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そこで、コメント欄で「『この世界の片隅に』を『はだしのゲン』と対立して論じる方がいてびっくりです。中沢啓治氏も悲しむでしょう。そいう方には、映画『草原の実験』をお薦めしておきます。」と自己レスした訳だが、このことにかかわって少しばかり書き足しておきたい。
最近では、1月12日NHK「クローズアップ現代+」の放送内容にかかわる次のtweetが多数Retweetされているのが気になった。
「クロ現+」の放送内容はこの映画の核心をつくものであったと思う。上記のはまりさんのtweet は正確さを欠くと思ったので、「ヒロシマ”と向き合ってきた人たち」として紹介されたお二人の登場場面の文字おこしを記す。
ナレーション:
渡部さん:
ナレーション:
友川さん:
ナレーション:
友川さん:
お二人とも「こんな方法があったのか」とぽつりと呟いたりなんかしていない。友川さんの「あ、やっとできた作品という印象でした」というのがお二人の心情をよく表現していると思う。そんな重箱の隅をつつくような指摘をしなくても趣旨は同じでしょ?と思われるかもしれない。しかし、世代を越えて戦争を語り継ぐことの困難さ、形骸化する平和教育をどう立て直したら良いかといった難問が20〜30年も前から議論され続けてきたことを知っているので、「やっとできた作品」の「できた」は伝えることができたという意味であろうが、待望されていた作品がついに世に出たという喜びもまたひしひしと伝わってくる、そこを汲んで欲しかったと思うのである。
では、従来の伝え方が無意味であったかと言えば、それは逆で、これまでの努力があったからこそ、この作品が活きてきたと考えるべきであろう。従来の伝え方に欠落している部分をこの作品が補って止揚したのだ。
この作品では原爆が落とされる前の平穏な日常の描写もあるが、登場する人物の全ては名前のない記号化された「お母さん」、「お父さん」、「幼子」、「女学生」等々である。『この世界の片隅に』は、それらの人物に命を吹き込み、みる者に身近な出来事として追体験をせまる質を獲得している。
くり返すが、『ピカドン』のような作品が無意味だと言いたいのではなく、その逆で、原爆の実相を伝えるのにまぎれもなく必要不可欠な努力の一端を構成しているだろう。それでも、津原さん自身が「超閲覧注意」と但し書きを付けざるを得なかったことは無視できない。いずれにしても、登場人物に命を吹き込むこと自体が誰にでもできることではなく、それなりの才能と熱意を必要とし、ここへ来てやっとそれが登場したのである。両者を兼ね備えた作品など望むべくもない。
なお、桃井かおり主演で1988年公開の『TOMORROW 明日』(黒木和雄監督、原作は井上光晴の『明日―1945年8月8日・長崎』)も、長崎に原爆が落とされる前の一日を淡々と描いた傑作だが、『この世界の片隅に』と違って救いのなさが際立っており、そのせいで爆発的なヒットには至らなかったのだろう。これはもう、どちらが良いという話ではない。
『この世界の片隅に』は、今後海外14カ国での上映が決まっているそうだが、海外においてこそ真価が問われるだろう。思うに、日常を丹念に描くことは小津安二郎監督に始まる日本映画の伝統芸である。これから海外進出した際には、世界中の小津ファンがこの映画のルーツを取り沙汰することになるのだろうか。
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