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私には、普段の会話で女性と紛らわしい言葉遣いをはさむ癖がある。これは、学生時代、70年代の美濃部都知事(注1)とそっくりな風貌と「喋り」の教師がいて、その真似をしているうちに癖になってしまったものである。そこで、ネット上での対話の際に話し言葉で書くと、ついこの、女性のような会話体になってしまうことがあり、そのため、ごくまれに女性と間違えられることがある。
私として特に不都合はないので放置しておくのだが、後々男だとわかるとなぜか怒り出す人がいる。議論の内容が男か女かに無関係であるにもかかわらず、である。 何しろネット上には「猫言葉」で立派な議論をする方もいるくらいなのだから、どんな言葉遣いをしようと、また、男であろうと女であろうと、それが議論のテーマと無関係なら拘る方がおかしい。
しかし今回は、男女の性差にまつわる内容なので、あらかじめ男の意見と断っておく。
事のついでに書いておくと、ある時ネット上の議論で論争相手が私を女と勘違いしたのか、唐突にも、そんなふうでは平塚らいてうが悲しむではないかという意味の言葉を投げてきたことがあった。議論のテーマがフェミニズムとは無関係であったにもかかわらず、である。私はフェミニストではないが、平塚らいてうのことは良く知っているつもりである。もっとも、近・現代における「女性問題」の開拓者を一人挙げろと言われたら、私には高群逸枝が真っ先に思い浮かぶ。いずれにしても、議論の内容とは無関係だったので放置した。この頃、north-pole さんによる下記のブログ記事がアップされ、的確な「つっこみ」になっていると感心したものである。
「与謝野晶子と平塚らいてうについてのメモ」
http://d.hatena.ne.jp/north-pole/20080815/1218804050
さて、遠隔地で一人暮らしをしながら大学へ通っていた娘がアルバイトで手にした金で北インドを一人旅したことがある。その計画を打ち明けられた周囲の反応は様々であった。私は、憧憬の「小泉文夫のインド」という想いがあり、娘に先を越されることに内心忸怩たる想いがあったのだが、とりあえず少しばかり情報収集の手伝いをした。
ところが妻は猛反対で、どうして止めないのかと私へ向けて非難轟々。彼女は若い頃寝袋をかついで日本中を旅したことを自慢していたので、そのあまりの狼狽ぶりに娘も私も当惑した。反対の理由は「危険だから」の一点張りである。
もちろん娘は日本より少しばかり高い危険を承知で行くのであるし、私もそれを承知で後押しした訳なのだが、インドについて言えば、女性一人だから日本より危険だというのは当たらない。世の中は危険なことだらけなのだから、危険であることを理由にしては何もできなくなってしまうし、そんな人生はつまらない、などと説得を試みたが無駄であった。とにかく妻は最後まで反対を貫き、何かあったら私のせいだということになったまま、娘はインドへ旅立った。
結果的にその旅は、 娘にとって期待以上の大きな収穫をもたらしたようで、妻の不満もおさまって私も胸を撫で下ろすこととなった。一方で、価値観を共にすると思っていた妻が娘のインド一人旅になぜあそこまで強く反対したのか、私にとっては謎として残った。それが、少しばかり前に、碧猫さんによる次の記事を読んで、 いろいろと理解が進んだような気がしたのだ。
「 なら、その言葉を使わずに試してみよう 」
http://azuryblue.blog72.fc2.com/blog-entry-678.html
女性のおかれた社会的不利益については、男としてその身に立つことが不可能である以上、情報を集めて考えを巡らすとしても結局のところ想像するしかない。つまり、この問題は想像力の問題である。そしてその能力は女性によって試される。逆に、男性のメンタリティについての女性の想像力にも同じことが言える。
なぜ双方ともに互いの立場に想像力を働かせることができるかと言えば、同じ人間であるからと言うしかない。犬や猫の気持ちに沿えるのは同じ哺乳類であるからで、その上で、問題の性質に応じて、同じ子を持つ親であったり、同じ年老いた身であったり、はらぺこであったりといった共通項があるからだが、当然、想像力にも限界がある。
一部には何かと評判の悪い養老猛氏だが、彼が「バカの壁」で言いたかったことは、自らのこととして切実でない問題は本当には理解できないという、至極あたりまえのことである(注3)。つまり、自らのこととして切実でない問題には理解の足りない部分が当然のこととして存在しているということ。
ある日末期がんを宣告されたとしたら、きっと、朝の景色もそれまでとは違ったものに見えるに違いない。誰しも死を恐れていることを知っているから、そんなふうに我々は理解を示すこともできるのだが、それも想像にしかず、その理解はほんとうのところに届いていないことも自覚できる。その証拠に、想像しているだけの自分には朝の景色が変わって見えることもない。 養老氏が言うように、何かが分かったということは自分が変わるということで、変わっていなければ本当には分かっていないということなのだ。
他人と一心同体になることは不可能で、どんなに知ろうとしても理解の及ばないことが必然的にあるということを自覚できたとき、そのことの遠慮から少しは譲歩しようと思う者と、逆に、どうせ理解できないしその必要もないと開き直る者がいる。それは価値観の相違ではなく人間性の相違によるもので、後者の「個性」は、正常な社会生活を送る上では大変具合が悪いのではないかと思う。理解しようと努力する前から理解する必要もないと開き直るのは、おまえらが嫌いだと公言してまわるのと同じではないか。
それにしても、異性のおかれた情況を理解するというのは本当にむずかしい。かつては、女には理系の学問は向いていないと平然とうそぶく大人達が多かった。彼らは、身のまわりの女性の非論理的な振る舞いの実例ばかりを寄せ集めてその観念を補強してみせた。そのこと自体の非論理性と重大性に気づいていないのである。そうした影響か、大学の理系学部では、かつては女子学生が大変少なかった。実際、私が卒業した学科の同級生に女性は一人もいなかった。だから、私の世代の男達の中にも、そうした差別的な観念から未だ抜け出せずにいる者が多い。しかし現在は、理系学部での女子学生の比率は平均35%を超えるくらいになっている。しかも、私の所属教室で毎年優秀学生に選ばれるのは、圧倒的に女性が多い。そうした環境下で育てば、同級生の男達に、女は理系の学問には向いていないなどといった観念が植え付けられることもないだろう。
とは言え、「社会進出」に限らず、女性に不利な状況はいまだ厳として存在しており、大学も例外ではない。例えば、フィールドワークを主な手法とする学問分野において、女ということで行動が制限されるという不自由さがある。研究指導でも、男子学生であれば「行ってらっしゃい」の一言で済ませられることも、女子学生の場合は、いろいろな危険を回避する手立てを講じなければならず、基本的に単独行動は控えろということになる。深夜に及ぶ実験に際しても、帰宅時の安全に気を遣わねばならないことになる。それもこれも、男の側に責任があることなのだ。
そんなことを、つらつらと考えながら、妻の背負ってきたものに想いを巡らせたりした。せめて、今は奔放な娘がやがて子を持つ親となった時に、自分の娘に「自主規制」をせまらざるを得ないというようなことのないよう、状況が少しでも改善されていることを願いたい。関連して、日本製性暴力ゲーム、いわゆるレイプレイゲームの法規制をめぐる議論が活発になされているが、このことについては時間があれば稿を改めて書きたい。
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注1:美濃部亮吉、Wikipediaによると30年前の1979年、四選不出馬を表明して都知事を退任。その後参議院議員となり、84年死去。71年の都知事選挙では個人の得票としては日本の選挙史上最多となる361万5299票を獲得し、この記録は今も破られていないとのこと。
注2:養老氏は、教え子の中にオウム真理教に入信して犯罪に手を染めたりする「バカ」が続出したので、アホらしくなって大学を辞めたという意味のことを書いていた。結局彼は、オウムに入信する若者にとって何が「切実な問題」であったのかを理解できずにいる自分自身の問題として、この「バカの壁」を深める考察をなし得ていない。その辺りが一部に不評なのだろう。なお私は、彼の「脳化社会」という概念は有効だと思う。
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