さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

備忘録

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 はじめに
 桜島の噴火警戒レベルが3から4に引き上げられたことを受けて、周辺自治体や川内原発への噴火の影響を心配する声があげられている。最近はさしせまった大規模噴火の兆候はおさまったようで、昨日(8月22日)になって避難勧告は解除されたが、これをどう評価すべきか、私にはわからない。

 さて、将来のこととして心配されているのは、カルデラ巨大噴火だ。火山地質学の専門家の講演を聞いたことがあるが、29,000年ほど前(注1)におこった姶良カルデラの噴火(姶良火砕噴火)では、その後九州全土から旧石器が全く出土しなくなる期間のあることが認められているという。つまり当時の「九州人」は絶滅したらしい。こうした巨大噴火の前兆はどのように捉えられるであろうか。火山噴火の様式や推移には火山毎に個性があるとされているが、ここでは、特に姶良火砕噴火の研究を中心にメモしておく。

 カルデラ巨大噴火の前兆現象に正面から取り組んだ研究として文献1がある。この論文では鬼界カルデラと姶良カルデラがとりあげられているが、記載の大半は鬼界カルデラの活動史に充てられている。その上で、様々な先駆的噴火活動や地震、津波の痕跡などがまとめられ、「表面的な火山活動が活発であればカルデラ噴火はおこらないというのは迷信」と結論されている。

 ここで「迷信」とされた説は、姶良カルデラの噴火活動史の研究から唱えられたのであるが、この論文では、姶良カルデラの記述が少ない理由を「シラス台地は広大な地域を厚く覆っているためか、先駆的現象の顕著な例は見つかっていない」と書いている。

 この点について私見を述べると、先駆的現象の顕著な例が見つかっていないのは事実であるが、姶良火砕噴火の産物であるシラスが厚く覆って基底部の露頭が少ないというのは事実に反する。実際、最初の噴出物である大隅降下軽石の下底面やその下位層は至る所で観察され、多数の記載論文がある。

 姶良火砕噴火の推移
 姶良火砕噴火によって形成された一連の火山砕屑岩類の標準層序(地層の重なり)を示すと次のようになり、(1)から(3)の順に堆積した。

 表1 姶良火砕噴火による堆積物の層序
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 (3)入戸(いと)火砕流堆積物(200 km3),姶良Tn火山灰(150 km3)


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 文献2によると、妻屋火砕流堆積物の下部ユニットは大隅降下軽石層と互層するとされているが、別々のフローユニットと認識されている火砕流堆積物と降下軽石(air fall)が互層することは、一般には考えにくい。文献3では、大隅降下軽石の噴出に伴って、噴出源近傍に垂水火砕流が発生したとされているので、この互層部は、噴出源からやや離れた地点で垂水火砕流の先端部分が到達した部分かもしれない。

 (1)大隅降下軽石(+垂水火砕流)
 大隅降下軽石は入戸火砕流噴出へ至る一連の姶良火砕噴火で確認されている最初の噴出物である。垂水火砕流と合わせるとこの時の噴火だけでVEI(火山爆発指数)が7に達する。これは広義の降下火山灰層(air fall)のうち、火山礫に分類されるサイズ(粒径2〜64 mm)の流紋岩質軽石が一回のプリニー式噴火で降り積もったもの。

 文献4のFig. 1 には、その等層厚線(isopach)が描かれているが、このような図は他の多数の論文にも記載されている。これをもとにその噴出源が現在の桜島付近にあることや、噴煙が東南東方向に流されたことなどが突き止められている。層序表にリンクした写真は、噴出源からおよそ45 km離れた志布志湾北縁の露頭である。この位置で層厚が5.5 mに達している。文献4のFig. 1 の一部を図1として示しておく。

イメージ 1

    図1 文献1のFig. 1(部分). 黒塗りは現在残っている入戸火砕流堆積物、
       赤丸は層序表の「大隅降下軽石」にリンクした露頭写真の位置。

 問題は、この直前の前駆的な噴出物があるかどうかである。既に述べたように、大隅降下軽石の下底面やその下位層は至る所で観察され、それ故等層厚線図を描くことが可能になっている。にもかかわらず、その直前に降り積もったと考えて良いような火山噴出物は、どのように僅かなものであっても全く報告されていない。

 姶良火砕噴火先史については、文献5に詳しいが、大隅降下軽石の3000年前の毛梨野噴火が、直近のものとして知られている最も若い活動である。このことは、静穏な期間が長らく続いていたある日突然巨大なプリニー式噴火が起こってしまう可能性を示唆している。

(2)妻屋火砕流
 妻屋火砕流堆積物は大部分細粒な火山灰と軽石からなり、平行、または斜行した層理を示し、多量の火山豆石を伴うなど、荒巻(1969)以来、特異な火砕流堆積物として注目されてきた。その後ベースサージという概念が導入され、横殴りの暴風を伴った火砕流堆積物と解釈されるようになった。広義のベースサージには水平方向へ爆発的に噴出して形成されたもの、巨大な噴煙柱の崩壊に伴うダウンバーストに起因するものなどが報告されているが、いずれにしても風速50 mを越える暴風を伴う火砕サージは、極めて危険な噴火様式と認識されている。

 妻屋火砕流堆積物直下の大隅降下軽石層上面には、雨で流されるなどの時間間隙を示す現象が認められないので、両者は数日以内にあいついで噴出したものと考えられている。それ故、当初は、妻屋火砕流も大隅降下軽石と同じく現在の桜島付近が噴出源と考えられたが、その後の詳しい研究から、姶良カルデラ内の北東部に位置する若尊(わかみこ)カルデラ付近が噴出源と考えられるようになった(文献6)。すなわち、噴出源が数日の間に10 kmほど移動したということらしい。

(3)入戸火砕流 + 姶良Tn火山灰
 九州南部でシラスとよばれるものの大半は入戸火砕流堆積物である。これは、大部分未固結の凝灰角礫層からなり、軽石が粉砕された火山灰サイズ(径2 mm以下)の基質中に最大径1.5mに達する様々なサイズの軽石を主成分として含むため、軽石流堆積物とも呼ばれる。基底部には亀割坂角礫層と呼ばれる石質岩片の濃集した部分があり、入戸火砕流の噴出と同時に、火道周辺の岩石や基盤岩が吹き飛ばされたものと解釈されている(文献4)。

 入戸火砕流は妻屋火砕流の噴出から数ヶ月以内に噴出したとされ、当時の谷地形を埋めて、最大150 mの厚さで堆積し、九州南部を中心に遠くは四国まで達している。噴煙柱の上部が風に流されて降下堆積したものは姶良Tn火山灰と呼ばれ、さらに遠く、東北地方や朝鮮半島にまで達している。

 噴出源は妻屋火砕流と同じく若尊カルデラ付近とされており、噴出源付近では一部弱く溶結している。ただし、このように巨大な陥没カルデラの噴火ではカルデラ壁に沿った環状の割れ目から噴出することもあり、噴出源については再検討の余地もあるのではないかと思われる。
(その2へつづく)

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注1)姶良火砕噴火の発生時期についてはいろいろな年代測定結果があり、かつてはおよそ22,000年前とされ、その後25,000年前とする説や29,000年前とする説などが出されたが、いろいろな「絶対年代」測定法がある中で、1万年前〜50万年前くらいの間は最も測定が難しいとされている。



 ブログを放置している間、いろいろあった。昨年は「憧憬の小泉文夫のインド」へも行った。山村にあるコテージでの夕食後、同行者6人でハイビスカスの咲く庭に椅子とテーブルを運び出して酒もりをしているとき、どういった成り行きでそうなったか思い出せないが、40代後半〜50代前半のインド人3人と私とで、なつかしのフォークソング
『Where have all the flowers gone』を歌った。

 そういえばピート・シーガーは最近亡くなったんだよね、と私。インド人3人も、そうだそうだ1月だよと、私より詳しい。日本から同行の20代の若者二人は、この歌も作者のことも知らないので、おいてけぼりだ。それにしても、日本人でピートシーガーのことを知っているのは、私の世代がギリで、だいたい60代以上だと思うのだが、50歳前後のインド人が3人とも良く知っているのは少し意外だった。

 帰国後にいろいろ調べて、その謎は少し解けた。かつてインドにはHemanga Biswas (1912-1987)という、国民的人気を博したフォークシンガーがいた。土着の民謡をベースにしながら時折の社会問題に題材をとった歌を創り、社会変革に向けた運動の場で人々を鼓舞するプロテストソングをベンガル語で歌っていた。「花はどこへ行った」や「We shall overcome」などもベンガル語に訳して歌っていたので、貧しくてレコードを買えない多くのインド人もこれらの歌やピートシーガーのことを知ることになった。彼は、ほんとうに多くのインド人から敬愛されていたので、国営放送でも生誕100周年の長時間の記念番組が企画されたほどである。
 彼は「ヒロシマ」にモチーフを得た「かもめの歌」というベンガル語の歌を創って、ことある毎に歌っていたのだが、没後にピート・シーガーがこの歌を聴いて、英訳の歌を自分に歌わせてほしいと願い出るため、数年前にインドの遺族のもとを訪ねて来た。娘のRongili Biswasは経済学者だが、父の音楽的遺産を後世に残すために自ら歌手となって活動している、等々。

 この歌の成立過程とその後の展開については、NHK-BSの番組『花はどこへ行った♫ 静かなる反戦の祈り』に詳しい。

 ものすごく端折って書くと、レッドパージの嵐吹きすさぶ1950年代前半、ピート・シーガーは非米調査委員会に召喚されて表だった活動ができなくなる。失意の中、ショーロホフの『静かなドン』を読み、その中に出てくるコサックの民謡をもとに、飛行機の中で3番までの歌詞とメロディーが20分で出来たというのが1955年のこと。その後民族音楽研究家のジョー・ヒッカーソンが大学院生の頃に4番と5番を付け加えて、より鮮明な反戦歌として完成された。著作権が登録されたのは1961年らしい。

 さて、この番組の中で、マレーネ・ディートリッヒがこの歌を初めて外国語で歌ったと紹介されている。YouTubeには1962年デュッセルドルフにてドイツ語版『花はどこへ行った』(Sag Mir Wo Die Blumen Sind)を歌っている動画がアップされている。


 1901年、ベルリンに生まれたマレーネ。20年代にはドイツ映画の女優として名をなし、30年代にアメリカへ渡ってハリウッド女優として成功をおさめる。その頃全権を掌握したヒトラーはマレーネをドイツへ呼び戻そうとしたが、彼女はナチスに反発してそれを拒否し、アメリカの市民権を得た。第二次大戦が始まると志願してヨーロッパ戦線に飛び込み、連合軍兵士の慰問活動を積極的におこなうようになる。そのため、ドイツ人の多くは彼女を祖国を捨てた裏切り者と見なすようになり、1960年にドイツ公演のために帰国した際には激しい「帰れ」コールのデモがおこった。マレーネがこの歌に巡り会ったのはその頃ということになる。

 彼女がドイツでコンサートを開く際に『花はどこへ行った』をドイツ語で歌うことは強いひんしゅくを買った。特にメディアはドイツ人に対する挑発だとして厳しく警告し、歌うことをやめさせようとした。それにもめげず、彼女はこの歌をドイツ語で歌い続けることになる。彼女にとってはドイツ語で歌うことにこそ意味があった。ついに、マレーネのドイツ語版『花はどこへ行った』のレコードは記録的なヒット。やがて彼女は、かつてドイツが侵略した周辺諸国へも足をはこび、『花はどこへ行った』をドイツ語で歌うようになる。

 NHKの番組で「貴重な映像が残っている」として紹介されているのは、1963年ストックホルムでのショーに出演した時のもの。このときの様子は、YouTube にアップされている"Marlene Dietrich live in Stockholm" でこの歌を歌う前の華やかな演し物から見ることができる。



 一転、この動画の23分35秒あたり、衣装を替えてカーテンから現れたマレーネは、それまでのにこやかさとはうって変わって、明らかに緊張し、表情はこわばっている。それは、逆境の中で使命感にかられた者の見せる緊張のように思える。この後『リリー・マルレーン』を歌って、『花はどこへ行った』は27分15秒あたりから聴くことができる。

 このことにかかわってNHK-BSの番組は、五木寛之氏がコペンハーゲンでマレーネがドイツ語の『花はどこへ行った』を歌ったのを聴いた時の様子を、彼のエッセイ『ふりむかせる女たち』の一節を小室等氏が切れ切れに朗読するかたちで紹介している。1965年のことらしい。

 長くなるが、『ふりむかせる女たち』から引用しよう(黒文字はNHKの番組で朗読された部分)。

 「男性用語では、カブリツキという。イタリアのビッグ・バンドが引っこむと、黒いドレスを着た大女優が出てきた。これが実に何とも、見事なバストと素敵な脚。声は例のしゃがれ声ですが、これは若い時からそうだったらしい。その目つきの可憐さ、身のこなしの仇っぽさたるや、また抜群。
 <ハニーサークル・ローズ>だの<ベッドの中で煙草を喫うのはいけないわ>などというスローバラードの後で、十八番の<愛の賛歌>。そして最後に<花はどこへ行った?>をドイツ語で歌いました。
 ぼくは本当を言うと、一種の不安にかられて、その歌を聞いていたのです。戦後二十年たったとはいえ、コペンハーゲンの人々の胸には、まだまだ第二次大戦の記憶が残っているように思われたからでした。
 第二次大戦中、コペンハーゲンの街は、ドイツ軍の厳しい占領下にあったのです。その当時のデンマーク人のレジスタンスは、いろんなエピソードとなって残っています。例えば、こんな話があります。
 ドイツ軍が、市内のユダヤ人はすべて胸に黄色い星のマークをつけること、という布告を出した時、まっ先に黄色い星のマークをつけたのはデンマーク国王でした。そして、コペンハーゲンの全市民がそれにならって黄色い星を胸につけ、街をデモったというのです。
 たぶん、これは一種の美談のようなものであり、事実はもっと複雑だったでしょう。しかし、そんなエピソードの生まれる背景が、存在したことは疑えません。
 戦後二十年の間に、何もかも忘れて、恩讐のかなたに安心立命する日本人とは、わけがちがいます。最初の拍手に、すでにその不安は感じられました。立ち上がって熱狂しているのは、ほとんどアメリカ人観光客老夫婦なのです。むしろ冷ややかな空気さえ、客席には漂っていました。
 最後のナンバーをディートリッヒがドイツ語で歌い出した時、ぼくが軽い緊張感をおぼえたのは、そのためです。
 彼女が歌い終わる、そして短いエンディング。ディートリッヒは頭をたれてスポットの中に動きません。不気味な短い沈黙。その時、ぼくの前の客席で、女の子を連れた若いデンマーク陸軍の兵隊が、ヒクヒクとすすり泣きの声をもらすのがきこえました。隣の太ったマダムがハンカチを旦那に渡します。すすり泣きの声が、あちこちで起こりました。そして、バラバラと拍手のイントロが客席の隅から拡がり、それは次第に大浪のような拍手に変わっていきました。客たちは立ちあがって口々に何か叫びの声をあげていました。
 その時のディートリッヒの顔に走ったよろこびの色を、ぼくは忘れることができません。歌い終わって、拍手が始まるまでの短い沈黙の間、彼女は全く息をしていないように思われました。顔の筋肉はこわばり、唇は挑戦的に噛みしめられ、手は固くにぎりしめられていたのです。彼女は、おびえている十代の少女のようでした。それが、拍手が湧き起こった時、一瞬のうちに全身がゆるんだのです。少し猫背で、手をだらりとさげ、顔のしわがはっきりとライトの中に浮び上がりました。そこには、もう、さっきまでのみずみずしい小娘のようなディートリッヒはいませんでした。
 ほんの何秒間かですが、人生の大半を終わった老婆がぼくの目の前に、こつぜんと現れたのです。アンコールの声が高まった時、彼女はすでに立ちなおっていました。若い鳩のように胸を張り、はにかんで微笑をふりまきながら、ディートリッヒはピアノに合図を送ります。
 そこには永遠の大女優、マレーネ・ディートリッヒが厳然と輝いていました。
 その晩のことを、ぼくは今でも手にとるように思い出します。カブリツキに座った幸運もあるでしょう。しかし、あの、緊張が瞬間的にほどけた時のディートリッヒの顔に、ぼくはやはりドイツ人の心の中に残っている戦争の影を見たような気がしたのです。」

 『ふりむかせる女たち』には、「のちに人気絶頂のジョーン・バエズがこの歌をレコーディングした時も、ディートリッヒに敬意を表してか、ドイツ語で歌っていました。」と書かれている。

 世界中の人々に「脚線美のひと」として記憶され、セックスシンボルとまで評されたマレーネ・ディートリッヒの、たった一人の闘いの歴史が浮かび上がってきたような気がする。
 TMI 事故の前から、原発新増設への抵抗はそれなりにあったようだが、それぞれの地域の問題とみなされていた。多くの科学者は「平和利用」という呪縛から解かれず、「反原発」の理念もごく一部の先進的な人のものに過ぎなかったように思う。それも各自ばらばらで、75年に発足した「原子力資料情報室」においてさえ、武谷三男氏と高木仁三郎氏との間で、運動の方針をめぐる確執があったようである。

 そうした諸々の背景には、原水爆禁止運動の分裂が長期に渡って固定化されていたことも影を落としていた。それでも82年には、核戦争の危機に抗した統一行動として、「82年 平和のためのヒロシマ行動」(反核20万人集会、3/21)や「82年 平和のための東京行動」(40万人集会、5/23)が実現し、さらにニューヨークでも6月12日に100万人規模のデモが行われたりと、運動そのものは大きな高揚をみせていた。この年のことについては、ジャーナリスト岩垂 弘氏による「核兵器完全禁止へ――内外で空前の盛り上がり」に詳しい。ちなみに私は、大江健三郎氏の講演を聴きたい一心で広島集会へ参加した。写真はその時に撮ったものである。

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 ところがこの高揚は、少なくとも日本では、あっという間にしぼんでしまった。統一行動の際の団体旗の規制問題などの収拾がつかず、84年には共産党の組織的介入によって原水協幹部や彼らを支持した古在由重氏(天文学者古在由秀氏の叔父)など大勢の党員が党籍を剥奪されるということがおこった。自ら離党する人もあいついで、共産党の退潮はこのことによって加速していった。

 「原水禁」と「原水協」の統一が叶わなかった遠因には、原発へのスタンスの違いもあった。「原水禁」は、放射能による被曝の危険性において核兵器も原発も同等との主張で反対、「原水協」は、反原水爆でスタートした運動の中に一致できない課題を持ち込むべきではなく、原発は不問に付すという立場であったと理解している。この「原水協」の立場は、「平和利用三原則」が守られるなら原発を容認するという共産党のスタンスからきていたのだろう。共産党系と目されている「日本科学者会議」のメンバーに原子力関連の研究者・技術者が大勢いたのも事実である。したがって、「容認」は、実質的に「推進」に荷担する結果を生んでいた。原発や核廃棄物処分場建設の候補地となった地方自治体では、私の知る限りどこでも共産党はその建設に反対の立場をとっていたのであるが、これは、ゴミ焼却場反対運動のような性格のものにすぎなかったのである。

 やがて86年にチェルノブイリ原発事故がおこると、それまでに立ち上がっていた草の根的な反原発運動が日本のあちこちで息を吹き返した。院生達を誘って広瀬隆氏の講演会に行ったのは、その数年後だったと思う。その会場で手にした著書『東京に原発を!』(1981)は、問題の本質をついて人々を覚醒させる力があり、新鮮な感慨を呼びおこさせた。ベストセラーとなった『危険な話 チェルノブイリと日本の運命』(1987)は読んでいないが、多くの人々が広瀬氏の影響を受けた。

 広瀬隆講演会で配られたアンケートに、反原発コミュニティの連絡誌の購読希望を記入したことをきっかけに、一つの小さな反原発グループとの付き合いが始まった。高木仁三郎氏に会ったのは、そのグループからの誘いによる。参加者10名に満たないこぢんまりとした集まりだった。以来、求めに応じて知る限りの知識を提供し、協力するという関係が続いたのだが、むしろ、こちらの方が勉強になることが多く、私のかかわりは受動的なもので、積極的に何事かをなすということはなかった。

 やがて、高木氏らの指摘によって、広瀬氏の主張にいくつかの無視できない事実誤認が含まれていること、そして、それらの誤りが反原発グループの中に蔓延し、運動の障害にもなっていることを知った。誤解をおそれずに書いておくと、私自身は、揺るぎない反原発の理念を広瀬隆氏から学んだと自覚している。一方で広瀬氏の人物像については、性急な変革を望み過ぎて失敗するタイプの扇動家のように感じていたのも確かである。

 そうした中、正確な情報を求めて読んだのが、武谷三男編『原子力発電』(岩波新書、1976)と、日本科学者会議編『原子力発電 知る 考える 調べる』(合同出版、1985)であった。両方とも、今でも通用し、必要とされる名著であるが、後者の方はあまり知られていないようなので簡単に紹介しておこう。

 21人の専門家集団(注1)により執筆された400ページほどのこの本は、原発にかかわるあらゆる分野の、原理、歴史、現状、問題点などが網羅的に整理されていて、すぐれた資料集となっている。「まえがき」には、筆者集団は日本科学者会議のメンバーである旨書かれている。いろいろ調べると、この本の出版は、日本科学者会議の原発に対するスタンスが大きく転換するターニングポイントになっていたように感じられる。共産党が国政の場で盛んに原発の問題をとりあげるようになるのは、この本の出版からさらに15年以上を経過した後のことである。組織であっても、個人であっても、過去の過ちを認めることは現状の責任を引き受けるということであって、なかなか容易なことではない。今もなお、原水爆禁止運動が統一できていないことも、そうしたことが関係しているのだろう。

 反原発グループとの付き合いの中で学んだことは、「理念」ばかりではない。何より、この国の隅々にまで行き渡っている「原子力文化」の腐敗しきった実態をこそ学んだのだった。それは、ある種の心ない人々に「プロ市民」などと揶揄される運動家達の日々の実践によって、時にはあからさまな妨害にあったり、公安警察に付け狙われたりしながら掴み取られた事実の集積である。だから私は、3.11後に、原発の問題にふれて好評を得た書物や「論」も、そのことを素通りしているものは「私の人生には必要ない」と感じてしまう。

 それにしても、いろいろと知るにつけ、私は次第に絶望的な気分に陥っていった。この国は骨の髄まで「原発的なるもの」に冒されていて、もうどうしようもなく手遅れであるように思われた。そうして、反原発グループとの付き合いも、付かず離れずの状態が続いているうちに、3.11が来てしまった。しかも私は、オロオロするばかりで、何も出来なかったのである。

 さて、かつて原発を推進してきた者が考えを改めて脱原発の立場に立った時に、どう接したら良いだろう。『原発事故と科学的方法』にも登場する共産党の吉井英勝議員が、平成18年衆議院で巨大地震の発生に伴う原発の安全機能の喪失について核心を突いた質問を行ったとき、「お前が言うな」とヤジを投げるべきだったのだろうか。少なくとも、私には、何もなし得なかった自分に忸怩たる想いがあるので、もちろん、そんなことを言える筈はない。小泉元首相の「改心」に際して、少し早く「改心」しただけの共産党としても小泉氏に対して「お前が言うな」と言える道理もない。

 小出裕章氏や鎌田慧氏がなぜ小泉元首相の「改心」を歓迎したのか、良く考えて欲しい。それは単なる道義的問題ということでもない筈だ。小泉氏を叩くことは、今も原発を推進しようとしている者らを喜ばせ、勢いづかせることにつながる行為でもあろう。

追記(10月30日)
下記のブログ記事は、小泉元首相の「脱原発論」にかかわって必読です。
小泉氏の脱原発発言」(Arisanのノート、2013-10-17)

ただ一点、文末に、
僕たちは、小泉氏の名の元に行われる「脱原発」という儀礼、欺瞞的な国民統合のための儀礼には、参加すべきではない。
その不参加によって、たとえ「脱原発」という目的からどんなに遠く離れると思えたとしても、これ以上「犠牲」のシステムの存続に手を貸すことは、僕たちには許されないはずである。

とありますが、これは、小泉氏の影響力についての誇大妄想に近いものだと思います。私は、10月6日の「小泉純一郎元首相の脱原発論について思うこと」と題する記事で、「そもそも共闘と言っても、具体的なことを考えれば、たいしたことはできないに違いない。」と書いたように、彼に大きな期待を寄せる発想自体が荒唐無稽なものだと考えています。したがって、小泉氏との共闘への不参加によって「脱原発」という目的から遠く離れるという危惧もまた、杞憂にすぎないものだと思います。社民党が本気で共闘を考えていたことには少々あきれましたが、批判しなくても、そうしたことは現実には成立し得ない訳です。

 ここではしかし、例えば秋原葉月さんの次の呟きについて、考えてみましょう。

志位さんが小泉に脱原発一点共闘を呼びかけたのにはガッカリした。以前も書いたが小泉は原発推進の戦犯の一人。その反省も責任追及もないままエエ格好していきなり「脱原発」を唱えたって、その真摯さは疑わしいばかり。たったそれだけでそれまでの罪が帳消しになるはずもないではないか
 
 これは、共産党も、少なくともかつては「原発推進の戦犯」であったことを無視した謂いです。そのような重大なことを簡単に忘れて勇ましいことが言えるのはなぜでしょう。いつも頼もしく思いながら拝見させていただいている秋原さんの tweet を例にしてしまって大変失礼な物言いになりますが、自らの過去も一緒に忘れてしまったからではないでしょうか。共産党がこの一点に限って小泉氏にシンパシーを感じるのは当然のことなのです。

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注1)
執筆者(肩書は執筆当時)
青柳 長紀 日本原子力研究所・原子炉工学
井沢 庄治 日本原子力研究所・保険物理学
出井 義男 日本原子力研究所・原子炉工学
赤塚 夏樹 日本科学者会議原子力問題研究委員会(委員長)・電力工学
安斉 育郎 東京大学医学部・放射線防護学
市川富士夫 日本原子力研究所・放射化学
梅津 武司 東海区水産研究所・水産生物学
角田 道生 日本原子力研究所・気象学
北村 洋基 福島大学経済学部・工業経済学
菅井 正晴 日本原子力研究所・電気工学
舘野  淳 日本原子力研究所・材料科学
田村 修三 日本原子力研究所・分析化学
鶴野  晃 日本原子力研究所・原子力工学
渡名喜庸安 福島大学経済学部・行政法
中島篤之助 中央大学商学部・化学
野口 邦和 日本大学歯学部・放射化学
林  弘文 静岡大学教育学部・物理学
原沢  進 立教大学原子力研究所・原子炉物理学
本間 照光 埼玉県立与野高校・保険諭
町田 俊彦 福島大学経済学部・財政学
松川 康夫 東海区水産研究所・海洋物理学

 牧野淳一郎著『原発事故と科学的方法』(岩波書店)を、発売後すぐに手に入れて、先週末に読んだ。既にすぐれた書評があちこちに公表されているので、ここでは、書評ではなく、読みながら思い出したことなどメモしておく。

 内容はたいへん分かり易く、ほぼ一気に読み進めることができた。それでもところどころ、記憶がかってににあふれだし、立ち止まってしまうところもあった。まず、「序章 3.11から最初の一週間」を読みながら、私にとっての「最初の一週間」がよみがえってきた。正確に言えば「最初の十日間」である。その、初めの三日間のことは、ここここに書いている。

 私は、四日目(3月14日)早朝から8日間の出張が控えていて、その前の三日間は、娘や友人達の安否を確かめ、原発関連の報道に特別に注意を払うよう伝えるのがやっとであった。携帯メールの送信記録を見ると、

3月11日、18:57「原子力発電所の事故についての情報に注意して下さい」
3月12日、14:27「原発の情報に注目しつつ関東圏から脱出する準備を始めて下さい」

などとある。

 入試業務もあり、出張の準備も忙しく、情報を収集して予測をもとに的確な指示を下すことなど最初から断念し、自宅にいる間、テレビのチャンネルを頻繁に変えながら原発関連報道を録画し続けるのがやっとだった。結果的にそれは、今では貴重な(虚偽発表報道の)記録となっているが、当然、当時は何の役にも立たなかった。

 出張先では、事故の情報を入手するのが極端に難しくなり、3月21日に帰るまでに得た情報は微々たるものに過ぎない。11日夕方の第一報を受けてすぐに「電源喪失事故」という言葉が脳裏に浮かび、大変なことになると予想直感しながらも、要するに、最初の十日間、私には何もできなかったのである。これは、私にとっての「悪夢」であった。

 次に、同じ序章の「高校生の頃に岩波新書の『原子力発電』(武谷三男編、1976年)を読んでいて、大学でのサークル活動や自主ゼミでも原発の安全性などについて勉強会をしたことがあったので」というくだりを読んで、さらに昔のことが思い出され、再び中断を余儀なくされた。おそらく、この牧野さんの本をどう読むかは、3.11前に原発に対してどのようなスタンスで臨んできたかという「個人史」にもかかわって、人それぞれに異なってくるだろう。

 原発の問題にかかわる「科学的方法」の実践が容易でないのは科学を取り巻く社会的な構造から招来するもので、その状況認識ができていないと、その実践はいっそう困難なことのように思われる。名古屋工業大学の市村正也さんが 3.11の前から指摘していたように、リスク評価に際しては、関係者がルールを破るリスクや、専門家が故意に噓をついたり情報を隠蔽したりするリスクを考慮しなければ、実践的な過誤、そして社会的な災厄を生む。

 そうしたリスクは、ふつうは「科学」の世界では無視されてしまうのであるが、しかしそのことは、3.11の前から原発に関心をよせてきた者にとっては、その関心のありようによって様々なレベルで常識的なことであった。 3.11後に東電原発事故をめぐって科学者達の世界におこった一見カオスのような様相も、このことが個々の科学者にとっての分岐点となって顕れた結果ではないかと思う。

 私が原発に関心をいだくようになったきっかけはTMI原発事故(1979年)であるが、何か特別のことを始めた訳ではない。ただ、その後いろいろな情報を得るうちに、日本の「公開・民主・自主」の原子力平和利用の三原則は欺瞞に満ちたものだと考えるようになっていた。こちらに書いたようなことである。

 続きは、牧野さんの本から離れてしまうので、一旦ここで筆を置く。

3.β線と物質の相互作用によるX線放射
 β線のような高エネルギー電子は物質に作用してX線を放射するので、これによる被ばくが心配されている。このとき放射されるX線には、元素固有のエネルギーを持つ特性X線(群)と連続スペクトルからなる連続X線がある。

 特性X線は、高エネルギーの電磁波や高速運動をする電子が原子の軌道電子をはじき飛ばして、空席となった軌道へ外殻電子が落ち込んでくる(軌道遷移)ときに放射されるもの。そのエネルギーは元素と遷移軌道によって決まっているので、固有X線とも呼ばれる。連続X線は、高速運動をする電子が電場や磁場によって曲げられるときに放射される制動放射によるもので、制動放射X線とも呼ばれる。β線の電子が原子核に衝突したり、原子核の近傍を通過するときクーロン力によって急激に曲げられたりすることで制動放射がおこる。

 医療レントゲンやX線分析装置などに用いられるX線発生管球では、対陰極金属に数十〜数百 KeVの電子線を当てて、特性X線と連続X線の両方を取り出している。X線管球の対陰極でおこる現象については詳しくわかっており、β線が物質に作用したときのアナロジーとして参考になる。例えば、電子線が物質に照射されたとき、そのエネルギーがX線の発生に使われる割合は次の近似式によって与えられる。

 ε ≒ 0.11 × ZV  ・・・・・ (3)

 ここで、εはX線発生のエネルギー効率(%)、Zは物質を構成する元素の平均原子番号、Vは電子のエネルギーをMeVの単位で表したもので、最大2MeV 程度まで適用可。

 水の平均原子番号は3.3と小さく、大気で7、人体で6、岩石・土壌は12程度である。これを元にX線発生のエネルギー効率(%)を計算すると、以下のようになる。

β線のエネルギー  水   大気   人体   アルミ   鉄    岩石
 0.2 MeV   0.073%  0.16%  0.13%  0.29%  0.57%  0.26%
 0.5 MeV   0.18%    0.40%  0.32%  0.72%  1.43%  0.65%
 1.0 MeV   0.36%    0.79%  0.64%  1.43%  2.86%  1.30%
 2.0 MeV   0.73%    1.58%  1.28%  2.86%  5.72%  2.60%

 特性X線と連続X線の比率や、スペクトルなど、詳しい理論が定式化されているが省略する。ここで問題としている条件においては、発生したX線のうち、特性X線の占める割合は無視できるほど小さく、大部分は連続X線となる。連続X線の光量子の最大エネルギーは、入射したβ線のエネルギーにほぼ等しい。しかし、一定エネルギーのβ線が入射したときに発生する連続X線の強度(X線光量子の発生頻度)は、β線のエネルギーの2/3ほどのところにピークがあり、これより低エネルギー側へ次第に強度を減じた幅広い分布となる。このため、X線光量子全体の平均エネルギーはβ線のエネルギーに比べてかなり低いものとなる。

 以上のことから、汚染水が鉄板の表面に付着して乾燥した状態のものが最も効率的にX線を放射することがわかる。一方、汚染水から直接放射されるX線は、β線に比べて無視してよい割合である。

 β線のエネルギーのうちX線の放射に使われる他は、原子をイオン化し、化学結合を切断して化学エネルギーに変換され、大部分は熱になる。β線熱傷はこの熱による火傷と誤解され易いが、熱エネルギーを計算すると微々たるものであることがわかる。β線熱傷の病態は、通常の火傷とは異なり、β線の電離作用によって生体分子が直接破壊されて内部から壊死が広がった状態のことらしい。
 
4.Sr-90の測定
  Sr-90とY-90は、直接にはβ線しか放射しないために定性も定量も大変困難である。β線は、0〜最大エネルギーまでの幅の広いなだらかな山形のエネルギースペクトルをもつので、試料中にCs-137を含むいろいろなβ崩壊核種が混在しているとき、それらのβ線が広いエネルギー領域で重なり合ってスペクトル分離が困難である。そのために、多くの手法では、前処理としてSrやYを化学分離した上で測定するということが行われている。他に、チェレンコフ光や制動放射X線を測定するもの、質量分析計を用いるものなどがある。以下、β線をカウントする手法と質量分析計を用いる手法についてメモ。

A. β線をカウントする手法

 A-1:検出限界が低く高精度だが、4週間以上の時間がかかる手法
 日本分析センターの「ストロンチウム90の分析に略記されている手続きは、

1)試料中からイオン交換法、シュウ酸塩法等によりSrを分離・精製。
2)3週間以上放置して、Y-90が永続平衡に達するのを待つ。
3)Y-90を分離してそのβ線をカウントし、Sr-90に換算。

 最初からY を分離して測定しないのは、初期 Y-90 や Y-91 が残っているケース、前処理時にY-90 の永続平衡が達成されていないケースなどに対応できるよう、汎用性を持たせたためと考えられる。この方法だと分析に最低でも4週間を要する。検出限界は、元試料の量と計測時間に依存し、日本分析センターの「分析目標レベル」は、水試料100 Lを用いて1時間計測した場合で 0.4 mBq/L とされている。

 Sherrod et al. (2013) は、高マトリクスである海水の10 Lもの試料から迅速にSrを分離する手法を開発し、Sr-89 と Sr-90 を定量している。この場合、分離直後にSr-89とSr-90の合計のβ線を測定し、Y-90の回復後、これを定量してSr-89とSr-90を分けている。β線の計測にはガスフロー比例計数管(注1)を用い、8時間のカウントで、  1 mBq/L の検出限界を達成している。 

 A-2:検出限界が低く、4,5日程度で分析可能だが、定量の確度がやや劣る手法
 β線のカウントにエネルギー分解能の良い液体シンチレーションカウンターを用いて、試料からのβ線の正確なエネルギープロファイルを描き、標準試料のエネルギープロファイルと比較フィッティングすることで波形分離し、Srの定量を行う。この場合も前処理でSrを分離するが、Y-90が回復する前にSrのβ線をカウントする。Sr-90に特化したもの(Lee et al., 2002 (pdf))や、Sr-89を含めるもの(中野ほか,2010)などがある。

B.質量分析計を用いる手法

 質量分析計を用いると核種毎の質量の違いを識別して測定できる。質量分析には測定が迅速なICP-MSが用いられる。知人の話によると、既にチェルノブイリ事故後からCs-134, Cs-137の分析に威力を発揮してきたという。この場合、同重体の干渉が問題となるので、リアクションセルを用いて干渉元素を除去した後で質量分析計へ導入する。高温のリアクションセル内へ酸素やNOガスを供給すると、元素毎の酸化反応のエンタルピーの違いによって、特定の元素だけが酸化して取り除ける。

 最近、emanon_uk さんによってまとめられたtogetter「ストロンチウムの迅速分析法は質量分析」に、みーゆ‏@miakizaさんが、福島大学などが共同開発したSr-90の迅速分析法を紹介されているのを知った。そのプレス発表資料「放射性物質ストロンチウム90の迅速分析法の開発」(pdf)を読むと、以下の手順になっているようだ。

1)マイクロウエーブ加熱によって浮游塵などを酸分解し、試料溶液とする。
2)試料溶液10 mlを導入し、Srに特化した樹脂を用いてSrをカラム分離・濃縮する。
3)超音波ネブライザーでArプラズマトーチへ噴霧し、イオンガス化する。
4)試料ガスをリアクションセルへ導入し、酸素ガスを加えて、混入しているYやZrを酸化させ、質量分別して除く。
5)四重極マスフィルターへ導入してSr-90のイオン数をカウントし、Sr-88で作成された検量線に当てはめて定量する

 上記2)〜5)が完全自動化されているのが特徴で、プレス発表資料には「測定に必要な装置稼働時間は約15分であり,土壌試料などの固体試料の分解操作を含めたすべての作業工程を含めても8検体で3時間(=1検体当たり約20分)である。10mLの試料導入時における検出下限値(S/N=3)は,土壌濃度で約5 Bq/kg (重量濃度換算:0.9 pg/kg),溶液濃度で約3 Bq/L(0.5 ppq)であった。迅速性で,現状のスクリーニング法としての利用が期待できる。」と記されている。

 なお、Srをカラム分離した試料でZrの干渉が問題となるのは、天然試料中に安定同位体であるZr-90がppmオーダーで含まれ、Sr-90の濃度に比べて4,5桁以上も高濃度となっているからである。ただし、Y-90 は、永続平衡に達しているとき Sr-90 の 4000分の1の原子数しかないので、その混入は問題にならない。両者の放射能(Bq)は等しくなっているのでβ線をカウントする際には問題になるが、原子数をカウントする場合には無視してよい。

 ところで、放射性元素の分析に際しては、常に、作業者の被ばくが問題となる。この点、上記プレス発表資料には、「本法は,非密封放射性物質としての管理が必要な放射性ストロンチム標準溶液を使用することなく分析できるため,緊急時において一般の環境分析機関でも測定することが可能である。また,全自動で分析するため,試料分解液を注入後,化学処理で測定者が被ばくすることがないなどの特徴を有する。」と書かれている。

 しかし、Sr-89やSr-90などの天然には存在しない放射性元素で一定量以上の試料は、たとえそれが標準試薬ではなくとも、原子力基本法関連の政令によって厳格な管理が義務づけられている筈のものである。高濃度汚染水のような試料は、本来、RI施設でなければ持ち込んではならない筈だ。政府によって事故は終息した(非常時は終わった)と宣言されているのである以上、「一般の環境分析機関でも測定することが可能」などと言ってはいけないのではないかと思う。

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注1)ガスフロー計数管の原理については次のページの付録試料に詳しい。



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