論争者らにおいて説明されていることを充分理解したとはとても言えないのですが、南相馬市議氏が「取り憑かれているように」主張していることや、専門家の見解に対する基本姿勢(=危険性を肯定する方向での片面的な支持と引用)に対しては、単なる偏見・無知無理解というような対応では解決がつかないだろうということは、よく分りました。
ですから、反原発にせよ脱原発にせよ、あるいは福島やその他の放射線被害が及ぶべき地域にいる人たちの生命・健康を守るにせよ、力を合せて行くためには克服しなければならない課題がそこにあるのだという認識こそが、要求されているように思います。
なぜ、彼らはこれほどまでに頑なに危険性をいうのか。
おそらく、最大の問題は、低線量内部被曝の危険性について、疫学的見解が一致していない(いわゆるホルミシス効果をいう者から、ペトカウ効果をいう者まで)ことが、根底にあると思っています。
実は私も、心情的には彼らに近い印象を持っているのです。もっとも、科学的論理性を放棄する意思は毛頭ありませんからご安心下さい。事実認識において客観性を貫徹することが、すべての出発点ですから…。
しかし、いままで何十年の間、政府・東電や「御用学者」らは、末端の「原発ジプシー」と呼ばれる原発労働者の被曝労働を使い捨てにし、放射線の危険性をあからさまにしては来なかったわけです。それでもいままでは、原発労働者やごく限られた範囲の関係者だけの話だったのですが、今回の原発事故で、そうは行かなくなってきたわけです。
しかも1960年代以来、グローバルフォールアウトの人体への影響について、おそらく何らの緻密な研究も蓄積されてこなかったのでしょう。私にしても、原子爆弾による「遅効性」被害(いわゆる“晩発性障害”)に関して、そのメカニズムを基本的に知ったのは、原爆症認定集団訴訟があちこちで提起され始めてからのことだったように記憶しています。私の亡くなった叔父(被爆者)は、晩年になってからあちこちの臓器に原発性(非転移性)の癌ができて苦しみましたが、それが「晩発性障害」でないと断言できる根拠はありません。
そういう経緯に照らして考えると、少なくとも政府・東電やそれ寄りの学者らが「危険性はない」と言っていても、信用できない、となるのは自然なことです。
翻って、こうした政府系の人物のごまかしとたたかってきた研究者らに対する“素人”としての信頼についてはどうかというと、まさにさつきさんが言われるように、
> 結局のところ原発の事故を許してしまった、その根本の問題は、
> 私たち自身が、自らの問題として厳しく問わねばならないので
> はないか
という「問い」から、これら研究者らも逃れられないように思います。
もちろん、さつきさんの上の「問い」は、良心的な研究者らに向けられたものではなく、“素人”である個々の国民に向けられたものだとは承知した上で、そう言っています。
「ずっと以前から、社会のごくごく片隅で、自分たちは正しいことを言っていた、だから君たちがいまごろになって無知を曝け出して慌てふためくのなら、自分たちの言うことをよく聴いて理解しなさい」という態度で彼らに接する限り、どんなに「誠実な」研究者であっても、説得力は持ち得ない、ということを、厳然たる事実として受け止める必要があります。
それが、さつきさんが先日紹介された福島大学教員有志による『放射能副読本』においても、「低線量内部被曝の問題は、科学的事実の問題ではなく、倫理の問題として扱うべきだ」としていることに繋がると思います。すなわち、「効果が分らない以上、『正しく怖がる』ということもありえない」ということです。
「検出されているプルトニウムは、グローバルフォールアウトのレベルと有意差はないから、ことさらに危険視する必要はない」という言い方が反発を買うのも、そこに根源があると思います。要するに、「低線量内部被曝の人体に対する効果が『分っていない』のに、なぜ『ことさらに危険視する必要はない』と断定できるのか」ということです。
プルトニウムにしがみつくのも、内部被曝におけるα線やβ線の威力を彼らが知っているからだろうと思っています。そこに、「検出された」という情報が加わると、その分量が極微量であっても、「経気道的ないし経口的に体内に取り込まれる可能性は絶対に無い」と「証明」されない限り、安心できないのでしょう。
それに対して、実際に「蒙を啓く」つもりでいくら解説を重ねたとしても、「絶対」を求める彼らの心理に届く見込みはありません。
そこで結局のところ、1)環境中に先行して存在していた放射性物質による内部被曝の危険性をどう考えるか、2)今回の原発事故によって加重された(かも知れない)、環境中に存在する放射性物質による内部被曝の危険性をどう考えるか、という2点と、同時に向き合って結論づける必要があると思います。
ここで想起されるのが、先日参加した福島大学での研究交流集会分科会で、地元参加者から総反発を受けた医師(この人は、被爆医療に長年携わってきた人で、しかも福島市内在住の方です)が、たしか昨年6月に放映されたNHKの番組(たしか、“クローズアップ現代”)で、開口一番に言ったことです。
この医師がその時何を最初に言ったかというと、「放射能により確率的に発生する晩発性障害は、医学の発達により確実に克服できます。ですから、継続的な検査を受けていれば安心です」ということでした。
私はそれを聴いた時に、率直に言って、“素人”が関心を持つ一番肝腎なことを避けて「正しいこと」を言っている、と感じました。
要するに、「原発からの放射性物質の拡散によって、一定割合でこれを体内に取り込んだ人が晩発性障害を生じることは、状況から考えてもはや避けられません。しかし、」というような、本来発言の冒頭に来るべき言葉が省かれていると思ったのです。
この医師は、この発言から1年近くが経った先日の集会でも、「低線量内部被曝の効果は、分りませんねー」と、割合とぼけた様子で発言していたのですから、本当に「確率的に危険だ」とまで言ってしまうのに躊躇したのでしょう。
しかし、一旦体内に入ってしまえば、児玉龍彦氏が国会で言ったように、内部被曝との関係ではホールボディーカウンターでさえ無意味なのですから、放射性物質が集まりやすい臓器を中心とした「継続的な検査」が唯一の健康管理となるわけです。そのたくさんのデータ集積がなされて初めて、「疫学的エビデンス」が得られるわけです。
3月頃のNHKの番組で、南相馬市の住人が「自分たちはモルモットになるわけだ」と自嘲気味に話しているシーンがありましたが、一定の条件下では、それはかなり現実的な表現になると思っています。
これに関連して、相双地域への帰還の能否を考える際に、空間線量率のみを考える態度で構わないのか、ということが、いまだに疑問としてあります。
児玉氏などの言われていることを注意深く見ると、氏は、除染が意味を持つ放射線レベルの地域において、ホットスポットなどを極力無くして行く活動の重要性を強調しているだけで、除染に対して決して幻想を振りまいているわけではありません。
現に、3月24日放映のNHKスペシャル「故郷か移住か〜原発避難者たちの決断〜」の中では、浪江町の人たちに「年間50ミリシーベルトを超える地域は、ダムの底に沈んだと考えて下さい」と明言し、除染は無理だし、したがって帰還も諦めざるをえないと指摘しています。
これを考えるときに、「では、より低線量率(例:年間20ミリシーベルト未満)の地域は帰還できるとして、そこでの内部被曝の危険性についてはどう考えるのか」が、いま一つ不分明なのです。核種としてセシウム137があるため線量が高いとすれば、仮にこれが1ミリシーベルト以下であっても、「安全だから安心して住んで下さい」と言えるのでしょうか。
とくに、「自然放射能」と比較することは、問題を混乱させているように思います。セシウム137などの人工放射性物質は、人類が種として形成される過程で遺伝的に獲得した放射能耐性とは無関係の、ここ65年くらいで環境中に振り撒かれた物質に過ぎず、しかも、体内に取り込まれた場合の振る舞いについては充分に解明されていないと思うからです。
それともう一つ、除染の「賽の河原の石積み」性について、どのように考えるのかも、よく分らない点なのです。
例えば、先日第53回科学技術映像祭内閣総理大臣賞を受賞したNHKスペシャル「知られざる放射能汚染〜海からの緊急報告〜」では、事故から時間が経過した後になって、銚子沖や江戸川河口から数キロ上流の汽水域などでのホットスポットの存在を示していました。
番組中では、銚子沖については那珂川などの海に注ぐ「河川流」のなせる業であるという説明でしたが、利根川由来のものでないのか、疑問があります。というのも、江戸川の場合、上流から放射性物質が流れてきたとしか考えられないからです。番組でも、上流から流れてきたものが「凝集」によって汽水域の一定地点に沈殿したという説明でした。
山間部に降った放射性物質が、河川の流れによってこの汽水域にもっとも大量に沈殿するに至るのは、およそ2年強を経た後のことだろう、とこの番組では言っていました。
しかしだからといって、それまで手を拱いて待っているわけにはいきません。その間にも、水棲生物濃縮は進行してしまうからです。「除染」ということを考えるとき、海中・水中に対するものの困難はもとより、地上についても、地表水を経由して集積する放射性物質の除去の「賽の河原の石積み性」を考えざるをえない気がするのです。
南相馬の某市議のように、ある一点だけに突出して、しかも、客観的事実を誇大化し場合により歪めてまで危険性を喧伝するのは問題ですが、さりとて、彼らがいま述べたようなトータルな状況下に居続けることを余儀なくされていることも事実です。
結局、「あなたが言っていることは荒唐無稽であり間違っていますよ」という指摘が、本来力を合せるべき人たちの間でなされるとしたら、指摘する側も、相手が置かれている状況をトータルに把握しようとしているのだ、ということを示さなければならない、ということが、現時点での私の感想です。「その道の誠実な専門家が言っていることを理解できず、あるいは信頼しないなんて、とんでもない人たちだな」という態度では、結局、「自分たちこそが正しい」という自己満足の表明と、大した隔たりは無い結果となるでしょう。
両者の言い合いが、消耗な平行線を辿る根本原因は、私が見る限り、こうした「何が真実か」の領域とは別個の「事実に向き合う姿勢」にあると思います。
不安を持って事実に向き合っている人に、「(トータルな意味での)不安は正当である」と言わないままに、「あなた方の事実認識は間違っている」と言ったところで、それが正しくても受け入れてもらえることは困難です。ウェブ上のやり取りは、無味乾燥な文字列に依拠するものですから、ことさら言わなければなりません。
しかし、そのような意味での「誠実さ」は、あのやり取りの中では感じ取れませんでした。
さつきさんが、5月3日のエントリーの末尾で言っていらしたことは、おそらくそういうことに関係するのではないかと、感じました。