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はじめに
最近ウェブ上で議論されている「かけ算の順序」をめぐる議論にかかわって、遠山啓の考えを誤って伝えているものがあるのを見かけた。要約すると、小学校の算数の授業でかけ算の順序に拘った教え方をしているのは、数教協(数学教育協議会)の影響によるもので、これは、故遠山啓の「理論」の名残である、というもの。事実はどうかというと、遠山は、かけ算の順序を固定することに、いかなる場合においても、理論的にも、教育上の観点からも明確に反対していた。
そこで、遠山の思想や哲学(注1)について、今は述べることはできないが、せめて、彼が語った事の断片でも正しく伝えたいと思った。しかし、「かけ算の順序には意味がある」と主張する側の論理を、はっきりとは掴みかねてもいた。かけ算の順序に拘ることに反対の立場からエントリーを上げて、問題提起をされた積分定数さんのブログに寄せられたコメントを読んでも、今ひとつはっきりとしない。
http://daiba-suuri.at.webry.info/200906/article_1.html
ところが、まもなくして、瀬戸智子さんのブログ「瀬戸智子の枕草子」に、かけ算の順序に意味ありとする記事がアップされ、これを読み、コメント欄で短い質問をした後で、私はやっと理解できた。
「かけ算の順番についてツラツラと考えました」
http://ts.way-nifty.com/makura/2009/07/post-4df6.html
1.かけ算の順序に拘る理由
一例として、
「4人の人にみかんを3個ずつ配ります。みかんは全部で何個必要でしょうか。」
これを、ほとんどの小学校では、
3×4=12 --- 正解
4×3=12 --- 答えは正解だが、式は間違い
と採点するそうだ。
これは、子供の発達段階を見通した教育上の戦略に基づくもので、この場合「一人あたり3個で、4人分必要」と考えて、
(1あたりの数)×(いくつ分)=(全体の数)
という式を立てるように指導していて、「1あたりの数」と「いくつ分」をきちんと理解しているかをチェックするために順番に拘っているのである。したがって、式としては、順番を逆にして
(いくつ分)×(1あたりの数)=(全体の数)
としても良いが、「1あたりの数」を先に書きなさいと指導しておけば、解答にそれが現れるのでチェックし易いというもの。
また、これを理解しないまま次に進むと、割り算の等分除(「1あたりの数」を求める)、包含除(「いくつ分」を求める)や内包量(速度や濃度など)の勉強でつまずく、ということらしい。
これはこれで理屈は通っていると思う。ただし、明らかに不適切と思われる点がある。
2.設問の題意と採点基準の乖離
後で述べるように、同様の議論は過去にも新聞紙上で大きく取り上げられたことがある。なぜ、このことが繰り返し問題になるかというと、設問への解答として 4×3=12 は決して間違いではないのに、これにバツを付けられたことへの反発があったからだ。これは簡単なことで、設問の文章から読み取れる題意と採点の基準が著しく乖離しているのである。もし、本当に瀬戸さんが言うように、「1あたりの数」と「いくつ分」の理解度をはかろうとして出題するのであれば、設問は、次のようにすべきだ。
「4人の人にみかんを3個ずつ配ります。みかんは全部で何個必要か、(1あたりの数)×(いくつ分)=(全体の数) という式をたてて答えなさい。」
もっと直截に、「1あたりの数はいくつですか」と問うのが一番良い。
もしこれが入試問題であって、文章から読み取れる題意と採点基準が著しく乖離していた場合、たちまちマスコミネタになってしまうだろう。なにより、遠山も強く主張していたのだが、これで教師不信、算数不信に陥る子供が出る可能性もある。算数・数学の問題では、題意を明示的に示すことは、大前提である筈だ。
次に、かけ算の順序について遠山はどのように考えたかを述べよう。
3.遠山啓の主張
彼は、著作集の中の『量とは何かI』(太郎次郎社、1978)の「II-外延量と内包量」の章に、「6×4、4×6論争にひそむ意味」(p114-120)という特別の節を設けて、この問題を6ページ半に渡り詳述している。同じ事は、『水道方式とはなにか』の卷においても繰り返し述べられている。それは、1972年1月29日の『朝日新聞』に、小学校のテストをめぐって、ここでの議論と同じ論争が載ったことがきっかけになっている。
この時の問題は「6人のこどもに、1人4こずつみかんをあたえたい。みかんはいくつあればよいでしょうか」というもので、6×4=24 と書いた子どもが何人かいて、その答案は、答えの「24こ」にはマルがつけられ、式の「6×4」にはバツがつけられ、「4×6」に訂正されていた。これに疑問をいだいた親が、文部省にも質問状をだして論争がまきおこったとのことである。
遠山は次のように書いている。
「この問題の答えとして、4×6 だけが正解であり、ほかを誤りとする理由はどこにもない。もともと算数の考え方は一通りしかないと思いこむのがおかしいので、多種多様な解き方があってよいのである。
ミカンを配るのに、トランプを配るときのやり方で配ると、1回分が6こ、それを4回配るのだから、それを思い浮かべる子どもは、むしろ、
6×4=24
という方式をたてるほうが合理的だといえる。」
ここで遠山は、かけ算の交換法則のことを言っているのではない。つまり、そもそも、4と6のどちらを「1あたりの数」とするかは考え方次第であって、一方に固定できないと主張しているのである。別の例として、ウサギが3羽いる時の耳の総数をかけ算で求める時に、耳が1羽あたり2本ずつと考えても良いし、左耳が3本、右耳が3本と考えても良いとしているのも、「1あたりの数」を2としても3としても、どちらでも良い理由として書いている。
実際には「左耳が3本、右耳が3本」と考える子どもは、いるとしてもごく少数であろう。しかし、それが、個々の問題でどのような割合になるかは、設問の言葉の表現にどのように<引きずられたか>の違いに過ぎないとみることもできる。
以上に述べた遠山の主張には、次の二つの観点から議論の余地がある。
1) 理論的なこととして、「1あたりの数」と「いくつ分」が、それぞれ、6と4のどちらに対応しているかは自明ではなく、どちらか一方に固定できないという遠山の主張は正しいか。
2) 「1あたりの数」と「いくつ分」を理解しないまま次に進むと、割り算の等分除や包含除、および内包量の勉強でつまずく、という、瀬戸さんの主張に比べて、遠山の主張には、将来を見通した教育効果上の戦略という視点が欠けているのではないか。
これらの問題は、遠山の「算数における助数詞廃止論」と「水道方式」にそれぞれ関係しているが、両者はつながっている。そのことは、遠山にとっては、子どもの教育の実践をとおして得られた確信であった。
次には、特に第一の問題に拘わって「助数詞廃止論」を軸に述べてみたい。
(つづく)
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注1:吉本隆明のいくつかの著作に、次のような記述があったことを思い出す(記憶に頼っているので不正確)。
吉本は、戦中、東工大の化学コースへ進学したが、敗戦となって茫然自失におちいった。ほとんどの教員も学生も生きる目的を見失っていた。誰もいないと思われた大学へ行ってみると、廊下に遠山による張り紙があって、「量子力学の数学的基礎付け」についてセミナーをやるので、興味のある者は参集のこと、というようなことが書いてある。遠山は、何も見失っていなかった。吉本は、すがるように遠山の元へ通いつめた。
遠山は、数学における直感というものを、生得的なものと考えていた。フッサールが、人に共通に備わる「理念」のつくる構造を足がかりに<認識の素過程>を明らかにする「現象学」を建設していったように、遠山は、無限に可能な数学の<体(てい)>の中から、ヒトが選び取ったただひとつのそれが自然の純粋な記述になり得ていることを足がかりに、人の理念のつくる構造が自然の写像となっている原理を明らかにしようとしていた。彼が、小学校の算数教育において量の概念の定着を目指す実践の中で掴み取った確信を出発点としているだろう。
最近、かつさんの「遠方からの手紙」に、吉本にふれたエントリーがあがっている。
http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200908050000/
私自身は、吉本の思想に魅かれるところと反発するところがあり、短い評論はついつい読んでしまうのだが、本格的なものは読んだことがない。
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