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JpGU(日本地球惑星科学連合)が発行しているニュスレター誌 JGL (Japan Geoscience Letters) のVol. 13, No. 3(8月1日発行)に、2017年度JpGUフェロー受賞者による抱負が掲載されている。受賞者には、「原発震災」への警鐘を鳴らし続けてこられた石橋克彦さんがいらして、大変喜ばしい。
同じくフェローを受賞された島崎邦彦さんによる「抱負」は、政府の諮問委員会の中で科学が捻じ曲げられるということが度々起った、その現場からの告発となっており、若い人へ向けた「檄文」となっている。JGLのこの号は間もなくウェブ上でも公開される筈なので、多くの人に読んでいただきたく、ここに紹介する。
島崎さんの「檄文」は、「研究の面白さに,はまってしまった人へ」と題して、次の書き出しで始まる。
(途中略)、それでも・・・
この文章は、そんな「あたな」へ向けられている。
(略)ここで、ご自身の経験が語られる。
島崎さんの結論は、こうだ。
(略)
この文章に読点が多いのは、書きならが思わず力が入ったことを示しているだろう。最後の一文は、まさにその通りだと思う。
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原子力発電環境整備機構(NUMO)主催の高レベル放射性廃棄物の地層処分に向けての意見交換会の参加者にお金が渡されていたのが発覚したというニュースを聞いて、昨年参加した時に会った不思議な三人組のことを思い出した。
NHK NEWS WEB 11月14日20時58分配信の記事から一部を引用する。
この記事にあるのは最近の話。NHKの記事では「説明会」となっているが、正式には「科学的特性マップに関する意見交換会」と称されている。
私は「科学的特性マップ」が公表される前の昨年、全国で開催された「地層処分意見交換会」の一つに参加した。昨年も、今年の意見交換会と同様、参加者は二つのカテゴリーに分かれていて、申込時に選べるようになっていた。全体でおよそ2時間の会が前半の第一部と後半の第二部に分けられ、両方に参加を希望する者は図に示すA席に着席し、第一部のみの参加者はB席に着席する。
前半の第一部は、ビデオと講演によって地層処分の概要が説明された後、A席を優先しての質疑応答があり、終わるとB席の参加者は帰らされた。後半になるとA席の各テーブルに主催メンバーのNUMOや資源エネルギー庁、産総研の関連研究者などの中堅〜幹部クラスの2〜3人が同席して、文字通りの意見交換会となった。
会場の様子はビデオに撮ってウェブ上で公開することがあるので了承してほしい旨説明があった。同じことは申し込み時の案内文にも記されていて、実際、特に質疑応答の場面などはしっかりとビデオカメラが向けられていたので、下手な質問はできない圧迫感があった。このような会にA席を希望するのは、専門家か、あるいは自治体の関係者か、よほど何事かを主張したい熱意のある者に限られるだろうと考えていた。実際、B席は100人くらいの満席だったのにA席の参加者は大変少なく、正確には覚えていないが、10〜15人くらいだったと思う。ちなみに私はA席だったので第二部まで残った。
さて、A席の私と同じテーブルに、二十代と思き女性3人組が参加していた。このような場で年若い参加者に会ったことがなかったので、意外な気がした。しかし、休憩時間を挟んで第二部になり、会が進むと、やがて違和感が強くなった。
彼女らは、どのような動機から参加したのか。誰かが訊くと、3人のうちの一人が面白そうな催しがあるからと他の二人を誘ったのらしい。それでも、予め申込サイトにアクセスし、A席希望にチェックを入れ、送信ボタンを押したのだとしたら、何か言いたいことや聞きたいことがあったのではないかと思ったが、特に意見はないとのこと。だったらB席で良かったはずだ。
でもまあ、面白半分でA席に参加するのもアリかなと思った。好奇心旺盛な若者らしいし、誰でも一度は参加してみるべきだ。原発関連の隅から隅まで、思想の根腐れが良く分かるから。
そうは思いつつ、この度の報道に接した今、彼女らは休日の午後を窮屈な思いをしながら黙ってテーブルに座っている代償としてNUMOに金を渡され、参加したのではないかと、下衆の勘ぐりも脳裏をかすめるのであった。
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TBS佐古忠彦さん初監督の映画『米軍が最も恐れた男〜その名は、カメジロー〜』を観た。当日は県内唯一の上映館の短い上映期間に佐古監督のトークが設定されていた。妻は亀次郎さんのことを知らなかったが、佐古さんのファンということで一緒に観に行くことになった。私は既に高校生の頃には瀬長亀次郎を認識している。
全く些細なきっかけだった。私が高校に入学した当時、3年間持ち上がりの同じクラスに返還前の沖縄から「留学」してきたU君がいて、互いに下宿を行き来する仲になった。同じクラスには、国語や古文・漢文の授業中に先生がお伺いをたてるほどの天才M君がいた。どうでも良いことだが、M君は体が弱くて体育の授業はいつも見学で、私の中でのステロタイプな文学青年そのものであった。
U君によると、M君の顔はカメジローにそっくりだという。そっくりだが決してそのことはM君には言わないようにとも。カメジローを知らない私は、U君のその口ぶりに興味をそそられた。しばらくしてU君は、新聞か雑誌の切り抜きでカメジローの写真を見せてくれた。なるほどこれは・・・顔がそっくりだとM君に言っていはいけないような気になった。ついでにその切り抜きの記事を読んで、カメジローが沖縄では特別な存在であることを認識した。
しばらくして沖縄返還となり、担任が、「U君は今日からめでたく日本人になりました」という意味のことを朝の挨拶で言ったのを覚えている。しかし、「本土並返還」とは程遠い現実があることは、おぼろげにではあるが知っていた。自衛隊が沖縄へ派遣されることになり、これへの反対運動のことなどニュース番組でみたことも覚えている。そんな経緯から、その後の瀬長亀次郎のことはフォローして知っていたつもりだが、その前史についてはほとんど知らなかった。インドにとってのガンジーのような存在と言えば良いか。この映画を観て改めて彼の偉大さ、そして、現在の沖縄問題の由って来る経緯を知った。
定員80名ほどのミニシアターは満席で、最後にエンドロールが終わると拍手が沸き起こった。上映後に佐古監督が語ったことは、ほぼ次の記事に書かれているので、一部を引用しよう。
沖縄タイムス+プラス ニュース(2017年10月21日 11:36)
2017年8月12日。桜坂劇場の前にできた、その終わりが見えない大行列を、私は一生忘れないだろう。沖縄の方々に、どうご覧いただけるのか不安だっただけに、信じられない光景だった。ある人が私に声をかけてくれた。
「行列にならんだ知らない者同士が、亀次郎さんの思い出話で大いに盛り上がって、今のわじわじーした気持ちを分かち合ったわけ」
(中略)
私は、この春までテレビでニュースを伝えたり解説したりしていた。日々のニュースは、事象の瞬間を切り取るだけに終わり、なかなか問題の全体像を伝え切れていないことにもどかしさを感じていた。そして、時折「また沖縄が反対している」といった無責任な批判の声が本土から上がる。その背景を考えると、ある結論に至った。本土の人々の認識から戦後史というものがすっぽり抜け落ちているのではないか…。
平和憲法を手にし、民主主義の世の中にあっという間に変わり、経済復興を果たした本土と、戦争が終わっても平和はやってこなかった沖縄とでは、明らかに戦後の歩みが違う。そのことが、本土にあまり伝えられてこなかった。その戦後史への認識の空白を少しでも埋めることができれば問題の核心に近づけるのではないか。であるならば、戦後史の主人公で、県民に鮮烈な記憶を残しているカメジローを通して歴史を伝えたいと思ったのが、制作のきっかけだった。そして、最も伝えたかったのは、カメジローの生きざまはもちろんだが、その歩みは常に民衆とともにあったことだ。
いまも毎回何万もの人が集まる県民大会や、国に訴えられた裁判の前の集会に集まった人々が、知事を大声援で法廷に送り出す光景は沖縄をおいて、この国のどこにもみられないものだ。その答は歴史にある。ひとつひとつの点を結んでみると、一本の線となり、今がある理由が見えてくる。
(後略)
まずこの映画は、良い沖縄入門になっている。本土の民主主義は与えられたものだが、沖縄にある民主主義は、実態として瀕死の状態にあるとしても、その少しのかけらも全て民衆の運動によって勝ち取られたものばかりである。そのことを、この映画は良く表現している。
ただし、一点だけ書いておきたいことがある。沖縄復帰一年後に、瀬長亀次郎率いる沖縄人民党は日本共産党に合流し、亀次郎は共産党の副委員長になっている。佐藤栄作首相との国会論戦も共産党の議員としてのものである。沖縄の基地を共産主義への防波堤と位置づけていた米軍が亀次郎を弾圧したのは、もともとそういう存在だったからだ。しかし、この映画では、亀次郎と共産党との関係については、「資本論」を読んでいたこと以外、全く触れられていない。700円で購入して佐古監督にサインを書いてもらったパンフレットにも、映画の公式サイトにも一言も出てこない。
この映画は共産党のことを意識的に隠していると感じたのは私だけであろうか。「オール沖縄」がイデオロギー抜きのものであることも強調されていた。民主主義は立派なイデオロギーである。日本では「共産党」や「イデオロギー」というものは隠すべき存在である、というのがデフォルトになっているのか、母親の「真っ直ぐに生きなさい」との教えを忠実に守った亀次郎の生き方に比べ、この映画の作られ方は、その点で「真っ直ぐ」ではないと感じた。これは少し酷すぎる批判かもしれないのだが・・・
(11/8、下線部を追記)
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新燃岳の噴火を心配して気象庁 (火山観測網) V.KIRの霧島新燃岳南西観測点の地震波形を注視し、昨日(10月21日)の夜から酷く揺れていると警告を発している人(火山学者他、多数)がいるようですが、ここの地震計は台風が来る度に風向によっては「ノイズ」だらけになることにそろそろ気づいてほしい。暴風による地面の揺れを捉えています。
7月4日に九州に上陸した台風3号の時
8月6日に種子島を通過した台風5号の時
9月17日に九州に上陸した台風18号の時
観測点によって個性があります。霧島では他の観測点を参照した方が良いでしょう。
ちなみに、ここにもちらっと書いたけれど、今の地震計の性能はとっても良いのです。気圧のゆっくりとした変化による地球自由振動もとらえています。
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安倍晋三首相が9月28日召集の臨時国会冒頭で衆院を解散した少し前頃から続いていた政界のドタバタがようやく落ち着き、総選挙に臨む陣容もほぼ固まりつつあるようなので、この間、印象深く思ったことを記しておきたい。
先ず、この解散は、6月22日に民進、共産、自由、社民の野党四党が、憲法五十三条の規定に基づき提出した加計学園問題の真相解明のための臨時国会召集の要求書を無視する憲法違反の暴挙であることを確認しておく。「森・加計隠し」の解散であることは明らかだ。
この点についてのジャーナリズムの追求姿勢はかなり弱く、立憲主義が蔑ろにされているとの強い危機感を持った。
安倍首相が臨時国会を召集して冒頭解散する意向だとの最初の情報がもたらされたのは9月17日だったと思う。批判が強まり、土壇場で撤回するのではないかとの観測も流れる中、9月25日になると小池百合子東京都知事が「希望の党」結党を発表する。私は、そのあまりの手際の良さに、細野豪志氏らの民進党離党も含めて、政権側と内通して画策された既定路線だったのではないかとの疑念さえ持った。
しかしながら、反安倍陣営の中には安倍政権打倒への道筋ができたとの期待が膨らんだ。26日夜には、民進党代表に選ばれて間もない前原誠司氏が小池氏と極秘に会談し、民進党の無条件合流について調整に入ることで合意がなされたという。翌27日には希望の党の旗揚げと党綱領や基本政策が発表されたが、これとは別に民進党の合流も発表された。私は、民進党の中に期待を寄せる議員も少なからず居たので、ここから始まる民進党の迷走を注視した。
ここで特に驚いたのは、前原氏が党内の議論を経ずに勝手に小池氏と「密約」を交わしたことに対する党内からの批判の弱さである。事後的に執行部会のようなもので了承すれば良いというものでもないだろう。本来なら党代表の罷免に値する行為だと思うのだが、党規約はどうなっているのか。もとより私の民進党に対する期待はそれほど大きくはなかったので、失望というよりは、ただただ唖然とするばかりであった。昨今は、大学でも学長選考で教授会の投票でトップになれなかった人が理事会で逆転指名されたりする事態が相次ぎ、トップダウンの意思決定が日常化してしまっている。そのせいかどうか、政治学を専門とする大学人からの批判は期待に反して弱かった。こちらの方は、私にとっては大きな失望であった。
さて、本題はここから。
民進党の希望の党への合流は、その後の両院議員総会において全会一致で採択されたという。この時点で、これまでの民進党の主張と行動は、希望の党の基本政策、特に憲法改正や安保法へのスタンスにおいて真っ向対立するものであったことは誰の目にも明らかだったので、またまた唖然とした。当然ながら、政権党が憲法改正を目玉と位置づける総選挙で、その改正の方向性に異を唱えないのは政権補完勢力に他ならないとの批判が沸き起こった。
これに対する民進党「リベラル」勢力からの反論(言い訳)を要約すると、「批判はもっともであるが、先ず、小池氏の人気を背景に大きな支持が期待される希望の党に合流して選択肢を絞ることで安倍政権の打倒が可能になる。また、野党で最大の現有勢力の民進党のメンバーが新政権の中で影響力を行使することで、その健全性が保たれる。これが、この政局におけるベストな選択である」というものであったと思う。政治理念や具体的な政策上の不一致についての批判に対しては、「トロイの木馬」という言葉もあちこちから飛び出した。私の驚きは、もっぱらこの点にある。ことに民進党左派を支持する市民の中にも一時的にであれ同じ論調があったことに大きな失望を禁じ得なかった。
選挙民の空気や政局の風を読み、その場凌ぎの受けの良い政策を前面に立てて信を問い、権力を手に入れ、その上で本性を露わにするというのは、かつては「マヌーバー」という一言で、少なくとも左派の中では一蹴されてきたやり方だ。この言葉が最近力を持てなくなっているのは、一つには「マヌーバー」そのものが、本来、「うまく立ち回る」といったような良い意味・積極的な意味にも用いられることの多い言葉であることにも依るのだろう。「面従腹背」がウケるのもそうした背景があるかもしれない。
しかし、マヌーバーはポピュリストの常套手段であり、少なくともこれを選挙に際して用いることは、民主主義を破壊する行為に他ならない。選択された結果が内実と乖離してしまうからだ。選挙によって何が選択されたのか、誰が正しく判断できるだろう。そうした策略は、一時的に成功したとしても絶対に長続きすることはなく、その後の反動は目を覆うばかりのものとなるだろう。この間の日本の政治の劣化・反動化がそれを証明している。トロイの木馬だとかなんだとか裏でコソコソしないで、自分が正しいと思うことを真正面から主張し、行動しないと、きっと何処か知らないところへ連れて行かれるような気がするのである。
9月30日になると、小池氏は、民進党の丸ごとの合流を拒否し、踏み絵をもとに基本政策が一致しない場合は「排除する」と宣言した。10月2日、これに反発した民進党左派の支持者達に後押しされて、枝野幸男氏が「立憲民主党」を立ち上げ、民進党は、参院民進党を残して事実上解党することになった。かねてより、民進党の中には水と油が同居していると揶揄されていたので、私はこれでスッキリして良かったと思っている。その政策も支持者の思いを最大公約数的に満足するものになっていると思う。
ところで、立憲民主党の理念として立憲主義が強調されるあまり「民主」の方が置き去りにされている気がするのは杞憂であろうか。近年は、ことにかつてのヒトラーの率いるナチス党が民主的なヴァイマル体制のもとで選挙によって選ばれて台頭したものであるとの認識が広がり、立憲主義が健全な政治体制に必要不可欠なものであるとの考えが定着してきた。しかし、立憲主義だって、規定に従って改悪された憲法のもとでは悪政に正統性を与えるのである。そのような改悪を阻止する基礎は、単なる多数決主義に基づく劣化版民主主義ではない「本来の民主主義」というものにある筈で、戦後民主主義と呼ばれた時代に、左翼は、行動(試行錯誤)を通して民主主義とは本来どうあるべきかという議論を積み重ねてきた筈ではなかったか。
10月6日には希望の党の政策が発表されたが、これこそまさに、いっそ清々しいほどのポピュリストの行うマヌーバーの典型例である。こういうものに騙される選挙民が多いとすれば、それもまた、これまでリベラル・左派がマヌーバーに対して警戒感が足りなかったツケなのではないかと思う。この間の民進党の解党のドタバタに際して垣間見えた民主主義を破壊するものへの無警戒は、民主主義の価値そのものが忘れ去られようとしているのではないかとの危惧を抱かせるに十分なものであった。
ついでに書いておくと、日本共産党が、名前を変えたら人気が出るだろうとの声に押されて本当に名前を変えてしまうなら、それもまたマヌーバーだ。共産党が野党共闘に熱心なのは、戦前から続く講座派と労農派の日本革命の展望をめぐっての論争において、講座派が主張する二段階革命論を形を変えながらも基本的な部分で継承しているからであろう。当面の「民主主義革命」が日本共産党にとって、目下の最優先の政治課題であり、かつて弾圧を受けた歴史を持つだけでなく、今も破防法に基づく公安調査庁の監視対象団体として指定されている状況下で共謀罪が成立してしまった今、現憲法を護れと主張するのは強い危機感の現れでもあろう。共産党の危機は健全な市民社会の危機でもある。私は、一市民として、単に声援を贈るだけでは足りないのではないかと思い始めている。
「民主主義」という言葉を発する時に決まって金芝河の詩「灼けつく渇きで」(注)を思い出す。複数の訳が出回っているが、最後に、一所不住さんの「抵抗の詩人 金芝河(キム・ジハ)」から引用しよう。
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注)この詩はポール・エリュアールの「自由」の盗作であるとの疑惑が提出されているが、私は、影響を受けているかもしれないが完全に独立した作品として読めるものだと思う。
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