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昨年末に八重山諸島方面へ出張した際に、久しぶりの沖縄ということで携行した次の一冊を読み、沖縄が抱える問題に理解を新たにしたことが多かった。
宮城康博著『沖縄ラプソディ』(御茶の水書房 2008)
政治オンチの私のようなものが、多少とも政治的なアピールを含むこの種の本を下手に紹介しては、読者を増やす妨げとなるかもしれない。ただ、どのような立場からであっても、沖縄がかかえる問題、そこから派生するあらゆる問題に関わって何かを発言しようとする者は、宮城氏がこの本で提起したことに正面から向き合う義務があると感じられたことを、まず記しておきたい。
さて、年末年始には、久しぶりに小泉文夫の著作をまとめて読み返した。前3回のエントリーで度々引用した岡田真紀著『世界を聴いた男 小泉文夫と民族音楽』は、それらを読み返す際の良いガイドとなった。また、いくつかの記憶違いや思い違いにも気づかせてくれるものとなった。その中の一節「アジアのなかの日本」(p. 278〜)は、次の文で始まる。
「一九七一年(昭和四六)から一九七四年まで、毎夏には東南アジア、東アジアの国々を訪れ、一九七三年からは日本の沖縄諸島の音楽調査も再開し、小泉は日本と東南アジアの間に深いところで通い合う音楽性を聴きとる。ここから、小泉は「アジアにある日本」をより強く意識するようになる。」
既に小泉には、1970年の大阪万博のお祭り広場で、アジア各国の古典音楽、舞踊を中心とした「アジアのまつり」を企画演出するという経験があった。やがて、アジア諸国全体の共同研究として、アジアのつながりを人文科学としての比較音楽学の視点から総合的に研究する必要性を痛感するようになる。
この企ては、小泉とは無関係に、外務省の外郭団体である国際交流基金のプロジェクト「アジア伝統芸能の交流」(1972〜?)として実現しようとしていたが、当初は、専ら日本の芸能・芸術の海外紹介に充てられていた。ところが、アジア諸国には、第二次大戦の惨劇やその後の日本の貪欲な経済活動などから反日感情が渦巻いていて、1974年には田中角栄首相の東南アジア歴訪に際して激しい反日デモが起きたりしていた。こうした中、「日本の芸能を持っていくだけでは相互理解、文化交流は不可能である、ということを現場のスタッフは強く感じていた」。そこで芸大教授に就任したばかりの小泉に打開策が相談されることになったようだ。
結果、「逆に、アジアの芸能を日本でも紹介し、日本人がアジアの芸能、文化を理解する機会を作らなくてはならない、その姿勢をアジアに示さなくてはならない」ということで、方針が定まり、この企画は大きな成果を残すこととなった。その後も小泉は、多忙な中、数々の政府機関や民間の嘱託委員を務めた。それが激務に拍車をかけ、彼の寿命を縮める要因の一つになったと思うのだが、私自身には、その情熱が何に由来し、何に向けられているのか大きな謎であった。
60年代後半から激しさを増していたベトナム戦争も、75年にはアメリカの敗北で終結するといった時代である(注1)。日米安保条約改定反対のデモにも参加していた小泉は、ある種の反米感情のようなものも抱いていたことが記されている。
小泉は、土着の伝統芸能が人々の生活様式のようなものと分ち難く存在している様をつぶさに観察し、アジアという共通の文化圏の存在とその実体を明らかにした。それなのに、日本および日本人は、そのことを自覚できないまま、もっぱらアジア諸国を経済活動や観光の対象としてしか捉えていなかった。それどころか、ベトナム戦争では、北爆に向かうB52が沖縄から飛び立ってさえいた。小泉は、世界中の音楽を調査した結果の結論として、世界三大音楽文化圏の一つに沖縄を揚げていたのだが(注2)、その沖縄が、アメリカがアジアに対して傍若無人にふるまう拠点となっていたのは、沖縄の人々の心情を思えばこそ耐え難いことであったろう。
結局小泉は、本来あるべき文化を壊すものと全力をあげて闘っていたのではないかと思う(注3)。自らに課したのは、広く深く<事実>を知ること、そして、それを民衆のレベルで世に広めること、そのことを通して、異なる価値観からなる世界に相互理解の輪を広げることだった。この方法だけが、地域ナショナリズムにこもる危険を回避しつつ、平和の内にそれぞれの文化を豊かに発展させる唯一の道であるに違いない。
冒頭に掲げた宮城康博氏の著作にも、根のところである種共通するものを感じた。
宮城氏は、80年代を東京で演劇生活などをしながら過ごしたあと、90年代初頭に沖縄名護へ帰り、行政の地域計画策定や市役所の広報をつくる仕事に従事する。まもなく、米軍の普天間飛行場返還の代替え施設として、名護市に新基地建設の話が降り掛かった。そこから、新基地建設の是非を問う住民投票実現の運動の先頭に立ち「積極的に「政治」にコミットしていった」。
本書では主に、それらのことにかかわって、歴史的な事実や、安保条約や日米地位協定の条文や、各種行政文書、憲法や国際法の視点も交えて、「地方自治の本旨」と平和構築の思想が語られる。圧倒的事実が地域ナショナリズムを超える論理を紡ぎだしているという意味で、本書は、沖縄問題の資料集の一つとしての価値も大きい。
さらに、本書の価値を高めているのは、問題の所在を論じる確かな視点にあると、私なりに思う。例えば、第三部 「地球の万人へ」を読めばあきらかである。ことに、「われらはみな、アイヒマンの息子」と題された短い章に凝縮されていると感じた。政治的な選択においては、私たち自身がその選択肢を主体的に準備できないまま、お上によって提示された選択だけを強制されることがある。そのことを宮城氏は「奴隷の選択」と表現する。沖縄は、そうした「奴隷の選択」を永い間強いられ続けてきたのだが、それは何も沖縄に限ったことではない。
ユダヤ人虐殺を「職務を忠実に果たしただけ」と語ったアイヒマンの「悪の凡庸さ」は、宮城氏が指摘するように、ホームレスを見殺しにする市役所社会福祉部職員だけでなく、ジュゴンの海の環境破壊に無関心でいられる多くの人々の心の中にも潜んでいるかもしれない。「職務に忠実だっただけ」というのは、「職務ではなかっただけ」と同義だ。「奴隷の選択」は、私たち自身が、「アイヒマンの息子」であることから抜け出さないかぎり、続いていく道なのである。
石垣島のガマの一つに花束が供えてあるのを見た。眼前に広がる透きとおったコバルトブルーの海とのあまりのコントラスト。しかし私は、この島で何がおきたのか具体的には知らない(注4)。「沖縄」の問題は、おそらく、世界中でおきている平和を脅かすいろいろな問題と繋がっているに違いない。また、平和のうちに暮らすことのできる環境という意味での「環境問題」とも繋がっている。私は、「沖縄」から考えることを始めようと思った。
僭越ながら、本書をぜひ多くの方々に読んでいただきたいと願うものである。
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注1)1972年には、米軍による激しい北爆が再開されたが、これは、既にベトナムからの撤退を決意していたアメリカにしてみれば、その後の和平交渉を有利に運ぼうとの思惑に基づくものであったのだろう。翌73年にパリ協定が締結され、米軍がベトナムから完全撤退する。その後、南北両ベトナムの「正規軍」の戦いとなり、75年4月30日のサイゴン陥落をもって、ベトナム戦争は終結する。
注2)小泉文夫は、世界中で最も「音楽的な地域」として、北インドと日本の沖縄および津軽地方をあげている。いずれの地域の音楽も本来「即興性」というものが重要視されているようだ。彼の著作中、沖縄音楽にふれたものとして、次のものがある。
『民族音楽研究ノート』(青土社 1979)
『小泉文夫 フィールドワーク』(冬樹社 1984)
注3)小泉の、命を削るような活動のその情熱の源泉は、若い頃キリスト教に入信するというような彼の心性と無縁ではないと思う。
注4)沖縄戦において八重山群島では鑑砲射撃と空爆がなされたものの上陸戦はなかったとされている。一方で、軍命による強制移住がきっかけとなり、悲惨なマラリア禍が発生し、数千人の犠牲を生んでいる。
http://kyoto-getto.hp.infoseek.co.jp/okinawa/war/war_idx.htm#war2
http://www.okinawatimes.co.jp/sengo60/kako/19820625_01.html
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