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6月18日午前7時58分に大阪府北部でMj 6.1(暫定)の地震がおこり、死者5人を始めとした痛ましい被害があった。
地震本部による暫定的なまとめによると本震の震源解は西北西ー東南東方向に圧縮軸を持つ横ずれ型で、その後に発生した余震は、本震の南西側へ伸びるクラスタと、本震の北側に発生したクラスタに分けられ、前者は本震と同じ横ずれ型で、後者は逆断層型とのこと。
活断層の位置などの地形表現が正確な産総研の「地下構造可視化システム」を用いて、18日から22日までに発生したM1以上の地震の震央分布を描いたのが図1である。
付近の活断層としては、本震の北に東西に伸びる有馬ー高槻断層帯が、また、本震の南に南北に伸びる生駒断層帯があり、やや西方へ離れたところにも南北に延びる上町断層帯が知られているが、どの断層帯の活動によるものか、現在まで統一見解は得られていないようだ。
図1で本震から南西へ延びる余震は明瞭な帯状分布を示しているので、この方向が震源断層の走向と考えて良いであろう。これと直行する断面で、本震の北側のクラスターを含まない範囲で投影図を作成したのが図2である。
これと同様の図は地震本部のまとめにも掲載されており、この断層が南東へ70°程度で傾斜していることがわかる。この傾斜で上方へ延ばすと、北西へ5 kmほど離れた有馬ー高槻断層帯付近の位置で地表に出ることになる。有馬ー高槻断層帯の断層は高角北傾斜であるとされているが、横ずれ型であることなどから、有馬ー高槻断層帯を構成する未知の断層が動いたものと思われる。GNSS観測による基線長の変化は地震の前後で不連続な変化を示していないので、地表地震断層は出現していないようだ。
ついでに付記しておくと、30年以内に動く可能性が10%程度の活断層と1%程度の活断層がそれぞれ5箇所と500箇所あるとしたら、全体としては1%程度の活断層が動く確率の方が高くなる。従って、危険視されていない所で大きな地震が続いたからと言って、危険度の見積もりが間違っていることにはならない。問題は、活断層、すなわち過去の地表地震断層が知られていないところにも、地下のあちこちにM6クラスの地震をおこす可能性のある「地下活断層」が無数に伏在していることである。
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表題の映画は1980年に韓国でおきた「5・18民主化運動」(光州事件)を舞台とした実話をもとに制作されたもの。韓国では昨年公開され、あっという間に観客動員1000万人を超える大ヒットとなったそうな。日本では本年4月にパラパラと公開が始まったが、地方だとまだ公開されていないところもある。シネコン一つの地元では公開の予定もないとのことで、5月に東京へ行った際に新宿ピカデリーでみた。私は若い頃光州を訪れ、この事件の詳細を知って強い印象を持った経験があり、どうしてもみたかったのだ。
韓国の「5.18記念財団」のウエブサイトから冒頭の概説部分をgoogle先生の助けを借りて訳してみた。
このサイトに掲載されている画像を一つだけリンクしておく。
![]() 日本のメディアは「光州暴動」という呼称を用いていたが、NHK アーカイブスの「NHK名作選 みのがし なつかし」に当時のニュース番組の「韓国・光州事件 戒厳軍が市民を鎮圧」と題する動画が残っている。
私が最初に韓国を訪れたのは1987年8月。韓国で初めての開催となったやや規模の大きな国際学会に参加するためであった。全斗煥軍事政権末期のことで、翌88年には盧泰愚政権へと変わり、ソウルオリンピックが開催された。下関から関釜フェリーに乗って一夜を明かし、翌早朝釜山港に上陸して、映画に出てきたのと同じポニー製のタクシーで釜山駅へ。釜山駅からセマウル号に乗ってソウル入り。ソウル駅から同じくポニーのタクシーに相乗りして旅行案内所まで行き、そこで、学会会場となっていたロッテホテルの近くの路地裏にある安い韓式旅館(ヨガン)の紹介を受け、程なくその旅館の女将さんが迎えに来てくれたという次第。学会が終わると今度は高速バスを使っていくつかの地方都市をめぐりながら釜山まで戻り、釜関フェリーで帰国。ちなみに、今google mapの航空写真でロッテホテル周辺を観ても、当時とは風景が一変して、その旅館も残っていない。
日本人旅行者も少しずつ増えていた時代で、どこでも親切にしてもらい、快適な旅を満喫した。以来、学会や共同研究、韓国人留学生のお世話、家族旅行など、毎年のように韓国を訪れ、レンタカーで旅行したりするようにもなった。この映画をみたいと思った動機の一つは、最初に訪ねた頃の韓国の風景や人々の息吹、そうした記憶を呼び戻したいという思いもあったからである。1987年と言えば、学会が始まる二ヶ月前には大統領の直接選挙等の国政民主化を求める「6月民主抗争」がおこったが、これは光州民主化運動の影響や教訓があって成功裏に終わったとされている。そうした特別の運動がなされた年でなくとも、韓国の大学へ行けばいつでもどこでも正門付近では学生達が太鼓を叩きながらデモをやっていた。
光州を訪ねたのは、1990年前後だったと思う。当時光州市は全羅南道の道庁所在地で、その道庁に用があり、韓国人留学生のK君と共に訪ねた。その本庁だったか分館だったか、「光州事件」の写真パネルが多数展示されている広間があった。それらの写真が伝えているのは日本での報道によるものとは全く異なっていた。K君の説明によると、光州市あるいは全羅南道として、民主化運動に関わった人々を顕彰し、犠牲者を追悼するための施設が準備中で、既にそのためのモニュメントや公園、墓地の整備もなされているとのことであった。日本では暴動事件として報道されていたが、それは軍事政権による「大本営発表」を垂れ流していただけの、およそ報道の名に値しないものであった訳だ。やはりそうかと思うと同時に、日韓の政治文化の差を思い知らされた。
1996年(あるいは1997年)になって韓国国家により「光州事件」が民主化運動として記念されることになったことは日本でも知られているだろう。そこに至るよりかなり前から、光州市や全羅南道ではこの運動を顕彰することになっていたのだ。光州市のほぼ全市民が生き証人なのだから、当地に陰謀論が入り込む余地はないし、その記憶は風化することもない。当然と言えば当然のことではある。ちなみに、実話としてドイツ公共放送(ARD)東京在住特派員であったドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーターが韓国の金浦空港に着いたのが5月19日とのことなので、彼は、5月20日の20万の市民と3万の軍・警察が対峙した場面を目撃していない筈だ。
映画評は、まだみていない人の妨げにならないよう、少しだけ。まあ、面白かった。5・18民主化運動(光州事件)という韓国史上の重い事件を扱いながら、エンターテインメントとしても成功している。とは思うが、大事件を扱っているだけに何か物足りなさも感じた。一つには、予算不足からかエキストラがちょっと少なすぎる気がした。もう一点、共産主義者の嫌疑により国家権力の暴力がなされようとするとき、「共産主義者でもないのに理不尽な」という意味のセリフが何度も繰り返されると、さすがに「共産主義者にだったら暴行してもいいんかい、殺してもいいのかい」と思う。
崔 真碩( チェ ジンソク )『サラム ひと』(夜光社 民衆詩叢書 I,2018)より
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