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上記は、和田誠氏が「反原発ポスター展実行委員会」の求めに応じて出品したポスターにふれてのあるツイートに対する静岡大学理学部坂本健吉教授の批判的感想と、それへの反応をまとめたものである。
和田ポスターの元画像はこちら。
坂本教授:
いろいろな反応があるが、多くは和田ポスターに批判的だ。
一方、
は、坂本健吉氏への批判として的を射ていると思う。これに対して、少し騒ぎが大きくなったと慌てたのか、坂本氏は10連投のTWで「弁明」しているが、発端となった発言は、基本的には撤回されていない。
本題に入る前に、和田ポスターを一見しての私の印象を書いておくと、子を持つ母親という存在へのステレオタイプな表現に、少しがっかりした。かつて誰かが「熊が襲ってきた時、日本の子連れの母親は子供を抱きしめ、熊に背中を向けてしゃがみ込むが、欧米の母親は逆に(子供を背中に隠して)熊に正面を向いて対峙する」と語ったことがあるが、こうした日本の母親像は巷ににあふれている。ステレオタイプな認識というものは、個人の狭い経験に由来する素朴な観念が社会的に肥大化して醸成されるのだろう。しかし、それ以外のことで和田ポスターを批判しようとは思わない。
上記まとめのコメント欄を読めば、人それぞれに、狭い経験を根拠にいろいろな感想が書かれているように思える。もちろん、個人が経験できることは限られているので、誰でも認識の偏りから完全に自由ではあり得ないのだが。
さて、タイトルに書いた「「原発については科学的に議論すべき」は、正しいか」という問いであるが、これは、最近の大江健三郎氏の、原発の問題は倫理的に判断しなければならないという趣旨の発言を想起してのものである。
私がこのブログを通して度々主張してきたことは、科学が社会と切り結ぶ現場においては、「理念としての科学」と、「現実に生かされている科学」を区別して議論すべきであり、場合によっては、科学の理想的な追求を断念して倫理的な判断を優先しなければならないことがあるというものであった。
科学の現場のことで、そのうち触れようと思いつつまだ書いていない重要な問題に、科学者個人が何を研究テーマとするかの判断は、科学によってではなく価値論によってなされるという現実がある。おそらく誰も異論のないことであろう。この社会で生かされている具体的な科学の営みは、その時々の価値論に縛られている訳である。
「原発については科学的に議論すべき」というのは、個人の判断であるが、実は、この言説そのものが一つの倫理的な判断であるということも見逃してはならない。そしてまた、倫理的な判断を下そうとする際には、科学の成果を根拠として採用した方が良い場合が、往々にしてあるということも言えるだろう。「科学」と「倫理」はそのような関係にあり、決して対立する概念ではない。
したがってもし、「原発の問題に価値論を持ち込んではならない」と主張するのであれば、私には全く同意できない。もちろん「理念としての科学」は、何ものによっても束縛されない「人間的自然」の存在であるし、制御しようもないものであるが、科学の成果を現実社会に活かそうとする行為(技術)は、倫理によって制御しなければならない筈だ。
以上のようなことを思ったのは、最近、かつてお世話になった石川憲彦さんの『治療という幻想』を読み返していたからである。石川さんがこれまで主張してきたことは、ひとことで言うなら、「倫理」の上に「科学」を置く風潮への警鐘であったろう。なかなかまとまった時間がとれないが、もう少し手許にあるいくつかの著書を読み返した上で、いくらか誤解も広まっている石川さんの考えを、自分なりにまとめてみたいと思う。
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