さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

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交通事故で毎年何千人もの人が死んでいるのに車をなくせとは言わないで原発はあぶないからなくせというのはおかしいとの主張がある。
 
このような議論は、商業炉が稼働を始めた70年代からあった。当時は毎年1万5千人以上が交通事故で亡くなっていて、「交通戦争」という言葉も現実味を帯びていたし、原子力関連の事故で一般人に死者が出るということもなかったので、原発を擁護する文脈での、このような議論も幅をきかせていた。今も毎年5千人ほどが交通事故で亡くなっているので、同種の議論は絶えない。
 
もちろん、脱原発は、単に危険だからという理由だけによるものではないし、また、「この比較はまったくのナンセンスである。科学的には、技術も機械の仕組みも、また使用目的も全然ちがうものを比べて、どちらがどうのというのは、全然意味をもたない」(武谷三男著『科学大予言』、光文社・カッパブックス、1983)といった反批判で十分な筈でもある(注1)。
 
しかし、そこには、リスクの質や技術選択の主体といった事柄への無理解もあるように思われるので、ここではこの点について整理しておく。
 
さて、ある技術を運用する当事者にとって、事故は必ず想定外のこととしておこる。想定されておこったら事故ではなく事件である。人は神ではないので、想定外のことは必ずおこる。「事故は想定外であった」とは当たり前のことで、事故の本質について何も考えてこなかった者の言いぐさである。
 
事故に伴うリスクを最小にする予防的な工夫も想定外のことには通用しない。そこで、一般にはリスクの分散という発想が重要視される。1件の事故の想定不能なリスクを低減させる最も良い工夫は技術や生産の単位を小さなものにとどめおくことである。しかし、社会がかかえるリスク全体としてみればそう簡単な話ではない。
 
もし、単純に「1件の事故による被害のサイズ × 事故の発生確率」をリスクと定義するなら、巨大な被害サイズが想定される場合であっても、その発生確率を限りなく小さく押さえれば良いという発想が生まれる。これが、これまで原発を初めとした巨大技術を推進してきた側の論理である。この論理に押されて技術の際限のない巨大化が許容されてきた。大型化するほどコストが低減されるからである。
 
そこには、「大きな発生確率の小さな被害」と「小さな発生確率の大きな被害」との間にある、リスクの質的な違いへの無理解がある。前者は車の事故、後者は原発の事故に比較できよう。
 
たびたびおこる小規模な事故が社会全体におよぼす影響は、そのつど修復可能である。しかし、めったに起こらない大事故では、その規模がある「しきい値」を超えると、社会の基盤構造そのものがダメージを受け、いろいろな波及効果により、修復不可能なくらいに拡大・増殖し、結果、一つの社会や国家が破綻をきたすといったことがおこり得る。
 
我々が、巨大技術に対して抱く漠然とした不安は、人が社会的な生き物として進化してきたことから、そうした人類社会全体に破局をもたらすリスクを嗅ぎ取る生得的な能力が発揮されて生起するのかもしれない。1万人乗りの航空機ができたらどうか。漠然とした不安であっても、善く善く考えてみるとばかにはできないことがわかる。
 
この度の「原発震災」が、この先日本にどのような影響を及ぼすのか私にはわからないが、同規模の原発事故が遠くない将来に再びおこれば、間違いなく日本は破綻するだろう。しかも、次の原発事故は世界のどこでおこるかと問えば、世界の大地震の10% 以上が集中する日本において再びおこる確率が一番高いと答えざるを得ないのである。このような、国家破綻の「しきい値」を超えるようなリスクを背負い込むべきではない。
 
車社会のリスクを許容することと、原発事故のリスクを許容することの間には、もう一つ決定的な違いがある。リスクに備えての保険料を誰が払うか考えれば明らかだ。
 
車の場合は、車を利用することを選択した個人が自賠責や民間の任意保険に加入し、保険料を支払う。一方、原発の場合に原子力損害賠償責任保険の保険料は原子力事業者が支払う。しかも、民間保険会社では対応できない大事故に備えて、原子力事業者と政府との間の補償契約により行われる政府補償も準備されている。
 
つまり、いろいろな交通手段の中から車の利用を選択するのは個人の責任で行われるが、いろいろな発電手段の中から原発を選択するのは地域独占の電力会社や国家である。
 
「原発反対と言いながら原発で発電された電気を使うのはけしからん」などと言う人がいる。もし電力会社がそのようなことを言おうものなら、我が家に引き込んだ電線に原発で発電した電気を勝手に混ぜるなと言いたい。原発で発電した電力を押し売りしているのは電力会社であり、日本国国民には、発電手段を選択する道は実質的に閉ざされている。
 
車を選択することと原発を選択することを比較することがいかに愚かなことであるか、良く考えてほしいものである。
 
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注1)同書において武谷氏は、「確率論に支えられた安全神話の正体」として、次のように書いている
「たとえば、ここに何か新しい薬が大量に売られることになったとする。しかし、何億錠も生産したその薬の中に、どういうわけか1錠だけ毒薬が混じってしまった(アメリカでは意図的に毒物が混入され、多くの死者を出した事件があった)。
これを確率でいうなら、その1錠の毒薬に当たって死ぬのは、何億分の1である。しかし、この事態に対して、それは何億分の1なのだから売ってもいい、と言えるであろうか。何億分の1の確率でだれかがかならず死ぬのである。」

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閉じる コメント(6)

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車社会の是非と原発の是非を同列に議論する愚 と決めつける愚

特に、
・・社会全体におよぼす影響は、そのつど修復可能である・・

交通事故の死は個人と広く関係者にとっては修復可能ではありません。加害者、被害者、家族、関係者の将来にわたって不幸な代々の系譜にさえ影響を与えています。それらの影響を受けている人口の多さは福島原発事故の比ではないと思います。

車の事故は非関係者にとっては全く無関係です。原発と言う電力が文明の一翼、経済の一翼だったことは明白でその恩恵によって現在の全ての日本人が裕福な福祉社会を享受している事を見失うことは出来ません。

原発の事故の確率、事故の大きさ、事故の影響を論ずることは現在憚れています(異状ですが)。判断就かないセシウムの害悪に対する恐怖心を持つか持たないかで感情のみの世界が爆発しています。

少なくとも320万人が死んだ太平洋戦争は人間の心が起こしたものです。太平洋戦争も修復可能でしたね。

2012/9/7(金) 午前 9:12 [ ]

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>順さん、

確かに交通事故は、個人と関係者にとっては一生つきまとう、決して修復のできない傷を残すことになるでしょう。
この点、その他の労働現場などで毎日のようにおこっている人身事故と全く同じです。交通事故をその他の事故と区別すべき理由は何もありません。

歴史的に、それらの事故の影響を受けてきた人口の多さは福島原発事故の比ではないと、私も思います。当然、それらの事故を減らす工夫をしなければなりませんが、建設現場で事故がおこるからと言って、建設業を禁止にすべきとならないのは言うまでもないことです。

そのように社会的に納得されてきたことから、社会全体におよぼす影響が、そのつど修復されてきたことは明らかです。

ところで原発は、発電手段の一つに過ぎません。原発にまずいところがあれば、他の手段に変えればいいだけのことです。

「太平洋戦争」は、日本が一旦は国家として滅亡の危機に瀕しただけでなく、アジアの多くの国、地域に多大な災厄をもたらしました。原発の事故も同じ規模の災厄をもたらす可能性があります。もしかしたら、人類という種の緩慢な死をもたらすものかもしれません。

2012/9/9(日) 午後 9:10 [ さつき ]

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その1
貧困、飢餓、闘争、戦争(国家間〜個人間)は人間の本質です。
裕福な未来の人間世界になっても、無くなる事は無いでしょう、恐らく。

「それらの事故を減らす工夫をしなければなりませんが、建設現場で事故がおこるからと言って、建設業を禁止にすべきとならないのは言うまでもないことです。」
これは原発その物、エネルギーの選択、にも言えることではないでしょうか。

歴史的に「文明の道具」に関して人間は幾多の困難を超えて解決して来ました。旅客機も化学製品も医薬品も、その他科学の道具の全ては多大な犠牲者の上に現在の人間社会と文明先進国人の恩恵が有ります。
道具として原発が人間に不可欠のものか、無くても我慢できるものかは、今は判断できない課題です。今流行の「選択の問題」です。不要、解決できない物と断定は出来ないと思いますが。
人間はもっと残酷で永遠に治る事のない「心」という怪物さえ飼っているのですから。

2012/9/9(日) 午後 10:13 [ ]

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その2

太平洋戦争も一つの選択でした。解決できない閉塞を戦争と言う手段のハードランディングを選んだのです。も少し上手にやれと言う意見もあるでしょうけど。

では、あの閉塞はソフトランディングできたのでしょうか、内戦と言う手につかない殺戮で国内で後腐れなく解決できたのでしょうか、疑問です。

戦争も原発も「人類という種の緩慢な死をもたらすものかもしれません」という考え方はしません。病気の治療であって人類の死を齎すものではありません。荒療治とか危険な道具ほど便利で後遺症が無いと言えるのではないでしょうか。

人間は地球の歴史のあらゆる自然に適応できたものが生き残ってきました。隕石の衝突も有るでしょう、大気温度の上昇も、co2も紫外線暴露も、放射能への適応も、科学で人間のアンドロイド化も有りです。その途中の「選択の問題」で、今の人間の価値観で自然回帰などとは論外です。

2012/9/9(日) 午後 10:15 [ ]

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>「それらの事故を減らす工夫をしなければなりませんが、建設現場で事故がおこるからと言って、建設業を禁止にすべきとならないのは言うまでもないことです。」
これは原発その物、エネルギーの選択、にも言えることではないでしょうか。

この部分の論理構造を理解されていないようです。
繰り返しますが、原発は発電手段の一つにすぎません。我々が必要としてるのは電力であって、原発ではありません。原発に固執しなければならない理由は何もありません。

なお、このエントリーの趣旨は、タイトルにあるとおりです。原発の是非につきましては、以下のエントリーなどお読みいただき、そちらにコメント下さい。

2011/5/14「原子力発電という幻想」
2011/7/24「原子力発電の原罪」

それから、「人類という種の緩慢な死」とは、放射線によって人類という種の遺伝子が傷つけられることを指しています。ICRP内の防護指針をめぐる論争で使われた言葉です。

>その途中の「選択の問題」で、今の人間の価値観で自然回帰などとは論外です。

これは、順さんの価値論ですね。はあ、そうですか、

2012/9/9(日) 午後 10:49 [ さつき ]

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文字数制限のために、↑の最後が切れてしまいました。

これは、順さんの価値論ですね。はあ、そうですか、としか言いようがありませんが、価値論を披露し合う前に、事実認識のすりあわせが必要かと思います。

2012/9/9(日) 午後 10:53 [ さつき ]


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