さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

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 少し前に、安東量子さんの以下のようなtweetに接し、思うところあってこれを書く。

日本の物理学者が、アメリカのマンハッタン計画には米国の物理学者が深く関与していたのは事実だけれど、彼らは原爆の実戦使用には反対したんだ、彼らは悪魔ではないし、平和主義者だったんだ、と学生の授業で解説したら、学生の感想は、「そら、認識が甘すぎるで。世間知らずや」だったそう。
22:31 - 2018年10月1日


そんなん作ってしまったら、当時の状況で軍隊が使わんわけないやないか。作ることを提言しておいて、いざできたら実際に使われると思わなかったなんて、世間知らずにもほどがある。と言われたと言う話を聞いて、そらそだよな、と思った。
22:34 - 2018年10月1日

 「世間知らず」との批判は、原爆開発に関与した物理学者だけでなく、外形上、授業で彼らを擁護した「日本の物理学者」にも向けられていると考えることができよう。こんなふうにツッコミを入れる学生がいることは頼もしい。しかし、これがもし、例えば「平和学」や「科学技術社会論」のような授業でのことだとしたら、「それはいくらなんでも、それはいくらなんでもご容赦ください」と言うべき雑な講義内容だ。

 かつて大学の講義でこの種の話題が持ち出される時は、きまって篠原正瑛(せいえい)さんとアインシュタインとの間で交わされた往復書簡のことが言及されたと思う。哲学者であった篠原さんは、平和主義を説くアインシュタインとの間で、原爆を作るようルーズヴェルトに進言する手紙に署名したことは失敗であり悔い改めるべきだとして、1953年から54年にかけて6往復の手紙のやりとりをした(注1)。その往復書簡の内容をベースとして、ある科学技術がまさに悪用されようとする社会情勢にある時、あるいは将来人類にとてつもなく大きな災いとなる可能性がある時、科学者はその研究・開発を封印すべきであるとの主張は、研究者倫理としてひろまっていたのである。実際、私の大学院時代のY先生の最終講義の半分は、この話題に充てられた。しかし、当時のこの議論に、物理学者達はひどく世間知らずだとの認識は少しも紛れ込んでいなかったことは注意した方が良い。

 篠原さんは、後に、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の委員など社会的活動もなさったので、そうした活動の場でアインシュタインとの往復書簡のことが広まったようだ。Y先生も原水禁や被団協の活動で篠原さんと付き合いがあったが、多くの人々が手紙の具体的な内容を知るようになったのは、『アインシュタイン平和書簡3』(ネーサン、ノーデン編、金子敏男訳、みすず書房、1977年2月)(注2)の刊行によるところが大きいであろう。しかし残念なことに、私のみるところこの書は、アインシュタインを美化するあまり篠原さんの問いかけを端折ってしまうなど、不当な編集が加えられている。それでもこれを読むと、それほど単純な話ではないことがわかる。篠原さんご自身で生前に往復書簡の全文を公開しなかったのは何故なのか長年疑問に感じていたが、この機会に改めて読み返してみてその理由も透けて見えるような気がしたのである。

 きっかけは、雑誌『改造』の編集長であった原勝さんが、アインシュタインに向けて、原爆開発の責任を問う手紙を送り(1952年9月15日付)、すぐに返事があって、篠原さんがそれらの日独間翻訳を行なったことにある。『改造』からの最初の手紙は以下のような内容であった。

 ・・・最近−すなわち戦後七年にしてー原子爆弾による破壊を撮った写真の発表禁止が、解除されました。始めて日本国民は、原子爆弾の絶滅的とはいわないでも、最も破壊的な効力を示す、あの破局の真の場面に直面しました。全日本国民は再度、自らの罪の招いた結果に、否応なしに思い及んだ訳であります。・・・しかしわれわれは、如何に科学が、その第一の目的は人類の福祉と幸福に奉仕すべきであるのに、このように恐ろしい結果を生み出す手段となってしまったのかと、当惑の感情をいだかされております。偉大な科学者として、原爆製造に重要な役割を演じられたあなたは、日本国民の精神的苦痛を救う優れた資質が、おありになります。したがって私は、敢えて次の点をお訊ねする次第です。
(中略)
(4)あなたは何故、原子爆弾の凄まじい破壊力を十分御承知でありながら、その製造に協力なさったのですか。・・・・
(p. 680-681)

 上記(4)の問に対してアインシュタインは、9月20日付、以下のように返信した。

 原子爆弾の創造に私が参加した本質は、唯一つの行為です。ルーズベルト大統領宛の一通の手紙に、私は署名をしました。その手紙では、原子爆弾製造の可能性を求めて、大規模な実験を試みる必要が、強調されていたのです。
 この計画の成功が人類にとって意味する恐るべき危険について、私は十分承知しておりました。しかし、ドイツ人が同じ問題で、成功の見通しを以って研究していると言う可能性が、私をこうせざるを得なくしたのでした。例え私が常に確信のある平和主義者であるにしても、他の何物も私には残っていなかったのです。・・・
(p. 681)

 この返信では、この後、平和達成の手段を軍備に求めることは軍拡競争を招き、必然的に人類滅亡の道へ連なるものであることを説き、最後にガンジーが引用される。

 このやりとりを翻訳した篠原さんはこれに納得せず、翌53年1月5日、アインシュタインに最初の手紙を書き送った。篠原さんは、自らを「絶対的」平和主義者とするアインシュタインが、ルーズヴェルト宛の手紙をどうして書くことができたのか、「絶対的平和主義者」として止まることを願うならば、ルーズヴェルト宛の手紙を嘆かわしい失敗だと考える外ないではないかと問うた。ガンジーだったらアインシュタインのようには行動しなかったろうとも付言した。篠原さんの中心的な問題意識が当時の日本の進路にあったことは次の文面から読み取れる。

 ・・・アメリカの圧力下での、日本再軍備の危険な進行に伴って、日本では次のような声が、一層強く聞かれるようになっています。すなわち軍備なしの絶対平和は、決してありえないこと、および現実的には「正当な自衛」のための軍備をともなう、相対的な平和のみが考えられうるものであり、可能であるということです。そのような主張をなす人々の中には、周知の絶対平和主義者であるアインシュタインのような人ですらも、一定の条件下では、間接的に原爆製造に参加することが許されると考えているという、あなたの例を以って、その主張を弁護しようとするかの如き者が、幾人かあります。・・・
(p. 683)

 1950年に朝鮮戦争が勃発してGHQの司令のもと警察予備隊が組織され、やがて1954年の自衛隊の設置へと向かおうとする時代背景がある。篠原さんの問いかけにアインシュタインは同年2月22日に返事を送った。

 一月五日付の貴信で、あなたが私に対してなさっている非難は、絶対的すなわち無条件の平和主義の立場からすれば、全く正当であります。しかし「改造」に宛てた手紙の中で、私は絶対的平和主義者であるとは申しておりません。常に確信ある平和主義者であったと、私は申しました。正に確信ある平和主義者であるとしてもなお、私の見解では、暴力を用うることが必要となる条件があるのです。その場合がおとずれるのは、私に敵があって、その無条件の目的が、私と私の家族を殺害することである場合です。しかし、他のいかなる場合にも、国の間の紛争の危機に際して、暴力の使用を、私は不正であり有害であると思います。
 こういう訳でナチスドイツに対する暴力の使用を、私は正当であり必要であったと思います。・・・・
(p. 683)
 
 篠原さんはまたも納得せず、同年6月18日付再度の手紙を書き送っているが、この部分は編者によって以下のように要約されている。

 ・・・「確信ある」平和主義とは、「絶対的」平和主義者でないならば、何なのかと。結局ヒトラーも平和を望んでいると、確信していた。原子爆弾は、それがドイツに対して用いられることを、アインシュタインは支持したが、事実上はドイツ人にではなくて、広島と長崎の平和な人々の上に落とされた。しかも日本は、この恐怖兵器にさらされなくても、降伏せざるをえなかったことは、確かであったろう。アメリカは否定しているが、日本人がモルモットとして用いられたのだということは、明瞭である。このことは、二発の原子爆弾の犠牲者のために、アメリカが何ごともなしえなかったということで、確認された結論である。・・・・
(p. 684)

 アインシュタインは直ちに(6月23日)、しかし、篠原さんの数ページの手紙の1枚の裏に書きなぐるというあえて礼を失する形で、次のように返信した。

 決然たる平和主義者ですが、絶対的平和主義者では、私はありません。すなわちあらゆる場合に私は暴力に反対します。但し敵対者が生命の抹殺を自己目的として意図している場合は、別です。日本に対する原子爆弾の利用を、私は常に有罪だと判定しています。しかし私はこの宿命的な決定を阻止すべく殆ど何事もできませんでした――日本人の朝鮮や中国での行為に対して、あなたが責任があるとされうるのと同じ程に、少ししかできなかったのです。
 ドイツ人に対する原爆の使用を、是認するというようなことを、私は主張したことはありません。しかしヒトラー治下のドイツだけがこの武器を所有することは、無条件に阻止しなければならないと、私は信じていました。これは正にその時代には、心配すべきことでした。・・・・

追伸
 他人とその行為については、十分の情報を入手されて後、始めて意見を形成されるよう、努力なさるべきでありましょう。
(p. 684-685)

 篠原さんとアインシュタインとの手紙の交換は翌54年7月7日付のアインシュタインからの返信まで全体で6往復続いたが、この書では、最後に次のように書いて、後半を省略している。

 篠原は1953年6月30日、アインシュタインが広島と長崎の悲劇に責任があることを、いったのでは決してない旨を返事した。篠原は、アメリカの良心の最も偉大な守護者の一人が、依然健在であることを知って、満足であった。・・・・
(p. 685)

 何だかグダグダであるが、ここで関連する年表を整理しておこう。

1932年  7月    ドイツの議会選挙でナチ党が第1党となる
1932年12月    アインシュタイン、アメリカへ事実上の移住
1933年  3月23日 ドイツで全権委任法が成立してヒトラーによる独裁体制が始まる
          アインシュタインの自宅がナチス突撃隊による家宅捜索を受ける
1933年  3月30日 シラード、ドイツを脱出
1935年  9月15日 ドイツでニュルンベルク法制定、ユダヤ人迫害が合法化される
1937年  7月  7日 盧溝橋事件
1938年       シラード、アメリカへ事実上の亡命
1939年  8月  2日 アインシュタイン・シラードの手紙が送られる
1939年  9月  1日 ポーランド侵攻
1941年12月  8日 真珠湾攻撃
1942年10月          マンハッタン計画スタート
1945年  4月30日 ヒトラー自殺
             5月  9日 ドイツ国防軍の降伏によってヨーロッパ戦線集結
             6月23日 沖縄戦終結
     7月16日 トリニティ実験
     8月  6日 広島に原爆投下
     8月  9日 長崎に原爆投下

 ナチスによるユダヤ人迫害で身の危険を覚えてアメリカに亡命したアインシュタインが、ただ研究に没頭していただけの世間知らずだった筈はない。彼は、ナチスによって自宅の家宅捜索まで受けている。ルーズベルトへ原爆開発を進言する手紙を書くようアインシュタインに依頼したシラードもユダヤ人であったが、かなり早い時期からナチスの凶暴性を見抜いてその危険性を広く説いて回り、ナチスの全権掌握直後にドイツから脱出している。オッペンハイマーがアメリカへ渡ったのは亡命という形ではなかったにせよ、彼もユダヤ人だった。アインシュタインは、マンハッタン計画に関わっていなかったとはいえ、原爆の開発を進言した手紙に署名したのである。その手紙を読めば、彼らにとって、ナチス・ドイツが先に原爆開発に着手しているという、その切迫した恐怖こそが、「科学技術が悪用される社会情勢」の核心だったことがわかる。

 その上でアインシュタインは、先に原爆を開発してその威力を見せつけることで、実戦で使用しなくてもドイツの降伏を早めることが期待できると考えていたようだ。原爆開発の完了前にドイツは降伏しているので、開発完了後にそれがドイツに対して用いられる可能性は実際上あり得なかった。そこで篠原さんは、既に戦争を継続する力を失っていた日本に落とされたことはどのように正当化されるのかと問うた。これに対してアインシュタインは、「日本に対する原子爆弾の利用を、私は常に有罪だと判定しています」としつつ、それに反対する力は自分にはなかった、それはあなた(篠原さん)が、日本のアジア侵略を止められなかったのと同じだと応じた。

 篠原さんは1939年にドイツへ留学し、ドイツの大学で職を得て、ドイツ降伏後は連合軍により抑留され、スイスでの病気療養を経て49年に帰国とのこと。後に「原水禁」の委員にもなる篠原さんとして、アインシュタインの反撃にどのように納得したのか、この本を読んでもよくわからない。アインシュタインは、篠原さんと往復書簡を交わした後でバートランド・ラッセルと意見を交換し、55年7月9日のラッセル・アインシュタイン宣言を準備した。アインシュタインが亡くなったのはその宣言発表の3ヶ月前の4月18日である。

 さて、戦後の物理学者の中には、世界の命運は我々が握っているのであり、世間知らず故に時代に翻弄されているのはむしろ「大衆」の方であるとの倒錯した世界認識も一部には間違いなくあって、Y先生は、そのことを「物理帝国主義」の一側面として批判された。私自身、この往復書簡の全文を読んでいないので確信は持てないが、篠原さんが生前にその全文を公開しなかったのは、ある種手のつけられない「パンドラの箱」の匂いを嗅ぎ取ったからではないか。アインシュタインの威光に対する敗北主義が哲学者らしからぬ不徹底を招いたのではないかとの疑念は拭えない。

――――――――――――――――――――
注1)篠原さんの遺族がアインシュタインからの返事6通の寄贈先を探しているという2005年6月7日付毎日新聞の記事のコピーが次のページにある。

結果的にこの手紙は広島平和記念資料館に寄贈され、企画展などで公開されているようだ。

注2)『アインシュタイン平和書簡』の書評は大正大学の瀧本往人さんのブログ「 そのたびごとにただ一つ、世界のはじまり」で読むことができる。





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