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悪い奴らが世の中を騒がす出来事が多くなったからであろうか。ネット上ではハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」という概念についての言及に接する機会が増えたような気がする。
私は、この概念について、少しばかりのひっかかりがある。第一に、「アイヒマンの悪」と「ヒトラーの悪」との関係、言ってみれば、二つの「悪」の間にある、断絶でも連続スペクトルでもない筈の何か、その構造のようなものについてアーレントはどのように考えていたのだろうか。
これは私独自の素人判断かもしれないので、おそるおそる書くのではあるが、先ず、アーレントの「悪の陳腐さ」という概念は、1961年のアイヒマン裁判を傍聴して、彼の証言をもとに練り上げられたものではなく、それよりずっと以前に着想されていた。アーレントは、そのことに説得性を持たせるためにアイヒマン裁判を利用したのだと私は理解している。アーレントの論文集『パーリアとしてのユダヤ人』(寺島俊穂・藤原隆裕宣訳:未来社、1989)に収録されている『組織化された罪』(1944年11月)から引用しよう。
この後、ハインリッヒ・ヒムラーについての言及があるが、家庭にあっては平凡な良き父親であったヒムラーがナチズムに取り込まれて巨大な悪をなしたという構図は、後にアイヒマンに向けられた評価と本質的には同じである。
この論文を読むと「悪の陳腐さ」という概念は既に1944年時点で完成されていたと見ることができるが、アーレントにしては論理の展開が伝聞に基づいているところなどがあって、根拠に乏しい筋立てとなっている。『ニューヨーカー』誌から特派員としてアイヒマンの裁判を傍聴しないかとの誘いがあった時、周囲の反対を押し切ってエルサレムに赴いたのは、既に答のある問題についての説得力のある論文を仕上げるまたとない機会が訪れたと思ったからに違いない。
しかし、エルサレムでの裁判傍聴のレポートの仕方は適切なものであっただろうか。私の疑問が強くなったきっかけは、日本で映画『ハンナ・アーレント』の公開が始まった頃、山脇直司 @naoshiyさんの次の呟きに接したことにある。
ここには、アイヒマンは上司の停止命令に逆らってユダヤ人虐殺を継続したという事実にかかわることと、そうだとしてもなお、アーレントの「悪の凡庸さ」のテーゼを「20世紀思想の古典の一つとして高く評価したい」との山脇さんの意思表明がある。これは一体どういうことだろう。
『ハンス・ヨナス回想記』の第10章 「ニューヨークにおける交友と出会い」p.257には次のように書かれている。
アイヒマンが上司の虐殺停止命令を無視したことは歴史家にとっては周知の事実らしく、ウィキペディアの「アドルフ・アイヒマン」の項にも「1945年にドイツの敗色が濃くなると、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーはユダヤ人虐殺の停止を命令したが、アイヒマンはそれに従わずハンガリーで任務を続けた。」との記述がある。
この事実は、ニュルンベルク裁判において既に明らかにされていたことであり、アーレントが傍聴した法廷においてもアイヒマンの罪状の一つとして数えられ、それゆえ彼は有罪となり死刑判決が下されたのではなかったのか。つまり、「上司の命令に従っただけ」とのアイヒマンの弁明は、裁判の過程で虚偽の証言として退けられている。たとえアーレントがこの事実を取材の過程では知ることができなかったとしても、その後のヨナスとの議論を通して知った筈だ。映画でもヨナスと激論を交わす中でこのことに触れる場面がある。
ヨナスの問いにアーレントではなく夫のブルッヒャーが答えて議論は終わっている。いろいろ調べても、なぜだかアーレントの「悪の陳腐さ」のテーゼとアイヒマンが上司の虐殺停止命令を無視してまでジェノサイドを継続していったという事実との整合性を図る論考に接することができず、私の疑問はますます深まるばかりであった。例えば、百木漠さんと戸谷洋志さんによる「やっぱり知りたい!対話篇 ハンナ・アーレント × ハンス・ヨーナス」の第1回のレジュメ『ヨーナスと「誕生性」』で、戸谷さんは、「アーレントの『エルサレムのアイヒマン』(1963 年) をめぐって二人は一時的に意見を違わせますが、ほどなくして和解しています」と書いている。
戸谷さんの3編のレジュメにはヨナス自身による『Erinnerungen(回想)』からの引用があるのだが、私がこだわるヨナスからの批判の核心部分についてはついぞ触れられることがない。しかもその回想記には「ほどなくして和解」したとはとても言えない深刻な対立が長らく続いたことが記されている。
『ハンス・ヨナス「回想記」』のP.252から引用する。
これに続けて、先に p. 257 から引用した文章を読むと、つまり、友情と思想・学説上の対立は両立するであろうから、後者の対立から一時的に前者をこじらせたはしたが、やがて友情の方だけは回復されたと理解される。アーレントへのユダヤ人社会からの激烈な批判的反応には、強制収容所への大量のユダヤ人移送を可能にしたのは、ゲットーで組織されたユダヤ人評議会が協力したためである等と主張したことも起因しているが、上記引用にあるように、ヨナスはこの点について同意しており、ただ一点、アイヒマンが上司の虐殺停止命令を無視してジェノサイドを継続していったという事実とアーレントの主張は整合しないと批判している。アーレントの良き理解者であった名のある哲学者のこの批判を、どうして皆が皆無視できるのか、私にはわからない。
アイヒマンが上司の命令を無視して虐殺を継続したことは、不都合な真実として無視されたのではなかったか。仮にそうだとして、「アイヒマンの悪」を「ヒムラーの悪」に替えて、私の最初の疑問「ヒトラーの悪」と「ヒムラーの悪」の間に横たわる問題が彼女の中でもスルーされていること自体の問題性が残されるように思われる。それこそまさに「アイヒマンの悪」の問題ということになるであろう。そのことに関連して『組織化された罪』に次の記述があるのは絶望的である。
世の中の悪は、ヒトラーのような病的・狂信的な悪やその他諸々のどうしようもない人格的歪みからくる悪とヒムラーのような「陳腐な悪」だけからなるのではあるまい。「陳腐な悪」が存在し得る、あるいは、そういうものがはびこる背景は、単に自ら考えようとしない風潮だけではないような気もするのである。そう考えないと、自ら考えようとしない風潮がなぜ蔓延るのかという問題を解く緒がみつからない。そもそも、「思考停止」に警鐘を鳴らすことそれ自体は意義あることだとしても、それだけで終わってしまったら、精神論で乗り切ろうというようなお節介な励ましとなんら変わらない。
私はこの方面の門外漢だから、理解不足からくる誤解に満ちたものである可能性の方が高いと自覚はしている。しかし、もしアーレントがそこにもちゃんと切り込んで向き合っていたのなら、アーレント研究者は、そのことをこそアーレントの功績として世の中に広めるべきだと思う。
アーレントは、近代以降の「国民国家」という制度の中で、どの国の国民にもなれない人々に目を向け、この制度の限界を暴いた。アーレントが気になる理由はそこにあるが、私の中で、まだマルクスほどには魅力ある存在ではない。
書ききれていないので、余力があったら補足的な記事を上げたい。特にこの問題に関わっては、香月 恵里さんの論文『アイヒマンの悪における「陳腐さ」について』(pdf: 532 kB)は無視できないが、余力はあまりない。
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日本原子力研究開発機構(JAEA)大洗研究開発センターで6月6日に起きたプルトニウム飛散事故に際しての肺モニターによる放射性物質の吸入量の発表について,どうしても解せないことがあるのでメモ書きしておく。
JAEAによるプレスリリースや報道発表にあるように,体内に取り込まれたプルトニウムの測定は大変困難である。一部の報道に,「プルトニウムからのLX線を測定する」との記述を見かけたが,正確には,239Puの場合,α崩壊直後に反跳エネルギーを受け取って励起された娘核種235Uからの
ところで,先の投稿では保管されていたプルトニウムの同位体組成を加圧水型原子炉
したがって,発電用原子炉
以下,追記(6月15日)
JAEAからはその後2件の発表があった。
続報4によって,PuとUの元素比が26.9%:73.1%であることが公表されたが,相変わらず核種の構成比(同位体比)は非公表となっている。おしどりマコさんのツイキャスをご覧になったみーゆさんのtweet によると以下の発言があったらしいが,確かに意味不明である。
肺モニターにおいてα崩壊した直後の娘核種ウランからのLX線を測定する際,ウランの混合比が大きいと291Pu からの 20.78 KeV のβ線によって既存のウランの電子軌道の
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注1)ウランの主なL線は,Lα1:13.6147 keV,Lα2: 13.4388 keV,Lβ1: 17.2200 keV,Lβ2: 16.4283 keV,Lγ1: 20.1671 keVであり,ウランの同位体はどれもこの精度で同じエネルギーになる。体内からの放射では吸収のためにLα1ではなくLβ1が一番強く,これ以外は強度が極端に弱い。
注2)ここに高分解能での新しい測定法についての解説があるが,その補足説明に「本研究では、開発したTES型マイクロカロリーメーターを使ってPu(238Pu、239Pu)及び241Amの線源から放射されるLX線の測定実験を実施しました。測定実験の結果、半値幅約50 eVのエネルギー分解能でスペクトルを測定し、それぞれのLX線を分離測定することができました」とある。これは238Puと239PuからのLX線さえも分離できたと誤解されかねない記述であるが,よく読めばわかるように,区別できたのはPuとAmである。付図のスペクトルチャートにウランの上記 L線のピークが明瞭に現れている。
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6月6日,国立研究開発法人 日本原子力研究開発機構(JAEA) 大洗研究開発センター実験室内において,プルトニウムが飛散し,作業員が被曝するという事故がおこった。
当初,一人の作業員について合計の吸入量は36万ベクレルとされたが,その後の再検査で,体表面の除染が不完全なまま測定したために内部被曝を過大に見積もった可能性が高いとの情報がもたらされた。
それにしても,どうしてこのような事故がおこったのか。ビニールバッグが破裂した原因についてはプルトニウムのα壊変によって放出されたヘリウムガスが原因であろうとの見方が示されているが,本当だろうか。報道によると,作業員がステンレス容器の上蓋にある6本のボルトの内
最初に吹き出した気体は内部で膨張したビニールバッグに押し出された大気で,蓋を取り外す直前にはビニールバッグは容器内いっぱいに膨らんでいて,それがさらに破裂したということであろう。公開された資料の図面からステンレス容器の容積はおよそ2.7リットルと見積もられる。黒色の粉末がドラフトの外まで飛び散っているので,少なくとも1リットル以上,おそらく2リットル程度のガスが発生していたと思われるのである。
ところが,どう計算しても発生するヘリウムの量が1〜2桁少ない。現実的ではないが,アボガドロ数(6.022045E+23)と同じ個数の原子からなる1モル239 gのプルトニウム239(239Pu)が含まれていたとしよう。酸化物にすると271 gになる。これは26年経つと24110年の半減期でα崩壊して6.01755E+23個になる。その差4.500E+20が崩壊した原子数で,これと同じ数のヘリウム原子を生じる。これをアボガドロ数で割った0.000747がヘリウムのモル数である。1モルの気体の体積は標準状態で22.4リットルなので,発生したヘリウムの体積は,22.4 × 0.000747 × 1000 = 16.7 ccとなる。これではビニールバッグを破裂させることは不可能だ。
どうしても気になるので,もっと半減期の短い核種を含む場合で,それらの系列核種からの寄与も合算してみた。計算には26年前の初期条件としての化学組成・同位体組成を仮定する必要があるが,過小な見積もりにならないよう,ウランとプルトニウムの混合比を1:2,すわなちプルトニウムの酸化物200 gを含むとした。ウランはプルトニウムに比べて半減期が長いものばかりなので,プルトニウムの同位体組成だけが問題となる。ATOMICAに核兵器級プルトニウムと原子炉級プルトニウム同位体重量比の例が示されているが,この中で合計のα崩壊頻度が一番高そうな加圧水型原子炉(PWR)
238Pu: 2%,239Pu: 63%,240Pu: 19%,241Pu: 12%,242Pu: 4%
この内,242Puは半減期が37万年と長く,無視できるので,これ以外とその系列核種が問題となる。検討対象としたのは以下のとおりで,括弧内は半減期。
238Pu(87.7 年)→ 234U(245,500年)
234U はウラン系列であり,混合されているウランにも僅かだが含まれているので,念のため初期的に 0.1 g 含むと仮定した。数十年単位の放射平衡の検討において数十万年以上の半減期をもつ核種(この場合 234U)はバリアーになるのでこれ以降の系列核種は無視する。以下,同様である。
239Pu(24110年)→ 235U(7.038E+08年)
アクチニウム系列に属する。235U は混合されているウランに含まれているので初期的に 6 g 含むと仮定した。
240Pu(6561年)→ 236U(2.342E+07年)
240Pu は自発核分裂をおこし易く,これによって希ガス(Xe,Kr)が発生するが,その寄与は無視できる。
241Pu(14.29年)→ 241Am(432.6年)→ 237Np(2.14E+06年)
241Pu はβ崩壊するのでそれ自身は無視できるが,娘核種の 241Am は重要で,親核種の半減期が短いので精製後に生じた分として初期的に 2 g含まれると仮定した。
計算結果を表に示す。
計算の結果,合計のヘリウム生成量は120 cc 程度であり,ビニールバッグを破裂させ,内容物をドラフトチャンバーの外に飛び出させるには1桁少ないのではないかと思われる。ヘリウム生成の寄与率としては主成分である 239Pu より,半減期の短い 238Pu と 241Am が高いことがわかる。これらの核種を濃縮するとヘリウム生成量は多くなるが,そのようなものをウランと混合する意味はないだろうし,熱出力が高くなってプラスチック容器に入れるという発想もおこらなかっただろう。
おそらく,強烈な放射線(25兆ベクレル)によってプラスチック製の容器や袋が劣化して水素ガスなどが発生したのであろう。そうだとすると,静電気によって着火し,爆発する危険性もあったのではないか。それにしても,そうした可能性を考えもせずに,このような事態を招いたことは,専門知識の欠落した集団が原子力開発・研究を担っているということになる。つまり,今後もこのようなことが度々おこることを予想させる「事件」として認識すべきである。実際,JCO臨界事故など,過去にも度々おこってきたのであり,なにも反省されていないということを意味する。
もう一点,今回は人身への健康被害はさほど心配しなくてすみそうであるが,多少とも危惧されるのなら業務上過失傷害の疑いが生じる訳であるから,現場の保存と原因の徹底した究明,それらの公開が求められる。もとより原子力の平和利用は自主・民主・公開の三原則の上に許されている訳であるが,その基礎は情報公開である。まずもって,この容器に保管されていた物質の成分・同位体組成の公開を強く求めたい。
ポリエチレンは水素と炭素だけの重合体なので,発生するガスとしては水素かメタン,おそらくメタン(CH4)の可能性が高い。いずれも発火性のガスである。これを二重に包んでいたビニールバッグは,そのラベルにPVCの文字が見えるのでポリ塩化ビニルだとわかる。これが劣化すると塩素を含むガスが発生する可能性があるが,「破裂」するのに必要な強度を失うので,こちらの劣化はそれほどなかったと思われる。ドラフトチャンバーの前の床に飛び散っている小さな黒い欠片状の物質は炭化したポリエチレンかもしれない。
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2011年の東電原発事故を契機に電力中央研究所(電中研)の中に設置された原子力リスク研究センター(NRRC)(pdf: 2.1 MB)というのがある。現在,このNRRCが主導して,原発の耐震安全性審査の手法を米国が採用しているSSHACと呼ばれる確率論的ハザード解析へ転換させようとする動きが活発で,四国電力の伊方原発をモデルケースとした模擬審査のようなものが昨年から開始されている。
「伊方 SSHAC」で検索すると多数の報告書がヒットするが,私の知るかぎり,この動きは「21世紀政策研究所」主催の第109回シンポジウム「原子力安全規制の最適化に向けてー炉規制法改正を視野にー」(pdf: 2.6 MB/2014年8月28日)あたりから本格化したようだ。頻繁に登場するキーワードは「最適化」であるが,いくつかの報告書を読めば,規制を受ける側にとって「快適」な審査手法への法改正を目指したものであることがわかる。
SSHACは,米国原子力規制委員会(USNRC)が採用している地震ハザード解析専門委員会(Senior Seismic Hazard Analysis Committee)の手順に基づく確率論的地震ハザード解析(PSHA)のこと。NRRCの取り組みは,これを日本の原発の耐震安全審査に導入しようとする動きと捉えることができる。最初のまとまった解説論文としては,NRRCの研究コーディネーターである酒井 俊朗氏による「確率論的地震動ハザード評価の高度化に関する 調査・分析 -米国 SSHAC ガイドラインの適用に向けて-」(pdf: 1.7 MB)がある。
従来,日本の原発の耐震安全審査では,活断層や岩盤性状の評価をもとに最大の地震動を見積もり,また,海底地形や歴史記録などから津波の波高を見積もるなどして,具体的にどのような脅威があるかを明確にし,それへの備えが十分であるかどうかという観点からなされてきた。このような手法は,地震ハザードを科学的に明確に<認識>しようとする態度に根ざしていることから,「決定論的手法」,あるいは「認識論的手法」と呼ばれている。SSHACを推進する側がそのように呼称することを始めたようだ。
これに対して,多数の専門家の様々に異なる見解を収集し,しかもどの見解も却下せずにそれら全てを集約し,確率論的リスク評価(PRA: Probabilistic Risk Assessment)へ変換するのがSSHACの手順で,米国USNRCではこれをもとに原発の設置・安全審査をおこなっている。その手順は,1)地震ハザードを構成する個々の指標(最大地震加速度など)の予測において異なる学説があったとき,意見が分かれる元となった複数の要因を分岐点に配置したツリー(酒井論文の図1)を設定し,2)多数の研究者による議論を通じてその分岐点で個々の学説毎に重み付けをおこない,3)ツリーの末端まで積算して該当指標の確率分布曲線を得る,というものである。
分岐点での重みづけをどれくらい<熱心に>検討するかは,原発立地場所での地震ハザードの深刻さに応じて,レベル1からレベル4まで設定され,レベル3では3回の検討会(ワークショップ)を開催することになっている。現在,伊方原発を例に試行されているのはレベル3で,第一回のワークショップが昨年8月におこなわれ,第二回が本年3月下旬に予定されている。試行錯誤の結果,現在のSSHACの手順は「突飛な見解」に偏らずに学界における意見分布を「合理的,客観的に再現できる」ようになっているとされている。
では何故今,日本における耐震安全審査を決定論的・認識論的手法から確率論的手法へ転換しようとしているのか。SSHACワークショップを電中研が主催していることから,電力業界がこの転換を望んでいることがわかる。したがってこれは,この転換を電力業界が望むのは何故かという問題になる。そもそも審査する側ではなく審査される側が牽引して審査手法を変えようとしている訳で,最初から問題含みである。そのことの問題性は素人でもわかることなので,酒井氏の論文では,「・・・我が国における SSHAC プロジェクトの実施は規制要求ではなく、事業者の自主的安全性向上活動として今後、PRA を活用していくための非常に意義深いものであり、・・・」と弁明されている。白々しいとしか言いようがない。これまでの原発における数々の事故隠し,活断層値切りをはじめとした,隠蔽・捏造体質をふりかえれば,「自主的安全性向上活動」など期待できる筈がない。
日本が現在採用している決定論的・認識論的手法では,活断層一つをとっても専門家の間で見解の異なることが多く,個々に不確実性を内包しているのは確かであろう。具体的な審査では,それらの異なる見解に優劣をつけ,最も優れたどれか一つの見解,あるいは議論を通してまとめられた統一見解が正しい<認識>を示しているとして安全か危険かの二者択一を判断するという,困難な作業がなされてきた。その結果,却下された見解を持つ専門家の間には不満がくすぶり,審査が長引いたり,あるいは運転差し止め裁判が提訴されたりするのだと電力業界は考えているのであろう。100基もの原発を稼働させているアメリカのように審査がスムースになされるよう転換したいという訳だ。
私には,この動きは次の二点において容認でない。
第一にこれは科学の成果を確率の闇に葬り去ろうとする動きである。確率・統計は科学をなす上での重要な手法・手段であるが,科学そのものではない。近年,地震ハザードの予測を含め,いろいろなリスク評価にベイズ統計学を用いようとする動きが急速に進められている。ベイズ統計は,一般の頻度主義確率論とは異なり,主観確率を容認するベイズ主義に基づくもので,例えば,粘土で手作りした不格好なサイコロの目の出る確率は,単純な頻度主義確立論では導けないが,ベイズ統計では,実際にサイコロを振ってみて,回を重ねる毎に(経験によって)修正しながら「尤度(ゆうど)」やオッズを算出することが可能だ。このように,頻度主義で確率を求めるのが困難なある種の複雑系において,尤度という尺度での確率を出すのにベイズ統計は力を発揮する。しかし,NRRCが目指しているのは,個々の科学の成果そのものを単なる一つの「現象」として重みを付けて統計処理し,学界における既存の意見分布に合うような結論を出して危険度を確率的に評価しようとするもので,科学の愚弄に他ならない。
第二に,一般にリスクと呼ばれるものは大別すれば二つの全く異なるカテゴリーのもの,つまり,何度起こっても個々に回復可能なリスクと,一度でもおこれば破滅してしまうリスクとに分けられるであろう。両者を数値に換算して比較することは,例え可能であっても容認できないとの立場があり得る。この立場は,科学ではなく倫理上のものである。ロシアンルーレットで,リボルバーの装填可能な弾数が6発は少なすぎていやだろうかから100発にしてやると言われても,ロシアンルーレットなど千分の一でも万分の一でも拒否する立場を認めるのが倫理にかなっている。
もう一度原発のメルトダウン事故が起これば日本は破滅してしまうだろう。だから,交通事故で毎年何千人も亡くなっているからといって原発の事故と数値の上で比較することはできない。原発の安全審査を確率論でやろうとすることは,ロシアンルーレットを拒否するという選択肢(政策判断)があり得ることを後方へ追いやり,原発を未来永劫動かし続けることに道を開くものである。原発の地震ハザードの評価では,いろいろな学説の中で最も高い危険性を示す見解について検討し,それが完全には否定できないと判断されたら,それをもとに耐震性を評価すべきだ。リボルバーの弾が全て抜かれていることが確認できない限り,引き金を引くべきではない。
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D論二人、M論一人、B論3人提出締め切り間近。
なぜだか私がめちゃ忙しいのだけれど、あまりにひどいので、三浦瑠麗さんのtweetを批判するする人達へ、五野井さんのtweetを借りてひと言。
五野井さんは「リベラル側」と書いているけれど、誤読している大半はリベラルじゃなくて左翼だよね。左翼の一員として嘆かわしい。
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