さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

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 2月10日、作家の石牟礼道子さん(90歳)逝去。若い頃から彼女の文学に親しみ、大きな影響を受けてきた身として、哀しみに耐えない。

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Ishimure MichikoThornber, 2016)から

「石牟礼道子さんを公私にわたり支援してきた日本近代史家の渡辺京二さん(87)は、「半世紀の付き合いで家族を亡くしたようなもの。客観的なコメントはできない」と言葉少なだった。」(毎日新聞2月11日付、社会面)

 その渡辺さんによる石牟礼さんの紹介記事が熊本県教育委員会の「 くまもとの偉人(熊本県近代文化功労者)」のサイトにある。彼女の文学について論じたところを一部引用する。

彼女の作品に説教節や能に通じる古典的夢幻性が濃厚なのは誰しも認める事実だけれども、一方、現代ラテンアメリカ文学、たとえばガルシア・マルケスのような土俗性を帯びた前衛文学との相似を指摘する声もある。ソローを原点とする環境文学、ネイチャー・ライティングの現代的事例として評価する見方もあって、いずれも彼女の創造の含蓄のゆたかさを示すものだろう。
 筆者に言わせれば、石牟礼の作品は万葉以来のこの国の文学の感性を純粋にひき継いでいて、その意味では伝統的であると同時に、一方ではこれまで日本の近代文学に出現したことのない、あえていえば不思議な文学なのである。

 石牟礼さんは、言葉によって世界を表現し得る(認識し得る)ことに感動して文学の道に入ったという意味のことを書いていた。逆に、石牟礼さんの「不思議な文学」が描く「世界」を解体し、その全体像を言葉に還元すべく果敢に挑戦した論考として、ハーバード大学のKaren Thornber(比較文学学)による「Ishimure Michiko and Global Ecocriticism」(注1)がある。そこでは、石牟礼さんの文学が日本の標準的な言葉とは異なる方言が多用されている事も災いして、広範な翻訳を困難にしていることから、現状では「世界文学」の中では周縁の位置(marginal position)を占めるとしながらも、その本質的な貢献は「世界文学」の意味に拡大を迫るものと評価している。ノーベル文学賞の受賞を密かに期待していたが、まだ世界の文学界は、彼女の文学を言葉にすることに成功していない(「不思議」なままで終わっている)ということなのか。
 
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Ishimure in sit-in protest at Ministry of Health, Labor and Welfare, 25 May 1970: Thornber (2016)から

 前掲の渡辺京二さんによる解説記事に、彼女の生い立ちに関わって次の記述がある。

石牟礼道子は一九二七年三月一一日、天草の宮野河内(現河浦町)で生まれた。白石亀太郎と吉田ハルノの長女である。ハルノの父吉田松太郎は当時石工の棟梁として、道路工事、港湾建設を請け負う一方、回船業も営むなど手広く事業を展開しており、白石亀太郎は松太郎のもとで帳付けを勤めるうちにハルノと結ばれた。宮野河内は松太郎が請け負った仕事先で、そこに両親が滞在中に道子が生まれた。吉田家は水俣町浜に住居を構えていて、道子は出生後三ヶ月でその家へ戻った。
 天草は両親が仕事で滞在中に生まれたというだけの仮そめの地であるのに、彼女は成人後ずっと天草生まれと自覚し、人にもそう語った。というのは祖父松太郎と母ハルノは天草上島の下浦、父亀太郎は同下島の下津深江の出身で、彼女の家には天草の親族がしばしば出入りし、彼女自身天草に深いえにしを覚えていたのである。柔らかでみやびやかな天草弁は彼女のからだ奥深く染みこみ、後年の創作の中に生かされることになる。

 仮そめの地にすぎないのに天草の出であると言い張っていたもう一人の著名人として吉本隆明氏がいるが(注2)、石牟礼さんの天草への思慕は格別のようで、その想いは構想50年を経て島原・天草の乱を描いた長編『春の城』(注3)に結実している。『完本 春の城』(藤原書店・2017)に収録されている「納戸仏さま ー 全集版あとがきにかえて」から引用する。

 わたしの父方も母方も天草である。切支丹ではなかった。何代も何代も隠れてきて、何を隠したのか思い出せない、というような身ぶりを時々みることがあった。
 わたしが七つになった歳の引越しだったが、母が首をかしげて、
 「納戸仏(なんどぼとけ)さまのおんなはらん」
とひとりごとをいうのをきいた。家族がふだん礼拝するのは仏壇と神棚である。そのほかに、皆に内緒というほどではないが、納戸仏さまと時々口に出し、あわててのみこみ、首を傾け、思い出せないことを考えている風なのが、子ども心にけげんであった。
 何年かして、あるとき、しのびやかな面持ちで母がいいかけてきた。
 「あのね、道子。自分が考えて、これが一番大事と思うことはね、つまりわが本心はね」
 「わが本心」などというむずかしげな言葉をふだん口にする人ではなかった。何か切実なひびきを感じて顔を見上げた。いつもの春風のようなゆったりとした表情が消えている。
 「あのね、自分の本心ちゅうのはね、人さまには見せちゃならんとぞ、決して。語ってもならん。よかね」
 五年生ぐらいだったろうか。思い重ねてきて、これだけは言いきかせておこうというような音声でふいに言いかけてきたのである。わたしは誰かと言い争ったとか、何かをしでかしたという覚えはない。
 「うちにはね、納戸仏さまの、おらいましたがね、どこかにゆかれたごたる。家移りばかりしてきたもんで。
 道子が生まれた時の守り仏さまじゃった。納戸にね、大切にして拝みよった。人にいわずに覚えておこうぞ、大事な観音さまじゃけん、道子にあずかってもらおうね」
 説教がましいことなど一度もきいたことはなかった。よっぽど大切なことらしい。母はわたしをそっと抱き、
 「み心ば、いただこうね。道子があやかりますように」
と言った。震えをおびた音声であった。
 「天草から、たしかにお連れしてきたとじゃけん。わが身と同じように、ひとさまを大切にいたしやしょうぞ」
 そういえばすすけた観音さまをみたおぼえがあった。こうして姿の見えない納戸仏さまをわたしは母からあずかった。

 母方の祖父吉田松太郎は天草上島の下浦(しもうら)で石工の棟梁をしていた。この町はもともと石工が多く、江戸時代から「下浦石工」として知られていた。農地に適した土地が少なく、浅瀬の多い内湾で漁業もままならず、それほど良質というのでもない砂岩を「下浦石」と称して売り出す他になかったようである。

 スタンフォード大の古地図アーカイブから松太郎一家が暮らしていた頃の地形図を示す。

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 松太郎一家が居を構えていたのは中央やや北東寄りの「舩場(せんば)」の海岸に面した集落(N32.4162, E130.2213)で、沖を通過する貨物船に手漕ぎの和船で荷物を受け渡す回船業も営んでいた。「下浦村」の地名の「浦」の字の北東にある崖マークが下浦石の採石場である。石牟礼さんの短編に、父や祖父の、石を積んだ荷車を引く肉体労働を、自然の移ろいの中で神話的な世界として描いた作品があるが、おそらく想像の産物であろう。地図の南東部にある「上血塚嶋」、「下血塚嶋」の二つの島は、源平の壇ノ浦の合戦の後で、敗走してきた平家の残党が源氏の討伐隊によって最後に絶滅させられたところとされている。下の写真の右側にその二つの島が写っている。

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 石牟礼作品にしばしば登場する方言は、水俣のものと若干異なって、天草の下浦周辺に起源がある。取り立てて何もない、ただただ穏やかな自然が育んだ、平安時代の古語を残す土着の言葉が世界を記述したのである。

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注1)Thornber (2016) Ishimure Michiko and Global Ecocriticism. The Asia-Pacific Journal, Japan Focus Volume 14, Issue 13, Number 6, 1-23.pdf: 1.7 MB
注2)石関善治郎著『吉本隆明の帰郷』(思潮社・2012年刊)参照
注3)高知新聞や熊本日日新聞に連載されていた『春の城』は、連載終了直後に『アニマの鳥』(筑摩書房・1999)として刊行されたが、石牟礼道子全集 第13巻(筑摩書房・2007)に連載時のタイトルに戻して収録され、さらに取材記などと併せ、『完本 春の城』(藤原書店・2017)としても刊行されるというやや不可解な経緯を持つ作品である。Wikipediaの「石牟礼道子」の著書一覧には『春の城』は掲載されていない。なお、「島原・天草の乱」は、天草では「天草・島原の乱」と称され、『完本 春の城』でも「天草・島原の乱」と表記されている。

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