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7月28日に資源エネルギー庁が計画している高レベル放射性廃棄物の最終処分場の選定に向けた「科学的特性マップ」が公表された。前回27日の投稿 は、この発表の前日であったので、直接には対応できなかった。とはいえ、具体的な問題提起は学術の現場で行わないと大した意味はないので、ここでは補足的なことを書き足しておくにとどめたい。
昨年末以降だと思うが、従来、資源エネルギー庁とNUMOが用いてきた「科学的有望地」の文言は一切用いられなくなった。この「科学」が自然科学の意味に限定的に用いられていることはいろいろな報告書を読めば明らかである。最終処分場としての有望性が自然科学によってのみ決められる訳はないから、他の基準による有望性についても併せて議論しなければならない。彼らのほんねとしては「社会的有望地」なるものがあるのであろう。しかし、例えそのような図面を作成しても公表などできない。「自然科学」だけで押し通すことは不可能だが、そこを足がかりに、あとは地域住民との直談判に持ち込もうという訳なのだろう。
こうして公表された「科学的特性マップ」によると、「好ましい特性が確認できる可能性が相対的に高い」地域が全体の約 65%、このうち、廃棄物の海上輸送に便利な海岸から20キロ以内の沿岸部は、「より好ましい」とされ、全体の約 30%を占める。
注意すべきは、相対的な好ましさが高い地域を示してあるだけであるという点だ。相対的に好ましいことだけでは絶対的な安全性の程度はわからないので、結局は個々の地域で具体的にどのような問題があるかを議論し続けなければならないということになる。
いずれにしてもこれから政府主導で候補地の選定がおこなわれ、金で釣って「各個撃破」的に決めてしまうということが始まるのであろう。その場合には自治体住民向けの説明会が開催される筈だから、できるだけ出席して、納得のいくまで疑問をぶつけるべきである。これ以上ゴミを増やさないために直ちに原発を停止するのが話し合いのテーブルに着く条件であるくらいのことは言うべきだろう。「原発の再稼働は民主的な手続きを経て意思決定された結果である・・云々」といった返答には、2012年8月に国がこれからの原発政策について問うたパブリックコメントでは、圧倒的多数が脱原発を志向する意見を提出したのであり、民意は脱原発、再稼働停止であると返すべきだ。また、様々な影響が広範に及ぶ問題であり、一自治体だけの判断で決めてはならないということも主張されるべきである。
さて、前回の記事に南鳥島のことを書いたが、その後調べてみると、高橋正樹さんの地質学会講演以来、専門家の間でも南鳥島を推す意見がいくつか散見される。例えば、togetter「高レベル放射性廃棄物を南鳥島で地層処分」 (2016年12月26日:主に群馬大学の早川由紀夫さんと鹿児島大学の井村隆介さんとの議論)があり、これは、JAMSTECが南鳥島で調査研究というNHKの報道を受けたもの。井村さんはまた、早稲田大学松岡俊二さん の科研・基盤研究(B) 「高レベル放射性廃棄物(HLW)処理・処分施設の社会的受容性に関する研究」第 7 回バックエンド問題研究会(2017年2月20日)において招待講演をおこない、議事録 には「個人的な見解としては、地球上におけるゼロリスクの追求は不可能であり、できるだけ生活圏から離すべきという観点から、南鳥島を候補地とする案が最終的には望ましいのではないかと思う。」との発言が記されている。
最終処分場の候補地として専門家が具体的な地名を口にするのは、もちろん、周囲 1000 km 以内に誰も居を構えていないことで可能になっている。ところで、本年5月14日に資源エネルギー庁とNUMOが開催した「いま改めて考えよう地層処分」と題する全国シンポジウムの東京会場での概要の報告 があるが、その中に質疑応答で次のやりとりがあったことが記録されている。
回答者は資源エネルギー庁 放射性廃棄物対策課長の小林大和氏である。前回の記事で、このことを伝えるNHK NEWS WEB の記事がリンク切れになっていると書いたが、この記事はNHK「かぶん」ブログ にそのまま転載されて残っている。ガセネタということではなく、JAMSTECとして検討はしているが、そのような計画が策定されたという段階ではないということなのだろう。エネ庁の回答はなんとも素っ気ないが、少し真面目に検討してみると、南鳥島を最終処分場とすることは現在進行中のプランとはかけ離れていて、「適合性」に乏しいことがわかる。
現行の計画は、300 m 以深、とはいってもせいぜい 500 m くらいの深さまでの地下に 3 km × 3 km くらいのサイズの施設を建設し、100 年間くらい管理してその後埋設することが前提となっている。前回の記事では、南鳥島の石灰岩は「3,000 m を超えるとは考えられない」と書いたが、この付近の海洋プレートの年齢は約 160 Ma(1 Maは百万年前)で、南鳥島周辺の海山の形成年齢は 120 〜 75 Ma の範囲にある(図1:脚注の文献参照)。南鳥島もこの範囲のどこかの時点、すなわち、海洋プレートが生まれて早くて 4,000 万年、遅くて 8,500 万年が経過した頃に形成されたと推定される。海洋底基盤の深度 D (m) = 2500 + 340√T に当てはめると、その後の(陸上火山活動が停止した後の)沈降量は最大で 2,200 m 程度、最小で 1,100 m 程度と見積もられる。この沈降量がそのまま礁石灰岩の厚さということになる。石灰岩は透水係数が高く、処分場建設には適さないので、その下位の陸上で噴出した玄武岩層がターゲットとなるが、最低でも 1,500 m 、最大で 2,500 m 程度の超深度空間に建設しなければならないことになるのである。
高橋さんがなぜ陸上噴出の玄武岩層にこだわったかというと、その下位の海中で噴出したものは枕状溶岩やハイアロクラスタイトとなって、やはり透水係数が高く適さないからであろう。玄武岩の島が陸上に露出していた時のサイズは沈降後の環礁のサイズとほぼ等しいと考えて良いが、南鳥島はせいぜい一辺が 2 km の三角形に過ぎないので、そもそも陸上噴出の玄武岩層の容積は 3 km × 3 km の地下施設を建設するにも足りない可能性が高い。
NUMOが昨年おこなった地層処分意見交換会の説明用参考資料 によると、事業費は約 3.7 兆円程度で原子力発電を行う電力会社が拠出することになっている。もし、現行の計画から大幅に修正しなければならないとしたら、あらゆることが一からやり直しになり、事業費は数倍に膨らむ可能性があり、電力会社としては何としても避けたいところだろう。また、JAMSTEC が調査研究をやるにしても、その経費を国費で賄うことは許されず、あくまで電力会社の資金によってなされなければならないことも押さえておく必要がある。
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注)南鳥島周辺の海山の年齢はClouard and Bonneville (2004) (pdf: 123 kB) によってコンパイルされている。一部不正確な記述があり、これは Pringle (1992) (pdf: 3.5 MB) によって補うことができる。
この海域(Mariana Basin)の海洋プレートの形成年代については、Sager et al. (1998) がある。
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先ず原発を止めろ、話はそれからだ
原発から排出される高レベル放射性廃棄物の地層処分に関わっている研究者達の合言葉は「原発に賛成であろうが反対であろうが、現に溜まってしまったゴミは何とかしなければならない」である。これはもう、30 年以上前から変わらない。資源エネルギー庁の担当者や所管の NUMO の幹部達も口を揃えて同じことを言う。日本の電力の相当部分を原発に頼ることは、廃棄物の処分方法が決まらないままスタートすることも含めて、国家的な事業として民主的な手続きを経て意思決定された結果であり、次世代にツケを残さないためにも核廃棄物の処分は現世代で解決しなければならない課題である、という訳である。
うっかりすると騙されそうになるが、ちょっと待てよと思う。楽観論を振りまいて国民を騙し続けて来た結果だろうが、と思う。現世代で解決しなければならないから協力してほしいと言うなら、まず、これ以上ゴミを増やすことを止めるのが現世代としの先決事項である筈だ。一般の中小企業が行き場のないゴミを出し続けていたとしたらどうなるだろう。もうとっくに操業停止の行政処分が下されているレベルだ。原発だけ、なぜそれが許されるのか。こんな常識的で簡単な理屈もわからないのは、科学者達の世界でモラルハザードが進行しているからではないのか。倫理崩壊の科学者集団は何をするかわからないから、皆んな気をつけた方が良い。
昨年全国で開催された地層処分意見交換会で配布された説明用参考資料 に、2016年3月末時点で「原子力発電所などで保管されている約 18,000 トンの使用済燃料を今後リサイクルすると、既にリサイクルされた分も合わせ、ガラス固化体の総数は約 25,000 本となります。」とある。「既にリサイクルされた分」というのは貯蔵管理中の 2,300 本のガラス固化体のことである。六ヶ所村の再処理施設はまだちゃんと稼働していないので、ほとんどはこれから準備することになる。それもいつのことになるかわからない。
見過ごせないのは、計画されている地層処分場が 40,000 本以上を処分できる規模であることだ。現時点の廃棄物は 25,000 本相当だから、今後 15,000 本相当以上の高レベル廃棄物が増えることを前提とした計画になっている。「以上」とあるから、5万本になったり6万本になったりするかもしれない。100 万kW 級の原発を稼働率 85%で1年間動かすとガラス固化体にして 26 本相当の高レベル放射性廃棄物が発生する。15,000 本以上の余裕は、10 基の原発を 58 年間以上稼働させるくらいのことが想定されていることを意味する。
「まず、これ以上ゴミを増やすことを止めるのが先決」と言わずしてこれらの事業に協力するということは、そのような計画の全体に協力するということであり、実質的には原発の再稼働を後押しすることになる。
地層処分場の規模をどうするかは重要な政策課題であるはずだが国民にはその重要性が知らされないまま、もう決まったことだと言う。いつだってそうだ。倫理崩壊の人たちというのは油断も隙もあったものではない。「原発に賛成であろうが反対であろうが、云々」というのは、原発に決して反対などしないことをカモフラージュして、市民を、そして自らをうまく騙すレトリックに過ぎない。
JAMSTECよ、お前もか(南鳥島の問題)
ところで、NUMO のウェブサイトの「自治体のみなさまへ」のページの、いまは休止中となっている「応募関連情報」の中に、地層処分場候補地として自治体が応募する際の南鳥島を例とする様式 がリンクされていた。これは、今はリンク切れとなっていて、表からは辿れないようになっている。
なぜ南鳥島が例示されているのか。これには伏線がある。ここ数年来、日大教授の高橋正樹さんが、南鳥島を「トリプルA」の候補地として推しているのだ。例えば、北方ジャーナル誌の 2014年11月号のインタビュー記事 がある。学術の場で公式に表明されたのは昨2016年9月の地質学会での講演 が最初ではないかと思う。高橋さんが推す理由は、長期に安定しているに違いないという推定と、周囲 1,000 km 以内に「一般住民」が住んでいないことによる。ここには自衛隊の施設や気象庁・国土地理院の観測所があるだけで、候補地となっても誰も文句を言わないだろうという訳である。
これに資金不足に喘ぐ(といっても地方国立大よりはマシな)JAMSTEC が目を付けた。今はリンク切れとなっている 2016年12月25日の NHK NEWS WEB の記事から引用しよう。
(以下、略)
高橋さんは地質学会の講演要旨に次のように書いている。
南鳥島周辺の深海平原の深さは、実際は 5,500 m くらいで、海底下 500 m の厚さの部分は遠洋性堆積物からなっている。したがって「深海底盾状火山」が乗っている海洋底基盤の上面深度は 6,000 m くらいである。現在、南鳥島の地表部分を構成している礁性石灰岩は太陽光線の届く浅い海で成長するので、海底火山で噴出した玄武岩は一旦は陸上に顔を出すまで積み重なったと推定される。高橋さんが処分場として推すのは、かつて陸上で噴出し、今は石灰岩の下に埋もれている「数kmの厚さ」の玄武岩層である。
海洋プレートは、平均 2,500 m の深さの中央海嶺で生まれ、拡大を続けるとともに冷却によって沈降する。海洋底基盤の上面深度 D (m) は、 中央海嶺で生まれてからの経過時間 T (百万年単位)とともに、D = 2500 + 340 √T の式で近似されるように次第に深くなる(ただし誤差は大きい)。これに伴い火山活動の止んだ海洋島も沈降する。礁石灰岩は海洋島の沈降とともに海面すれすれに成長を続け、次第に厚くなる。現在の南鳥島の石灰岩の厚さは、陸上火山活動がいつ止んだのかがわからないと推定は難しいが、3,000 m を超えるとは考えられない。したがって、処分場建設のための掘削深度を 3,500 m 以深に設定する必要はない。もしかしたら 2,000 m くらいで済むかもしれない。
にもかかわらず JAMSTEC がわざわざ困難を極める 5,000 m 規模の調査掘削を表明するのは何故か。深海掘削船「ちきゅう」の出番であるという宣伝のための意思表示なのであろう。もちろんそれは、「何とか金を取ってくるため」の宣伝なのであろうが、巨大科学の現場で、組織を守るために,あるいは組織を拡大しようとして科学そのものがねじ曲げられようとしているのではないか。
一市民としての人のあるべき倫理に照らした内省を迂回し、外形的な多数決主義を「民主主義」と称する錦の御旗として用いるなら全体主義となんら変わらない。このブログの記事、ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」のテーゼから学ぶこと の最後に書いたことを再掲しておく。
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東電原発事故によって大量に溜まり続けている「トリチウム汚染水」の海洋放出の可能性が問題になっている。問題の本質は、隅田金属日誌さんによる次の記事にあると思う。
まあ、カミオカンデのタンクの容量は3000トンしかないので、ここに流し込んでも焼け石に水だが、論旨に賛同する。
ちなみに、2016年2月時点で保管されていた汚染水の総量は約78万トンで、このうちALPSでの処理水は約61万トンであったのが、今年2月時点では90万トンを超え、貯蔵タンクは1000基に上るという。
いろいろとひどい議論がまかり通っているが、ここでは、たまたま目にした林 智裕 @NonbeeKumasanさんの「ソジウムクロライド」のtweetを取り上げよう。
一瞬なんの話かと思ったが、「海水中に平均 3.5%」のところで「ソジウムクロライド」が塩化ナトリウムを意味するとわかった。海棲生物は3.5%程度の塩分濃度に適応して元気に生きているけれど、その濃度が限度を超えて変化したら生きていけなくなるし、逆に淡水生物は海水中では生きていけない。また、ナトリウムはほとんどすべての生物の生命維持活動になくてはならないもので、人もまた、塩化ナトリウムを摂取することでそれを補っている。それに比べてトリチウムは害しかない・・・、等々のことは多くの人が常識として知っているので、これを読んだほとんどの人は、何を言っているのかと不審に思ったに違いない。
保存料として食品添加物に使われるのは人にとって毒性がないからであるし、普通におにぎりに添加するのは調味料として、また、塩分補給にも不可欠であるからに決まっている。ガンや高血圧のリスクが高まるのはとりすぎによるもので、逆に不足しないよう継続的な摂取が必要なものであることも、多くの人は常識として知っている筈だ。
だいたい、すべての物質は限度を超えて摂取したら体に悪いに決まっている。水だって例外ではないし致死量だってある。「したがって全ての物質は毒物である」と言うか。答えはNoである。そんな理屈は馬鹿げているし、ほとんどの人はそんなふうには思わない。塩化ナトリウムが毒物でないことは常識なので、希釈などせずにその結晶を舐めたりもするし、それで何の問題もない。何しろ生体に必須のものだ。だから、これを読んだほとんどの人は、なんて馬鹿なことをと思ったに違いない。
限度を超えて摂取したら体に悪いが毒物ではないもの、例えば塩や砂糖や醤油などと、どんなに微量でも微量なりの毒性を有する放射性物質とを一緒くたにして限度が問題と結論する論法がネット界の片隅で流行っているらしい。しかしこれは、問題の本質を何も理解していないことを告白しているに過ぎないものである。
誰かを馬鹿にする意図はないと言いつつ、騒いでいるのはトリチウムのことを良く知らないからだと馬鹿にしているのである。
そんなにトリチウムに詳しいのなら、管理対象となる基準値がトリチウムについて、総量が10億 Bq、かつ濃度が100万 Bq/g(注1)となっている根拠を説明してほしい。
トリチウムの実効線量換算係数が、吸入・経口摂取ともに、水の場合で 1.8 E-8 mSv/Bq、有機物の場合で 4.1 E-8 mSv/Bq(注1) と、およそ 2.3 倍の開きがあるが、なぜ 2.3 倍なのか説明してほしい。トリチウムの結合した有機物を介して数千倍の生物濃縮があるとの報告(注2)があるが、本当に2.3倍で良いのか説明してほしい。
トリチウムは処理する術がないため原発から多量に放出されているらしいが、もし簡単に処理できるものであるなら、本来どれくらいの規制基準にすべきものであるか、教えてほしい。
「みんなが知ろうとすることが大切だよね。」という意見に賛成である。もし知っていたらぜひ教えてほしい。
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注1)放射線を放出する同位元素の数量等を定める件(文部科学省)
他にも多数
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安倍首相が7月12日に九州北部豪雨災害の被災地を訪問し、避難所で被災者に声をかけている場面の画像に勝手な会話を付記したものが複数出回っている。さらにそれをリツイートする人が後をたたない。
このような行為はフェイクニュースの拡散となんら変わらないものであり、直ちに中止し、削除すべきである。
特に、被災者の心情を思うといたたまれなくなる。ヒトラーTシャツを着てNHKに出演した堀江貴文氏と同じで、ジョークやネタにして良いことといけないことの区別のつかない人があまりに多いのは嘆かわしい。
安倍首相が声をかけている相手は、私がみた限り全て高齢の女性ばかりであったが、これは偶然だろうか。安倍首相がこのような場面でいつも高齢の女性ばかりに声をかけているのは事実だ。私は、高齢の女性なら厳しい注文が返されることはないだろうとの「無意識のヨミ」があったのではないかと疑っている。
その場面に勝手なセリフを捏造して画像とともに拡散するのもまた、高齢の女性なら、自分の画像が晒され、しかも、勝手なセリフが捏造されているのをネットから探し出してクレームを付けるようなことはしないだろうとの「無意識のヨミ」があったのではないかと疑っている。
人権無視の安倍政権を批判するのに、そのような人権を無視した行為をもってすることに何の意味があるのか。
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前回の記事ではアーレントに難癖をつけるような終わり方になり、心地悪いので、書ききれなかったことを補足しておきたい。
「ユダヤ人として攻撃されたらユダヤ人として身を守らねばならない。」アーレントは、ドイツで、そして亡命先のフランスでシオニズム運動に身を置いて活動することになる。フランスが降伏して捕らわれの身となり、偶然の隙をついてアメリカへの亡命が叶った後、フランスの同じ収容所に残されたユダヤ人達が「屠殺場」送りになったのではないかとの恐怖、負い目 、悔悟の念に苛まれる。
九死に一生を得る以上の体験をしたアーレントにとって、アイヒマンを単なる殺人犯として裁くことは耐え難いことだったに違いない。彼の罪状の本質は「人道への罪」であり、何より「人類への罪」であり、たとえ殺人に直接手を下すことがなく、上司からの命令を部下達へ忠実に伝達しただけだったとしてもその罪からは逃れられないとアーレントは考えた。既に1944年の秋頃までには着想されていたそのアイデアを明確に主張するために、アーレントは、エルサレムの検事達が無数の具体的な殺人の証拠を並べ立てようとすることにことごとく批判の矛先を向け、アイヒマンをある種の典型的な人間に仕立て上げた。
雑誌特派員によるアイヒマン裁判の傍聴記としてまとめられた筈のレポートは、具体的な出来事のいちいちにアーレント独自の視点から時系列の不明確な注釈が加えられた一片の論文と化したものになっているのである。しかし、アーレントのその行為によって重要な論点が失われてしまったのではないか、というのが前回書きたかったこと。
ところで私は、「悪の陳腐さ」と「悪の凡庸さ」の二通りの日本語表記が流通していることに長い間違和感を抱いていた。「陳腐」と「凡庸」では意味が異なるではないか。複数の辞書に当たって調べたところ、形容詞の ”banal” には「陳腐な」と「平凡な」の二つの訳語が出てくるが、アーレントが用いた名詞の “banality” には「陳腐さ」しか出てこない。映画『ハンナ・アーレント』の日本語字幕は「凡庸さ」を採用している。実際この映画は、「陳腐さ」ではなく完全に「凡庸さ」を主張したような作りになっていて、DVD付録の冊子には次の記述がある。
項目名には「陳腐さ」が括弧書きで付記されているが、内容は「凡庸さ」の説明となっている。2013年ドイツ映画賞で作品賞銀賞を受賞とあるが、当地でもこうした理解が定着しているのだろうか。ざっと見渡したところ、専門家は「陳腐さ」と表記し、巷では「凡庸さ」と表記されるのが多いように感じる。では、「陳腐さ」の説明として上記の言明は妥当であろうか。
この点に関わっては、少し前にネット界の片隅で話題になった香月 恵里さんの論文:『アイヒマンの悪における「陳腐さ」について』が、問題の所在を理解する上で良い助けとなる。ただし、私自身が個々の分析の全てに納得できたという訳ではない。関係しそうなところを節を追って拾ってみよう。
1.「命令受領者」アイヒマン
いきなり、次の記述に困惑する。
「自分は上司の命令に従っただけであり,忠誠と服従の誓いに拘束されていた,告訴の意味においては無罪だと判で押したように繰り返した」という記述と、最後の、「アイヒマンは権威に服従した役人に過ぎず,ナチという抹殺機構の中の歯車に過ぎなかったといういわゆる「歯車理論」は,アーレントも否定し,アイヒマン自身さえ口にしたことがなかったのに,・・・」との記述は、事実に関する事柄であるだけにどう考えても両立しないように思われるが、終章において開ける視界の元では、大きな問題ではない。
2.もう一つのアイヒマン像
ここでは、法廷におけるアイヒマンの仕草や証言は、「もしかしたらこれは芝居なのではないだろうかという疑問」から出発し、尋問官レスの判断と、アイヒマンの生い立ちから遡る行状を整理して次のように結論される。
これは、冒頭の疑問としてあった「芝居説」が正しいとの判断が語られていると読める。つまりアイヒマンは、どこにでもいるような小役人などではなかったという、おおかたの、そして香月さん自身の認識を示したものであろう。
3.「サッセン・インタヴュー」
この節では、アルゼンチンに逃亡していた時期のアイヒマンが、数百万単位の虐殺をなんら恥じることも後悔することもない反ユダヤ主義者そのものとして振る舞っていたこと,そして「今一度人々の注目を集める重要人物として世間に復帰したいという虚栄心と名誉欲を 持っていたこと」が語られる。
4.確信したナチか,それとも平凡な出世主義者か
前節までを振り返ると、答えはYesであろうか。しかし、冒頭において「いわゆる「歯車理論」は,アーレントも否定し」と書いておきながらのこの問いはなんだろう。そして次のように結論される。
これもまたよく分からない言明である。「アイヒマンは確かに「確信した反ユダヤ主義者」だった」との判断と「その動機は,何らかの世界観やユダヤ人への激しい憎悪に基づくもの」ではなかったという判断がどう両立し得るのか、私には理解不能である。「主義者」というものは、何らかの世界観をもってそのように認識される筈のものだ。私の前回の記事に即して言えば、ヨナスにとってアイヒマンは狂信的な反ユダヤ主義者と映っていた訳であるが、香月さんの論文においてそのことは十分には反証されていないと感じるのである。
5.「根源悪」から「悪の陳腐さ」へ
前節までは疑問点ばかりを並べ立てたが、ここでは第二の師ヤスパースとのスリリングな対話が軸となって展開され、一気に視界が開け、結論へ向かう仕掛けとなっている。
アイヒマンの所業は、「人間性のうちに根を張っている」性癖のようなものに基づく動機の上になされるカント流の「根源悪」という概念だけをもってしては、その結果の重大さに照らして理解が及ばない。20世紀になって現れた全体主義の元では、犯罪の動機とその結果がかけ離れたものになり得るのであり、結果のあまりの重大さに比べれば、その動機の方は「陳腐」と言えるほどのものに過ぎない。また、結果のあまりの大きさに比べれば、アイヒマンが、命令に忠実な小役人に過ぎなかったのか、それとも、虚栄心や名誉欲といった人間につきものの欲によって多少の逸脱をなしがちな者であったのかは、大した問題ではないということになる。ここでは、「全体主義の元では」という注釈が、最も重要な前提条件となっていることに注意しておく必要がある。この点で私は、香月さんの説明に深く納得する。
なお、邦訳書『イェルサレムのアイヒマン』の訳者大久保和郎氏による解説には、このことに関わって、「ヤスパースは死刑廃止は当然とする含意のもと、この犯罪は例外的なものだから、例外的に死刑を適用すべきだと主張している」と記されている。
全体主義の元で法に従ってなされる罪の問題を掘り起こしたアーレントの功績は確かに大きく、学ぶべきことは多い。組織化された巨大な罪を個々にたどれば,凡庸な人間の、落差の大きさに笑ってしまうほどの陳腐な動機に基づくものであることが多い。日本においても全体主義が芽生えようとしているのではないかとの危機意識にたつとき、その危機の本質は、歯車に過ぎない小役人が、あるいは善良な科学者や企業人が、重大な犯罪に手を貸し、「人道への罪」、「人類への罪」を犯してしまうことにあり、今まさに凡庸な多くの市民さえ、その罪を犯しつつあるのではないかと思われてならない。
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