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炭坑のカナリアよろしく卒倒するとはどういうことか
社会のこと
[ 樹々の緑 ]
2013/7/16(火) 午前 10:48
そうですね。「感受性に優れた者である」ことが必須の要件になるように思いますね。科学者は(というとさつきさんに叱られるかも知れませんが)どうしても、不可解な現象らしきものに遭遇するとか「雰囲気」を感じたときに、その実体・本質・原因などを解明する方向に意識が動くようです。しかし、その「雰囲気」が人間・人間社会に持つある種の危険性をいち早く感じ取り、感性に訴える表現を通じて警鐘を鳴らすのは、芸術家の本領だろうと思います。三島は、その政治的立場から感じる危機を、最も痛切に感じたのでしょう。原にしても、朝鮮戦争の勃発が彼にとっての危機感に繋がったと思います。三島と同じ時期に、山上たつひこの「光る風」という漫画が話題に上りました。それも、三島とは180度方向が違いますが、一つの警告だったと思っています。「がきデカ・こまわり君」からは想像できないくらいシリアスでした。
炭坑のカナリアよろしく卒倒するとはどういうことか
社会のこと
[ さつき ]
2013/7/14(日) 午前 10:43
確かに、ヴォネガットが言うように「毎日何千人もの芸術家が卒倒している」として、その卒倒を字義通りに受け取れば、芸術家がどれだけ大勢いても足りません。だからこそ「卒倒」とはどういう意味かという私の疑問も生じたのですが、結局、多様な「卒倒」の仕方があると理解する他ありません。その中でも、原民喜と三島由紀夫の例は、それぞれの仕方で卒倒した例に過ぎないけれども、文中で「典型例」と書いたように、最も端的な「卒倒」の表現形態であったろうと思います。
そこで、樹々の緑さんがおっしゃる「人間に対する先駆的な警告」たり得る条件について、私は、なによりその当人が感受性に優れた者であると、多くの人々に認められていることだと考えました。おそらくその点においてのみ、卒倒した当人によってそれまで生み出されてきた作品そのものの評価がかかわってくるでしょう。その点では三島由紀夫は申し分のない作家であったと私は思います。もちろん、私の好きな作家という意味ではありません。
炭坑のカナリアよろしく卒倒するとはどういうことか
社会のこと
[ さつき ]
2013/7/14(日) 午前 10:40
樹々の翠さん、当然、芸術家にもいろいろな「役割」があるのだろうと思いますが、文学の役割について論じられた中で思い出されるのは、今は『葦牙』を主な舞台として仕事をしている文芸評論家の清水三喜雄氏が、かつて(1980年代)『民主文学』誌上で大江健三郎氏の『遅れてきた青年』を好意的に論評する中で、なんともいわく言い難く言葉にできずにいる自分のおかれた心の情況を、他の誰かがほぼ正確に言葉にして表現してくれているのに出会った時、人は(自分も生きていていいのだと)救われる、という意味のことを書いたことがあります。このように人が芸術家に期待することは、まず第一に極めて個人的なことなのだろうと思います。
ヴォネガットは、それに加えて芸術家にも「社会的な役割」があるとすればという前提で語っているようですから、「プロレタリア文学」のようなものを除けば、作品そのものから離れたところにも「役割」がある筈だと言いたかったのだと思います。その上で、芸術家の最も優れた資質は感受性に優れていることであろうから、「炭坑のカナリア」たり得るという発想が生まれたのではないかと思います。(続く)
炭坑のカナリアよろしく卒倒するとはどういうことか
社会のこと
[ 樹々の緑 ]
2013/7/13(土) 午後 11:10
本当に素朴な感想ですが、ヴォネガットが「炭坑のカナリアよろしく卒倒する」ことを、大江氏がいう「作家を含む芸術家の社会的役割」として語っているのだとすれば、「卒倒する」ことを字義通りに受取ることはできないと思います。卒倒してしまえば、芸術家の「仕事」はできなくなるでしょう。これでは、いくら芸術家がいても足りません。原民喜にしても、「夏の花・心願の国・永遠のみどり」などを書き著さないままに自死してしまえば、社会に被爆者の心に巣くった絶望や闇を伝えることはできなかったはずですから…。「炭坑のカナリア」も、有毒ガスの発生を「卒倒」で報せるのだとすれば、その卒倒が持つ「人間に対する先駆的な警告」の意味こそが、「卒倒」という言葉で表現されていることの本質ではないかと思います。
参議院選挙雑感
社会のこと
[ 樹々の緑 ]
2013/7/4(木) 午後 11:14
同感です。上のコメントも、さつきさんの趣旨を否定する意味でしたのではなくて、選挙ニヒリズムに陥らずに投票した民衆の中に、かなり自覚的に「全体の力関係を変えるためにどこを勝たせるか」という意識で投票行動を取った人たちがいたことに、今後の展望を見出せることをお伝えしたかったというだけです。単純に「自共対決」の認識が民衆に広がったために共産党が倍増以上の躍進をしたという理解をする人たちがいて、困ってもいるのです。前々回の都知事選で「立候補を辞退せよ」というのは確かに問題でしたが、結局事前の共同の幅が極めて狭く、選挙戦でも他者の不十分点をあげつらうだけで全体の政治的力関係をどう変えるかという視点が圧倒的に不足していたと思います。そこに「上から目線」の弊害を痛感しているのです。
奇跡のトマト(追記あり)
科学と認識
[ さつき ]
2013/7/4(木) 午後 7:56
>「農薬の管理(法律)」
>「効率・生産性(経済)」
>「農薬の危険性、妄信(警告)」
生産性を上げるために必要であっても、農薬は危険な毒・劇物なので、法律によって(表向きは)厳密な管理が義務づけられています。つまり、三者は密接に関連しています。
しかし、「危険性」にかかわる「科学」が不十分なままであるのは、「効率・生産性」つまり、経済の論理に圧倒されてしまっているからではないでしょうか?
これまでおこってきた数々の公害、薬害、労働災害の問題は、そうした構造から出てきたものです。
まあ、この問題は、「研究テーマはどのように<選択>されるか」という問題と関係があるので、その内、別に論じることになるでしょう。
奇跡のトマト(追記あり)
科学と認識
[ さつき ]
2013/7/4(木) 午後 7:51
木村さんを持ち上げるメディアの論調には、私も十分批判的なつもりです。
なにより、彼も、ある種の「農薬」を用いています。そして、彼がそれを大量使用しているのなら環境への負荷も懸念されます。
ですから、「なんだ、木村さんも農薬を使っているじゃないか、嘘つき」という批判なら、なんら問題ないと思います。
しかし、農薬の危険性を無視して、「無農薬農法」が成り立つのは周囲の農家がせっせと農薬を使って環境中の「害虫」を退治してくれているお陰だと主張したり、農薬漬けリンゴの方がPR-Pが少なく健康に良いのだと主張したりすることを、他ならぬ「科学」の名をもってすることは、科学者のはしくれとして、「科学」を大切に思えばこそ耐え難いことです。
<続く>




