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ここでは水俣病の歴史から、引き続き「科学原理主義」の弊害について考えてみる。関係する年表は下記サイトをご覧いただきたい。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/4444/log1/minamata-01.html
http://www7.ocn.ne.jp/~mimuseum/
水俣湾の周辺で「猫の踊り病」が注目されたのは1952年。その翌年には、「最初の水俣病患者」が発症する。水俣病の公式確認は1956年5月とされている。同年8月24日に熊本大学医学部に水俣奇病研究班が発足し、11月にはチッソの工場排水に着目した疫学調査がなされ、水俣湾の魚介類による重金属中毒説が出された。厚生省が最初の現地調査を行ったのもこの頃である。既に状況は極めて深刻で、この年の年末までに54人が発症し、17人が死亡している。
以来、熊本大学医学部の研究班を中心に原因究明に向けた取り組みが始まる。それは、次々と患者が増え、死亡する人も後を絶たない、一刻を争う緊張感の中でなされた取り組みであったが、様々な批判や妨害工作との闘いでもあった。ついに1963年3月、入鹿山教授がチッソ水俣工場スラッジからメチル水銀化合物を検出したと報告、原因はチッソの廃液にあると断じた。実際にはチッソ内部では、そのはるか以前に、同じ結論に至る証拠をつかんでいたのであるが、チッソはそれを隠し続けていた。
いずれにしても、このことで状況は大きく進展するかに思われたが、実際にチッソがアセトアルデヒドの製造を中止したのは、5年後の1968年5月になってからであり、政府見解として、その原因を公式に認め、新潟水俣病とともに、公害病と認定したのは同年9月26日のことであった。公式発見から実に12年余が経過しており、この間に数千の患者を生み、1971年までに48人、1974年までに100人の死者を出すこととなった。
水俣病の原因究明と被害対策が遅れたのは、人命より利益を優先する大企業の利益至上主義が、その政治的代弁者たる日本国政府と一部の御用学者に影響を及ぼした結果であると要約することもできるだろう。しかしここでは、本題に沿って、一刻を争うような人命にかかわる課題と格闘している科学者達に向けて、他ならぬ科学の立場からどのような批判がなされたのかを見てみよう。
水俣病が、直接的には水俣湾周辺の魚介類を食べることで発症しているとの疫学的知見は早い段階で得られていた。1957年2月、熊本大研究班は水俣湾内の漁獲禁止が必要と提言し、同年4月には伊藤蓮雄水俣保健所長の実験で、水俣湾で獲れた魚介類をネコに与えて10日目に発症したことも確認されている。これらをふまえた県の照会に対して、厚生省は、水俣湾内特定地域の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠はないので、漁獲を禁止する訳にはいかないと回答している。典型的に、帰納法の弱点を突く論法であり、確かに、科学論としては間違っていない。
1958年には、チッソの廃液に原因ありとの報告もなされたが、そもそも、チッソの廃液と患者発生との間に相関が見出されたとしても、相関関係と因果関係は別であり、そんなことは科学の基本であるとの批判がなされた。前回、脚気の歴史で述べた森鴎外の主張と同じである。こうして、新たな現象の発見がある度に、その実体や本質を問う反論や批判がなされた。
それらの全てを御用学者の妨害工作と断じても、何の証拠もないことであり、事態は進展しない。こうして、どの立場の科学者達も、原因物質の実体、因果関係、および発症のメカニズム解明と理論の構築に向けての研究と論争にのめりこむことになる。
1958年に有機水銀中毒としてのハンター・ラッセル症候群が注目されると、翌年2月には、厚生省水俣病食中毒部会(=熊本大学研究班)により、水銀に着目した調査がなされた。その結果、チッソの排水口近辺を中心に、水俣湾内の泥土から「水銀鉱山並」の多量の水銀が検出された。さらに、不知火海沿岸住民、とりわけ水俣病患者とその家族の毛髪、および、湾内の魚貝類からも高濃度の水銀が検出された。これを受けて、熊本大研究班は、有機水銀原因説を発表することになる。
ところが、チッソが工場内で使用していたのは無機水銀であり、無機水銀が周辺の海域で有機水銀に転化するメカニズムの解明なくして有機水銀原因説を唱えるのは非科学的であるとの批判がなされた。
有機水銀が工場内で生成されていた可能性が高まった後も、それがメチル水銀であることが突き止められるまで、科学的な厳密さを問う様々な批判がなされた。チッソ水俣工場のスラッジからメチル水銀化合物が検出されても、それが、チッソ工場の生産工程において生成されることを証明しなければ受け入れられないとの批判もなされた。ついに1967年、チッソ工場の反応容器の環境を再現することで、無機水銀からメチル水銀が生成されることが実験的に証明されたが、これに対しても、実験に過ぎず、理論的な解明とは言えないとの批判さえあったのである。
メカニズムや因果関係の理論的解明は、科学の一つの目標である。しかし、一刻を争う多数の人命にかかわる課題に取り組んでいる時に、科学的な厳密さに欠ける点をついて、可能な対策提言を先延ばしにしてしまうような批判を行う態度は、まさに「科学原理主義」と呼ぶに相応しい。あるいは「科学バカ」と呼んでも良い。
「科学原理主義」は、しばしば、実体論や本質論に夢中になるあまり、現象論を軽視しがちになる。その弊害は、水俣の現場に足を運ばずして提唱された数々の珍説を振り返れば容易に納得されるであろう。新しい説が出される度に現場の科学者達は反論のための不必要な労苦を強いられた。
「科学原理主義」にはまた、現実の社会に潜む「党派性」の罠に、簡単に足下を掬われてしまうような危うさもある。「純粋科学」はそういうものとは無縁であるとの放漫さの故であろう。企業の論理が現実の科学に及ぼす影響にあまりにナイーブな科学者は、どこにでもいる。今では、4大公害病(水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく)は高度経済成長の時代の負の遺産であって、そうしたことは過去のものであるとする風潮もあるようだ。しかし、現実はどうだろう。
先日、7月30日夜のNHKの報道番組によると、最近もまた、島根県出雲市における松枯れ対策の害虫駆除剤の空中散布時に、周辺地域の小中学生や住民から目の痛みなどの被害の訴えが相次いだという事件がおこっている。この時は、農薬を製造・販売している企業の代表、空中散布を指揮する市の担当者、医師や大学の専門家などが呼び集められての原因究明のための検討会が開かれた。
検討会を続けるうちに、当初この薬剤が人体には無害であると説明されていたのに、後になって、国への許認可届けの書類に、刺激性の反応ありと記されていたことが発覚する。また、薬剤はカプセルに入れて散布されるので、遠方へ飛散することはありえないと説明されていたのが、実際にはカプセルのサイズに大きなばらつきがあり、風速次第では、微細なフラクションが被害分布を説明できるくらいに飛散する可能性のあることも発覚した。さらに、散布許可の条件として地表風速の上限が定められているのに、ヘリコプターが飛ぶ高度での風速の影響が大きいことなど、数々の問題点が明らかになった。
門外漢としてではあるが、今回の被害は空中散布以外にはあり得ないように思われる。それでも、個々の専門家達の判断は、空中散布と関係あり2名、空中散布とは無関係2名、無関係とは言い切れない7名、と分かれ、結論は先送りになった。「無関係とは言い切れない」が多数なら、この場合、即中止という結論で良い筈だ。
「科学原理主義」が克服されないかぎり、同じことは何度でもくり返されるであろう。
最後に本題から少し離れるが、私自身は学生時代に、ほんの数日間、水俣病裁判の準備書面作成にかかわって水俣の漁村における聞き取り調査の手伝いをやったことがある。その際には、現地において原田正純熊本大医学部助教授(当時)の話を聴く機会があった。以来、「ミナマタ」は、私にとって、科学が社会と切り結ぶ現場において、科学者はどうふるまうべきかといったことを考える際の原点として刻まれることとなった。
その時の原田氏の話で印象に残っているのは、水俣病とは何なのかということ。結局これは、十数万の人々が暮らす環境が人為的に汚染されたということであり、必然的に、そこに暮らす全ての人々が、その悪影響を何らかの形で被ることになった、そういう環境汚染の事件であるということにつきる。「環境汚染」という言葉は、当時既に市民権を得ていた。なんら新鮮みのない当たり前のことを、原田氏がなぜ力説したのか、その意味をどれだけの人々が理解したであろうか。
原田氏は、原因のいかんにかかわらず、そこにいわれなき不幸があるなら、国民の生命・財産を守る義務を負う政府・為政者は、ただちに、そして無条件にその不幸の救済にあたるべきであるとも主張した。もちろん、我が日本国政府が、それとは真逆の対応をし続けたことへの批判であった訳だが、本質的には、今もその状況に変わりないだろう。
原田氏はまた、原因究明ばかりに気を取られて、患者の痛み・苦しみを和らげるための、医師としての治療法の研究がおろそかになったと悔いていた。科学的な原因究明のあり方といったことにも何事かを主張されたと思うが、当時の私にはそうしたことを理解する能力はなかった。
広島原爆の日に記す。
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