さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

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 あちこちで「事業仕分け」が話題になっている。やり玉にあげられた対象事業の関係者は週末返上で対応に追われているようだ。私の職場にもじわじわと余波が及んでいる。先日、(独)海洋研究開発機構 (地球内部ダイナミクス研究:IFREE)の若い研究者から、事業仕分けのあおりで理事側から給料20%カットの提案がなされ、労働者代表のサイン待ちの状態であるとの話を聞いたが、にわかには信じられない。正確な情報を入手次第追記するつもりだが、ちょっとしたパニックに陥っているようにもみえる。(末尾の追記参照)

行政刷新会議が公開している「第3WG 評価コメント」のIFREE関係部分はこちら。
http://www.cao.go.jp/sasshin/oshirase/h-kekka/pdf/nov13kekka/3-19.pdf

 ところで、「事業仕分け」でネット検索してみると、昨日午後の時点でヒットした大半は、各地の自治体によって公開された過去の「仕分け」の議事録であった。もともと、地方自治体ではかなり以前から導入されていたシステムであるらしい。税金の使い道を、その出資者である市民に見える場で議論し、決定するというシステムは、大変好ましく思う。それが国政の場にも導入されたことについては、政権交代による政治改革のひとつの表れと評価して良いだろう。しかし、関連情報を注意深く探ってみると様々な問題点も見えてくる。

 選挙によって選ばれた国会議員の相対多数の政治勢力が行政府をコントロールする内閣を組織し、その主導の下に国政が運営されることそれ自体は民主主義の理念にかなっている。これはしかし、我々国民が、その内閣に国政を100%丸投げするシステムとして理解すべきでないことも明らかである。実際に選挙公約が守られるとは限らないし、選挙公約にはない余計なことをやらかしたりすることもあるかもしれない。少数派の意見を全く無視して良い筈もない。

 言うまでもないことだが、日本国憲法の条文の多くは、国家権力の暴走に歯止めをかけるための足かせとして定められている。我々国民が、行政府の行動を監視し直接モノを言う権利があるのは、憲法第三章の各条文で規定され保障された基本的人権に発することであり、この、憲法の精神に立ちかえることで、我々の意見表明も力を得ることができるだろう。

 その視点から、最近の「事業仕分け」を眺めて気づく、いくつかの問題点を指摘しておきたい。
なお、私の本業にかかわる科学技術政策上の問題点については、優良な記事が既に多数公開されているので、ここではその一部を末尾にリンクするにとどめる。(注1)

 さて、あちこちで批判されていることだが、大部分の「仕分け」が重要な案件であるにも関わらず、わずか40分の質疑一発勝負で採決が下されてしまうというのはあまりに拙速ではないか。「仕分け」の会場も公開され、質疑の動画もアップされていたが、その議事録はきちんと作成され、公開されるのだろうか。怒号が飛び交う中、誰が何を発言したのか、正確な議事録がなければ確認のしようもない。(注2)「事業仕分け」導入を画期的な前進と喜んでいただけに、出発時点で大きなイメージダウンを招いたのではないかと、大変残念に思う。政権交代を歓迎した多くの人々も、今すぐ成果を出せとは決して思っていないだろう。ゆっくりと着実に改革を押し進め、将来に禍根を残すことのないようにしてほしい。

 次に、おそらくほとんどの「仕分け人」には、「仕分け」の対象とされた予算のかなりの部分が人件費に充てられていて、その裏に多数の労働者やその家族の生活があるという実態が見えていないのではないか。冒頭に述べたIFREEについて言えば、予算の計上が見送りとなった「地球内部ダイナミクス」の13億円の大半は、過去数年の短期間に募集され、現に就業している多数の若い技術者・研究者・事務職員の人件費に充てられる筈のものだ。いわば国策として開始された事業に応募し、誇りを持って参加していたそれらの者は、突然梯子を外された格好だ。「仕分け人」には、自らが、まさに権力を行使している立場にあるとの自覚があるのだろうか。

 かつてこのブログで、現在の大学を含めた若い技術者・研究者を取りまく国内環境の歪みについて短い感想を述べた事があるが、現実の危機は止めどなく進行している。

「なんとも知れない未来へ」
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/30962647.html

 先月、趣旨を同じくする本格的な論考が書籍として出版された。
潮木守一著『職業としての大学教授』(2009年10月、中央公論新社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4120040674/sciencepolicy-22/

 私が最大の問題だと思うのは、95兆円に上る22年度予算の概算要求の中のほんの一部の事業について予めリストし、その決められた対象事業の議論だけがクローズアップされている点だ。最も重要な「選択」は、何を仕分け対象とするかにある。つまり、最も重要な「仕分け」は、国民の監視から外れた場で既に完了してしまっていたのである。その後のことは、いわば「奴隷の選択」だ。だから、予算の使い道が国民の監視下に決められるシステムが導入されたとは、手放しには喜べない。

 例えば、「政党交付金320億円を事業仕分けの対象にせよ」という意見もある。もちろん、「政党交付金」は「政党助成法」に規定されていて、これを廃止するには法改正が必要で、今回の「事業仕分け」の対象にならないことくらいは理解できる。しかし、無駄に使われている税金は他にもっとあるのではないかという想いは、沸々とわき上がるのである。まさか、それを隠すためのパフォーマンスとして今回の「事業仕分け」が仕組まれているとまでは言わないが、マスコミを動員した一連の動きを見ていると、問題の所在を冷静に分析する必要性を痛感する。

やがて、「事業仕分け」の第二弾が始まり、米軍に対する「思いやり予算」もやり玉に上がるとのことなので、期待も捨てずに、注視しよう。

(11/26追記)
 「事業仕分け」のせいで給料20%カットというのは、やはり当人の早とちりでした(ただし、給料減額はあるらしい)。私としても、余計なことを書いてお騒がせしてしまい、大変申し訳なく思い、関係者の皆さまに陳謝いたします。いずれにしても、「事業仕分け」の結果を聞いて、一瞬パニックに陥った任期付スタッフは多かったのではないでしょうか。

--------------------------------------
注1)以下、関連情報

「緊急メッセージ、未来の科学ために」
http://d.hatena.ne.jp/scicom/20091115/p2

下記は、本年7月の時点で、政権交代を見越して、民主党の「科学政策」の立案能力を鍛えるために科学者の側から積極的に提言しようとの趣旨。
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20090726/p1

下記は、総選挙1ヶ月前の時点で、各党に送った「科学政策」に関する公開質問状。末尾に、民主党、共産党、国民新党からの回答ページへのリンクがある。
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20090731/p1

「内閣府行政刷新会議事務局」のHP
http://www.cao.go.jp/sasshin/index.html

注2)議事録が作成され、財務省のHPで公開されているとの情報もあるが、結果を短くまとめたリストのようなものばかりで、「議事録」そのものは探し出すことができなかった。

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 前回の記事で書いたように、私の最大の関心事は「貧困」の問題である。だから私は、「国保証取上げ」を巡って激論を続けながら、その「取上げ」という事態そのものの問題が、東本氏の視界からすっぽりと抜け落ちていることに大きな違和感を抱いていた。

 東本氏のスタンスは、「浅野県政のみを非難するのはどう見てもアンフェアです。」という文言にも表れている。では、浅野県政も他の都道府県も大いに批判すべきだと主張しているのかというと、そうではない。東本論文を読めば一目瞭然、他も似たような状況なのだから国保証取り上げを批判するのはお門違いと主張しているのである。

 このことにかかわってmsq氏は、「結局のところ、志位氏の指摘について「言い訳」ができるとするなら、資格証明の発行は、支払能力があるのに滞納しているさほど多数いない人々に対して効果があるというだけのことではないでしょうか。しかしこれは国民健康保険の本来の趣旨からは本末転倒といえ、基本的人権の尊重に反します。」([AML 12837])と書いているのだが、事の本質はこちらにある。

 支払い能力があるのに滞納している者なら国保証を取上げるぞと脅しをかければちゃんと払ってくれるだろう、とのアイデアはあっても良い。それが取上げられれば本当に困ることになるから、支払い能力があれば払ってくれるだろう。そこでほんとうに取り上げて見たところ、渋々でも滞納額を支払う者が続出したということにはならなかった。国保証を取り上げられた人たちは実際に保険料を払えなかったのだ。類似のこととして高校の授業料滞納の問題が、ことに大阪の橋下府政下で話題になった。授業料を払わないなら退学にするぞと脅しをかけたら退学者が続出した。本当に授業料が払えないからだ。

 先月見た『NHKスペシャル 子供の貧困』でも大阪の授業料滞納の問題がとりあげられた。授業料を払うためにアルバイトをしている生徒の給料日に、そのバイト先に給料を差し押さえに行く教師。これが今の日本の現実である。

 東本論文では、もともと小泉政権下の法改正によって保険料滞納者への国保証変換義務規定が盛り込まれたことが「取り上げ」の原因なのだから、それを浅野氏のせいにすることはできないと主張している。この論点についての東本氏の唯一の言い訳である。その主張は、msq氏の[AML 12763]に紹介された「さるのつぶやき」というブログで全面的に批判されている。

「「浅野批判の誤謬」という誤謬(補充・追加)」
http://saru.txt-nifty.com/blog/2007/03/post_d7d8.html
「『浅野批判の誤謬』という誤謬」がこんなところにもあった、驚き、あきれて、怒りが湧いてきた」
http://saru.txt-nifty.com/blog/2007/03/post_f03a.html

 前者のエントリでは以下のように主張されている。

--------(引用開始)--------
 国保証のとりあげは、実際にそのとりあげによって医者にかかれず死者まで出ているという人の命に関わる重大問題です。
 これが制度化されたのは1986年。そして悪名高い小泉純一郎氏が厚相だった1997年にさらに改悪され、それまでとりあげは市町村の裁量としていたのを、「返還させるものとする」という義務規定にして、2000年から実施することとしました。さらに2001年からこの保険料未納者への制裁を強化したのです。
 国の法律はこのように改悪されましたが、それにどう対応するかは市町村の考え方次第で変えられます。現にそうしているところもあります。また都道府県もこのような市町村を助成することができます。現に子ども医療費などについては東京都は市区町村を助成しています。
 従って、国がこういう法律を定めても都道府県はやれることがあるのです。それをやらず国の政策のままにしてきたのが浅野氏なのです。浅野氏が宮城県知事になったのは1993年ですが、その前任の自民党の知事はとりあげはしないと言明していました。前任の自民党の知事であろうが浅野氏であろうが、国が制度を変えたからといって、国保証のとりあげをやってはならなかったのです。
 どの市町村であろうが都道府県であろうが、国の福祉切り捨ての政策に唯々諾々と従うこと自体が、地方自治体としては絶対にやってはならないことです。また、国が大型開発による浪費政策を進めるからといって、それを黙って受け入れているようでは地方自治体として失格です。これらは国が進めるから仕方がないで済ませてはいけません。済ませてしまったら、それは地方自治体の役割の放棄なのです。
--------(引用おわり)--------

 次に後者から引用する

--------(引用開始)--------
 これらの国保証とりあげに関わる非難・難癖は、元々とんちんかんなものですが、さらに僕に言わせれば、国保証とりあげが一体どういう問題なのか何も分かってないから出てくるものです。無知も甚だしい!ここまで己の無知・不勉強を棚に上げて難癖を付けるのは犯罪的!と言ってもいい。
 そもそも国保証とりあげは絶対にやってはならない!ことなのです。これが分かってない!こんなことも分かってない者に福祉を語る資格は断じてない!無責任です。
 保険料滞納者を減らすためだとして導入された国保証とりあげ制度ですが、滞納者は何ら減っていません。むしろ、国保証とりあげによって受診が遅れて重症化した人、死亡した人が出ているのです。国保証とりあげは、乳幼児医療費助成対象の子どもや小中学生、気管支ぜんそくで公費医療の助成を受けて通院している小学生にも及んでいるのです。
--------(引用おわり)--------

 私は、「そもそも国保証とりあげは絶対にやってはならない!ことなのです」という主張に共感する。東本論文の中身も、「国保証取り上げ」の実態も、良く調べもせずに流布してきた人たちは、いったい何に共感したのだろう。

 「県議会 国保証取り上げ 共産党」でググってみると約25,000件がヒットするが、そのタイトルを見ただけでも、共産党が、ほとんど全ての地方自治体で、国保証取り上げの問題をかなり以前から追及し続けていたことがわかる。共産党が、浅野県政だけに的を絞って批判していた訳でないこともまた、政治音痴の私でもわかることだ。

 先頃、日本の2007年度の相対的貧困率が15.7%と発表されて話題になった。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4654.html

 それはあくまで「相対的」な数値なのだから、先進国の日本ではたいしたことはないという意見もあるだろう。しかし、大都市の地下街にいけば、どこでも死んだように横たわるホームレスが目につく。日本での2005年の餓死者は82人と報告されている。私たち小市民は、それらを見て見ぬ振りをしたり、忘れ去ったりすることで、日々の平穏を確保しているのである。誰でも、自分の人生を自分の思うとおりに楽しく過ごす権利はあるのだから、見て見ぬふりをすることで咎められるいわれはない。しかし、そこに開き直り、なにもかも視界から切り捨てて恥じない者を、私は嫌悪する。

 「国保証取り上げ」をめぐって議論するのなら、その実態にこそ目を向けるべきだ。共産党が嫌いなら、独自に対応する方策をこそ議論すべきだ。そうしたことを議論するつもりがないのなら、最初から「国保証取り上げ」の問題を話題に出すべきでない。

 最後に・・・
 ネット界隈の一部ではちょっとした有名人であったとほほ氏が、先頃亡くなった。AMLでも、その「暴れん坊」ぶりは印象深かかった。彼は、誰に対しても理不尽とも思える直球で議論をふっかけまわした。得意の捨て台詞は、ネット上に住所・電話番号を晒して、「文句があるなら電話しろ」だった。困ったり、反発したりした人も多かった。msq氏ともやりあった。彼の理不尽さを責めない者はいなかったろう。その彼にやりこめられた人達が集まって、追悼サイトを立ち上げた。
http://www21.atwiki.jp/tohohopeacewalk/

 次の追悼文は、私の印象と良く一致する。
http://www21.atwiki.jp/tohohopeacewalk/pages/54.html

 彼は、「歴史修正主義」と闘った。「9.11陰謀論」とも闘った。そして何より「貧困」を生み出す思想と闘った。「貧困」と正面から向き合えば、とんがりもするだろう。私は、彼のようには正面から向き合うことができない。だからこうして、のほほんとしていられる。そして、そのことを恥じる。

 このエントリをとほほ氏にささげ、追悼文としたい。

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 最近、アルバイシンの丘さんが立て続けに二本の記事をアップされた。

共産党による浅野批判の悪意性(1)
http://papillon99.exblog.jp/12257469/#12257469
共産党による浅野批判の悪意性(2)
http://papillon99.exblog.jp/12282674/#12282674

 発端は、たんぽぽさんによる「神戸市長選」と題するエントリのコメント欄にある。
http://taraxacum.seesaa.net/article/131535144.html#comment

その中でたんぽぽさんが、
>共産党による、浅野氏へのバッシングは、
>事実無根のものも多く含まれ、あきらかに理不尽なものです。
>告示以後であれば、公職選挙法に抵触もしたでしょう。

と書かれたことに対して、私が、その根拠として揚げられた記事こそ事実無根であると書いて、AMLというメーリングリスト上で繰り広げられた議論を紹介したことにある。

 ウェブ上には、「事実に基づかない批判」など溢れかえっている。そんなものにいちいち反応していては体が持たない。私が2007年3月のAML上で、主に東本氏とmsq氏の議論を注視していたのは、ことが、「国保証の取上げ」に関わることだったからである。政治のことには疎いが、政治や社会にかかわる私の最大の関心事は「貧困」の問題であり続けている。そのことは次回、(その2)でふれることにしよう。

 さて、たんぽぽさんが共産党批判の根拠としたのは、「ある国際人権派の雑食系ブログ。(仮)」の次のエントリである。

「【都知事選・石原三選阻止!】日本共産党の浅野史郎氏批判の誤謬性( 再・アップデート版)」
http://blog.livedoor.jp/zatsu_blog/archives/51378556.html

 元記事は、東本高志氏によってAML上に投稿されたもので、度重なる「訂正版」の投稿の中でも[AML 12666]が採用されている。東本氏による最終版は[AML12695]であるが、上記ブログでは、その訂正に対応できていない。最終版(以下、「東本論文」)は下記、
http://list.jca.apc.org/public/aml/2007-March/012259.html

 東本氏のスタンスは、導入部に書かれた次の文章からうかがい知ることができる。

------ (引用開始)--------
東京都知事選挙の告示まであと10日を切りました。選挙が迫るにつれ、共産党の「浅野批判」が一段と激しくなっています。しかし、その共産党の「浅野批判」は、統計指標を意図的に混同して、あるいは歪曲してつくりあげた、いわばでっちあげた「事実」に基づく批判というべきであって、それはもう「批判」という名にも値しないしろものといわなければなりません。きわめてアンフェアなものです。これまで共産党が「反共主義者」等々に対して批判してきた同じ手法を今度は共産党自身が用いているのです。共産党には真摯に反省していただきたい、と私は思います。
共産党はその反省ができる「党」であるはずです。
------ (引用終わり)--------

 アルバイシンの丘さんが言うような、「東本氏の反論は,せいぜい”誤謬だ!”というもの」などでは決してなく、共産党は「統計指標を意図的に混同して、あるいは歪曲してつくりあげた、いわばでっちあげた「事実」に基づく批判」を行っていると訴えている。たんぽぽさんによる批判は、この冒頭の文章と同じ語勢になっていて、東本論文が読者にどのような「観念」を投下したかを示していよう。

 主要な批判の対象となったのは、「しんぶん赤旗」の2007年3月2日の記事。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-03-02/2007030202_03_0.html
の中で、「共産党志位委員長の見解」の、「前県政と比べ浅野県政の福祉切り捨てで際立ったものとして、前県政では国保証取り上げがゼロだったが、〇五年には二千三百三十世帯になったことを告発」という点にある。

 東本論文については、AML上でmsq氏による詳細な反論・批判がなされた。主に「AML保存書庫」2007年3月分の中の[AML 12607]、[AML 12629]、[AML 12641]、[AML 12675]、[AML 12719]、[AML 12763]、[AML 12837]、[AML 12878]、[AML 12904]、[AML 12981]、[AML 13010]、[AML 13051](最後は4月1日)である。

http://list.jca.apc.org/public/aml/2007-March/thread.html

 東本氏による訂正記事の投稿は多数あるが、msq氏への直接の反論・反批判は[AML 12888]、[AML 12996]、[AML 13021]の3本だけである(最後は4月1日)。

 議論は多岐にわたるが、一つのポイントを私なりに要約すると以下のようになるだろう。

(1:東本氏)志位氏が参照したと<思われる>浅野県政時代の統計データをみると、「国保証取り上げ」が急増したのは浅野県政に変わった時点ではなく、浅野県政の途中からであり、しかもそれは、法改正による縛りからやむを得ないものであった。東北他県においても似たような状況なのだから、志位氏のデータの扱いは故意による歪曲である。

(2:msq氏)志位氏は前本間県政時代にはゼロであった国保証取り上げが浅野県政の時に急増したと言っているのだから、志位氏を批判するのなら、本間県政時代のデータと比較すべきである。それをせずに、浅野県政時代にも国保証取り上げがゼロであった年があることを根拠に「「前県政では国保証取り上げがゼロだった」という志位氏の発言は明らかに誤り」と書くのは読者を欺くもの。([AML 12607]ほか)

(3:東本氏)志位氏の主張は「浅野県政時代に国保証取り上げがゼロだったことはない」と言っていることになるのである。浅野県政時代の2000年度には国保証取り上げはゼロだったのだから、この言い方は「明らかに誤り」である。([AML 12888])

(4:msq氏)もともと、志位氏の言い方では県政を担当した期間全部をまとめていっているのだから一般的な解釈では、2000年に「ゼロ」があったとしても前県政との比較ではほとんど意味はない。東本氏は、最終版においても、「「前県政では国保証取り上げがゼロだった」という志位氏の発言は明らかに誤りであり・・・」と書いているが、結局、その根拠を示し得ないまま開き直っている。([AML 12904])

 私は、上記(3)を読んで心底呆れかえってしまった。公党に対して「統計指標を意図的に混同して、あるいは歪曲してつくりあげた、いわばでっちあげた事実に基づく批判を行っている」と批判するのに、こんな乱暴な論理がまかり通っているのである。どこに「でっちあげた事実」があるのか、東本氏は最後まで示し得ていない。

 結局msq氏の再三の指摘にも関わらず、東本氏は最後まで「「前県政では国保証取り上げがゼロだった」という志位氏の発言は明らかに誤りであり・・・」という文言を撤回しなかった。この文言は、明白な誤りである。

アルバイシンの丘さんは冒頭にリンクしたエントリの(2)で次のように書かれているが、これもおかしな論理だ。

------(引用開始)-------
追加09-11/9 20:59:「前県政では国保証取り上げがゼロだった」という志位発言は,「浅野県政下ではゼロではなかった」という言外の印象を抱かせます。この印象は対偶命題と同値だと言えるような気がします。
 すると,少なくとも浅野県政下ではゼロの時代(1993年〜2000年)が半分以上あったのですから,志位発言は「偽」,すなわち「嘘」または「誤り」となります。従って,東本さんの初めの記述も間違いとは言えなくなります。
-------(引用終了)-------

 「浅野県政下ではゼロではなかった」と「浅野県政時代ゼロだったことはない」は、あきらかに意味が異なる。「浅野県政下」をひとまとめにした前者は事実だが、個々の年度を問題にする後者では事実ではない。「前県政では国保証取り上げがゼロだった」という志位発言が,「浅野県政時代にゼロだったことはない」という言外の印象を抱かせるように読者を仕向けるものだと錯覚させたのは、東本氏の「功績」であろう。トリックを用いてそれをやるのが彼の目的だったというのがmsq氏の主張であるが、私はその点は良くわからない。東本氏は、[AML 19888]において、「志位氏は、「浅野県政時代に国保証取り上げがゼロだったことはない」と言っていることになるのです。」と、はっきりと書いているが、トリックもなにも、あまりに間抜けすぎる論法だ。問題の所在は、国保証の取り上げがどの県政時代に決断されたかにあるからである。

 東本論文も引用しているように、共産党による浅野県政批判は、東京都知事選を遡る4年前の2003年3月の仙台における志位委員長の演説にもある。
http://www.shii.gr.jp/pol/2003/2003_02/2003_0223_01.html

 上記を読めば、批判項目が多岐に渡っていることが分かる。つまり、共産党による浅野批判は、都知事選に際してとってつけたようになされたものではなく、浅野県政時代から一貫して、全面的、包括的になされてきた。東本氏は、この2003年の志位演説についても批判を加えている。

志位氏:「宮城県は一人当たりの住民税は、六県中一位です。みなさんは一番税金を払っていらっしゃる。これは、ぜひ覚えておきたいことです。
 ところが一人当たりの民生費、つまり福祉費は六位、最下位です。教育費も六位、衛生費も六位、つまり巨大開発病のしわ寄せがここにきているんです。」

 東本氏は、上記文章の前段だけを引用して、所得割の税率は全国一律なのだから、所得水準の高い宮城県で住民税が高くなるのは道理であり、あたかも宮城県の税率が他県に比べて一番高いかのように言うのは為にする批判だと、批判している。しかし、志位演説の文章をすなおに読めば、宮城県民は高額納税をしているのに民生費は低額に抑えられているという、その逆転した落差が批判されていることくらい、簡単に分かる筈だ。志位氏は、単に宮城県民の納税額が高いことを批判しているのではない。

 志位氏の主張を批判するとしたら、たんぽぽさんのところのコメント欄で、かつさんが次のように書いたようにやるべきだったのだ。

「一般的に言えば、所得水準が低いほど福祉は必要であり、それに応じて福祉関係の支出も多くなるということになりますね。つまり、福祉の水準を同一とした場合、所得水準と福祉の必要性とは理論的に言う限り反比例することになります。」(2009年11月06日 04:52)

 尤も、納税額が高いほど、より篤い福祉を望む権利はあるのだから、同一の福祉水準を前提にした議論はできないとする立場もあり得るだろう。いずれにしても東本論文は、故意に文章の一部を切り出し、文脈を無視した上で批判していて、そうした議論以前の問題をかかえている。志位氏の主張一つをとらえて、こうも解釈が違ってくるのは何故だろう。私が注目したのは、「国保証取り上げ」という事態の「重み」についての東本氏とmsq氏のスタンスの違いである。

次回はこの点をめぐって、もう少し考えてみたい。

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差別のアポトーシスへ

 最近、日本製性暴力ゲーム、いわゆるレイプレイゲーム(陵辱ゲーム)の法規制をめぐる議論が活発になされている。備忘録として akiraさんの「akira’s room」 から下記の記事を貼っておく。

http://blogs.dion.ne.jp/akiras_room/archives/8470094.html
http://blogs.dion.ne.jp/akiras_room/archives/8503683.html

 上記の記事中でリンクされているサイトには重要な論考をおさめたものが多い。
 また、tikani_nemuru_Mさんによる下記の記事へ至る一連の議論も必読。

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090629/1246211686

 さらにまた、碧猫さんによる最新の記事(下記)へ至る一連の論考も

http://azuryblue.blog72.fc2.com/blog-entry-692.html

 他にも重要な記事はいっぱいあってキリがないが割愛せざるを得ない。

 私は、あらゆる表現は個別・具体的な被害を生じるものでない限り法で規制すべきではないと思う。どんなに下劣なものであっても、文学上の表現は法で規制されるべきでないと思うし、これと同様に考えたい。刑法230条に名誉毀損罪が定められているが、これは親告罪であって、被害の具体的な訴えがないかぎり、たとえ特定の個人を冒涜する表現であっても事前検閲は認められていない。

 このことは、特定の集団、例えば性別だとか、人種だとか、特定の「病気持ち」だとかを冒涜するような表現行為についても同様で、 個別・具体的な被害の訴えをもとに 最終的には裁判によって判断されるというのが今の法体系であり、それ自体は合理的なものだと思う。ただし、これによって救済されない被害は無視できない程多く、だからこそ問題となっている。

 今話題になっている法規制の強化は、事前検閲にかかわる問題である。 表現に対する事前検閲の制度は言論統制へ道を開くもので、民主主義の基盤である自由な言論を死に追いやるような、取り返しのつかない事態を招きかねない。

 これまで、以上のことを前提として、ではどうすれば良いかということが様々な視点から議論されてきた。具体的には、例えば業界団体の自主規制や、レイヤリング(希望者だけがアクセスできるよう流通の仕分けをすること)で問題を回避できるとする考えもあるだろう。実際、この問題の発端となったゲームについては、業界の自主規制により製造・販売の中止が決定された。

 かなり乱暴なまとめだが、 議論はさらに先へ行って、私などは置いてけぼりをくらった感がある。以下には、私が入り口の部分で引っ掛かっている点について整理しておきたい。

 私の問題意識は、性的虐待を受け、二次被害を経験した女性にとっては、レイプレイゲームがこの社会に存在しているということだけで、あるいは、そうしたものに商売が成り立つ程の需要があるという事実だけで、恐怖心や堪え難い苦痛を呼び覚し、精神的変調を来すといった「社会的不適応」に繋がる具体的な被害が生じていると推定されることにある。

 また彼女らは、そのことで被害の声をあげ、告訴を検討するなどといったことは、世間から「わがままな訴え」とみなされて聞き入れてもらえる筈がないと諦めているだけでなく、さらなる三次被害への恐怖からも、ハードルが高すぎてとてもできずに泣き寝入りしていると推定されることにある。

 そうした隠れた被害者は少なく見積もっても、この日本で数十万人は下らないと推定され、さらに、隠れた被害者の遍在故、そうした恐怖心がひろく女性達の間に伝播し、男からみれば無用とも思われるような過剰防衛や自粛がこの社会に広く蔓延することになったと推定される。

 そんな推定ばかりを論拠にしても無意味だと言う方もいるだろう。しかし、大変申し訳ないが、それは考え過ぎだと言うような者を相手に議論するつもりはない。

 私は、日本ほどポルノが公的な場に氾濫している国を知らない。そのことは、そうしたことにかかわる日本独特の歴史や文化とも無縁ではないと思う。日本における女性差別・虐待の歴史で特筆されるのは、おそらく世界でも類を見ない大規模な公設売春街「吉原遊廓」の存在であろう。

 Wikipediaなどによると、そもそもの発端は、徳川幕府の成立によって、その統治機構の拠点を辺境の地であった江戸に急遽大規模造営する必要が生じ、武士だけでなく、土木工事のための莫大な数の若い男たちが江戸にかき集められたことにある。その結果、世界一の100万都市へと成長した江戸中期においてさえ、3分の2が男性という不自然な人口構成となり、そうしたアンバランスが200年もの間続いた。結果、最初は民間の売春宿がはやり、治安のために最終的には公設として管理せざるを得なかったとのこと。最盛期には数千人の遊女がいたらしい。

 そのことは、江戸市民全体の54.5%、「下層町民」の95%が梅毒に冒されるという「惨事」をも招いた。江戸末期においては、結核、眼病とともに梅毒もまた国民病として日本中へ広まっていったのだ(文献1)。

  なるほど遊女の中でも人気の花魁(おいらん)は、いわばアイドルやスーパースターであった。 文化相対主義の立場に立てば、独特ではあるけれども恥ずべきものではないという主張も成り立つ。しかし、売春婦がアイドルとなる社会はやはり歪んでいる。ほとんど大部分の遊女は、貧しい農村から売られてきたのである。男の欲望を満足させるために女性の性を商品として扱う発想が基層としてあるのだ。

 そして、国家が売春を公認する「独特の文化」は、二十世紀半ばを過ぎた1957年(昭和32年)に売春防止法が施行されるまで続いた。しかし、そこで途絶えた筈はない。あらゆるものを商品と化してしまう資本主義が、それを引き受けたからだ。「おやぢ」共よ、若かりし頃の「不都合な真実」を思い起こしたまえ。どんな場所に通っていたか。 女性同伴のコンパの席でどんな「春歌」を歌っていたか。

 私は学生の頃、とある歓楽街のトルコ風呂、今で言うソープランドを一手に引き受けて「ソープ嬢」の控え室へ夜食の出前を持って行くアルバイトをやっていて、彼女らと日常的な付き合いがあった。断言するが、客として行ったことは一度もない。しかし、どういう客が訪れていたかは良く知っている。そこでしばしば売春が行われていた事は公然の秘密であった。

 性犯罪の歴史的変遷はどうだろう。 統計データの一例として、「少年犯罪データベース」
http://kangaeru.s59.xrea.com/
から、「少年によるレイプ統計」を見てみよう。
http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Rape.htm

 上記によると、未成年者の強姦犯検挙人数は、奇しくも、売春防止法施行の翌年、昭和33年の、少年人口(10〜19歳)10万人あたり24.28人をピークに昭和40年代以降激減し、最近はピーク時の25分の1の、同 0.91人にまで減っている。この傾向は未成年者に限らず性犯罪全般に共通しており(注1)、他の犯罪がバブル崩壊後に一旦顕著に増加したことと異なっている。いずれにしても、あの『東京タワー』が描く「古き良き昭和30年代」は全くの幻想であって、実は犯罪史の上では近・現代の日本で最悪の暗黒時代だったということだ。セクハラもDV も、その概念自体が存在しなかった時代である。

 このことには多様な意味が隠されていると思うのだが、先ずは、売春の法規制強化によって不満の鬱積した男どもが粗暴な性犯罪に走ったということがあったとしても、例えば、教育・啓蒙の効果の方が圧倒的に勝って、社会の成熟とともに、そうした粗暴な性犯罪は、ある意味自然に減少していったということだろう。

 もちろん社会は自然に成熟するものではない。「男女同権」から「男女平等」へ、ウーマンリブ、フェミニズム、ジェンダー論の流れの中でなされた教育・啓蒙の諸活動が何より功を奏した結果であると思う。その証拠に、私の後輩達、さらには若い学生達には、我々の世代よりはるかに男女平等意識が根付いている。同僚が男子学生に、「先生それは女性へのセクハラですよ」と、そっと諭される場面に遭遇したことも一度や二度ではない。若者の結婚観もまた、古い「家」意識から抜け出ている。そうした女性差別に抗する活動に携わってきた者は、それらのことを大きな成果と誇って良いと思う。

 さて、私の問題意識は、レイプレイゲームに需要があるというこの社会の情況そのものに絶望を感じ、個別・具体的にも「社会的不適応」の精神的被害を被っているのに声をあげられずにいる女性達が多数存在していることだと書いた。この情況は、業界の自主規制やレイヤリングで、ましてや法規制で解決できる訳がないではないか。

 差別的欲望が渦巻いていること自体を法で規制することなど、それが意識上のことである限り、どんな形であれ、絶対にできる訳がない。規制を強化して、つまり臭い物に蓋をして安心することにより、却って事態を悪化させるだろう。過激なレイプレイゲームに限定してその所持を禁じるといったことも、その本来の効果より、恣意的な運用がなされる事の危険性の方が高い。ただし、「児童ポルノ禁止」は、児童の人権保護の観点からのもので、ここで議論している問題とは別。

 結局、我々に残された唯一の道は、教育や啓蒙によって、差別意識のアポトーシスを促すことだけではないか。女性差別が、実は男にとっても生き難い社会を作り出していること、女性を差別するということは自らの存在を否定するに等しい(人間原理に反する)発想であること、等々。

 誰であっても、個人的に楽しむ限りでは、どんな下劣なものでもそれを享受する権利がある。私は、その権利を奪おうとは思わない。おまえはウンコだと言い続けるだけだ。

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文献1:氏家幹人著『江戸の病』(講談社2009年4月)、本書によると、かの杉田玄白は、毎年千人以上の患者の治療に当たったが、その内七、八百人は梅毒患者であったと書いているそうだ。

注1:これは犯罪の発生件数ではなく、あくまで検挙人数であることに注意を要するが、暗数の多さでは昔も引けを取らなかったと考えられる。なお、強制猥褻を加えた合計では昭和40年がピークとなる。法務省の『犯罪白書』は下記。
http://www.moj.go.jp/HOUSO/hakusho2.html

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性差と想像力

 私には、普段の会話で女性と紛らわしい言葉遣いをはさむ癖がある。これは、学生時代、70年代の美濃部都知事(注1)とそっくりな風貌と「喋り」の教師がいて、その真似をしているうちに癖になってしまったものである。そこで、ネット上での対話の際に話し言葉で書くと、ついこの、女性のような会話体になってしまうことがあり、そのため、ごくまれに女性と間違えられることがある。

私として特に不都合はないので放置しておくのだが、後々男だとわかるとなぜか怒り出す人がいる。議論の内容が男か女かに無関係であるにもかかわらず、である。 何しろネット上には「猫言葉」で立派な議論をする方もいるくらいなのだから、どんな言葉遣いをしようと、また、男であろうと女であろうと、それが議論のテーマと無関係なら拘る方がおかしい。

 しかし今回は、男女の性差にまつわる内容なので、あらかじめ男の意見と断っておく。

 事のついでに書いておくと、ある時ネット上の議論で論争相手が私を女と勘違いしたのか、唐突にも、そんなふうでは平塚らいてうが悲しむではないかという意味の言葉を投げてきたことがあった。議論のテーマがフェミニズムとは無関係であったにもかかわらず、である。私はフェミニストではないが、平塚らいてうのことは良く知っているつもりである。もっとも、近・現代における「女性問題」の開拓者を一人挙げろと言われたら、私には高群逸枝が真っ先に思い浮かぶ。いずれにしても、議論の内容とは無関係だったので放置した。この頃、north-pole さんによる下記のブログ記事がアップされ、的確な「つっこみ」になっていると感心したものである。

「与謝野晶子と平塚らいてうについてのメモ」
http://d.hatena.ne.jp/north-pole/20080815/1218804050

 さて、遠隔地で一人暮らしをしながら大学へ通っていた娘がアルバイトで手にした金で北インドを一人旅したことがある。その計画を打ち明けられた周囲の反応は様々であった。私は、憧憬の「小泉文夫のインド」という想いがあり、娘に先を越されることに内心忸怩たる想いがあったのだが、とりあえず少しばかり情報収集の手伝いをした。

 ところが妻は猛反対で、どうして止めないのかと私へ向けて非難轟々。彼女は若い頃寝袋をかついで日本中を旅したことを自慢していたので、そのあまりの狼狽ぶりに娘も私も当惑した。反対の理由は「危険だから」の一点張りである。

 もちろん娘は日本より少しばかり高い危険を承知で行くのであるし、私もそれを承知で後押しした訳なのだが、インドについて言えば、女性一人だから日本より危険だというのは当たらない。世の中は危険なことだらけなのだから、危険であることを理由にしては何もできなくなってしまうし、そんな人生はつまらない、などと説得を試みたが無駄であった。とにかく妻は最後まで反対を貫き、何かあったら私のせいだということになったまま、娘はインドへ旅立った。

 結果的にその旅は、 娘にとって期待以上の大きな収穫をもたらしたようで、妻の不満もおさまって私も胸を撫で下ろすこととなった。一方で、価値観を共にすると思っていた妻が娘のインド一人旅になぜあそこまで強く反対したのか、私にとっては謎として残った。それが、少しばかり前に、碧猫さんによる次の記事を読んで、 いろいろと理解が進んだような気がしたのだ。

「 なら、その言葉を使わずに試してみよう 」
http://azuryblue.blog72.fc2.com/blog-entry-678.html

 女性のおかれた社会的不利益については、男としてその身に立つことが不可能である以上、情報を集めて考えを巡らすとしても結局のところ想像するしかない。つまり、この問題は想像力の問題である。そしてその能力は女性によって試される。逆に、男性のメンタリティについての女性の想像力にも同じことが言える。

 なぜ双方ともに互いの立場に想像力を働かせることができるかと言えば、同じ人間であるからと言うしかない。犬や猫の気持ちに沿えるのは同じ哺乳類であるからで、その上で、問題の性質に応じて、同じ子を持つ親であったり、同じ年老いた身であったり、はらぺこであったりといった共通項があるからだが、当然、想像力にも限界がある。

 一部には何かと評判の悪い養老猛氏だが、彼が「バカの壁」で言いたかったことは、自らのこととして切実でない問題は本当には理解できないという、至極あたりまえのことである(注3)。つまり、自らのこととして切実でない問題には理解の足りない部分が当然のこととして存在しているということ。

 ある日末期がんを宣告されたとしたら、きっと、朝の景色もそれまでとは違ったものに見えるに違いない。誰しも死を恐れていることを知っているから、そんなふうに我々は理解を示すこともできるのだが、それも想像にしかず、その理解はほんとうのところに届いていないことも自覚できる。その証拠に、想像しているだけの自分には朝の景色が変わって見えることもない。 養老氏が言うように、何かが分かったということは自分が変わるということで、変わっていなければ本当には分かっていないということなのだ。

 他人と一心同体になることは不可能で、どんなに知ろうとしても理解の及ばないことが必然的にあるということを自覚できたとき、そのことの遠慮から少しは譲歩しようと思う者と、逆に、どうせ理解できないしその必要もないと開き直る者がいる。それは価値観の相違ではなく人間性の相違によるもので、後者の「個性」は、正常な社会生活を送る上では大変具合が悪いのではないかと思う。理解しようと努力する前から理解する必要もないと開き直るのは、おまえらが嫌いだと公言してまわるのと同じではないか。

 それにしても、異性のおかれた情況を理解するというのは本当にむずかしい。かつては、女には理系の学問は向いていないと平然とうそぶく大人達が多かった。彼らは、身のまわりの女性の非論理的な振る舞いの実例ばかりを寄せ集めてその観念を補強してみせた。そのこと自体の非論理性と重大性に気づいていないのである。そうした影響か、大学の理系学部では、かつては女子学生が大変少なかった。実際、私が卒業した学科の同級生に女性は一人もいなかった。だから、私の世代の男達の中にも、そうした差別的な観念から未だ抜け出せずにいる者が多い。しかし現在は、理系学部での女子学生の比率は平均35%を超えるくらいになっている。しかも、私の所属教室で毎年優秀学生に選ばれるのは、圧倒的に女性が多い。そうした環境下で育てば、同級生の男達に、女は理系の学問には向いていないなどといった観念が植え付けられることもないだろう。

 とは言え、「社会進出」に限らず、女性に不利な状況はいまだ厳として存在しており、大学も例外ではない。例えば、フィールドワークを主な手法とする学問分野において、女ということで行動が制限されるという不自由さがある。研究指導でも、男子学生であれば「行ってらっしゃい」の一言で済ませられることも、女子学生の場合は、いろいろな危険を回避する手立てを講じなければならず、基本的に単独行動は控えろということになる。深夜に及ぶ実験に際しても、帰宅時の安全に気を遣わねばならないことになる。それもこれも、男の側に責任があることなのだ。

 そんなことを、つらつらと考えながら、妻の背負ってきたものに想いを巡らせたりした。せめて、今は奔放な娘がやがて子を持つ親となった時に、自分の娘に「自主規制」をせまらざるを得ないというようなことのないよう、状況が少しでも改善されていることを願いたい。関連して、日本製性暴力ゲーム、いわゆるレイプレイゲームの法規制をめぐる議論が活発になされているが、このことについては時間があれば稿を改めて書きたい。

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注1:美濃部亮吉、Wikipediaによると30年前の1979年、四選不出馬を表明して都知事を退任。その後参議院議員となり、84年死去。71年の都知事選挙では個人の得票としては日本の選挙史上最多となる361万5299票を獲得し、この記録は今も破られていないとのこと。

注2:養老氏は、教え子の中にオウム真理教に入信して犯罪に手を染めたりする「バカ」が続出したので、アホらしくなって大学を辞めたという意味のことを書いていた。結局彼は、オウムに入信する若者にとって何が「切実な問題」であったのかを理解できずにいる自分自身の問題として、この「バカの壁」を深める考察をなし得ていない。その辺りが一部に不評なのだろう。なお私は、彼の「脳化社会」という概念は有効だと思う。

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