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前回の記事ではアーレントに難癖をつけるような終わり方になり、心地悪いので、書ききれなかったことを補足しておきたい。
「ユダヤ人として攻撃されたらユダヤ人として身を守らねばならない。」アーレントは、ドイツで、そして亡命先のフランスでシオニズム運動に身を置いて活動することになる。フランスが降伏して捕らわれの身となり、偶然の隙をついてアメリカへの亡命が叶った後、フランスの同じ収容所に残されたユダヤ人達が「屠殺場」送りになったのではないかとの恐怖、負い目 、悔悟の念に苛まれる。
九死に一生を得る以上の体験をしたアーレントにとって、アイヒマンを単なる殺人犯として裁くことは耐え難いことだったに違いない。彼の罪状の本質は「人道への罪」であり、何より「人類への罪」であり、たとえ殺人に直接手を下すことがなく、上司からの命令を部下達へ忠実に伝達しただけだったとしてもその罪からは逃れられないとアーレントは考えた。既に1944年の秋頃までには着想されていたそのアイデアを明確に主張するために、アーレントは、エルサレムの検事達が無数の具体的な殺人の証拠を並べ立てようとすることにことごとく批判の矛先を向け、アイヒマンをある種の典型的な人間に仕立て上げた。
雑誌特派員によるアイヒマン裁判の傍聴記としてまとめられた筈のレポートは、具体的な出来事のいちいちにアーレント独自の視点から時系列の不明確な注釈が加えられた一片の論文と化したものになっているのである。しかし、アーレントのその行為によって重要な論点が失われてしまったのではないか、というのが前回書きたかったこと。
ところで私は、「悪の陳腐さ」と「悪の凡庸さ」の二通りの日本語表記が流通していることに長い間違和感を抱いていた。「陳腐」と「凡庸」では意味が異なるではないか。複数の辞書に当たって調べたところ、形容詞の ”banal” には「陳腐な」と「平凡な」の二つの訳語が出てくるが、アーレントが用いた名詞の “banality” には「陳腐さ」しか出てこない。映画『ハンナ・アーレント』の日本語字幕は「凡庸さ」を採用している。実際この映画は、「陳腐さ」ではなく完全に「凡庸さ」を主張したような作りになっていて、DVD付録の冊子には次の記述がある。
項目名には「陳腐さ」が括弧書きで付記されているが、内容は「凡庸さ」の説明となっている。2013年ドイツ映画賞で作品賞銀賞を受賞とあるが、当地でもこうした理解が定着しているのだろうか。ざっと見渡したところ、専門家は「陳腐さ」と表記し、巷では「凡庸さ」と表記されるのが多いように感じる。では、「陳腐さ」の説明として上記の言明は妥当であろうか。
この点に関わっては、少し前にネット界の片隅で話題になった香月 恵里さんの論文:『アイヒマンの悪における「陳腐さ」について』が、問題の所在を理解する上で良い助けとなる。ただし、私自身が個々の分析の全てに納得できたという訳ではない。関係しそうなところを節を追って拾ってみよう。
1.「命令受領者」アイヒマン
いきなり、次の記述に困惑する。
「自分は上司の命令に従っただけであり,忠誠と服従の誓いに拘束されていた,告訴の意味においては無罪だと判で押したように繰り返した」という記述と、最後の、「アイヒマンは権威に服従した役人に過ぎず,ナチという抹殺機構の中の歯車に過ぎなかったといういわゆる「歯車理論」は,アーレントも否定し,アイヒマン自身さえ口にしたことがなかったのに,・・・」との記述は、事実に関する事柄であるだけにどう考えても両立しないように思われるが、終章において開ける視界の元では、大きな問題ではない。
2.もう一つのアイヒマン像
ここでは、法廷におけるアイヒマンの仕草や証言は、「もしかしたらこれは芝居なのではないだろうかという疑問」から出発し、尋問官レスの判断と、アイヒマンの生い立ちから遡る行状を整理して次のように結論される。
これは、冒頭の疑問としてあった「芝居説」が正しいとの判断が語られていると読める。つまりアイヒマンは、どこにでもいるような小役人などではなかったという、おおかたの、そして香月さん自身の認識を示したものであろう。
3.「サッセン・インタヴュー」
この節では、アルゼンチンに逃亡していた時期のアイヒマンが、数百万単位の虐殺をなんら恥じることも後悔することもない反ユダヤ主義者そのものとして振る舞っていたこと,そして「今一度人々の注目を集める重要人物として世間に復帰したいという虚栄心と名誉欲を 持っていたこと」が語られる。
4.確信したナチか,それとも平凡な出世主義者か
前節までを振り返ると、答えはYesであろうか。しかし、冒頭において「いわゆる「歯車理論」は,アーレントも否定し」と書いておきながらのこの問いはなんだろう。そして次のように結論される。
これもまたよく分からない言明である。「アイヒマンは確かに「確信した反ユダヤ主義者」だった」との判断と「その動機は,何らかの世界観やユダヤ人への激しい憎悪に基づくもの」ではなかったという判断がどう両立し得るのか、私には理解不能である。「主義者」というものは、何らかの世界観をもってそのように認識される筈のものだ。私の前回の記事に即して言えば、ヨナスにとってアイヒマンは狂信的な反ユダヤ主義者と映っていた訳であるが、香月さんの論文においてそのことは十分には反証されていないと感じるのである。
5.「根源悪」から「悪の陳腐さ」へ
前節までは疑問点ばかりを並べ立てたが、ここでは第二の師ヤスパースとのスリリングな対話が軸となって展開され、一気に視界が開け、結論へ向かう仕掛けとなっている。
アイヒマンの所業は、「人間性のうちに根を張っている」性癖のようなものに基づく動機の上になされるカント流の「根源悪」という概念だけをもってしては、その結果の重大さに照らして理解が及ばない。20世紀になって現れた全体主義の元では、犯罪の動機とその結果がかけ離れたものになり得るのであり、結果のあまりの重大さに比べれば、その動機の方は「陳腐」と言えるほどのものに過ぎない。また、結果のあまりの大きさに比べれば、アイヒマンが、命令に忠実な小役人に過ぎなかったのか、それとも、虚栄心や名誉欲といった人間につきものの欲によって多少の逸脱をなしがちな者であったのかは、大した問題ではないということになる。ここでは、「全体主義の元では」という注釈が、最も重要な前提条件となっていることに注意しておく必要がある。この点で私は、香月さんの説明に深く納得する。
なお、邦訳書『イェルサレムのアイヒマン』の訳者大久保和郎氏による解説には、このことに関わって、「ヤスパースは死刑廃止は当然とする含意のもと、この犯罪は例外的なものだから、例外的に死刑を適用すべきだと主張している」と記されている。
全体主義の元で法に従ってなされる罪の問題を掘り起こしたアーレントの功績は確かに大きく、学ぶべきことは多い。組織化された巨大な罪を個々にたどれば,凡庸な人間の、落差の大きさに笑ってしまうほどの陳腐な動機に基づくものであることが多い。日本においても全体主義が芽生えようとしているのではないかとの危機意識にたつとき、その危機の本質は、歯車に過ぎない小役人が、あるいは善良な科学者や企業人が、重大な犯罪に手を貸し、「人道への罪」、「人類への罪」を犯してしまうことにあり、今まさに凡庸な多くの市民さえ、その罪を犯しつつあるのではないかと思われてならない。
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