かの新しい発見をもたらすものではありません。
コンピューターが役に立つのは、その演算プロセスの中に、人が調査(観察、観測)したデータを入力するからです。しかし、実際に具体的な事象を観察してみると、そこから得られる情報は無限にあることに気づきます。そのままでは入力しようがないので、まず、自明のことについては(半ば無意識に)省略されます。次に、目的に応じて、データの取捨選択が行われます。

なるほど、「人は食べねば生きられぬ」というのは、これも自明のことに加えて良いでしょうね。おそらく、経験的に確信されていることなのでしょう。
ただし、「人は生き続けねばならない」というのは自明ではないでしょうね、おそらく。

2012/9/12(水) 午後 6:08 [ さつき ]


.
さつき
さつき
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事