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養老孟司氏は、「むずかしい内容は同じむずかしさの程度をもって、表現されるべきである」として、次のような意味のことを言った。つまり、やさしく語れる問題というのは、所詮、最初からやさしい問題にすぎなかったということ。世の中には必ずむずかしい問題があって、ほんとうにむずかしい問題はむずかしくしか語れない。それをやさしく伝えてしまったら、やさしい別の問題にすり替えられてしまう。
このたびの東電原発事故にかかわるいろいろな問題に、この社会がちゃんと対応できていないという現実に直面しているのだが、問題の質が急にむずかしくなった筈はないので、かつては、どの問題もそれほどむずかしくはないと錯覚されていた、ということなのだろう。結局、むずかしい問題をやさしい別の問題にすり替えて分かった気になっていたということではないか。現実とは、まことに正直である。
もちろん、この文明そのものをこの先どうコントロールして行くべきかといった、ほんとうにむずかしい問題こそ重要なのだろう。そういう問題になると、いよいよ、私たちの社会はまともに対応できそうにない。
なにしろ、それ以前の問題に、現にうまく対応できていない。そのことは、専門家達の言うことがバラバラで、原発事故の拡大を防ぐ初動も、その後の復旧も、放射能汚染への対応も、なにもかもうまくいかなかったことから明らかだ。
当然、技術や科学を超える問題へと波及している。マスコミに登場して「100 mSv以下なら安全」と、繰り返し「安全」を強調していた被曝医療の専門家が、実は、過去の学会講演において、10 mSvの被曝でも発がんのリスクは無視できない、日本の医療被曝は世界の中で突出して高く、問題があるなどと力説していたことが暴露されたりしている。
善意に解釈すれば、住民を不安におとしいれないようにとの配慮があったのだろう。しかし、そうした二枚舌はじきにバレるもので、そのとき、不安は一気に肥大化する。このケースでは、価値論的判断から科学の成果がねじ曲げられたということになるが、結局、その医師にとっては問題がむずかし過ぎたのだろう。
避難に伴うストレスの方が放射線の健康リスクより高いことも予想されるが、私自身は、そうしたことは、基本的には被災者自身の判断にゆだねるのがスジで、そのためには、正確な情報を、迅速に、隠すことなく提供する以外にないと考えている。
放射化学や放射線防護にかかわる単位が多すぎて分かりにくいという声もよく耳にする。Bq, Bq/kg, Bq/m2, Gr, Sv, mSv/yer (uSv/h) などは、全てそれぞれが固有に表現する明確な意味を持っていて、これらを、なにか一つの分かり易い単位に統一することなどできない。目的に応じて正しく使い分けなければならないのであるが、一方で、被曝線量を表す基本単位であるSvは、「等価線量」、「実効線量」、「貯託実効線量」という、それぞれに異なる意味を持つ量に共通に使用されていて、混乱を招いている。
大気から降り注いで地表に蓄積された放射性物質(フォールアウト)の濃度について、例えば、一ヶ月間の単位面積当たりの積算量はBq/m2で表現されるが、グラフにする時などはBq/m2・monthと記すべきである。それをBq/m2のまま掲げてしまうと、ある時点での実測値なのか、一日あたり、あるいは一ヶ月あたりの積算値なのかが、グラフを見ただけでは分からなくなってしまい、誤った議論を誘発する(注1)。
再臨界を防ぐために、原子炉へホウ素が注入されたが、再臨界はおこったのかおこらなかったのか、今後おこる可能性はあるのかないのかをめぐっても、意見が対立した。この分野の学問にとって「臨界」という現象は、もっとも中心的な問題である。そこに専門家が口をそろえて断言するような定説がないということは、この学問領域が正しく構成されていないことを意味する。
天然原子炉についての院生の学会発表を聞いたことがあるが、「臨界」について、核分裂と同時に放出される中性子(即発中性子)が、次々と連鎖反応を起こすといった、高校生レベルの素朴な理解を原子炉のアナロジーとしていることに驚いた。そのモデルが本当なら原子炉の出力制御は不可能だと気づかなければならない(注2)。
かく言う私も、高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体)の輸送容器(キャスク)に、なぜ中性子遮蔽材があるのか、理解できずにいる。
4月30日のエントリーに書いたように、放射能で汚染された食品や飲料水の流通を規制するための暫定基準値の導出過程についても、これを正しく理解している専門家は少ないようだ。実際に今も誤った運用がなされている。
もともと、特定の核種の汚染量は半減期に従って次第に減少していくことを前提として年間の被曝線量(mSv/年)を積算した時に、安全の目安となる被曝線量を与える単位質量当たりの放射能(Bq/kg)の、その初期値をもって規制値とされているのだから、現在値で規制する場合は、壊変定数に同期した時間の関数として、その時々に引き下げられた基準値を再設定しなければならない。と、こう書いても、どれくらいの人が理解してくれるか、心許ない。
核燃料サイクルの中心的な施設である六ヶ所村の再処理工場はいつまで経っても完成せず、実質的には頓挫したままであるという。高速増殖炉の原型炉もんじゅもしかり。要するに、当初考えられたよりずっとむずかしかったのだ。結果、毎年1000トンもの使用済み燃料が溜まり続け、そのツケを次世代へ押しつけようとしている。そうした事業に何兆円もの金を注ぎ込んできた訳だが、かくも異様な社会がかつてあっただろうか。
このような混乱の例は、あげればキリがない。要するに、何もかもがうまくいっていないのである。専門家の右往左往ぶりを見るにつけ、また、私たち自身の戸惑いや不安や意見の食い違いを思うと、原子力発電とそこから派生するいろいろな問題のむずかしさは、この社会が許容できる限度を遙かに超えているということに気づく。
それならば何故、私たちの社会は原発を抱え込んでしまったのだろう。
過誤というものは、一般に、本当はむずかしい問題を別の簡単な問題に置き換えてしまうことからおこる。
大きなリスクを伴う問題で本当にむずかしいと最初からわかっていれば、人は容易には手を出さないものだ。最初はおそらく、いろいろと面倒なことは全て簡単な問題に置き換え、分かった気になって出発したのだろう。そのうち、実はむずかしい問題だと気がついた人は皆手を引いてしまった。残った人々は、置き換えられたやさしい問題として、世の中に広め、分かりやすさ故に社会もそれを受け入れてきた、ということではないか。
いまだに、安全な原発は可能との幻想に取り憑かれている人たちがいる。原子炉の耐震設計と電源のバックアップ態勢と津波対策を強化し、使用済み燃料プールの設置場所を再考したら万全という訳だ。これだけでも本気でやろうと思うなら、一から全体を作り直さなければならない訳で、そんなことをしたら採算はとれないし、何年も稼働できなくなる筈だが、そういう話ではないらしい。つまり、相変わらず、簡単な問題として切り抜けようとしているのだ。
圧力容器や格納容器の水素脆性の問題も、送電システムの耐震性も、テロ対策も、使用済み燃料の再処理も、放射性廃棄物の最終処分もと考えると、現実の問題はどんどんむずかしくなってくる。繰り返すが、原子力発電をシステム全体として見れば、その難しさはこの社会が許容できる限度を遙かに超えている。
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注1)リンク先の論考では当初、気象研究所地球化学研究部が公表した東京・筑波での大気圏内核実験にともなうグローバルフォールアウトの経年変化を示すグラフの縦軸の汚染量が1ヶ月の積算量であることに気づかずに、福島での1日のフォールアウトと比較して、安全だと主張された。しかし、コメント欄でその間違いが指摘され、やがて、安全ではないと主張が変えられた。このような間違いは、場合によっては取り返しのつかない健康被害を生じかねない。
注2)ATOMICAに詳しい解説がある。ただし、このページには誤字・脱字や不正確な表現が多い。例えば87Kは87Krの誤りで、表2のβ=(ν/νd)は、β=(νd/ν)の誤り。また、「実際にはあたかも中性子が87Br の半減期である55秒の時間遅れを持って生じたように見える。」とあるが、半減期は確率的に半分になる期間であり、全てが55秒の時間遅れで生じる訳ではないので、表現が稚拙。要するに、このようなページは、「ちゃんとやっています」というポーズを取るだけのために掲げられているのであって、これで勉強しようと思わない方が良い。
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