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動物行動学のエドモンド・モリスは、ヒトは自分で自分を動物園にとじこめ飼育している奇妙な動物であると指摘した。モリスの「科学」には幾分怪しげなところもあるが、この奇妙な動物が、自らは望まぬ窮屈な社会の出現を、他ならぬ自分自身の手で後押ししている例は枚挙にいとまがない。
身近なところでは私の住む地域の自治会に奇妙な決まり事が沢山ある。世帯構成は高齢化著しいのに、炎天下に地域清掃行事が敢行され、不自由な体をおして老人達がぞろぞろと歩きながら空き缶などを拾い集める。どんな理由であれ、これに参加しないと一世帯あたり1000円を拠出しなければならない。これは年中行事のひとつとして毎年の自治会総会の場でその実施が決定されている。ところが自治会役員を含む4、5人に訊いてみたところ、皆がこのボランティア行事の継続をほんとうには望んでいないふうなのだ。これに異を唱えるなら、きっと周りから白い目で見られるだろうとの消極的な考えから賛成したが、案の定満場一致だ。自治会役員としては、これを中止したら長年続けられてきた立派なこころざしの慈善事業の火を絶やした代として記録されることになるので、毎年、行事案に組み入れてしまう。こうして、多数の人々が望んでいないことが物理的に不可能になるまで続けられることになる。
こんなことを考えているうちに、常野雄次郎さんの『催涙レシピ』にある、ちょっと古い次の記事を思い出した。
そこにスラヴォイ・ジジェクによる小咄が引用されている。
(注1)
落語をやっている知人に話したら、このオチは、粗忽噺に多い「間抜けオチ」という最上級のオチに分類されるものらしい。最上級との評価は、単なる間抜け話に終わらないからなのだろう。この男は私たち自身でもあるのだ。
「原発を輸出しよう。日本が輸出しなくてもどうせ他の国が輸出する」という発想もまた同じだ。
原発推進論者はもっとストレートで、こうした後ろ向きの発想は、たいがい、「将来の脱原発」を漠然と望む者がいだくものなのである。その行き着く先が、多国籍化した原子力産業の利権を肥大化させ、行き場のない核廃棄物をますます増大させ、ウナギの絶滅と同じく抜き差しならぬ状況へこの世界を導くものであることは誰にもわかる筈のことであろうに、こうして一見常識的な人々が自らの首を絞める道を選択することになる。
トルコにしろインドにしろ、政府レベルでは原発を輸入したがっているとしても、そうした国にも必ず原発に反対する運動がある。インドの立地予定地周辺での反対運動のように、中には深刻な例もある。そのような運動との連帯を通して、世界中から原発をなくす道を模索しようと考えず、脱原発を望みながらもどうせどこかの国が輸出するのだから日本が輸出した方が良いとするのは、結局、そのどこかの国の不正義を盾に、自らの不正義を合理化する発想である。常野さんの言う「不正義のアウトソーシング」とは、そのような発想を表現したものであろう。
今すぐ原発をなくしてしまえば困る人が居るからなくす訳にはいかないという主張も、困るであろう他の誰かのせいにして終わるという点では、同じ構造を持っている。困る人が居るなら困らない人がサポートするのが人間らしい社会だと思うのだが、原発の稼働が続けばやがて困らない人まで困ってしまうことになる。そうなったらもう破滅しかない。
世界中の反原発の運動と連帯しようとせず、原発がなくなっても困る人が出ないような方策を考えようともせずに、ついには自らの首をしめてしまうような道を選択してしまう、そうした発想はどこから出てくるのか。その根底には、他の国、他の人々をまるでニワトリのように理解不能で連帯不能な存在だと思ってしまう、ある種の諦めがあり、そのニワトリが自分のことを米粒のように思っているのではないかという怯えがあるだろう。
しかし、ニワトリがどう思おうと、自分は人間でありたいと願うなら、人として振る舞うことでしか救われる道がないのは自明のことではないのか。たとえそれ以外に道があったとしても、そうして生き存えた世界はもはや人の世ではない。このことはかつて、次のブログ記事にも別の視点から書かれていた。
(過ぎ去ろうとしない過去:2010年3月10日)
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注1)原文を読んだことはないが、この中の「米粒」を「穀物の種」と訳してあるものもあった。ジジェクが東欧出身であることを考えれば「米粒」は不自然だが、意訳としては「米粒」の方が良いかもしれない。
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さつきさんが、前々回の都知事選の経緯にこだわっておられるのを感じます。結局、いわゆる「反石原市民」の中にある、ある種の反共意識の克服が問題だと感じておられるのではないかと推測しています。私も、共産党系の団体から社民党系の(と思われる)団体に派遣されて活動協力をしているので、それはよく分ります。私も、「80年の社公合意をどう総括しているんだよ!」と言いたくなることがありますね。
しかし、この「互いを嫌忌する意識」は、実は共産党系の団体にも根強くあるのです。それが、「現在は統一戦線を構築する情勢ではない」などといって(渡辺治氏)、「統一戦線を構築する条件を勝ち取るためにも共産党が優位的に躍進しなければならない」という政治行動に繋がっているのだと思います。
2013/7/16(火) 午前 11:10 [ 樹々の緑 ]
前々回の都知事選について言えば、事前の候補者選定の時点ですでに、旧「明るい革新都政をつくる会」系の団体で候補者を選定する作業を行い、「旧社会党系の人たちは、勝手に明るい会を出て行ったのだから、呼びかける必要はない」という態度が貫かれました。都議会レベルでは、何といっても共産党の方が相対的多数党なので、態度が大きくても通ってしまうのです。私は、こうした姿勢を改めない限り、東京における無党派市民の支持を得ることは難しいと、常々感じています。そしてそのような態度が、反共意識を克服する上で新たな障害を生み出しているように感じています。
2013/7/16(火) 午前 11:11 [ 樹々の緑 ]
まったく仰る通りだと思います。何にしても、国会での議案提出権があるかないかは大きな違いなので、無所属の議員とも共同できるように、共産党の方で態度を改める必要があるでしょうね。
2013/7/16(火) 午後 9:37 [ さつき ]