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100万kW級の原子力発電所では約100トンの濃縮ウラン燃料が使用される。これを1年間稼働するとその3分の1の30トンほどが取り替えられ、使用済み燃料となる。使用済み燃料にはウラン235の核分裂生成物である「死の灰」が含まれる。100万kW級の発電炉を稼働すると、1日あたり3 kgの死の灰が生まれる。これは、広島へ落とされた原爆による死の灰の3倍に相当する。
この死の灰を含んだ使用済み燃料を再処理して再利用する計画は、技術的な目処が立たず、頓挫したままである。使用済み燃料は溜まる一方で、青森県六ヶ所村の中間貯蔵施設の使用済み燃料プールも容量3,000トンが満杯になってしまった。原子炉建屋に併設されている使用済み燃料プールに詰め増し(リラッキング)するなどして凌いでいるが、これも限界に近い。そこで東電は、青森県のむつ市に5,000トンの使用済み燃料貯蔵施設を建設中とのことである。 これまでの原子力発電の事業は、システム全体としての技術が未完成なだけでなく、後始末に必要な経費も将来の世代にツケとして残してきたということになる。一つの技術は、将来にツケを残さないよう、いろいろな方策を整えた上で利用を開始するというのがスジである筈だが、原発は、それが死の灰を生み出すものである以上、将来にツケを残さない方策というものは存在しない。軍事利用にせよ、平和利用にせよ、原子力の利用は、将来の世代にツケを残すことを前提として成り立つのである。 ツケがたいしたことのない規模であれば問題にする必要もないのだが、ツケの内訳がどうなっているかは、国も電力会社も明らかにしてこなかった(注1)。原発の発電単価が、実は言われているほど安くはないということがバレてしまってはマズいとの思惑からなのか? おそらくは、ツケがあまりに巨額で、これまでの原発による経済的繁栄は、単にツケで飲み食いして浮かれていたに過ぎないことであったという本質論が俎上に載せられることを避けたいのだろう。 しかし今や、原発が将来の世代から巨額な搾取をすることで成り立っていることは明らかである。使用済み燃料を再処理して高レベル放射性廃棄物を埋設処分するにせよ、アメリカのように再処理せずに使用済み燃料をそのまま保管し続けるにせよ、何万年もの間管理し続けなければならないことは確実なのだ。そもそも日本では地層処分の受け入れ先がない。それをどうするかという事業計画さえツケとして残されている。 まもなく寿命を迎えて廃炉になる原発が続出することになるが、廃炉の具体的な手続きや経費も明らかでない。事故を起こした福島第一原発の1〜4号機をどのように「処分」したら良いか、今のところ計画さえ立てられない状況である。 原発の本質は、このように、数世代をはるかに超える時間を隔てて社会的な足かせとなる存在であることにある。そのことから派生する問題は、単に経済的なツケを残すということにとどまらない。 例えば、核燃料サイクル計画にせよ、高レベル廃棄物の地層処分の計画にせよ、技術的な目処が立たずに計画は次々と延期され、そこに注ぎ込まれた資金は当初計画の何倍にも膨れあがってしまったのだが、そのことに責任を取るべき人物や組織は、既に引退していたり、この世に存在していなかったりするのである。将来においてもまた、新たな問題が起こったとして、過去に責任が押し付けられ、不問に処されるであろう。 本来、自らの死後の世界については誰も責任をとれないのであるから、将来の世代にツケを残すような事業計画は、そもそも立ち上げてはならない筈だ。 原子力発電は、1日でも、1秒でも、動かすほどに将来へのツケを増やす存在であるから、1日でも1秒でも早く止めるべきである。原発を止めたら日本の経済が立ち行かなくなるという主張は、今の経済さえ良ければ将来の世代はどうなっても良いとの刹那主義に基づく。「洪水は我が亡き後に来たれ」という思想である。 小出裕章氏のように、原子力発電が差別の構造の上に成り立っていることから、これに反対するのであるとの主張もあり、私もそう思うが、資本主義そのものが差別と搾取の構造の上に成り立っているのであり、そうしたことは何も原子力発電に限ったことでもない(注2)。原子力発電に特有の本質的な問題は、子々孫々の世代から時を隔てて搾取することで成り立っているということ、また、そのことが無責任体質を生み出す背景にもなっているということにある。 河野洋平氏が言うように、そうした本質を「不道徳」と断じるのは、ごく普通の感情であろうと思う。だから、原発を推進しようとする者は、この本質をできるだけ隠そうとする。原発をこの先どうすべきかをテーマとした討論企画において、この問題を不問に付したまま安全性や経済性の論議に終始するのは茶番である。 今や、将来へのツケを勘定に入れたら原発は決して安くはないということも明らかになっている。では何故、そうまでして原発をゴリ押ししようとするのだろうか? それは、将来核兵器を保有する選択肢を捨てるべきではないとの動機以外には考えられない。やがて、このことが原発の是非と絡めて語られるようになるだろう。 ----------------------------------------- 注1)濃縮ウラン製造の過程で排出される劣化ウランの管理の問題もなかなか表に出てこない。 天然のウランは99.27%のウラン238と0.72%のウラン235からなる。精製された天然のウラン1トンから、975.4 kgのウラン238(=劣化ウラン)を取り除くと、ウラン235が4%まで濃縮された原発の燃料18 kgができる。原発の燃料1トンを製造すると、同時に54.2トンの劣化ウランが生み出される計算になる。これまでに50万トンオーダーの劣化ウランが廃棄物として「製造」された筈である。それがどこにどのように保管されているのか、いくら調べても全貌がわからなかったのだが、最近、意外なところからみつかったりもしている。 千葉の劣化ウラン管理倉庫 震災コンビナート火災で「危機一髪」 劣化ウランは安全で無害であるとの原子力産業の宣伝に騙されて、つい手を出してしまったために、その処分に困って、何十年もの間無為に保管し続けねばならなくなったことは同情に値する。本件についての幾つかの報道記事には、計算上矛盾する点があるので、再度採り上げることになるかもしれない。
いずれにしても、これからも、あっと驚くような将来へのツケが明らかになるであろう。劣化ウランについては、このブログの以下の記事を参照されたい。思い起こせば、このブログの記念すべき最初の記事が、下記最上段の劣化ウランについてのものであった。 劣化ウラン(DU)の評価についての奇妙なねじれ 劣化ウランと原発用濃縮ウランの放射能は大して違わない 劣化ウランについて(補足:その1) 劣化ウランについて(補足:その2) 注2)原発の差別性を不問にするような反原発運動とは共闘しないとの主張もみかける。差別の上に成り立っている国家的事業は、原発以外にもいくらでもあるが、それらの全てに反対しないような者とは共闘できないと言うに等しい主張である。差別と搾取が資本主義の本質であると考える私からしてみると、この主張は、「資本主義に反対しないような反原発運動とは共闘しない」と同義である。心情的には理解できるが、ここに書いたように、原子力の大規模な利用については、これに反対すべき固有の問題がある。もはや一刻の猶予もないと考えるなら、広く共闘の道を探るのがベターではないかと思う。 |
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2011年07月24日
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