さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

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buveryさんへのお返事

 前回の記事にbuveryさんからtwitter上で応答がありましたので、補足の意味も込めて書いておきます。

 現存被曝状況の管理の仕方と、計画被曝の管理の仕方を混同している、どうしようもない人ですね。現存被曝は線源が管理されていないから、個人線量管理で参照レベルを用いる、計画被曝は、線量限度を用いて、退場させるもの。

 こういう議論は、チェルノブイリの経験を経て2000年代に終わっているものなので、ICRP103, 109, 111を参照のこと。何を優先し、何を大事にすべきか、そこで考え方が変わっています。計画被曝は被曝する人を排除すれば良いが、現存被曝でそれを行うと、とんでもない被害がでる。

 完全に誤解されているようですが、私の書き方がまずかったようですね。まず私は、「現存被ばく状況」という概念を用いて管理する場合であっても、空間的管理を併用しなければ「汚染地域」に対する有効な支援策は実行不可能ということを言いたかった訳で、今現在そこに住んでいる人を「線量限度を用いて、退場」などと主張したいのではありません。もちろん、状況の変化によってはそれもあるでしょうが、私の考えの一端はここに書いています。

 ICRP 111を読んで少なくない方々が理解に苦しむポイントは、いったいどの範囲を現存被ばく状況下にあると認定するのかというところにあるでしょう。おそらくそれは、頻繁に出てくる「長期汚染地域」という用語で表現される範囲に含まれるのだろうと思います。しかし、「長期汚染地域」の定義が書いてありません。

 現在国内で運用されている放射線防護指針での「現存被ばく状況」の位置づけについては、首相官邸災害対策ページにある「放射線防護の最適化 -現存被ばく状況での運用」において、「事故などの非常事態が収束する過程で、被ばく線量が平常時の公衆の線量限度(1mSv/年)より高い状態が定着し、さらなる線量低減に長期間を要する状態を「現存被ばく状況」と呼びます」と説明されています。「集団全員の被ばくが年間1mSv以下になれば、平常状態への回復が達成とも書いてあります。また、ICRP 111では、被ばく線量は個人線量で管理するということが繰り返し強調されています。 

 これらのことなどを総合すると、そもそも、「現存被ばく状況下にある地域」だとか「現存被ばく状況下にある範囲」などといった空間的な概念は存在せず、「現存被ばく状況」とは、個人線量で年間1 mSv以上の追加被ばくをする人が存在している<状態のこと>であるという認識以外、何もないことがわかります。このことは、明らかな空間概念である「長期汚染地域」の定義を、いっそう困難にするものであり、その定義なしに様々な施策が実行あるいはサボタージュされていくであろうことを予感させるものです。

 例えば、個人被ばく線量が年間1mSvを下回ったとして、その状態を維持するのに強いられている努力や我慢が無視されてしまうのではないか、また、移住した人々をどのように救済するのかといった視点も放棄されてしまうのではないかと危惧されます。

  ICRP 111の総括ー(d)には、「この決定に暗に含まれていることは、放射線の潜在的な健康影響に対する防護と、しっかりした生活様式や生計手段を含む持続可能な生活条件を人々に提供する能力である。」と書かれていますが、この一文は、被災者にとっては一筋の光明であるでしょう。

 しかし、これを誠実に実行しようとするなら、そもそも、どの範囲の人々に個人線量計を持たせるのか、周辺地域から少しずつ「平常状態」が回復されていくとして、どの範囲から、個人線量管理をやめていくのか、「潜在的な健康影響」のある範囲をどのようにして認識し、定めるのか、どの範囲の人々に「持続可能な生活条件」を(特別に)提供していこうと努めるのか、移住した人々になんらかの救済の手をさしのべるとして、どの範囲の人々を対象とするのか、等々の切実な問題が当然のこととして浮かび上がり、いずれも、空間的な把握・管理を導入せずしては解決され得ないことばかりであることに気づきます。そして、空間の管理は、空間の属性を用いずして実行不可能であることは、ごく簡単なりくつです。

 預託実効線量で管理するという話はどうなったのかといった論点など、ほかにも重要な問題はいろいろとある訳ですが、少なくとも上記のことが深刻な問題として理解されないとしたら、ひと月ほど前のbuveryさんの下記の呟きが、本心からのものであったということを意味するのかもしれません。

私が作文すれば『津波から完全に立ち戻ったとは言えないが、福島では200万人が問題なく暮らしている。東京は福島とは250キロ離れているが、心はつながっている。津波は大きな悲劇ではあるが、世界中の人の心を結びつけるものでもあった。オリンピックもその一つとしたい。

 これは、東京オリンピック招致の最終プレゼン用として私的に提案されたことだと思いますが、平成2591日現在の福島県の推計人口は 1,948,184 人とのことなので、福島県に住む全員の方が「問題なく暮らしている」、原発事故の影響はもはや何もないと読めます。

 え〜っと・・・
「完全にコントロールされている」とどちらが「すごい」か、投票したら良いのではと思います。

こういう終わった議論を持ち出して、自分がさも時代の先端であるかのように自認する人も、すごいな。チェルノブイリの事故から何を学んだのか。

 「時代の先端であるかのように自認」だなんてとんでもない。しかし、buveryさんがチェルノブイリの事故から学んだ結果が、「福島では200万人が問題なく暮らしている」ということだとしたら、私が学んだこととはずいぶん違うようです。

 以下は余談です。

まあ、人工放射能と天然放射能が違うとか力説している人だからね。

 このことでしょうか。


 これらの記事で私は、天然放射能と人工放射能は、核種単体としては物理・化学的な性質に本質的な違いは何もないけれども、物質科学的に異なっているということを「強調」しています。私の予想は東電原発事故によって放出された放射性物質の研究によっても実証され、下記の記事でとりあげました。


 ここで採り上げた論文では、初期プルームの大部分が、放射性セシウムを%オーダーで含む不溶性の微粒子からなっていることを明らかにしています。代表例として示された直径2.6 umの粒子はセシウムだけで6.58 Bqの放射能を有しているとのこと。天然の環境では、同サイズでその100万分の1の放射能のものさえ形成不可能なことは、教科書程度の知識があれば推定可能です。逆にもし、同程度のサイズの天然微粒子で、その100万分の1を超える放射能のものを発見したなら、それこそが「時代の先端」でしょう。

 天然の放射能と人工の放射能が物質科学的に異なることは事実です。それを私が「強調」するのは、たびたび報告されるこうした事実が、実際上無視されているからです。なぜ無視されるのでしょうか? もし、ホットパーティクルが被ばくによる健康影響に特別の作用をもたらすとしたら、現在のICRPを初めとした防護体系が根本から崩れ去ることになるからでしょうか。わざわざ「注目」して下さってありがとうございます。

 twitter上での下記のやりとりを拝見して思うところあり、急ぎ記事をあげておく。

 発端はたぶんこれ:
生涯積算での、事故による追加被ばくを、その住人が法で許容された範囲内でどういう生活をしようとも(山菜を好もうと山でキャンプを楽しもうと)、必ず100mSv未満に留まらせることができる、という設定を国はすべきなんだよ。その大枠を守った上でなら、中でどう過ごすかは個人の問題でよい。 
 (補足自己レス省略)
ICRP111では、個人の『年間の』『実効線量』で管理せよ、と書いてあります。実効線量だから、個人あたりの実測。平均の被曝は低いことは分かっているので、個人を実測しないと、誰が高いのか分からない。 

私は防御に関する国の施策の方針について考えていました。また、危険派の人たちの考え方をある程度整理するつもりで考えてもいました。それがICRPと合わないということだと、ICRPの考え方(だけ)では、うまく行かないかもしれない、ということかと思います。 

それは、何か根拠があって言っているの?私の言っていることは、ICRP111と同意見で、実際に早野先生のデータをみても、少数の高い人を見つけ出すためには、個人線量を測るしかないのは明らかだと思う。 

一部の高い人を、個々に測って探し出すのではなく、誰がどのように行動しても高くはならないように政策で枠をはめるべきだ、という話を、私はずっとしています。つまり場所の安全を確保すること、こそが政治の仕事だと言ってるのです。 

(下線は引用者による)

 上記は実際の議論をかなり省略したもので、多様な論点が含まれているけれども、ここで採りあげるのはタイトルに書いたこと。つまり、ある性質が現象の属性なのか、空間(場)の属性なのか、物質や個人の属性なのかを区別して議論することの苦手な人がいるというはなし。

 この例では、その区別ができていないのはbuveryさんであり、放射能で汚染されたある場所に人が住めるかどうかの政策的判断は、その場所の属性(たとえば空間線量)をもとに下されなければならないという水無月さんの主張は、原理的な意味で正しい。個人線量はその個人の属性であり、あくまでその個人の生活習慣を含む健康管理や労災認定などが問題となる場合に参照されるべき数値である。

 私は、「エックス線作業主任者」として、ある実験室の管理責任者になっていて、その部屋へ立ち入る際にはフィルムバッジを付けるよう指導している。そこで私に求められているのは、フィルムバッジを付けようが付けまいが、その部屋に誰が立ち入っても被曝することのないよう安全に気を配って管理することである。法令限度を超えて被曝する可能性があると判断される場合には、もちろん、立ち入り禁止にしなければならない。

 フィルムバッジは月末に回収され、後日被曝線量が通知される。もし、法令限度を超えて被曝していることが明らかになった場合には、私の管理責任が問われ、罰せられることになるだろう。被曝した当人にとっては後の祭りだ。だからそういうことのないよう、起こりうるあらゆる事態を想定して管理しなければならない。

 ここで重要なことは、そうしたいろいろな事態について検討する際には、フィルムバッジが示した被曝線量はほとんど参考にならないということ。実際これまで、私の管理する実験室では、自然放射線をバックグラウンドとして検出限界を超えた過剰被曝は過去一度もなかったが、だからといってその部屋を管理区域から外して良いということにはならない。その空間(場)が管理区域にすべき性質(属性)を備えているからだ。

 別の問題で、例えばある放射性物質の管理基準を議論する際には、その比放射能(Bq/g)や、その物質から放射される放射線の種類やエネルギーなど、その物質そのものの属性が参照されるべきであって、ある仮定をもとに算出された空間線量や実効線量などは副次的な数値にすぎない。実際に、原子力基本法関連の政令などによって定められている放射性物質の管理基準は、質量もしくは放射能(Bq)を示す様式となっていて、ある条件で算出される空間線量が「○○μSv/h 以下になるように管理する」などといった形にはなっていない。特定の放射性物質の漏洩について、その総量が問題とされるのは、起こりうるあらゆる事態を考慮すべしとの暗黙の了解があるからだ。

 まとめると、空間の管理基準は空間の属性を用いて、物質の管理基準は物質の属性を用いて定められるべきということ。これは、ごく簡単なりくつである。

 今、福島では、住民を被曝させても、環境を汚染しても、誰も罰せられないという異常事態が日常と化して人々の感覚をマヒさせ、科学を装った子供だましのような欺瞞がまかり通るようになっている。そこで犠牲になっているのは、今もそこに住む人々であり、かつてそこに住んでいた人々であり、地球環境であり、科学そのものでもある。

 ついでに「現象の属性」と「物質の属性」の関係について書いておくと、例えば、「月の高地が形成された年代は、そこから得られたリン酸塩鉱物の年齢を測定することによって明らかになった」というとき、「年代」は、月の高地の形成という現象の属性について、「年齢」は、リン酸塩鉱物粒子という物質の属性について述べている。こうした遣い分けは、その物質の属性から問題とされる現象の属性がどのように導かれるのかといった実体論的な理路へと至るに不可欠で、科学をなす上では必須の手続きともいえる。

 しかし実際には、こうした遣い分けを正しく理解できていない科学者は多い。ICRP の委員たちもそうなのかもしれない。

 このところ小泉元首相がしきりに脱原発論を唱えているとの報道が続いている。昨日(10月5日)の毎日新聞朝刊の社説や、本日のTBS サンデーモーニングでも採りあげられていた。毎日jpに掲載された「社説:小泉氏のゼロ論 原発問題の核心ついた」から前半を引用する。

 核心をついた指摘である。政界を引退している小泉純一郎元首相が原発・エネルギー政策に関連して「原発ゼロ」方針を政府が打ち出すよう主張、注目を浴びている。
 使用済み核燃料問題などを正面から提起し、政治が目標を指し示すことの重みを説いた小泉氏の議論にはもっともな点がある。安倍内閣が原発再稼働や輸出に前のめりな中だけに、原発からの撤退を迫る忠告に政界は耳を傾けるべきだ。
 かつて「改革の本丸」と郵政民営化に照準を合わせたことを思い出させるポイントを突いた論法だ。小泉氏は1日、名古屋市での講演で「放射性廃棄物の最終処分のあてもなく、原発を進めるのは無責任」と指摘、福島第1原発事故の被害の深刻さにもふれ「原発ほどコストの高いものはない」と政府・自民党に原発ゼロにかじを切るよう求めた。
 原発をめぐる小泉氏の主張は毎日新聞のコラム「風知草」(8月26日付)が取り上げ、強い関心を集めるようになった。東日本大震災後、原発政策に疑問を深めた小泉氏は8月中旬、フィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」を視察、使用済み核燃料を10万年も地中に保存するという処理策に「核のゴミ」は管理不可能だと確信したのだという。
 小泉氏が今後、何らかの政治的な行動を取るかは不明である。しかし、指摘は真剣に受け止めるべきだ。
 まず「トイレのないマンション」と言われる核廃棄物問題について、小泉氏が言うように、政府は責任ある答えを示していない。使用済み核燃料からプルトニウムを取り出し再利用する核燃料サイクルは、その要とされた高速増殖原型炉「もんじゅ」実用化のめどが全くたたない。再処理工場(青森)の稼働を急いでも、余剰プルトニウムがたまるばかりだ。私たちはこの点からも原発推進の無責任さをかねて主張してきた。
(後略)

 文中にある毎日新聞の8月26日付「風致草」の記事が話題になって以来、このことを巡って、脱原発を求める運動の中で様々な異論が対立しているようなので、私見を述べておきたい。結論を先に書いておくと、小泉氏は本気で脱原発を願っており、脱原発派は、既に政界を引退した個人として接し、(慎重に)利用した方が良いと私は考えている。

1)小泉氏の脱原発論は本物か
 これまでの小泉氏の経歴やその主張をふり返ると、彼は、基本的には嘘をついたことがないし、(大変な悪政ではあったが)政治家としての公約を実直に守り、実行してきた。ただし、既得権益を「ぶっこわして」構造改革を断行すると言いながら、こと原子力村についてはこれに切り込むどころが、逆に小泉内閣の初代経産相として原発推進派の平沼赳夫氏を起用し、プルサーマルを盛り込んだ「エネルギー基本計画」を策定したりもしている。しかし、政治家として現役にあった時代に原発について積極的に何事かを発言するということはなかったのではないか? おそらく当時は眼中にないままデフォルトとして官僚主導で推進されたのではないかと思われる。それが、3.11の東電原発事故を契機に目が覚めたのだろう。

 小泉氏の脱原発論が本物だと判断されるもうひとつの理由は、彼の脱原発論が、使用済み核燃料の最終処分の問題という、原発推進派の最も痛いところを突いて、正面から切り込んでいる点にある。先にリンクした毎日新聞「風知草」によると、8月中旬に原発関連企業の役員達を誘って、フィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」と脱原発の進むドイツを視察し、帰国後、記者と次のようなやりとりを行っている。

 −−どう見ました?
 「10万年だよ。300年後に考える(見直す)っていうんだけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ」
 −−今すぐゼロは暴論という声が優勢ですが。
 「逆だよ、逆。今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは知恵者が知恵を出す」
 「戦はシンガリ(退却軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ部隊)がいちばん難しいんだよ。撤退が」
「昭和の戦争だって、満州(中国東北部)から撤退すればいいのに、できなかった。『原発を失ったら経済成長できない』と経済界は言うけど、そんなことないね。昔も『満州は日本の生命線』と言ったけど、満州を失ったって日本は発展したじゃないか」
 「必要は発明の母って言うだろ? 敗戦、石油ショック、東日本大震災。ピンチはチャンス。自然を資源にする循環型社会を、日本がつくりゃいい」

 毎日新聞の社説で「核心をついた指摘」と書かれている通りだ。しかも、(かなり漠然としてはいるが)脱原発へ至る政治的・経済的なビジョンまで語られている。本日のサンデーモーニングによると、3.11後に、小泉氏の中に脱原発への指向が生まれ、オンカロ視察を契機に確信へと変わったのらしい。この点、安全な原発ができない限り反対という橋下大阪市長の「脱原発論」とは本質的に異なっている。

 かつて私は、橋下徹大阪市長(大阪維新の会)は「脱原発」派ではない(2012年2月14日)と題する記事を書いて、橋下大阪知事にいかなる幻想も懐いてはならないとの考えを述べた。その際の理由として、橋下氏は、もともと「平成維新の会」を立ち上げた原発推進派の大前研一氏に心酔しているらしいこと、また、「脱原発」を本気で考えているのならこの間にやるべきことはいくらでもあった筈だが、彼は何一つやってこなかったことなどを挙げた。

 その後の2012年6月、関電の筆頭株主である大阪市の市長として株主総会に出席した橋下氏は、「速やかな原発の全廃」、「発電部門と送配電部門の分離」、「取締役の半減」などを求める大胆な株主提案をおこなったが、事前に関電が株主に発送した「総会招集通知」に記されている株主提案議案では、大阪市の提案に対する取締役会の反対意見が添えられていて、否決されるのは確実視されていた。株主総会での橋下氏の「演説」は、時の空気を読んで人気取りに利用するパフォーマンスに過ぎないものであったと、私は考えている。

 実際、その後に橋下氏が唱えたのは「脱原発依存」に過ぎなかったし、今年度の株主総会では出席してのパフォーマンスさえしていない。橋下氏は、本気になれば行政のトップとしてやれた筈のこと、たとえば、市庁舎等の電力を新電源に乗り換えたり、市として再生可能エネルギーの開発に乗り出したり、得意のtwitterを駆使して本質を突くような脱原発の理念と展望を熱く語ったり等々のことを、この間何ひとつやっていないのである。

 小泉氏と橋下氏の比較は、元首相とはいえ今は政界を引退した個人(小泉氏)と、地方行政のトップであり、国会議員を擁する政党の代表職にある者(橋下氏)という違いを抜きには語れない。

2)政界を引退した個人との共闘の問題
 なにより、橋下・維新は、民主政治にとって害悪のあまりにも多い危険な存在であり、たとえシングルイシューであっても彼らと共闘することによる悪影響は計り知れない。それは、現に橋下氏が、たとえ地方自治体であるとはいえ、行政のトップに立つ人であり、また、国政の場においても橋下氏が代表を務める維新の会が決して無視できない勢力として存在していることからくる。

 一方、小泉元首相はどうかというと、3.11後のことに限れば、既に政界を引退した個人として言論に訴える以外のことは、実際上何もできることはなかったと考えて良い。他に彼にできることがあるとすれば、かつて権力のトップにあった者として、原子力村の闇に触れて掴んだ極秘情報(注1)を漏らすことくらいであろうが、おそらく彼は、もともと原子力には無関心で、そうした情報は何も掴んでいないであろう。

 かつて社会民主連合の副代表であった江田五月氏が、1993年に非自民非共産8党派による細川内閣が誕生して科学技術庁長官になった時、当時の反原発グループの中に、反原発派であった江田氏への期待が広がったのであるが、結局、官僚達の一昼夜のレクチャーで原発推進へ寝返ってしまったという出来事が思い出される。江田氏も、そして盟友である菅直人元首相もまた、極秘情報に類するものは何一つ掴んでいなかったことは、その後の言動で明らかである。

 これらのことを考慮すると、個人として言論に訴えること以外なにもできることのない小泉氏とのシングルイシューでの共闘においては、そのイシュー以外のところへ波及する悪影響というものはあまり深刻に考えなくても良いのではないかと思う。そもそも共闘と言っても、具体的なことを考えれば、たいしたことはできないに違いない。

 残された論点は、これまで原発推進に荷担した「前科」のある者との共闘に道義的問題が発生するかという点であろう。この点は、人それぞれに、3.11の事故によって具体的にどのような被害を被ったかということだけでなく、これまでの国の原発推進政策に対してどのようなスタンスで接してきたかという「個人史」にかかわって、百人百様であろうと思う。
 
 私自身は、小泉氏に、自民党や財界の中にも一定の勢力を占めている「脱原発派」のまとめ役として、多数派形成のためにがんばってほしいと考えている。自らが推進してきたものを一刻も早く廃止するために努力することが、「改心」した者のなすべきことだとも思う。一方でまた、福島の高濃度汚染地域で強制移住・避難を余儀なくされている人々の中には「100代まで呪ってやる」と、許し難く思っている人々も現に居るし、自殺に追い込まれた人も居ることを知っている。そうした人々の想いを全く無視して、小泉氏の「改心」を手放しで喜ぶような態度は慎まなければならないと思う。だからと言って、小泉氏との「共闘」を呼びかける人々を批判しようとも思わない。それはまさに、私自身の「個人史」にかかわってつのる、忸怩たる想いに依っている。

追記(10月30日)
下記のブログ記事は、この問題にかかわって必読です。
小泉氏の脱原発発言」(Arisanのノート、2013-10-17)

ただ一点、文末に、
僕たちは、小泉氏の名の元に行われる「脱原発」という儀礼、欺瞞的な国民統合のための儀礼には、参加すべきではない。
その不参加によって、たとえ「脱原発」という目的からどんなに遠く離れると思えたとしても、これ以上「犠牲」のシステムの存続に手を貸すことは、僕たちには許されないはずである。

とありますが、これは、小泉氏の影響力についての誇大妄想に近いものだと思います。私は、「そもそも共闘と言っても、具体的なことを考えれば、たいしたことはできないに違いない。」と書いたように、彼に大きな期待を寄せる発想自体が荒唐無稽なものだと考えていました。したがって、小泉氏との共闘への不参加によって「脱原発」という目的から遠く離れるという危惧もまた、杞憂にすぎないものだと思います。社民党が本気で共闘を考えていたことには少々あきれましたが、そうした共闘が成立しないことは最初から明らかでした。批判しなくても、そうしたことは現実には成立し得ない訳です。

関連することを「「思い出したこと」の続き」と題する10月25日の記事にも追記しました。

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注1)核兵器開発への道を温存するためにこそ原発全廃への抵抗が続くだろうとの考えがあるが、日本は、核兵器開発のために既にあり余りほどのウランやプルトニウムを保有しているので、それは誤認であろう。逆に、原発が全廃になっても核兵器開発への警戒を解くことはできないということになる。
 今朝の毎日新聞(大阪本社版)に、遠山啓さんのことが一面から二面へ続く長い記事として掲載されていて、驚いた。

 一面のタイトルは「学びの可能性信じ」、副題「算数指導「水道方式」遺志継ぐ」となっていて、武蔵野市の小笠毅(おがさたけし)さん主宰の私塾「遠山真学塾」のことが紹介されている。二面のタイトルは「問いの意味知ろう」で、中ほどに「困難抱える子の灯台に」との見出しがある。小笠さんと遠山さんの出会いや水道方式のこと、遠山さんが著書『競争原理を超えて』で何を伝えたかったのか、それを小笠さんがいかに受け継ぎ実践しているかについて、取材をもとに丁寧に書かれていて、大変興味深く読んだ。

 記事を書いたのは東京科学環境部の須田桃子氏とのこと。2001年入社とあるので、若い人なのだろう。遠山さんの遺志を伝える良記事をまとめていただいたこと、また異例とも思える扱いで掲載していただいた編集部?にも、一ファンとして感謝したい。私と同じ想いでこの記事を読んだ読者も全国に大勢いただろうと思う。

 ただ一点、水道方式について、「一般的・典型的な易しい問題を習得してから、特殊で難しい問題に進む」と書かれているが、これは正確さを欠く表現である。一般的・典型的な問題が易しいとは限らず、特殊な問題が難しいとは限らないからである。このことについては、『水道方式とはなにか』(太郎次郎社、1980)において詳述されているが、あくまで、典型的な問題から「型くずれ」な問題へという流れであって、決して易しい問題から難しい問題への流れではない。

 さて、このブログでは、4年ほど前におこった「かけ算の順序論争」にかかわって遠山さんの考えが誤って流布されているとの想いから、以下の記事を三連投したことがある。

遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その1:問題の所在)

遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その2:助数詞廃止論)

遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その3:水道方式)

 上記(その1)の冒頭に書いたように、「遠山は、かけ算の順序を固定することに、いかなる場合においても、理論的にも、教育上の観点からも明確に反対していた」ことを伝えたかったからである。実際、遠山さんは、その著書において繰り返し、かけ算の順序を固定してはならないと力説している。

 私の記事では著書から引用しながらそのことを解説したのであるが、私のこの過疎ブログとしてはめずらしく多くの賛同を集めたものの、その後、東北大黒木玄さんの「かけ算の式の順序にこだわってバツを付ける教え方は止めるべきである」と題する記事をきっかけに、「かけ算の順序に意味があるという主張が生まれた原因の一端は遠山啓にある」とする考えが広まったようだ。

 黒木さんの記事はとても長いので、全体を再読する気力はないが、その記事内を「satsuki_327」で検索すると、私のブログ記事が2回にわたり引用されている。最初の引用は、「●2. 「1あたりの数」×「いくつ分」の順に書かないと誤りとするのは誤り」にある。ここでは、

この引用文を読む限りにおいて、遠山啓さんは

  a×b という式を書くときには
  a は「1あたりの数」で b  は「いくつ分」でなければいけない

という特殊ルールを捨てていないようです。

と書いて、

遠山啓さんはこの不必要な特殊ルールを捨て去る段階までの道筋を示していてかつ広める
努力をしていたでしょうか?もしもしていなかったとすれば、遠山啓もこの件では批判さ
れなければいけない当事者の一人だということになると思いました。

算数教育の目標は上で述べたような特殊なルールを子どもに教え込むことではなく、
普遍的に通用する算数の考え方を子どもに身につけてもらうことです。
何度でも繰り返しますが、ここで問題になっている

  a×b という式において a は「1あたりの数」で b  は「いくつ分」を意味する

というルールは普遍的に通用する考え方ではありません。
このような特殊ルールを子どもに強制してはいけません。

それではこの偏狭さの原因はどこにあるのか? その原因のひとつは
「子どもの理解度を掛け算の式の順序の書き方を見て判定しようとすること」
にあるように思われます。 (実際には単なる誤解が原因の場合も多いようですが。)

と結論されている。

 要する、遠山さんは、「かけ算の順序を固定してはならない」とは主張したが、かけ算の順序に<意味がある>という考えを捨ててはいなかった事が指摘されている。私は、ここで述べられていることは遠山さんの考えとしては正確さを欠くものの、黒木さんの指摘そのものは正しく、私の記事に不足があると思い、一旦は補足エントリをあげようと考えた。その辺りのことについては、funaboristaさんのブログ『お花畑めざして』の「かけ算の順序」と題する記事とコメント欄を参照いただきたい。 

 また、黒木さんの記事にある「遠山啓さんはこの不必要な特殊ルールを捨て去る段階までの道筋を示していてかつ広める努力をしていたでしょうか?」の部分については、遠山さんが1979年70歳にして志半ばで亡くなったことを考慮すべきだと考えていた。

 ところでfunaboristaさんのブログ記事にコメントしていた頃、いろいろと気になることがあった。一つは、黒木さんの二つ目の引用(A12)において次のように書かれていることを巡っての問題である。

理解度を測るテストで 5×3 にバツを付けた教師は、子どもが
掛け算の順序をどのように書いたかで理解度を測っていることになります。

5×3 にバツを付けることが批判されているのはまさにその点なので
理解度を測るためのテストだから問題ないという反論は無意味です。
そのような意見を今頃述べている人はこの議論では周回遅れな感じです。

このQ&Aの上の方でも強調しておいたように、
子どもが掛け算の式の順序をどのように書いたかを見て
理解度を測ろうとすることがこの問題の根源なのです。

たとえば、さつきのブログ「科学と認識」では、
どちらの数を「1あたりの数」とするかは考え方によるので、
掛け算を「1あたりの数」×「いくつ分」の順序で書くルールのもとであっても、
式の順序を見ただけで、どちらが「1あたりの数」であるかを正しく理解しているか
を判定することは不可能であるということが、
遠山啓を引用することによって指摘されています(2009年8月11日)。

 ここでは遠山さんが、あたかも式の順序にまったく意味はないと主張しているかのように誤って受け取られかねない書き方になっていて、最初の引用にあった黒木さんの遠山評とはズレがあるように感じられる。実際はどうかというと、この「順序」と「意味」にかかわって遠山さんは二つのことを分けて考えていた。

A(順序):「交換法則はまだ教えていないから、それを使ったのはバツだなどというのは、教える側の得手勝手にすぎない。交換法則など子どもが自分で発見することはいくらでもあるのだ。」(『量とは何かI』、太郎次郎社、1978、p116)

B(意味):かけ算を「1あたりの数」×「いくつ分」を求めるものと認識するとしても、どちらが「1あたりの数」になるかは考え方次第で、自明ではない。(同上、p114-120)

 この二つのことから、式の表現としては、意味と順序の組み合わに4通りあることが前提とされていることに気づく。

1)「1あたりの数 a」×「いくつ分 b」
2)「1あたりの数 b」×「いくつ分 a」
3)「いくつ分 a」×「1あたりの数 b」
4)「いくつ分 b」×「1あたりの数 a」

 その上で遠山さんは、子どもが書いた式がそのどれであるかは自明ではなく、どれでも正解で良いのだと主張している。だから、教師が自分の考えた式の順序と違うからといってバツを付けるのは、教師不審・算数嫌いを招くものだときびしく批判してもいる。まずこの点はきちんとおさえておく必要がある。

 一方で注意すべきは、「どれであるかは自明でない」は、「そのどれでもない」ということを意味する訳ではなく、ましてや「(順序に)意味がない」ということを意味する訳でもないという点である。遠山さんは、こどもが書いた式の順序にその子なりの論理があることを大切に考えていた。たとえば、あるかけ算の問題で、式を「4×6」と書いた子と「6×4」と書いた子の頭の中では、きっとなにがしかの異なる理路が辿られた筈だと、遠山さんは考えた。まさにこの点が遠山哲学の真骨頂なのである。そのことに気づかずに、安易に黒木さんの遠山批判に納得してしまったことを、今では恥じている。ファンだからといって、当人を良く理解しているとは限らないことの実例だ(だから、この記事も真に受けてはならない)。

 そして、それぞれの理路を上記4つのどれかに関連付けてやることで割り算の理解が容易になると、遠山さんは考えた。特に、速度や濃度(内包量)を求める連続量の割り算とかけ算の関係を理解させるには欠かせないと考えていた。このことは私の過去記事の(その3)にも書いたが、おそらくこうした遠山さんの発想を受けて、「数教協」の中に意味と順序にこだわった教育法が広まったものと思われる。しかしそれが、式の順序が違うからといってバツをつけることに繋がっているとすれば、それは、遠山さんの<精神>とは全く相容れない教育法であると思う。私自身は「数教協」と何らのかかわりもないので、内情を知る由もなく、これ以上の論評はできない。

 ともかくも、子どもの書いた式の順序には確かにその子なりの<意味>があり、教育上そのことを大切に考えるべきだと遠山さんが考えていたことは貴重だ。そのことこそが、私が遠山ファンであることを止めない理由と言ってもいい。私の過去記事(その1)にコメントいただいたシカゴ・ブルースさんのブログ記事「割り算から見た量(1)――内包量と外延量」に「表現された式には、子供や教師それぞれが頭の中でたどった個々の問題解決過程が反映される」と書かれている通りである。 また、毎日新聞の二面の記事のタイトル「問いの意味知ろう」もこのことを表現していて、遠山さんにふさわしい良く練られたタイトルだと思う。

 という次第で、冒頭に引用した私の過去記事に特に訂正の必要性を感じなくなっていたのだが、今回の記事をもって補足としたい。

関連記事:数学は、ある種の言語についての学である (2009/1/13)

 ただしこれは、あまり深く考えずに書きつらねたもの

 毎日新聞の記事にも引用されている『競争原理を超えて―ひとりひとりを生かす教育』(太郎次郎社、1976)は、今の時代にますます必要とされる考え方を指し示していている古典的名著だと思うので、ぜひ多くの方々に読んでいただきたい。

 なお、「村野瀬玲奈の秘書課広報室」に、このブログとしては不思議と異色のエントリー「かけ算の順序 (ブログ「お花畑めざして」から) (訂正・追記あり)」が掲載されているが、村野瀬さんの(私として好ましい)個性だと思った次第。これ以上訂正を追記する必要はありません。

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 タイトルの通り、「私はリニア新幹線には乗らない」と宣言します。
誰か気の利いたステッカーでも作ってくれないかなあ。
同じように宣言する人がどんどん増えて、計画が中止になればいいのになあ。
理由は・・・

1)すごくあぶなくて怖いと思う
2)原発を止めさせるためにがんばって節電しているのに、わざわざ電気を浪費する乗り物をつくるなんて許せない
3)これ以上自然を破壊してほしくない
4)周りにも絶対に乗りたくないという人が多いので、リニアはきっと赤字になり、そのせいでJR東海は破綻して、不良債権が税金にまわされてくるに決まってる
5)在来線への乗り換え時間やセキュリティチェックのことを考えたら、時間短縮にならないに決まってる
6)沿線の地域活性化につながるというのは嘘で、逆に東京一局集中を加速することにしかならないと思う

 以下のウエブサイトで勉強しました。

 特に心配なのは、東海地震の想定震源域が近いので、地震時の緊急停止が間に合わないということ。

 沿線域は四つのプレートがひしめき合って、日本でも一番地震ポテンシャルの大きな地域です。それを図にしてみました。太平洋プレートはこの図には表現されていませんが、南東側から沈み込んで地下に存在しています。

(↓「糸井川」となっていたのを「糸魚川」に訂正しました。9/20)

イメージ 1


 まず産総研の地質情報総合センターが運営している「地質図Naviのサイトでgoogle航空写真の上に活断層(赤線)だけを表示させたものをコピーして、その上に、リニア中央新幹線ルート案(2013.08.26改) のページに示されている予想ルートをトレースしました。さらに、プレート境界(オレンジの線)や主な構造線(茶色の線)、東海地震の想定震源域、マグニチュード6以上の歴史地震の震央(ピンクの円)を『新編日本の活断層』から拾ったものなどを重ねました。

 こんなところに掘ったトンネルの中に超高速列車を走らせてはイカンでしょう。ホントに正気の沙汰ではないと思います。


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