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5月12日の東電の発表によって、福島第一原発1号機で炉心の全溶融がおこっていたのらしいことが明らかにされた。東電のHPにおいて日々公開されていた原子炉の圧力、温度、水位のデーターには信頼性がないということになった訳だが、これを注視してきた者としては、やはりそうかと思わざるを得ない。既に書いたように、密閉された圧力容器に注入できる水量は限られているが、現在までに圧力容器の容量の何倍もの水が注入されている。先日の東電の発表では、格納容器内の水位もそれほど上がっておらず、注水された1万トンのうち、少なくとも4000トン以上の水がどこへ行ったかわからないという(注1)。
5月9日には、4号機の建屋で3月15日におこった爆発と火災は、使用済み核燃料プールから発生した水素によるものではない可能性が高くなったが、爆発の原因は不明と発表された。 行方不明だとか、出所不明だとか、原因不明だとか、核種の同定ミスだとか、そんな話のオンパレードである。このブログの3月12日の記事で「こりゃダメだ、誰もこの事態に対処する能力はないな・・・」と書いたのは、取り巻きの専門家達を含めてのことであるが、正直言ってここまで無残なことになるとは思っていなかった。いかに「想定外」とは言え、震災に伴う長時間の電源喪失状態に陥ればどうなるか、どうすれば良いか、ある程度の想定があってシミュレーションもなされているに違いないと考えていた。その危険性が認識されていたからこそ、原子力発電所は、本当に電力を必要とする大都市圏から何百キロも離れた過疎地ばかりに建造されることになった筈だ。 3月12日の午後3時36分、第一原発1号機で最初の水素爆発がおこった時、福島中央テレビでは煙を上げる1号機の様子を生中継して、アナウンサーが興奮した声で爆発のニュースを伝えていたらしい。その頃私は、NHK総合の特番を観ていたが、かなり遅れて「午後4時頃1号機の原子炉建屋から爆発音」という情報が伝えられたので、水素爆発がおこったのだと確信した。 改めてその時のNHK特番の録画を見直した。解説は東京大学の関村直人氏である。背景には望遠カメラから撮った第一原発の午後4時半頃の映像が挿入されていて、骨組みだけになった1号機原子炉建屋の無残な姿が映し出されている。アナウンサーがその異常に気づいたのはおよそ10分後である。やがて、1号機建屋で爆発があってけが人が出たとの情報が伝えられる。その後40分間、関村氏は、ついに一言も水素爆発という言葉を発しなかったが、そのことにずっとひっかかりを覚えていた。 この時のビデオを何度か見直して、私は、関村氏はあの時点で水素爆発が起こることを全く予想していなかったのではないかと強く疑うようになった。 最近、学内において、相次いで東電原発事故に関する講演会や学習会が開催され、何人かの専門家の話を聞く機会があった。おそらく全国の大学でも同様の催しが活発になされていることと思う。その中で共通して力説されたことは、電源喪失になったまま放置すれば水素爆発が起こるということは「専門家としては、常識中の常識」ということ。それから、原子力発電は実用化とはほど遠い未熟な技術であるということであった。六ヶ所村の再処理施設についても、技術的な問題が全く解決されておらず、2010年10月竣工という当初の計画は延期され、実質的には頓挫したままであるという。テレビの解説に引っ張り出される専門家達とのこの落差はなんだろう。たまたま私の身近にいる専門家達が「反原発」の立場にあったということだろうか。 このブログで度々言及する武谷三男さんは、原子核・素粒子論の専門家であり、「原子力資料情報室」の初代代表であった(注2)。その武谷三男編による岩波新書『原子力発電』(1976)は、原子力発電の歴史・構造・問題点を、被爆線量の捉え方を含めて包括的に整理したもので、今日でも通用する名著である。これを読めば原子力発電がいかにダメダメな技術であるかがよく分かる(注3)。序文では、原子力発電が日本に導入される政治的な背景や当時の科学者達の主張、立ち回りなどがやや詳しく書かれていて、今日の情況が準備された経緯を知ることができる。その一端は、別の視点から「噺の話」に紹介されているので参照されたい。そこでは、かつて「日本地球化学会」の会長をされたこともある三宅泰雄さんによる『死の灰と闘う科学者』(岩波新書、1972年)からの引用がある。 少なくとも導入当初、核物理や放射化学の専門家達の多数派は、武谷さんが訴えたのとほぼ同じ考えであったと思う。その後、早くから「原発震災」の危険性を訴え続けてきた石橋克彦さんや、茂木清夫さんのような反原発の立場を鮮明にする地震学者達も現れた。マルクスの疎外論を持ち出すまでもなく、人の世は多数の人々の思いとは異なる方へふらふらと彷徨い、やがてそれが既成事実と化してしまう。導入当初は明確な「反原発」であった人々も、しまいには「脱原発」といった聞こえの良い言葉を不本意ながら口にせざるを得なくなった。 国民の多くは、それならなぜ、専門家達は原発の危険性をもっとはっきりと教えてくれなかったのかと言うかもしれない。確かに、一般への啓蒙という点では不十分な面はあったと思う。一方で、原子力発電の危険性を訴える専門家による書籍は無数に出版されているし、原発の事故がある度にその危険性は指摘されてもきた。小出裕章さんに限らず、そうした活動を担ってきた専門家達は、今回のように多数の一般住民に甚大な被害が及ぶような大事故がおこるまで、大多数の人々が聞く耳を持たなかったという想いと言葉の無力さに苛まれているに違いない。 議論のさなか、政治的な思惑によって見切り発車してしまった原子力発電は、やがて経済を下支えするまで肥大化し、多くの国民がその恩恵に与ることとなった。そうなると、「日本の科学技術は世界一」との国民的幻想にも支えられて、度重なる「もんじゅ」の事故があっても、東海村JCO臨界事故があっても、柏崎刈羽原発の事故があっても、これらの事故を教訓に、この先ちゃんとやっていける筈だとの、巨大な<共同幻想>が構築された。 そうした<共同幻想>は、原子力工学が専門ではない、他の分野の科学者達をも覆い尽くしていることは、この間のネット言論で、素人が非科学的な議論をすることへ突っ込みを入れるその姿勢をみれば明らかである。デマ狩りには熱心でも、地震の多い日本でも安全な原子力発電は可能だとの最大のデマには口をつぐんだままであったりする。日本原子力文化振興財団が発行する「原子力文化」という冊子があるが、真の「原子力文化」とは、結局のところ、巨大なデマを覆い隠すために枝葉末節な技術論に終始したり、安全だと宣伝する一方で過疎地に押しやったり、拝金主義がはびこったり、耐震偽装工事をやったり、再処理も最終処分も、その目処もたたないうちに見切り発車したりするということではないか。 武谷さんが訴え続けたことは、原子力工学上の問題も、放射線の危険性についても、科学的に未解明の問題が山積している領域では、価値論的判断が優先されなければならないこともあるということであった。事故から2ヶ月以上が過ぎた今なお制御不能に陥ってることをみれば、原子力発電がいかにダメダメな技術であったかが分かる筈だ。これまで大事故にならなかったのは偶然であって、日本国民は「うたかたの夢」の中に居たということである。 ---------------------- 注1:この原稿をほぼ書き終えた直後の本日(5月14日)夕刻、原子炉建屋の地下で、1号機から漏れ出したと思われる大量の高濃度汚染水が見つかったと発表された。 注2:「原子力資料情報室」を立ち上げたのは故高木仁三郎さんであったが、彼の追悼サイトの年譜 高木仁三郎が歩いた道には、「1975年、・・・9月、原子力資料情報室が設立され(武谷三男代表)、専従世話人となる。」と記されている。しかし、Wikipediaの「武谷三男」にも、「原子力資料情報室」にも、その事は書かれていない。 注3:武谷さんは、特に商業炉は経済性のために必然的に大型化せざるを得ず、そのことによって「空焚き」の危険性が最大の驚異になることを、崩壊熱をもとにシミュレーションしている。この過程での水素発生についても言及されているが、水素爆発については触れられていない。水素爆発が常識となるのは、TMIとチェルノブイリの原発事故の経験によるらしい。 低線量被爆の影響が確定していない段階では、下限はないという前提に立ち、価値論に基づく「がまん量」として線引きする他ないという「武谷説」が、最終的にICRP勧告に影響を与えることになったという点は重要で、別の機会に言及したい。 |
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2011年05月14日
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