さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

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原民喜のこと

 8月6日、1945年のこの日にいたる、そしてこの日に引き続くできごとにふれ、人類世界が「核時代」というものに変質してしまっていたことを悟って項垂れた人々も少なくはなかったであろう。とりわけ感受性に優れた文学者達は、このことに関わる<事実>や、心象世界をどのように記録したであろうか。

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1981年、大江健三郎氏は『核の大火と「人間」の声』の中で次のように書いている。(注1)

「私がこのところしばしば考えますことは、われわれ日本人にとってかけがえのない、代わりになることがもう誰でもできぬような、独特な優れた人たちが死んでしまったということです。あの人は死んだ、あの人たちは死んでしまったと感じることが、とくにこの五年ほど私には強いのです。そういう人たちについては、自分たちの世代はそれに置き換わることができない。端的に、自分はあの人の代わりになることができない。しかし後につづく若い人たち、とくに学問をやっている若い人たちのうちには、あの人たちの代わりになってくれる人たちがいるのではないか。かれらはあの人たちの代わりにならなければならないだろう。そうしなければ日本人の文化は、もっとも高く、もっとも深いところで伝承していかないだろうと思うのです。私は戦争直後の、貧しい状況に育ち、客観的にいって、あまり学問的な準備期間を持てなかった人間として、そういう死んでしまった大きい人たちと、若い人たちとのつなぐ役割をしたいと思います。直接、間接に、私はそれらの大きい死者たちを知っていますから。
 原爆を受けて、その直後から広島で作家としての活動を始め、そして苦しい五年がたって、朝鮮戦争で、あらためて核兵器が使われるかもしれぬ、その可能性が具体化しそうになったとき自死してしまった原民喜が、たとえばそのひとりです。」

 広島の原爆ドームの傍らに、ひっそりと原民喜の碑が佇んでいる。そこには彼の詩の一節が刻まれている。

    「遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻」

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 大江氏の記述にもかかわらず、原民喜は実際には戦前から作家としての活動を始めていたのであるが、広島や長崎で直に被爆した体験を持つ作家は希であろう。そのことにもまして、彼の「かけがえのなさ」は、その文学者としての優れた資質にあるというのが大江氏の評である。

 代表作とされる『夏の花』は、8月6日と、その翌日までの体験を元に書かれた短編である。

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「夜明前から念仏の声がしきりにしてゐた。ここでは誰かが、絶えず死んで行くらしかつた。朝の日が高くなつた頃、女子商業の生徒も、二人とも息をひきとつた。溝にうつ伏せになつている死骸を調べ了へた巡査が、モンペ姿の婦人の方へ近づいて来た。これも姿勢を崩して今はこときれてゐるらしかつた。巡査がハンドバツクを披いてみると、通帳や公債が出て来た。旅装のまま、遭難した婦人であることが判つた。
 昼頃になると、空襲警報が出て、爆音もきこえる。あたりの悲惨醜怪さにも大分馴らされてゐるものの、疲労と空腹はだんだん激しくなつて行つた。次兄の家の長男と末の息子は、二人とも市内の学校へ行つてゐたので、まだ、どうなつてゐるかわからないのであつた。人はつぎつぎに死んで行き、死骸はそのまま放つてある。救ひのない気持で、人はそわそわ歩いてゐる。それなのに、練兵場の方では、いま自棄に嚠喨として喇叭が吹奏されてゐた。
 火傷した姪たちはひどく泣喚くし、女中は頻りに水をくれと訴へる。いい加減、みんなほとほと弱つてゐるところへ、長兄が戻つて来た。彼は昨日は嫂の疎開先である廿日市町の方へ寄り、今日は八幡村の方へ交渉して荷馬車を傭つて来たのである。そこでその馬車に乗つて私達はここを引上げることになつた。
 馬車は次兄の一家族と私と妹を乗せて、東照宮下から饒津へ出た。馬車が白島から泉邸入口の方へ来掛かつた時のことである。西練兵場寄りの空地に、見憶えのある、黄色の、半ずぼんの死体を、次兄はちらりと見つけた。そして彼は馬車を降りて行つた。嫂も私もつづいて馬車を離れ、そこへ集つた。見憶えのあるずぼんに、まぎれもないバンドを締めてゐる。死体は甥の文彦であつた。上着は無く、胸のあたりに拳大の腫れものがあり、そこから液体が流れてゐる。真黒くなつた顔に、白い歯が微かに見え、投出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪が喰込んでゐた。その側に中学生の屍体が一つ、それから又離れたところに、若い女の死体が一つ、いづれも、ある姿勢のまま硬直してゐた。次兄は文彦の爪を剥ぎ、バンドを形見にとり、名札をつけて、そこを立去つた。涙も乾きはてた遭遇であつた。」

 大江氏も書くように、朝鮮戦争が始まった翌1951年3月13日、国鉄中央線の吉祥寺駅 - 西荻窪駅間で鉄道自殺する。遺稿は『心願の国』から抜粋。

 ふと僕はねむれない寝床で、地球を想像する。夜の冷たさはぞくぞくと僕の寝床に侵入してくる。僕の身躰、僕の存在、僕の核心、どうして僕はこんなに冷えきつているのか。僕は僕を生存させてゐる地球に呼びかけてみる。すると地球の姿がぼんやりと僕のなかに浮かぶ。哀れな地球、冷えきつた大地よ。だが、それは僕のまだ知らない何億万年後の地球らしい。僕の眼の前には再び仄暗い一塊りの別の地球が浮んでくる。その円球の内側の中核には真赤な火の塊りがとろとろと渦巻いてゐる。あの鎔鉱炉のなかには何が存在するのだらうか。まだ発見されない物質、まだ発想されたことのない神秘、そんなものが混つてゐるのかもしれない。そして、それらが一斉に地表に噴きだすとき、この世は一たいどうなるのだらうか。人々はみな地下の宝庫を夢みてゐるのだらう、破滅か、救済か、何とも知れない未来にむかつて……。

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注1)『核の大火と「人間」の声』(岩波書店、1982:『図書』1981年7月号初出)
 ここで大江は、死んでしまった<大きな作家>として、原民喜の他に、中野重治、武田泰淳、高橋和巳をあげている。
 
原 民喜(はら たみき、1905年(明治38年)11月15日 - 1951年(昭和26年)3月13日)、俳号は杞憂。


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