さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

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政党助成法によって健全な政党政治は育ったのか

 前回は主に日本国憲法の視点から政党助成法は違憲であると主張したが、もう一つの議論の焦点は、15年が過ぎた今、政党助成法の趣旨であった「健全な政党政治の実現」は達成されたのかという点にある。成立時に約束された企業献金の禁止は実質的に反故にされたままである。この間、無党派層が増える一方であったのはなぜだろう。このことは、まともな言論の世界ではほとんど決着がついていることであり、何も私ごときがいまさら異議を唱える必要もないが、備忘録として残しておこう。

 この件についてはWikipediaの「政党交付金」、「政治資金規正法」、「政治献金」の解説が参考になる。以下、リンク先に番号を付し、その番号をもって引用先を示す。

(1)Wikipedia「政党交付金」
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%90%AD%93%7D%8C%F0%95%74%8B%E0&oldid=29016832

(2)Wikipedia「政治資金規正法」
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%94%BF%E6%B2%BB%E8%B3%87%E9%87%91%E8%A6%8F%E6%AD%A3%E6%B3%95&oldid=28999784

(3)Wikipedia「政治献金」
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%8C%AE%E9%87%91&oldid=29058401

 なお、前回の記事に関連して補足すると、(1)は、「学説では違憲説が多数だが、『政党は準国家機関であり、公費助成は正当』とする少数説もある」と記している。「政党は準国家機関」とは、まともな感覚とは思えない。憲法二十一条の意味を良く考えてほしい。

 他に、法学の専門家がまとめたウェブページに下記がある。

(4)政党交付金(政党助成法)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/seitoujyoseikin.htm

 このサイトにおいて、「奈良県上牧(かんまき)町議会(02年12月)や、北海道小清水町議会(03年3月)など地方議会でも、「『政党交付金』を直ちに廃止し、その財源を経済不況で苦しんでいる国民の生活に役立つ施策への財源とすること」(上牧町議会)など、廃止を求める意見書が可決されている」ことを知った。

 また、前回の記事でも紹介した憲法学者上脇博之氏によるものとして、下記がある。

(5)Q4 政党に国がお金を補助するのは許されるの?
http://homepage3.nifty.com/kenpofaq/kokkai/q4.htm

 やや古いが、政治改革オンブズパーソンの声明として、以下の2件がある。

(6)声明 「政治改革」の公約を守り、企業・団体献金の全面禁止を!
http://homepage3.nifty.com/kenpofaq/ombus/seimei01.htm

(7)政党助成は「民主主義のコスト」ではない!!
http://homepage3.nifty.com/kenpofaq/ombus/seimei03.htm

 さらに、個人のブログ記事1件をリンクしておく

(8)シイタケのブログ:「企業献金禁止・政党助成法廃止を」
http://ameblo.jp/ptpptp/entry-10135141420.html

 政党助成法成立の背景には、ロッキード事件やリクルート事件・金丸事件が相次いで起こり、国民の間に強い政治への不信感がわき起こったことがある。「そのため、政府の諮問機関である第8次選挙制度審議会は、『政治腐敗の解消および政治活動に必要な財政基盤の強化を目ざすために』公的助成(税金の投入)が必要であると1990年(平成2)年に答申、これに基づいて制定された」(4)、ということであった。

 1994年の制度の導入時、細川内閣は「将来的に企業団体献金を禁止する」、「五年後に交付金総額を見直す」と、国民に約束をした。(6)
 この頃以降の政治資金規正法の改正の流れは、(2)によると以下の如くである。

----------(引用開始)-----------
1994年、リクルート事件を契機に行われたいわゆる政治改革四法のなかで、選挙制度改革・政党助成制度の導入と軌を一にして改正。企業・団体からの寄附の対象を政党(政党支部を含む)、政治資金団体、新設された資金管理団体に限定。
1999年、資金管理団体に対する企業・団体からの寄附が禁止された。
2005年、日歯連闇献金事件を機に、政治資金団体に関する寄附の出入りについては原則銀行や郵便振込み等で行うことが義務づけられた。また、政党及び政治資金団体以外の政治団体間の寄附の上限(年間5000万円まで)が設けられた(それまでは無制限)。
2007年、事務所費問題を受け、資金管理団体による不動産取得の禁止や資金管理団体の収支報告義務の強化を内容とした改正が行われた。
2008年、国会議員関係政治団体に関して、1円以上の領収書公開や第三者による監査義務付けを柱とした改正法施行(2009年分の収支報告書から適用)。
----------(引用終わり)----------

 結局、どういうことになったか、(3)によると

----------(引用開始)-----------
 現在の日本では政治家個人への献金は原則として禁止されており、政治家に献金する場合は、政治団体(一政治家が一つだけ指定できる資金管理団体や、政治家の後援会など)を通じて献金することになる。これは個人献金のみ可能であり、企業献金は企業の意を受けた政治家によって政府の施策が歪められる原因にもなるため、一切禁止されている(≒賄賂)。
 また政党へ献金する場合は、政党(本部および支部)へ直接献金する場合と政党が指定する政治資金団体へ献金する場合の2種類の方法がある。この献金は個人献金だけでなく企業献金も可能であるが、企業が、政治家が支部長を務める政党支部に対して献金するという方法を取れば、政治家が企業献金を受け取ることが可能になることから、企業献金の抜け穴であると批判されることもある。無所属議員は政党を通じて企業献金を受け取ることが出来ず、政党助成金制度ともあいまって、政党に所属する議員と比較して資金力に格差があると言われている。
----------(引用終わり)----------

 政党支部への企業献金は禁止されていないので、実質的に企業団体献金と「政党交付金」の二重取りがなされているということになる。国民への約束にもかかわらず、政党交付金の総額の見直しもなされなかった。

 新聞「赤旗」のウェブサイトに2007年以降の「政治と金」にまつわる事件へのリンクリストがあるが、これを見るだけで、今の政界がいかに汚れた金にまみれているかがよくわかる。
http://www.jcp.or.jp/akahata/keyword/078_inc.html

 西松建設の違法献金事件では、麻生太郎前首相は「企業・団体献金は悪と考えていない」(本年3月6日の参院予算委員会)と言い、民主党の小沢一郎代表(当時)は「政党支部で受領すれば何の問題もない」と語ったという。政党助成法の本来の目的など、隠れ蓑でさえなく、ただ、楽をして金が欲しかっただけということだ。

 「だからこそ、国民の政治不信、政党不信は日々益々増大しているのであり、『焼け太り』となっている『二重取り』は国民の間に無党派層を増殖させる大きな原因の一つになっていると思われる。各政党・議員は、政治不信、政党不信の大きな原因を生み出しているのがこの『二重取り』であることを真摯に受けとめて、一刻も早く『二重取り』の解消に努め、政治不信、政党不信の原因を絶つべきである。」(6)
 結局、この政党助成法は、「健全な政党政治」を育てることと逆行する効果を発揮してきたとも言えるだろう。

 そもそも、選挙で選ばれた国会議員には、その活動を支援するため、年額約2200万円(手当てを含めた総額は約4200万円)と世界最高水準の「歳費」と秘書給与が支給されているのだ。つまり、実際には三重取りにもなっていて、これほど無駄なことはない。
 ところで(8)は、「歳費」について次のように述べている。

----------(引用開始)-----------
 「なお、国会議員への歳費も政党交付金と同じく税金ではないか、と指摘する意見があるかもしれない。しかし歳費を受けることは憲法で定められていることであり、法律とは意味合いが異なる。また歳費は議員個人が受け取るものであり、この点でも政党助成とは異なる。歳出削減のため歳費を減らせという声もあるかもしれないが、それは民主主義を理解していない愚かな意見だ。国会議員への歳費を十分に確保しなければ、富裕層(資産家)しか政治家になれなくなってしまう。」
----------(引用終わり)----------

 確かに、「歳費」の額が適正なものかどうかは別にして、これは一理ある。国民が選んだ議員の政治活動を保障するために十分な額の歳費が無所属議員にも平等に支給されているのだから、政治活動への国庫からの助成としてはこれだけで十分ではないか。

最後に

 「政党交付金」を擁護する文脈で、「国民一人あたり年間たったの250円」という言い方がなされる。しかし、ほとんどの大規模公共事業も、国民一人あたりにすると年間コーヒー1杯分にも満たない額になる。IFREEの予算など、国民一人あたりにすると10円足らずである。国家的な無数の事業のそれぞれに、一人当たり数円〜数百円の金額が配分され、総額90兆円を超える額になっているのだ。それが税金であれば、一円たりとも無駄にはできないとの想いから「事業仕分け」もなされている筈である。

 「政党交付金」の額は、政党助成法において国民一人当たり250円と定められているので、この額を変えるには国会における正式な法改正の手続きを経なければならない。時々の経済情勢などを勘案して予算委員会や省庁レベルで実際の交付金額を審議するといったことも不可能で、「事業仕分け」の対象にもできない「聖域」である。予算執行を伴う法律としてはきわめて特異と言える。

 思想的にそれぞれに偏りのある「政治結社」へ、毎年自動的に多額の国民の税金が注ぎ込まれて行くシステムを誰がつくったのか。その甘い汁を吸っている者らが結託してつくったのだ。「泥棒に金庫番をさせる」とはこの事か。

 政党助成法は、まさに、「赤信号、みんなで渡ればこわくない」を地でいく恥知らずな悪法であり、即刻廃止すべきである。

 なお、この際共産党も政党交付金をもらうべきであるという支持者の意見があるらしいが、もしそうなったら、ただでさえ<ジリ貧>の共産党もいよいよ終末へと加速することを知るべきである。

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なごなぐさん、トラックバックありがとうございます。

普天間基地移設問題の行方は、もちろん楽観はできませんが、米国に対して初めて「だだをこねた」政権として、特筆されると思います。

とらこさん、
http://sea.ap.teacup.com/mimizuku/111.html
も書かれているように、普天間問題では、一番「目が離せない」ブログです。

「nagonaguの日記」
http://d.hatena.ne.jp/nagonagu/
も併せてどうぞ。

2009/12/15(火) 午後 11:21 [ さつき ]

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さつきさん、現政権は米国とマスコミの「年内決定」「辺野古ベスト」の猛アタックを受けて、よくぞ踏ん張ったと思います。まだ正式には辺野古が消えておらず、これからも紆余曲折はありますが、鳩山首相の明言はこの段階では価千金です。
気を許し弛緩するような状況ではなにひとつありませんが、少しは緊張を解いて年を越せそうです。
1997年からの道のりを思うとうれしくて、昨晩は関係のないエントリーへのトラックバックは失礼だと思いつつも、さつきさんに伝えたくて送信させていただきました。「ありがとうございます」と言っていただいたことに、ありがとうございますです。

2009/12/16(水) 午前 9:37 [ nagonagu ]

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1.
さつきさん、私も忙しくしていたために、さつきさんのレスポンスコメントをダウンロードしただけで、書き込めない日が続いていました。

> 私の「実定法」の認識は、Wikipedia の解説によっていますが、これに
> ついてコメントをお願いできればと思います。

私は一介の会社員に過ぎないので、権威ある感想は述べられません。ただ、Wikipedia の解説は、私が12月13日付コメント3で引用した法律学小辞典の記述とも一致しており、正確であると思います。

Wikipediaの解説にもあるように、「実定法」という語の用語法にも変遷があるわけですが、現在一般に法律関係の議論でこの語が使われる場合には、解説のように、

> 人為により定立された法又は特定の社会内で実効的に行われている法
> のことをいう。人定法とも(いう)。

という意味で使われているように思います。(続く)

2009/12/18(金) 午前 4:18 [ 樹々の緑 ]

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2.
この定義は「又は」で二つの表現が併記されていますが、両者の意味が大きく異なるとは受け止められていない(だから、とくに注記もなく併記されうる)と思います。

もともとは、実定法の語は、特定の社会の特定の歴史的時期において妥当する法規範という意味で、超歴史的・普遍的存在として措定された「自然法」の対概念として用いられてきた言葉ですから、「人為により定立された法」=「人定法」の意味で使われてきたものでしょう。

では、なぜ「人定法」が「又は」という言葉で「特定の社会内で実効的に行われている法」という別の定義表現に結びつくのかというと、ここにいう「実効」性が、制定行為だとか、行為慣習だとか、判例だとかの、《法規範定立に関して》経験的に認識しうる事実に基づいて把握されているからだと思われます。(つまり、一般には、「定立された法規範が内容的に実現されているかどうか」は、考慮外に置かれています。)(続く)

2009/12/18(金) 午前 4:19 [ 樹々の緑 ]

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3.
そこでさらに、なぜ、ことさら法規範《定立行為》に関してだけこのようなこだわりを持つか(=定立された法規範の事実の世界での効力に関心を持たないのか)というと、法源論=「何を『法(規範)』として認識するか」という法学上の課題に結びついているからだと思います。定立行為が正統性あるものとして経験的に認識できるならば、定立されたものを「法」として尊重しなければならない、ということです。

そしてそこから、「実定法である」とされたものについて、「その規範内容はいかなるものか」という問題が生じ、「法の解釈」という課題が設定されます。
さらに、こうして課題設定された「法の解釈」の結果析出された法規範の内容に照らして、現実の社会における法実践・法的事実が、規範内容に適合しているのかどうかが問われる、そのように、「当為Sollen規範」の観点から「規範的存在Sein」を批判的に検討するのが、法解釈学の任務である、と習ったように記憶しています。
私は、こういう一連の考えの流れから、実定法の定義もなされるのだろうと考えていました。(続く)

2009/12/18(金) 午前 4:19 [ 樹々の緑 ]

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4.
さつきさんが批判される「憲法を、『実定法』の観点のみから解釈するというやり方」とは、おそらく、憲法が依拠する理念だとか、憲法の根底にある思想だとかの「観点」をことさらに排除して、現行法令の文言解釈にだけ拘泥する「実定法のみを法であるとする…法実証主義」的な解釈態度のことだろうと思います。

ただ、私が指摘したように、「法実証主義」にドップリと浸かっていたとしても、《比較憲法的見地に従えば、》「ニュルンベルグ裁判後に制定された日本国憲法が、同じ枢軸国戦後憲法なのに、なぜ西ドイツ憲法のように『政党』規定を持たないのか=いわゆる『戦う民主主義』採用の当否」「現代議会政において政党は、少なくともトリーぺルの四段階説における第三段階(承認及び合法化)にあり、比較法的にも、議会制民主主義における重要性を認められて、憲法又は下位法において種々の規制や補助を受けているのが通例であり、わが国でも事情は同じであることから、当然に現行法令における規制や補助が憲法上許容されうるのか」という解釈論上の問題が、(多くの憲法解釈学者が論じているように)論点として浮び上がるわけです。(続く)

2009/12/18(金) 午前 4:22 [ 樹々の緑 ]

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5.
したがって、必ずしも、法実証主義的解釈態度に対する批判が有効と言えないことは、お分りになると思います。

ただ、(私が把握したところの)さつきさんの問題意識のように、先に触れた「Sollenの見地からSeinを批判する」という法解釈学の任務にいう“Sollen”の中に、実定法ではない「自然法」も含まれるのか、ということは、一つの問題です。法実証主義に立つと、それは否定されるからです。

ここで、さつきさんの

> 「自然法」の実例について、なにかひとつお示しいただければと思い
> ます。

ということに繋がって来ます。(続く)

2009/12/18(金) 午前 4:23 [ 樹々の緑 ]

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6.
「自然法の実例」について、「自然法」をWikipedia で引いて見れば分ると思いますが、おそらく、さつきさんの想定されていることとは別の内容になろうと思います。定義として、超歴史的に妥当する普遍性ある法・人為によって改変不可能な法だとされながら、その理念自体が歴史的に変化しているからです。

それは、「法」を社会の上部構造として捉え、社会が歴史的に発展すると考えるマルクス主義的に見れば、当り前のことです。

おそらく、さつきさんが想定しているのは、近代市民革命の指導的イデオロギーとなった「自然権思想」を根拠づける「近代自然法」であろうと思います。その場合、「自然法」の内容には種々のものがありえますが、個人の尊厳だとか、人間の本質的平等だとか、国家権力の淵源は社会契約にあるだとか、はては抵抗権・革命権などの命題になるでしょう。(続く)

2009/12/18(金) 午前 4:24 [ 樹々の緑 ]

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7.
ただ、ここで考えていただきたいことは、なぜ「自然権を根拠づける自然法」を持ち出す必要があるのか、ということです。それは、(私が想定するところの)さつきさんが依拠する、近代市民革命の指導的イデオロギーとなった「自然権思想」の歴史的役割と深く関係します。

端的にいって、それは、中世的秩序=アンシャンレジームを否定するために、それがより高次な法(=自然法)に反して無効である、と主張する形で必要だったのでした。つまり、トマス・アクィナス的な「(神の)自然法」秩序を否定するために、「理性に基づく自然法」が主張されたのでした。

ここに、現行規範の体系を革命的に変更する行為の正当化根拠としての「自然法」を見ることができると思います。逆に、そのような正当化根拠を必要としない場合にどうなるのかというと、「実定化された法規範(当然ですが憲法を含みます)の解釈」として主張されることとなるだろう、と思います。(続く)

2009/12/18(金) 午前 4:24 [ 樹々の緑 ]

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8.
明治憲法下で「民本主義」「天皇機関説」が、限界を持ちつつ一定の積極的意義を持ちえたように、特定の法秩序の中で一定の政治的主張を貫徹するためには、実定法内部での解釈に依拠するか、実定法を超える何らかの法的主張に依拠するかの選択を迫られます。

「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(明治憲法第1条)という社会では、社会契約説に基づく統治機構も、社会契約の基礎をなす個人の尊厳も、したがってまた、個人の尊厳に由来する個々の基本的人権も、保障されようがありません。したがって、「このような統治システムは、自然法に反している」という主張を掲げて、革命を正当化する必要が生じたでしょう。(続く)

2009/12/18(金) 午前 4:25 [ 樹々の緑 ]

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9.
これに対して、日本国憲法体制においてはどうか。ここで想起すべきなのは、芦部信喜教授の次の指摘です。

> この国家権力の組織を定め、かつ授権する規範が憲法に不可欠なもの
> であることは言うまでもない。しかし、この組織規範・授権規範は憲
> 法の中核をなすものではない。それは、より基本的な規範、すなわち
> 自由の規範である人権規範に奉仕するものとして存在する。
> このような自由の観念は、自然権の思想に基づく。この自然権を実
> 定化した人権規定は、憲法の中核を構成する「根本規範」であり、こ
> の根本規範を支える核心的価値が人間の人格的不可侵の原則(個人の
> 尊厳の原理)である。(芦部・高橋補訂『憲法』第四版p.10)(続く)

2009/12/18(金) 午前 4:26 [ 樹々の緑 ]

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10.
このように、個人の尊厳について実定的に保障し(憲法第13条前段「すべて国民は、個人として尊重される。」)、個人の尊厳に由来する人権を包括的に保障している(憲法第13条後段「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」)現憲法体制、実際にも、明文規定がない「プライバシーの権利」などがここから導かれている事実を考慮すると、余程のことがない限り、自然法を援用する必要はない、という結論になります。

これは、厳格な法実証主義の立場に立つかどうかとは、関係がありません。

まして、さつきさんがいわれる「政党支持=思想良心の自由」は、憲法第19条によって実定的に保障されている自然権であるわけですから、現行政党交付金(助成金)制度は憲法第19条に違反している、といえばよいわけです。(続く)

2009/12/18(金) 午前 4:26 [ 樹々の緑 ]

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11.
それでは何だか「不完全燃焼」感を拭えないのだとすれば、その理由はおそらく、現実の憲法学者が、そのような主張を強力に展開していないからだろう、そしてその原因は、これらの憲法学者が「狭い意味での法解釈学=法実証主義的態度」に終始していることにあると思われるからだろう、という推測を、私はしています。

この点、上脇博之教授のように、ウェブ上では法的論理構成を明示しないで「19条違反の人権侵害だ」といっている人もおられますが、彼は、政党助成制度があるヨーロッパ諸国でも、すべて「人権侵害が公然と行われている」という主張をする気なのでしょうか(近代自然権は、普遍性を有するものとして主張されています)。というのは、どんなに合理的に助成金算定をしたとしても、「政党支持と投票結果とは異なる」と考える人の人権を侵害していることには、変りがないからです。(続く)

2009/12/18(金) 午前 4:39 [ 樹々の緑 ]

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12.
政治改革オンブズパースンの声明がいうように、あれこれの「政治的不合理性」「公約違反性」は指摘できても、政党外にいる人の人権を侵害するという意味で正面からの「違憲性」を主張するのは、かなり難しいのではないかと思います。

その点で、13日付書込みの最後に引用した佐藤幸治名誉教授の著書から、次の引用をしたいと思います。

> 政党交付金は公金補助であるから、受給要件・報告義務・公開要件な
> どが当然に求められる。それが特定の政治的立場を前提としたり、政
> 党の内部的自治領域に不当に深く入り込むことになれば、結社(政党)
> の自由を侵害することになる。また、政党であっても、受給資格をも
> つものともたないものとが生ずることは、結社(政党)の自由や平等
> の観点からいって問題はないか。さらにひるがえって、任意的存在た
> るべき政党は本来党員や賛同者によって支えられるべきものであって、
> 当然に巨額の公金補助をうけることにより、その存在基盤をかえって
> 脆弱化させる危険がないであろうか。(佐藤幸治『憲法』第三版p130)(続く)

2009/12/18(金) 午前 4:39 [ 樹々の緑 ]

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13.
この点で、若干指摘しておきたいのは、「人権侵害である」という理由付けは、たしかにインパクトがありますが、そういわない限り政党助成制度に反対できないわけではない、ということです。

例えば、「民主主義のコスト論」についていえば、政党の活動資金が「民主主義のコスト」として考えられるにしても(実際、そういう把握は可能でしょう)、そのコストを「誰が・どのように」負担するのかは、一義的に決まっているわけではありません。「任意的存在たるべき政党は本来党員や賛同者によって支えられるべきものであって、当然に巨額の公金補助をうけることにより、その存在基盤をかえって脆弱化させる危険がある」ならば、「議会制民主主義・議院内閣制にとって重要な役割を果たすがゆえに政党の存在を重視している」日本国憲法の政党に対する態度からして、自己矛盾を招来し憲法上許されない、という論理も可能だろう、と思います。(以上)

2009/12/18(金) 午前 4:40 [ 樹々の緑 ]

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1.
さつきさん、12月18日(金)付けの13項にわたる書込みコメントに、若干の補足をさせて下さい。

さつきさんが引かれた、Wikipedia 「実定法」解説の末尾では、

> なお、「実定法」という語は、条文の形を採っている法(制定法)の
> 意味と誤解されることがある。法の法典化が進んだ結果、……ある意
> 味やむを得ない部分もあるが、実際には慣習法や判例法も含む概念で
> あることに注意を要する。

という注意書きがあります。「政党概念と財政憲法」における甲斐教授の用語法は、ここでいう「制定法」の意味でさえありませんから、用語法がラフだということは言えると思います。(続く)

2009/12/21(月) 午後 11:30 [ 樹々の緑 ]

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2.
ところで、「実定法」定義に含まれている「実効」概念について、Yahoo!百科辞典「実定法」の項の解説では、次のように説明されています(「実定法」解説全文を引用します)。

> 一定の時代、一定の社会において行われている法。《「行われている」
> とは、その法規範の内容がだいたいにおいて実現していることを意味
> し、法学上では「実効性をもつ」という。》実定法は、それが行われ
> ていると否とにかかわらず、あらゆる時代の人々を拘束するものとさ
> れる神法や自然法と対立する。実定法は成文法と不文法とに分けられ
> るが、実効性、可変性、人為性などがその特色となっている。実定法
> だけを法とするのが法実証主義である。
> [ 執筆者:長尾龍一 ](続く)

この引用中で私が施した強調部分では、「行われている」の語に、定立行為の正統性だけでなく、規範内容の実効性まで含ませています。(続く)

2009/12/21(月) 午後 11:31 [ 樹々の緑 ]

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3.
しかし、「実定法」の定義において、「内容がだいたいにおいて実現している」というような評価的な説明は、あまり聞きません。そもそも用語の定義において、「だいたいにおいて」と留保を付すようなことも、表現としては、極めて異例です。

一般には、Wikipedia の定義における「実効的に行われている」とは、《法社会学的に見た》当該「特定の社会」内における「法規範としての実効性」をいっているの《ではない》と思います。

長尾教授の議論に法社会学的な見地が入り込んできたのは、おそらく、教授の法哲学上の立場と関係があるように思われますが、私にはよく分りません。(続く)
もし長尾教授のような説明を額面通りに受け取ると、(立場によっては)日本国憲法第9条は実定法ではない、などという議論まで出て来かねません。また、「憲法典全体は実定法であるが、憲法の個々の条規(例:第9条)は実定法とは言えない」と分けてするような議論も聞きません。(続く)

2009/12/21(月) 午後 11:32 [ 樹々の緑 ]

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4.
仮に、「現実に妥当しているか」という見地から「実効性」を評価すると、3で示した憲法第9条の例で(立場によっては)と書いたように、要するに、政府見解で第9条を解釈すれば「実効性」は確保されているのですが、違憲説の立場で解釈すると、この60年近くに及ぶ実態から見て、国家権力を名宛人とする憲法の性格上、第9条の規範的「実効性」は失われている、ということになりかねません。これには、強い違和感を覚えるのです。

よく考えてみると、そのように違憲説の立場から見て「ないがしろにされている実効性が薄い法」であっても、あからさまな海外派兵や集団的自衛権行使の障害となったり、「防衛」目的とは言えない長距離弾道ミサイル装備の禁止など、最少限の規範力=規範的実効性を、現状でも持っているわけです。(続く)

2009/12/21(月) 午後 11:33 [ 樹々の緑 ]

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5.
そこで長尾説では、「だいたいにおいて」などという曖昧な限定詞が付いてくるのではないかと推測されるのですが(但し、長尾教授が自衛隊違憲説かどうかは知りません)、こういう立ち入った・程度問題に関わる議論を、「『実定法』か否か」というような、より基本的な概念定義の土俵ですることが適当だとも思えません。

また仮に、「日本国憲法全体は、だいたいにおいて内容的に実現しているから、たとえその一部である第9条の実効性がなくても、実定法である」という論理に立つのであれば、「どこからが『だいたいにおいて』に相当するのか」という議論にもなりかねません。しかし一般に、そうした評価的な議論は、「実定法解釈の相違」の中で説明されているのです。(以上)

2009/12/21(月) 午後 11:33 [ 樹々の緑 ]

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