さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

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2018年02月

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 先週、2月11日の『ワイドナショー』での三浦瑠麗氏のスリーパーセル発言について、一言書いておくべきだと思いつつ、一週間が過ぎてしまった。録画から件の部分を文字起こしする。

三浦瑠麗:そう、実際に戦争が始まったら、テロリストが、仮に金正恩さんが殺されても、スリーパー・セルって言われて、もし指導者が死んだっていうのがわかったら、もう一切外部との連絡を絶って、都市で動き始めるスリーパーセルというのが活動するってのが言われてるんです。

(「スリーパーセル 一般市民を装って潜伏している工作員やテロリスト」との字幕が入る)

東野幸治:普段眠っている、暗殺部隊みたいなのが?

三浦瑠麗:テロリスト分子がいるわけです。で、それが、ソウルでも東京でも、もちろん大阪でも、今けっこう大阪ヤバイって言われていて・・・

松本人志:えっ、潜んでるってことですか?

三浦瑠麗:潜んでます。ていうのは、あの、いざという時に、その最後のバックアップなんですよ。で、そうしたら、首都攻撃するよりかは、正直、他の大都市が狙われる可能性もあるので、東京じゃないからってふうに安心はできないっていうのがあるので、正直我々としては核であろうが何だろうが戦争して欲しくはないんですよ、アメリカに・・・

 私は、三浦氏のこの発言は、在日朝鮮人に対する憎悪を煽り、危険にさらす効果を発揮する極めて悪質なものだと思う。類似の批判に対して三浦氏を擁護する意見が見られたので、そのいくつかについて手短に感想を書いておく。

 まず、韓国や日本に「北朝鮮」のスパイや工作員が多数潜んでいるというのは常識で、実際に日本人が拉致されたではないかというのがあった。しかし、三浦氏が言っているのは、そうしたスパイや工作員のことではなく、戦争がおこって母国の指導者が殺されたり国体が崩壊したりした際に大規模なテロを仕掛けるよう命令を受けた集団のことで、そのような者が一般市民に紛れて多数潜んでいるという話である。三浦氏は戦争がおこったらどうなるかという文脈で発言しているのだから、そうした擁護は筋違いだ。

 また、三浦氏はスリーパーセルが在日朝鮮人として暮らしているとは言っていないのだからヘイトスピーチにはあたらないというのもあったが、実際にこれに触発された在日朝鮮人へのヘイトスピーチや暴力行為が増えている。
例えば



 東京大学への抗議については、表現の自由、学問の自由があるのだから無駄だとの意見も見られた。しかし、他の権利と衝突する場合を想起するとあらゆる権利が無制限のものでないことは自明のことであろう。大学であっても、表現の自由、学問の自由が権利として他の人権に勝る訳ではないというのが一般的な理解で、そのためにいろいろな倫理規定、コンプライアンス規則などが設けられている筈だ。

 この件に関係することで言えば、どこの大学にも情報倫理規程のようなものがあって、大学所属を名乗ってSNSなどでヘイトスピーチを公言したりするとお咎めを受ける。恥ずかしながら一昨年、私の学部の学生がtwitterで他国・多民族の憎悪を煽る発言をくりかえし、通報をもとに明確な情報倫理規程違反との決定が下され、厳重注意とtwitterアカウントの強制削除処分が行われた。SNS上ではなくテレビのワイドショーでの発言だから情報倫理規程違反にはあたらないとの言い逃れは通用するだろうか。学生は処分されて当然だが大学教員は表現の自由や学問の自由で守られるべきだというのは通用するだろうか。

 学生本人は表向き反省のそぶりを見せていたが、通知を受けた父親から「何が悪いのだ」と大学担当者へ抗議があったと聞いて唖然とした。学生はお客様だが、大学当局は親の抗議に怯まなかった。しかし、親が庇ってくれたことで真の反省は得られなかったのだろう。その後この学生はもっと酷い事件をおこしてしまったのだ。人権というものを理解しない限り、何度でも人権侵害を犯す訳である。三浦瑠麗氏が人権を正しく理解しているとは到底思えないので、今後も人権侵害を誘発するような発言が繰り返される可能性大である。

 ところで、三浦氏の言うスリーパーセルなるものは、母国の国体が崩壊した後でもなお母国への忠誠を維持し、命を捨てる覚悟でテロ行為に及ぶというものらしいが、そんな人間の存在をどうして信じることができるのか、私には全くわからない。かつてそのような実例があったのだろうか。近・現代史の中でも一国の指導者が殺害され、国体が崩壊した例は多いが、そのことを合図に敵対していた国でスリーパーセルの一斉蜂起がおこったという例を私は知らない。

 日本の敗戦後もフィリピンのルバング島で「戦い」続けた小野田寛郎元少尉をスリーパーセルの実例とする意見を見かけたが、彼の実像は三浦氏が想定しているものとは全く異なるものである。帰国直後の小野田氏と三ヶ月間寝食を共にしながら彼の手記『わがルバン島の30年戦争』(講談社, 1974年)をゴーストライターとして代筆した津田信氏は、やがて小野田氏本人による「小野田像の捏造」に堪えられず『幻想の英雄』(図書出版社,1977年)を著すことになる。その「あとがき」で津田氏は、間違った ”小野田伝説” が語りつがれることを恐れた “懺悔の書” であると書いている。

 あらゆる情報は小野田氏が早い段階で敗戦を知っていた事を示していた。それなのに彼は、滑稽な言い訳とともに、敗戦については知らなかった、むしろ大日本帝国はいよいよ国力を増して東京オリンピックを開催したり皇太子が民間人と結婚するのに湧いたりするまでになったと信じていたと最後まで主張したのである。津田氏が疑惑を懐いたのはそうしたことに端を発している。

むろん私は、彼の話で腑に落ちないところは何度も問い返した。自分でもしつこいと思うほど念を押した。だが、敗戦認識についてはいくら訊いても彼の説明は矛盾だらけで、むしろ、聞けば聞くほど疑惑が生じた。(P. 127)

 小野田氏が潜んでいたルバング島(面積255 km2)は、戦略上ほとんど無意味な、小さな島である。30年間に100人以上を殺傷した(殺害は30人以上)とされているが、そのほとんどは、何の罪もない島民だ。

「将来、友軍の主力の容易ならしめるには、われわれが島内の”占領地域”をがっちりと守り通さねばなりませんでした」
 彼は繰り返しこう主張した。しかし、この島にきてますますはっきりしたのは、彼の占領地域が日頃島民が寄り付かない、と言うよりはほとんど必要としない山岳部だったことである。彼自身が生存するには必要な地域だったかも知れないが、戦略上、鼠以下の生活をしてまで守らねばならない地域とはどうしても考えられなかった。(P. 209)

きのうから接した島民たちは誰も彼も愛想がよく、親切であった。黙って私とC君のために小屋をつくってくれたことが、彼らの人柄を端的に語っていた。戦争継続を妄想して無益な殺傷をくり返し、しかもそれを自慢気に語った小野田寛郎に、私はこのとき強い嫌悪を覚えた。同時にその男の手記を代筆している自分がたまらなくはずかしかった。(P. 218)

 有能な情報戦の将校が日本の敗戦を知らなかった筈はない。しかし、既に彼は何人かの島民を手に掛けていて、報復を恐れ、投降をためらっているうちに罪を重ねて行くことになる。生きて行くためとはいえ島民の殺害を続ける事を正当化するには理由が必要だ。戦争に負けたのに「戦闘」を続けることにはいかなる理由も見出せないから、どうあっても日本の敗戦を知らなかったことにしなければならない。

私は以前から、小野田寛郎が最も恐れていたのは島民の復讐だったと推察していたが、彼の性格を知るに及んで、もう一つ、彼が恐れていたものに気づいた。それは復讐を恐ると同時に、その恐怖心を第三者に見破られることである。この二重の恐怖から逃れて安全に山を降りる唯一の方法 ―- それが上官の命令だったのではないのか。(p. 227)

 彼は、上官からの残置任務を遂行した訳ではなく、保身のために略奪と殺戮を繰り返しただけの、本来なら国際指名手配犯に該当する殺人鬼に過ぎない。そこから心身ともに安全に生還するためには上官による命令の解除という神話的な物語が必要だった。津田氏の著書によってその事の欺瞞性が暴かれ、ブラジルへ逃亡したのだろう。

 津田氏が健在であったら、この度の三浦氏の発言を聞いて、スリーパーセルなどというのは戦争の実相を知らない平和ボケした学者の妄想にすぎないと喝破したのではないか。妄想を垂れ流して恥をかくのは自業自得だが、そのせいで生じる被害に思いが至らないのは人権意識の欠如によるものである。


[MV] 이랑 イ・ラン - 임진강 イムジン河

 2月10日、作家の石牟礼道子さん(90歳)逝去。若い頃から彼女の文学に親しみ、大きな影響を受けてきた身として、哀しみに耐えない。

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Ishimure MichikoThornber, 2016)から

「石牟礼道子さんを公私にわたり支援してきた日本近代史家の渡辺京二さん(87)は、「半世紀の付き合いで家族を亡くしたようなもの。客観的なコメントはできない」と言葉少なだった。」(毎日新聞2月11日付、社会面)

 その渡辺さんによる石牟礼さんの紹介記事が熊本県教育委員会の「 くまもとの偉人(熊本県近代文化功労者)」のサイトにある。彼女の文学について論じたところを一部引用する。

彼女の作品に説教節や能に通じる古典的夢幻性が濃厚なのは誰しも認める事実だけれども、一方、現代ラテンアメリカ文学、たとえばガルシア・マルケスのような土俗性を帯びた前衛文学との相似を指摘する声もある。ソローを原点とする環境文学、ネイチャー・ライティングの現代的事例として評価する見方もあって、いずれも彼女の創造の含蓄のゆたかさを示すものだろう。
 筆者に言わせれば、石牟礼の作品は万葉以来のこの国の文学の感性を純粋にひき継いでいて、その意味では伝統的であると同時に、一方ではこれまで日本の近代文学に出現したことのない、あえていえば不思議な文学なのである。

 石牟礼さんは、言葉によって世界を表現し得る(認識し得る)ことに感動して文学の道に入ったという意味のことを書いていた。逆に、石牟礼さんの「不思議な文学」が描く「世界」を解体し、その全体像を言葉に還元すべく果敢に挑戦した論考として、ハーバード大学のKaren Thornber(比較文学学)による「Ishimure Michiko and Global Ecocriticism」(注1)がある。そこでは、石牟礼さんの文学が日本の標準的な言葉とは異なる方言が多用されている事も災いして、広範な翻訳を困難にしていることから、現状では「世界文学」の中では周縁の位置(marginal position)を占めるとしながらも、その本質的な貢献は「世界文学」の意味に拡大を迫るものと評価している。ノーベル文学賞の受賞を密かに期待していたが、まだ世界の文学界は、彼女の文学を言葉にすることに成功していない(「不思議」なままで終わっている)ということなのか。
 
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Ishimure in sit-in protest at Ministry of Health, Labor and Welfare, 25 May 1970: Thornber (2016)から

 前掲の渡辺京二さんによる解説記事に、彼女の生い立ちに関わって次の記述がある。

石牟礼道子は一九二七年三月一一日、天草の宮野河内(現河浦町)で生まれた。白石亀太郎と吉田ハルノの長女である。ハルノの父吉田松太郎は当時石工の棟梁として、道路工事、港湾建設を請け負う一方、回船業も営むなど手広く事業を展開しており、白石亀太郎は松太郎のもとで帳付けを勤めるうちにハルノと結ばれた。宮野河内は松太郎が請け負った仕事先で、そこに両親が滞在中に道子が生まれた。吉田家は水俣町浜に住居を構えていて、道子は出生後三ヶ月でその家へ戻った。
 天草は両親が仕事で滞在中に生まれたというだけの仮そめの地であるのに、彼女は成人後ずっと天草生まれと自覚し、人にもそう語った。というのは祖父松太郎と母ハルノは天草上島の下浦、父亀太郎は同下島の下津深江の出身で、彼女の家には天草の親族がしばしば出入りし、彼女自身天草に深いえにしを覚えていたのである。柔らかでみやびやかな天草弁は彼女のからだ奥深く染みこみ、後年の創作の中に生かされることになる。

 仮そめの地にすぎないのに天草の出であると言い張っていたもう一人の著名人として吉本隆明氏がいるが(注2)、石牟礼さんの天草への思慕は格別のようで、その想いは構想50年を経て島原・天草の乱を描いた長編『春の城』(注3)に結実している。『完本 春の城』(藤原書店・2017)に収録されている「納戸仏さま ー 全集版あとがきにかえて」から引用する。

 わたしの父方も母方も天草である。切支丹ではなかった。何代も何代も隠れてきて、何を隠したのか思い出せない、というような身ぶりを時々みることがあった。
 わたしが七つになった歳の引越しだったが、母が首をかしげて、
 「納戸仏(なんどぼとけ)さまのおんなはらん」
とひとりごとをいうのをきいた。家族がふだん礼拝するのは仏壇と神棚である。そのほかに、皆に内緒というほどではないが、納戸仏さまと時々口に出し、あわててのみこみ、首を傾け、思い出せないことを考えている風なのが、子ども心にけげんであった。
 何年かして、あるとき、しのびやかな面持ちで母がいいかけてきた。
 「あのね、道子。自分が考えて、これが一番大事と思うことはね、つまりわが本心はね」
 「わが本心」などというむずかしげな言葉をふだん口にする人ではなかった。何か切実なひびきを感じて顔を見上げた。いつもの春風のようなゆったりとした表情が消えている。
 「あのね、自分の本心ちゅうのはね、人さまには見せちゃならんとぞ、決して。語ってもならん。よかね」
 五年生ぐらいだったろうか。思い重ねてきて、これだけは言いきかせておこうというような音声でふいに言いかけてきたのである。わたしは誰かと言い争ったとか、何かをしでかしたという覚えはない。
 「うちにはね、納戸仏さまの、おらいましたがね、どこかにゆかれたごたる。家移りばかりしてきたもんで。
 道子が生まれた時の守り仏さまじゃった。納戸にね、大切にして拝みよった。人にいわずに覚えておこうぞ、大事な観音さまじゃけん、道子にあずかってもらおうね」
 説教がましいことなど一度もきいたことはなかった。よっぽど大切なことらしい。母はわたしをそっと抱き、
 「み心ば、いただこうね。道子があやかりますように」
と言った。震えをおびた音声であった。
 「天草から、たしかにお連れしてきたとじゃけん。わが身と同じように、ひとさまを大切にいたしやしょうぞ」
 そういえばすすけた観音さまをみたおぼえがあった。こうして姿の見えない納戸仏さまをわたしは母からあずかった。

 母方の祖父吉田松太郎は天草上島の下浦(しもうら)で石工の棟梁をしていた。この町はもともと石工が多く、江戸時代から「下浦石工」として知られていた。農地に適した土地が少なく、浅瀬の多い内湾で漁業もままならず、それほど良質というのでもない砂岩を「下浦石」と称して売り出す他になかったようである。

 スタンフォード大の古地図アーカイブから松太郎一家が暮らしていた頃の地形図を示す。

イメージ 3


 松太郎一家が居を構えていたのは中央やや北東寄りの「舩場(せんば)」の海岸に面した集落(N32.4162, E130.2213)で、沖を通過する貨物船に手漕ぎの和船で荷物を受け渡す回船業も営んでいた。「下浦村」の地名の「浦」の字の北東にある崖マークが下浦石の採石場である。石牟礼さんの短編に、父や祖父の、石を積んだ荷車を引く肉体労働を、自然の移ろいの中で神話的な世界として描いた作品があるが、おそらく想像の産物であろう。地図の南東部にある「上血塚嶋」、「下血塚嶋」の二つの島は、源平の壇ノ浦の合戦の後で、敗走してきた平家の残党が源氏の討伐隊によって最後に絶滅させられたところとされている。下の写真の右側にその二つの島が写っている。

イメージ 4


 石牟礼作品にしばしば登場する方言は、水俣のものと若干異なって、天草の下浦周辺に起源がある。取り立てて何もない、ただただ穏やかな自然が育んだ、平安時代の古語を残す土着の言葉が世界を記述したのである。

――――――――――――――――――――――――――
注1)Thornber (2016) Ishimure Michiko and Global Ecocriticism. The Asia-Pacific Journal, Japan Focus Volume 14, Issue 13, Number 6, 1-23.pdf: 1.7 MB
注2)石関善治郎著『吉本隆明の帰郷』(思潮社・2012年刊)参照
注3)高知新聞や熊本日日新聞に連載されていた『春の城』は、連載終了直後に『アニマの鳥』(筑摩書房・1999)として刊行されたが、石牟礼道子全集 第13巻(筑摩書房・2007)に連載時のタイトルに戻して収録され、さらに取材記などと併せ、『完本 春の城』(藤原書店・2017)としても刊行されるというやや不可解な経緯を持つ作品である。Wikipediaの「石牟礼道子」の著書一覧には『春の城』は掲載されていない。なお、「島原・天草の乱」は、天草では「天草・島原の乱」と称され、『完本 春の城』でも「天草・島原の乱」と表記されている。

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