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少し前に、安東量子さんの以下のようなtweetに接し、思うところあってこれを書く。
「世間知らず」との批判は、原爆開発に関与した物理学者だけでなく、外形上、授業で彼らを擁護した「日本の物理学者」にも向けられていると考えることができよう。こんなふうにツッコミを入れる学生がいることは頼もしい。しかし、これがもし、例えば「平和学」や「科学技術社会論」のような授業でのことだとしたら、「それはいくらなんでも、それはいくらなんでもご容赦ください」と言うべき雑な講義内容だ。
かつて大学の講義でこの種の話題が持ち出される時は、きまって篠原正瑛(せいえい)さんとアインシュタインとの間で交わされた往復書簡のことが言及されたと思う。哲学者であった篠原さんは、平和主義を説くアインシュタインとの間で、原爆を作るようルーズヴェルトに進言する手紙に署名したことは失敗であり悔い改めるべきだとして、1953年から54年にかけて6往復の手紙のやりとりをした(注1)。その往復書簡の内容をベースとして、ある科学技術がまさに悪用されようとする社会情勢にある時、あるいは将来人類にとてつもなく大きな災いとなる可能性がある時、科学者はその研究・開発を封印すべきであるとの主張は、研究者倫理としてひろまっていたのである。実際、私の大学院時代のY先生の最終講義の半分は、この話題に充てられた。しかし、当時のこの議論に、物理学者達はひどく世間知らずだとの認識は少しも紛れ込んでいなかったことは注意した方が良い。
篠原さんは、後に、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の委員など社会的活動もなさったので、そうした活動の場でアインシュタインとの往復書簡のことが広まったようだ。Y先生も原水禁や被団協の活動で篠原さんと付き合いがあったが、多くの人々が手紙の具体的な内容を知るようになったのは、『アインシュタイン平和書簡3』(ネーサン、ノーデン編、金子敏男訳、みすず書房、1977年2月)(注2)の刊行によるところが大きいであろう。しかし残念なことに、私のみるところこの書は、アインシュタインを美化するあまり篠原さんの問いかけを端折ってしまうなど、不当な編集が加えられている。それでもこれを読むと、それほど単純な話ではないことがわかる。篠原さんご自身で生前に往復書簡の全文を公開しなかったのは何故なのか長年疑問に感じていたが、この機会に改めて読み返してみてその理由も透けて見えるような気がしたのである。
きっかけは、雑誌『改造』の編集長であった原勝さんが、アインシュタインに向けて、原爆開発の責任を問う手紙を送り(1952年9月15日付)、すぐに返事があって、篠原さんがそれらの日独間翻訳を行なったことにある。『改造』からの最初の手紙は以下のような内容であった。
上記(4)の問に対してアインシュタインは、9月20日付、以下のように返信した。
この返信では、この後、平和達成の手段を軍備に求めることは軍拡競争を招き、必然的に人類滅亡の道へ連なるものであることを説き、最後にガンジーが引用される。
このやりとりを翻訳した篠原さんはこれに納得せず、翌53年1月5日、アインシュタインに最初の手紙を書き送った。篠原さんは、自らを「絶対的」平和主義者とするアインシュタインが、ルーズヴェルト宛の手紙をどうして書くことができたのか、「絶対的平和主義者」として止まることを願うならば、ルーズヴェルト宛の手紙を嘆かわしい失敗だと考える外ないではないかと問うた。ガンジーだったらアインシュタインのようには行動しなかったろうとも付言した。篠原さんの中心的な問題意識が当時の日本の進路にあったことは次の文面から読み取れる。
1950年に朝鮮戦争が勃発してGHQの司令のもと警察予備隊が組織され、やがて1954年の自衛隊の設置へと向かおうとする時代背景がある。篠原さんの問いかけにアインシュタインは同年2月22日に返事を送った。
篠原さんはまたも納得せず、同年6月18日付再度の手紙を書き送っているが、この部分は編者によって以下のように要約されている。
アインシュタインは直ちに(6月23日)、しかし、篠原さんの数ページの手紙の1枚の裏に書きなぐるというあえて礼を失する形で、次のように返信した。
篠原さんとアインシュタインとの手紙の交換は翌54年7月7日付のアインシュタインからの返信まで全体で6往復続いたが、この書では、最後に次のように書いて、後半を省略している。
何だかグダグダであるが、ここで関連する年表を整理しておこう。
1932年 7月 ドイツの議会選挙でナチ党が第1党となる
1932年12月 アインシュタイン、アメリカへ事実上の移住
1933年 3月23日 ドイツで全権委任法が成立してヒトラーによる独裁体制が始まる
アインシュタインの自宅がナチス突撃隊による家宅捜索を受ける
1933年 3月30日 シラード、ドイツを脱出
1935年 9月15日 ドイツでニュルンベルク法制定、ユダヤ人迫害が合法化される
1937年 7月 7日 盧溝橋事件
1938年 シラード、アメリカへ事実上の亡命
1939年 8月 2日 アインシュタイン・シラードの手紙が送られる
1939年 9月 1日 ポーランド侵攻
1941年12月 8日 真珠湾攻撃
1942年10月 マンハッタン計画スタート
1945年 4月30日 ヒトラー自殺
5月 9日 ドイツ国防軍の降伏によってヨーロッパ戦線集結
6月23日 沖縄戦終結
7月16日 トリニティ実験
8月 6日 広島に原爆投下
8月 9日 長崎に原爆投下
ナチスによるユダヤ人迫害で身の危険を覚えてアメリカに亡命したアインシュタインが、ただ研究に没頭していただけの世間知らずだった筈はない。彼は、ナチスによって自宅の家宅捜索まで受けている。ルーズベルトへ原爆開発を進言する手紙を書くようアインシュタインに依頼したシラードもユダヤ人であったが、かなり早い時期からナチスの凶暴性を見抜いてその危険性を広く説いて回り、ナチスの全権掌握直後にドイツから脱出している。オッペンハイマーがアメリカへ渡ったのは亡命という形ではなかったにせよ、彼もユダヤ人だった。アインシュタインは、マンハッタン計画に関わっていなかったとはいえ、原爆の開発を進言した手紙に署名したのである。その手紙を読めば、彼らにとって、ナチス・ドイツが先に原爆開発に着手しているという、その切迫した恐怖こそが、「科学技術が悪用される社会情勢」の核心だったことがわかる。
その上でアインシュタインは、先に原爆を開発してその威力を見せつけることで、実戦で使用しなくてもドイツの降伏を早めることが期待できると考えていたようだ。原爆開発の完了前にドイツは降伏しているので、開発完了後にそれがドイツに対して用いられる可能性は実際上あり得なかった。そこで篠原さんは、既に戦争を継続する力を失っていた日本に落とされたことはどのように正当化されるのかと問うた。これに対してアインシュタインは、「日本に対する原子爆弾の利用を、私は常に有罪だと判定しています」としつつ、それに反対する力は自分にはなかった、それはあなた(篠原さん)が、日本のアジア侵略を止められなかったのと同じだと応じた。
篠原さんは1939年にドイツへ留学し、ドイツの大学で職を得て、ドイツ降伏後は連合軍により抑留され、スイスでの病気療養を経て49年に帰国とのこと。後に「原水禁」の委員にもなる篠原さんとして、アインシュタインの反撃にどのように納得したのか、この本を読んでもよくわからない。アインシュタインは、篠原さんと往復書簡を交わした後でバートランド・ラッセルと意見を交換し、55年7月9日のラッセル・アインシュタイン宣言を準備した。アインシュタインが亡くなったのはその宣言発表の3ヶ月前の4月18日である。
さて、戦後の物理学者の中には、世界の命運は我々が握っているのであり、世間知らず故に時代に翻弄されているのはむしろ「大衆」の方であるとの倒錯した世界認識も一部には間違いなくあって、Y先生は、そのことを「物理帝国主義」の一側面として批判された。私自身、この往復書簡の全文を読んでいないので確信は持てないが、篠原さんが生前にその全文を公開しなかったのは、ある種手のつけられない「パンドラの箱」の匂いを嗅ぎ取ったからではないか。アインシュタインの威光に対する敗北主義が哲学者らしからぬ不徹底を招いたのではないかとの疑念は拭えない。
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注1)篠原さんの遺族がアインシュタインからの返事6通の寄贈先を探しているという2005年6月7日付毎日新聞の記事のコピーが次のページにある。
結果的にこの手紙は広島平和記念資料館に寄贈され、企画展などで公開されているようだ。
注2)『アインシュタイン平和書簡』の書評は大正大学の瀧本往人さんのブログ「 そのたびごとにただ一つ、世界のはじまり」で読むことができる。
アインシュタインの苦悩は続く〜平和書簡2、を読む(2012-08-30)
私は私自身を原子エネルギー解放の父だとは、考えていない――アインシュタインの無責任性(2012-08-31)
出版社はアインシュタインの平和論に何を求めたのか(2012-09-03)
アインシュタイン、原爆と科学者の責任について語る〜平和書簡3より(2012-09-04)
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