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以下は、一つ前のエントリーに再掲した樹々の緑さんのコメントへの返信です。重要な指摘に満ちたコメントをありがとうございました。
ご指摘のことは、もしかしたら、最近の私のいくつかの記事に確固とした統一的な視点が見いだせないことへの戸惑いが発端となっているのかもしれませんね。福島大学の「副読本」を紹介したエントリーへの、png*96*さんのコメントにそうした戸惑いが表明されています。
このpng*96*さんの戸惑いは、樹々の緑さんの戸惑いとは異なる視点からのものと思いますが、いずれにしても私は、ある時は「デマ狩りには熱心でも、地震の多い日本でも安全な原子力発電は可能だとの最大のデマには口をつぐんだままであったりする」科学者達の姿勢を批判したり(2011/5/14)、「「倫理」の上に「科学」を置」いてはならない(2012/2/16)と主張したりしながら、一方で「デマ狩り」に類する記事を沢山書いてきたりした訳ですから、そうした戸惑いが生まれるのも無理からぬことと思います。
ひとつには、私なりに物事の優先順位を設定しつつ、問題の難しさ故に、実際にはその通りの表出が出来ていなかったということがあります。「デマ狩り」は簡単なんです。もう一つ、前提として書いておかなければならないのは、このブログは、私の専門性を離れて、あくまで一市民としての意見表明の場であること、また、トラックバックを送らない、バナーを貼ったり相互リンクしたりしないという運営方針(このブログについて)で、社会的な影響力を行使することを目的としていないということがあります。それでも、一市民として何ごとかを主張するにあたって、基本姿勢を鮮明にしておくことには意味があるでしょうから、いろいろな方のまとめを拝借しながら、この点について述べておきます。
例えば、ウエブ上の数少ない巡回先で私の基本姿勢に最も近いのは、「シートン俗物記」Dr-Setonさんの「「正しく怖れよ」な人には水を引っかけちゃいな」に書かれている立場です。このブログの読者の中には意外に思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、ベースとなるところは、既に私の水俣病についての記事の中で明らかにしていることです。
何より、原発推進派の倫理観の欠如には怒りを覚えますが、「デマ狩り」ばかりに熱心な自称中立の科学者達にも同様の倫理観の欠如を感じ、いらだちを覚えます。私はtwitterを使用していないし、他人のtweetもほとんど参照していなかったのですが、この間検索して参考になったまとめとしては、例えば、池田香代子さんとの対話〜脱原発とニセ科学批判があり、これをまとめられたA_laragiさんの立ち位置にも近いと言えるでしょう。この方は、「原発業界御用学者リスト @ ウィキ」にコミットしたことで大阪大の菊地誠さんに研究者としての倫理観のなさを批判されたりしたのですが、私には言いがかりとしか思えません。
私は、いわゆる「ニセ科学」批判に熱心だった方々の中に、この間の原発事故の見通しや時々の現状認識に関して多くの科学的判断ミスや過誤があったと認識しており、そのことが遠因となって生じたかもしれない災厄についての反省が不十分であったと考えています。そこで、この1年間、「科学者はなぜ間違え続けるのか」ということをずっと考えてきたのですが、ずいぶん後になって、たとえば東工大の牧野淳一郎さんのように、一貫して正しい見通しと現状認識を示して来た「栄光なき天才たち」も居たことを知りました。
また、東京大の押川正毅さんが、早くから「ダメ科学」という言葉を用いて問題提起をされていたことも知りました。
さらに、この点についての回答の一端は、既に震災前の2008年、名古屋工業大市村正也さんの「リスク論批判:なぜリスク論はリスク対策に対し過度に否定的な結論を導くか」と題する論文の中で明らかにされていたことも知りました。
市村さんはその中で、狂牛病BSEや水俣病の問題を例に引きながら、科学的な議論の中ではあまり意識されることのない、関係者がルールを破るリスクや、専門家が故意に噓をついたり情報を隠蔽したりするリスクが大きいことを指摘されています。良い機会なのでついでに触れておくと、あまり知られていないかも知れない「隠蔽」の一例として、「2011年3月20日、隠蔽された3号機格納容器内爆発」があります。ブログ主の岡田直樹さんのご専門は現代フランス哲学とのことですが、むしろこうした解析は専門の科学者こそが取り組むべき課題でした。「ニセ科学」批判クラスタがこうした問題をスルーして来たのは何故かという点も大変重要ですが、この問題にはここではこれ以上立ち入らないことにします。
さて、上記市村さんの論文のサイトに貼ってある、「遅ればせながら、2011年3月11日の震災をうけてのつけたし」の中に重要なことが書かれていますので、引用しておきます。
私は、この市村さんの主張に賛同します。また、科学的にはどんなに正しくとも倫理的に間違った主張は社会的に許容されないことは、優生思想を引くまでもなく自明のことです。科学の上に倫理を置くべきなのです。
しかし、これらのことはなかなか科学者の中で理解されないという現実があります。たまたま目にしたブログ記事の中から一例をあげると、例えばbloom@花咲く小径さんの記事、「続・生物学者のリスクの見積もり方:冷徹な科学こそが優しい(1)」では、「思想や感情を排した科学こそが人々に優しい」と主張しつつ、中川恵一さんや山下俊一さんの正しさを説き、児玉龍彦さんの誤りを指摘されているのですが、中川さんや山下さんの、そしてご自身の活動がほんとうに「思想や感情を排し」たものであったかという点については検討されていません。しかもコメント欄を閉じたまま類似の記事を連投されていて、これでは仲間内だけには支持されても、市民の中には科学者不審を助長していくばかりではないかと危惧します。
市村さんは、「それは、原発推進派だけでなく、原発や放射能の危険性を訴える側も同じだ」と書かれていますが、私は、市村さんの指摘は、科学者だけでなく、政治家やジャーナリストや団体代表者のような、社会的影響力のある全ての立場の方々に意識してほしいと考えています。私が「デマ狩り」の対象としたのは、そうした方々です。実際、原発や放射能の危険性を訴える側の中にも、そして、敢えて言えば専門家ではない市民の中にも、単に専門家に騙されたでは済まされない倫理観の欠如を見いだすことができます。私がそう判断するのは、実際に対話を通じて、相手がどのように対応するかを手がかりとしています。
しかし本質的な問題は、当の被災者である方々の中に、事実と異なる言説や、倫理的にも問題のある言説が見いだされ、それが実際に被災者支援の障害になっているように見える場合、そう感じた者としてどう対処したら良いかというところにあり、この点が樹々の緑さんのコメントの核心であったろうと思います。この点、私が、福島大学の「副読本」がすばらしいと書いたのは、それへの回答の一端が示されていると考えたからです。
それは、樹々の緑さんが次のように書かれている事に通じるものだと思います。
そして、冒頭にリンクしたシートンさんの記事は、この問題を正面から採り上げていると感じる訳です。そこで一歩引いて口ごもることも必要かもしれない。少なくとも専門家はそうすべきかもしれない。しかし一市民としての私は、対話を通じて解決の糸口を見いだす努力も無益ではないと考えています。憲法記念日の記事に書いたことは、私の努力目標です。
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2012年05月15日
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