さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

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タイトルは、元横浜市立大学理学部教授吉岡直人氏著「さらば、公立大学法人横浜市立大学」(下田出版、2009年3月)の副題である。

本書は、いわば、大学と学問・教育を蝕み、破壊し続ける行政権力と闘い、結果敗れ、大学人として憤死した著者の闘いの記録である。超法規的な「改革」の断行によって、大学の自治、学問の自由、学内民主主義は蹂躙され、「改革」の名のもとに一つの伝統ある大学が変質を遂げ、無惨な姿を晒すに至る、その克明な記録である。

同じく大学人でありながら、このような匿名のブログで、人生を賭して書かれた本書を評するのはあまりに僭越というもの。ただ、ぜひとも多くの人に読んでいただきたく、ここに紹介したい。

「まえがき」にある、理事長・学長宛提出された「辞表」から一部を引用しよう。

「・・・新たな学部のカリキュラムは、横浜市の前田副市長(当時)を本部長とする「大学改革推進本部」で策定されたものであります。すなわち、大学自身の手によってではなく、外部組織によって策定されたのであります。一体どこの世界に、授業カリキュラムを自身の手で決められない大学がありましょうか。」

「また新たに発足した大学では、これまで重要な役割を果たしてきた教授会の機能と権限は強奪され、学長、副学長、学部長、コース長などの役職はすべて上からの任命制となり、学内民主主義は事実上根絶しました。
 さらに任期制・年俸制が導入され、平成十九年度からは教員評価制度が実施されています。この制度の発足と同時に行なわれた教授昇任人事では、「教員昇任規程」に(経過措置)なる附則を付けることまでして、本来なら業績・資格のない人を教授に昇任させ、その一方で十分業績のある人を「経営上の判断」から教授への昇任を発令しないという、大学としてあるまじき、本末転倒した異常事態が起きています。」

「改革」が、いかに陳腐な理念に基づいていたかは、「プラクティカルなリベラルアーツ・カレッジをつくる」という方向性に端的に顕われている。吉岡氏が指摘するように、この謂いやまさに言語矛盾以外の何者でもなく、理念などといえる代物でさえない。

無理が通れば道理が引っ込む。無理を通すのは常に権力である。その地方行政権力のトップにあったのは中田宏横浜市長。本書を読んで感じるのは、この大学破壊は、中田氏の、理念というよりは極めて個人的なルサンチマンの感情に突き動かされてのことではないかという疑いである。そうした感情は、しばしば「2ch言論」の中にむき出しになるが、何ら意義あるものを生みだすことがないばかりか、優れた文化の破壊者としてふるまう。

もちろん、この例のように多数の大学構成員の抵抗に遭った「改革」が、ただ一人の権力者の思惑のみによって仕組まれ、その力だけによって遂行され得た筈はない。そこには常に、権力者に擦り寄り、甘い汁を吸う官僚や御用学者がいる。また、象牙の塔に籠っていた気の弱い一学者にすぎない学長が、悪辣な政治力学に翻弄され、体よく利用されていく姿もある。そうではあっても、やはり、権力トップの責任は一義的なものである。中田氏の経歴について、長くなるが、同書から引用しよう。

「同氏は、青山学院大学を25才で卒業後、松下政経塾に10期生として入塾した。その後、参議院議員秘書を経て、92年に日本新党に参加し、93年に神奈川一区から衆議院選挙に立候補し、初当選した。96年には新進党より神奈川8区から出馬し、再び当選する。97年の新進党の解党以降は無所属となるが、その後、民主党に入党し、00年の衆議院選挙に立候補し、三たび当選する。この間、99年7月には超党派の15人議員で「郵政民営化研究会」(代表:小泉純一郎、事務局長:松沢成文)を発足させ、さらに01年4月の首班指名では、民主党所属だが小泉に投票したことはよく知られている。
 02年3月、無所属で横浜市長に立候補し、大方の予想を覆して、高秀前市長をやぶって当選した。
 国会議員時代から、小泉首相を凌ぐほどの構造改革論者であったらしい。当時ニュージーランドで行なわれていた構造改革(規制緩和・民営化の行政改革)を、自らニュージーランドに足繁く通って研究を重ねたそうだ。この構造改革は、シカゴ大学の経済学者ミルトン・フリードマンらによって提唱された「新自由主義(新古典派経済学)」、「市場原理至上主義」として知られているものである。これは一言でいえば、何事も市場に委ねさえすればうまくいく、市場機能の働きによって最適の資源配分が達成される、という考え方に基づくものであり、「小さな政府」、「規制緩和」、「自己責任」などという言葉もここから派生したものだ」(P262、263)

かつてニュージーランドで行なわれた「行政改革」と連動しての大学破壊については、河内洋佑氏による報告に詳しい。
http://ac-net.org/dgh/99b30-newzealand.html

中田氏を市長に選んだのは横浜市民である。民主的な手続によって選ばれた行政長の施策は尊重しなければならない。このことは、その当人が、民主主義を理解し、尊重する者としてふるまう限りにおいて是とされるべき原理だ。彼の行った「大学改革」の具体的な中身は選挙公約にもなかったことである。

知人によると、著者の吉岡氏は、地震性断層の摩擦すべりの力学にかかわる優れた業績をお持ちの方であるとのこと。もはや、氏の頭脳が、地震予知研究に活かされる道は閉ざされてしまった。吉岡氏と同じく中途退職したり、他の大学へ転身した教員が続出した。吉田誠氏による下記ウェブサイトも併せてお読みいただきたい。
「公立大学という病:横浜市大時代最後の経験」
http://myoshida64.hp.infoseek.co.jp/ycu/ycu2004.html

 新型インフルエンザウイルスへの感染が世界中で拡大し、専門家の一部は、既にパンデミックに達しているとの認識を示している。今月に入ってからの世界で確認された累積発症者数は一週間にほぼ倍になるペースで拡大している。このペースで行くと、来週末には世界で二万人程度になると予想されるが、米国内では潜在的には既に十万人が感染しているとの見方もある。政府は、新型インフルエンザが日本国内で発生したのを受け、第二段階の「国内発生早期」に移行したとの認識を示した。これを書いている17日午前の段階で、神戸で8人、大阪で9人の感染が確認されていて、やがて第三段階の「感染拡大期」へ移行するのだろう。

 ところで、このような感染症の発症者数は「感染拡大期」には指数関数的に増加するものの、やがて増加率は減少に転じ、単位期間当たりの罹患率は「まん延期」の後半にピークをむかえ、「回復期」、「小康期」と推移して一つのイベントが終わる。なぜだろう。累積発症者数が「感染拡大期」に指数関数的に増加するのは解る。感染者が増えると感染の機会も増えるからだ。しかし、なぜその増加率が減少に転じるのだろう。

 こちらは素人だから言葉の定義も曖昧なのだが、次のように考えたらどうだろう。とりあえずここでは、人を、ウイルスとの接触や発症状況について、a〜dの4つのカテゴリーに分類し、このa,b,c,dを、それぞれの割合(%)の意味にも用いる。

 a:ウイルスとの接触がない人
 b:ウイルスと接触した人
 c:ウイルスに感染した人
 d:発症した人
 a+b=100%
 現実問題として知ることができるのはdだけである。

 感染拡大期においては、a≫b>c>dとなっていて、cや、特にdが増加するとウイルスとの接触の機会も増えてc、dの予備軍であるbが増えるということで、結果としてdが指数関数的に増えることになる。しかし、ある地域でbが数10%を超えると、その指数関数的増加は不可能になり、やがてc、dの増加率は減少に転じ、「まん延期」ということになるのだろう。新型インフルエンザでは、その潜伏期間が数日以内と短いことを考えると、dの増加がピークをむかえる直前にはa=bを経由してa<bとなり、新たな発症は減少に転じる。

 こう考えると、最終的な小康期に至った段階では、ほとんど大部分の人々がbになっていたということなのだろう。そのうち、どれくらいの割合がcになり、またその中で発症するdの割合がどれくらいであるかによって累積発症者数は変化するが、いずれにしても、最終的に新型インフルエンザウイルスとの接触を断つのは誰にとってもほぼ不可能ということではないだろうか。そう考えると、あれこれの対策も無意味に思えてくるのだが、個人的都合で、どうせならもう少し後にしてほしいと思い、手洗いとうがいだけは欠かさない。

 もう3月も終盤にさしかかろうとしている。とにかく忙しすぎる。出張先から帰国したばかりだというのに、しばらく後にはまた10日程の出張が控えているが、このブログの更新もひと月以上ご無沙汰にしているので、挨拶程度の記事をアップしたい(と言ってもちょっと暗いです)。

 大学は卒業式のシーズンである。幸せなことに、私の属する教室では卒業生達が字義通りの謝恩会を催してくれ、おいしい料理とタダ酒をふるまってくれた。おまけに「仰げば尊し」を合唱し、たいそうな花束まで贈呈してくれた。

 世は100年に一度と言われる経済恐慌である。大学院へ進学する者も多いが、細った親のスネを案じてやむなく社会へ旅立つ者も少なくない。希望の職種にありつけず、フリーターを余儀なくされる者もいる。

 学問を志すにしても厳しい現実が待ち受けている。昨今は、まず2〜5年の期限付きの採用からスタートしなければならない。そうした研究職をいくつか渡り歩いた末のパーマネントの募集枠は、分野によっては入り口の60%ほどに絞られる。その途上で振り落とされる者が出ることを前提にした「競争原理主義」のシステムである。30才半ばを過ぎて振り落とされた者に、高度に専門化されたそのキャリアを活かせる再就職先はないし、別の道へとフォローするシステムもない。

 大学側はこの現実を学生に知らせることに消極的である。大学院定員の充足率が国庫からの補助金額に反映されるからである。大学内の組織再編も頻繁になされるようになり、下手をすると専攻ごとおとりつぶしということにもなりかねない。そこで、大学院生に対しての種々の補助金が考案され、特に博士課程(後期)への進学が奨励される。

 結局、国と大学がグルになって学生を騙しているのではないのか。教員の側のそうした後ろめたさが、学生への自虐的ともいえる程の研究指導の「強化」となって現れる。院生が筆頭著者となった共著論文の中にも、その執筆のほとんどを指導教員がやっている例さへあるのだ。そうして「業績」を造りあげ、期限付きの研究職へ放り込まれた若者も不幸だが、教員も不幸だし、何より学問そのものの未来にとって不幸なことではないのか。

 卒業して社会へ旅立つ若者を前にして、「なんとも知れない未来」へ向かうのは君たちばかりではないのだよと、「仰げば尊し」を聞きながら忸怩たる想いにかられているのであった。

 以下の文章は、1月10日頃書き始め、推敲を重ねた末、本日26日に脱稿したものである。この間、パレスチナを巡る情勢は目まぐるしく変化した。オバマの大統領就任演説が行なわれた後の今となっては若干時期遅れのものとなっているが、書かずにはいられない。

 「護憲」とは、歴史的に「九条」を護る運動として位置付けられてきた。前文に謳われている日本国憲法の理念は、具体的には「九条」に結実しているからだ。ここで言う「護憲派」も、その意味で用いる。

日本人は平和ボケしているから、軍事力で平和が守られると勘違いする。

 あの戦争の惨禍を忘れてしまう程になってしまったということ。日本国憲法は、その記憶も生々しい頃に誕生し、二度と同じ惨禍をくり返さないとの決意を宣言した。広島平和公園の碑文にも、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」とある。これには異論もあるが、当時の大多数の日本人の決意であったろう。

 あれから60年以上もの間、憲法のおかげで、日本は一度も戦争に直接手を下すことがなかったし、日本人が戦争で死ぬこともなかった。しかし、そうして日本人の平和ボケも始まった。軍事力に頼ることしか眼中にないアメリカから国際貢献を請求されて、戦争の(後方)支援しか発想できなくなってしまった。こうした動きに対して、護憲派は、「一国平和主義」との汚名を返上すべく「九条」の精神を広く世界に届ける運動に繰り出した。私も、その末席に名を連ねてきたつもりである。

 その仲間達の間に、今、パレスチナ・ガザ地区で起きているイスラエルによる大量殺戮にどう対処すべきか、水面下で深刻な対立がおきている。イスラエルを非難する抗議の嵐の中、「ハマス」の武力に頼る強硬路線への批判がおそるおそる、またある時は声高に表明され、その溝は確かに広まっているのだ。そのよってきたる足場が、日本国憲法前文と「九条」の理念に基づいているだけに根は深い。

 私自身は、罪もない多数のパレスチナ市民の命が日々奪われているという緊急の事態に直面しているとき、第一義的には、イスラエルの無差別殺戮への非難の声をあげ、あらゆる機会をとらえて世界世論の包囲網の存在をイスラエル政府に自覚させ、無差別殺戮をただちに中止させるよう圧力をかけるべきであると考えている。日本人がなしうる行為としては、イスラエル大使館への抗議行動もその一貫として有効であろう。しかし、このような提案に対してさえ、対話の機会を損なうものであるとの批判の意見が表明されている。(注1)

 今、この原稿を書いている時点で、イスラエル政府が「一方的停戦」を宣言した。この点についてのマスコミ論調の大勢は、イスラエル側として、ハマスはテロ組織でありこれを交渉相手とすることはありえないとの立場を世界に向けてあらためて宣言し、併せて戦略的優位を狙ったものとの認識で一致しているようだ。しかし、イスラエル政府がその気になれば、圧倒的軍事力でもってガザ地区を制圧し、ハマスを武装解除することも可能であったろう。そうした行為を歴史的にイスラエルに思いとどまらせているのは、やはり世界世論の圧力を気にし、孤立することを恐れてのことであると考えたい。もし、イスラエル政府とその後ろ盾となっているアメリカ政府を支える「人々」の全体が、そうした、人としての「道理」のかけらも持ち合わせていないエイリアンだとしたら、我々の抗議行動の全ては無意味である。我々が非難の声をあげるのは、その声が届くことに一縷の望みを賭けているからであり、つまり、かれらを人として認めているからであり、自己満足のためではない筈だ。

 では、ハマスという存在に向けて、どのようなスタンスを執るのがあり得べき「護憲派」だろうか。一発のロケット弾を打ち込んだら所かまわず自動的に百発のミサイルのお返しをするようプログラムされた「マシン」に向けて、その一発を打ち込むハマスの行為をどう理解したら良いだろう。

 少なくともガザ地区では、ハマスは多数派の支持を得ていて、民主的に選ばれたかれらの代表組織であるに違いない。しかし、代表組織であるというだけでその正しさが担保されないのは、イスラエル政府とて同じという意味で、我々がそれを支持する根拠にはなり得ない。ハマス、あるいはハマス的なるものは、歴史的にイスラエルの行為が生みだしたものだ。主犯であるイスラエルとそれを支えてきたアメリカへの非難が第一義的であるべきことは論をまたない。だからと言って、「護憲派」である我々がハマスを支持する根拠にはなり得ない。憲法前文と「九条」の理念に照らして、そう考えるべきだ。

 憲法発布当時、多くの日本人が「九条」の理念を納得したのは、誰かに説得されたからではなく、もっぱら戦争の惨禍の経験によっているだろう。戦後世代がそれを受け入れたのは、その記憶の伝承によっているだろう。第三世代に「九条」離れがおこっているのは、その伝承が途絶えてきたからだろう。しかし、戦時中、凄惨のさなかで戦争への疑問と指導部への不審を抱く者がいたとしても、かれらの多くが、日本国憲法前文の理念にまで到達し得たかどうかは疑問だ。おそらく、戦後という、身に降り掛かった出来事を冷静に考えることのできる時代の到来が必要だったのではないかと思う。(文献1) しかも、日本の場合は、自国に非がある戦争であったし、パレスチナにとっては、相手に非のある「戦争」である。

 そうだとしたら、日本人が現在の「高み」からハマス的なるものを批判しても、決してその声が届く事はなく、結局自己満足に終らざるを得ないのだろうか。もし我々がそう思うなら、我々自身が日本国憲法前文および「九条」の理念の普遍的価値とその実効性に、そもそも信頼を寄せていないということになる。

 けれど、思い起こそう。イスラエルとパレスチナの双方に、武力および武力を後ろ盾とした圧力によらず、純粋に相手を思いやり、対話を通じて問題の解決を図ろうとする勢力が確かに存在しているという事実を。そうした運動体は、次のリンク集をたどるだけで、いくらでも見つかる。
http://www.palestine.jp/link.htm
http://www.jca.apc.org/~p-news/houhuku/unndou.htm

 それらは、女性の平和運動であったり、イスラエル・パレスチナ双方の戦争遺族が共に手を携える会であったり、イスラエルの兵役拒否運動、ユダヤ教聖職者の団体などである。(注2)

 そうした発想をなすこと自体がありえないに等しいほどに、かれらを取りまく政治的風土は巨大な逆流となって武力に魅了されている。おそらく、身の危険をも伴う活動であるに違いない。しかし、かれらの一世紀に及ぶ戦争の経験が、かれらをしてついに、軍事力で平和は守れないという境地へと到達せしめたのではないだろうか。平和ボケした日本人は、かれらにこそ学ぶべきだ。

 2002年4月、当時のパレスチナ自治政府情報文化大臣とイスラエル前法務大臣による「イスラエルとパレスチナが交渉のテーブルに戻るために」と題するル・モンド紙に掲載された共同声明の和訳を次のサイトで読むことができる。
http://www.diplo.jp/articles02/0204-4.html

 そこでは、イスラエルとパレスチナ双方の平和運動の共同のプログラムとして設立された「平和をめざすイスラエル=パレスチナ連合」の背景、理念、経緯が述べられている。この声明は、次のように結ばれている。

「このイスラエル=パレスチナ連合は、容易に維持できるものではない。われわれが大きな支持を得ているのは事実だが、激しい批判を受けているのも事実である。暴力がやまず、罪もない人々が双方で殺されているさなかに、会合と対話を行おうとすれば、それは必ずや利敵行為として糾弾される。だからこそ、広範に認知され、国際的に正統性を与えられ、そして平和を信ずる世界中の人々から支援されることを、われわれは必要とする。」

 かれらの存在自体が、護憲派である私たちをいかに励ますものであるかを想うとき、政治的に孤立しているであろうかれらに、篤い連帯の意思を伝える義務が私たちにある。今、護憲派である私たちがなすべきことは、ハマスの評価を巡って対立することではなく、イスラエルとパレスチナにそうした平和勢力が存在しているという事実を広く世に伝え、かれらに向けて連帯の想いを伝え、かれらを励まし、みずからも励まされる絆をむすぶ、そうした運動に集中することではないだろうか。そのことが、「一国平和主義」との非難の声を自らの中で無力化し、日本国憲法前文の精神を世界にむけて発信しようとする、私たち自身の運動の原点を見失わないためにも必要なことと考える。

------------------------------------------------
注1)公開されているAML保存書庫の本年(2009年)1月期の討論を参照
http://list.jca.apc.org/public/aml/2009-January/thread.html

注2)イスラエル国内の平和運動に対しては、この問題の本質から目をそらすものとの批判もある。結局、そうした問題は対話を通じてしか解決できないとする日本国憲法前文に示された「方法論」への信頼の問題なのである。

文献1)早坂隆著『祖父の戦争』(現代書簡 2005)

「沖縄」のことなど

 昨年末に八重山諸島方面へ出張した際に、久しぶりの沖縄ということで携行した次の一冊を読み、沖縄が抱える問題に理解を新たにしたことが多かった。

 宮城康博著『沖縄ラプソディ』(御茶の水書房 2008)

 政治オンチの私のようなものが、多少とも政治的なアピールを含むこの種の本を下手に紹介しては、読者を増やす妨げとなるかもしれない。ただ、どのような立場からであっても、沖縄がかかえる問題、そこから派生するあらゆる問題に関わって何かを発言しようとする者は、宮城氏がこの本で提起したことに正面から向き合う義務があると感じられたことを、まず記しておきたい。

 さて、年末年始には、久しぶりに小泉文夫の著作をまとめて読み返した。前3回のエントリーで度々引用した岡田真紀著『世界を聴いた男 小泉文夫と民族音楽』は、それらを読み返す際の良いガイドとなった。また、いくつかの記憶違いや思い違いにも気づかせてくれるものとなった。その中の一節「アジアのなかの日本」(p. 278〜)は、次の文で始まる。

「一九七一年(昭和四六)から一九七四年まで、毎夏には東南アジア、東アジアの国々を訪れ、一九七三年からは日本の沖縄諸島の音楽調査も再開し、小泉は日本と東南アジアの間に深いところで通い合う音楽性を聴きとる。ここから、小泉は「アジアにある日本」をより強く意識するようになる。」

 既に小泉には、1970年の大阪万博のお祭り広場で、アジア各国の古典音楽、舞踊を中心とした「アジアのまつり」を企画演出するという経験があった。やがて、アジア諸国全体の共同研究として、アジアのつながりを人文科学としての比較音楽学の視点から総合的に研究する必要性を痛感するようになる。

 この企ては、小泉とは無関係に、外務省の外郭団体である国際交流基金のプロジェクト「アジア伝統芸能の交流」(1972〜?)として実現しようとしていたが、当初は、専ら日本の芸能・芸術の海外紹介に充てられていた。ところが、アジア諸国には、第二次大戦の惨劇やその後の日本の貪欲な経済活動などから反日感情が渦巻いていて、1974年には田中角栄首相の東南アジア歴訪に際して激しい反日デモが起きたりしていた。こうした中、「日本の芸能を持っていくだけでは相互理解、文化交流は不可能である、ということを現場のスタッフは強く感じていた」。そこで芸大教授に就任したばかりの小泉に打開策が相談されることになったようだ。

 結果、「逆に、アジアの芸能を日本でも紹介し、日本人がアジアの芸能、文化を理解する機会を作らなくてはならない、その姿勢をアジアに示さなくてはならない」ということで、方針が定まり、この企画は大きな成果を残すこととなった。その後も小泉は、多忙な中、数々の政府機関や民間の嘱託委員を務めた。それが激務に拍車をかけ、彼の寿命を縮める要因の一つになったと思うのだが、私自身には、その情熱が何に由来し、何に向けられているのか大きな謎であった。

 60年代後半から激しさを増していたベトナム戦争も、75年にはアメリカの敗北で終結するといった時代である(注1)。日米安保条約改定反対のデモにも参加していた小泉は、ある種の反米感情のようなものも抱いていたことが記されている。

 小泉は、土着の伝統芸能が人々の生活様式のようなものと分ち難く存在している様をつぶさに観察し、アジアという共通の文化圏の存在とその実体を明らかにした。それなのに、日本および日本人は、そのことを自覚できないまま、もっぱらアジア諸国を経済活動や観光の対象としてしか捉えていなかった。それどころか、ベトナム戦争では、北爆に向かうB52が沖縄から飛び立ってさえいた。小泉は、世界中の音楽を調査した結果の結論として、世界三大音楽文化圏の一つに沖縄を揚げていたのだが(注2)、その沖縄が、アメリカがアジアに対して傍若無人にふるまう拠点となっていたのは、沖縄の人々の心情を思えばこそ耐え難いことであったろう。

 結局小泉は、本来あるべき文化を壊すものと全力をあげて闘っていたのではないかと思う(注3)。自らに課したのは、広く深く<事実>を知ること、そして、それを民衆のレベルで世に広めること、そのことを通して、異なる価値観からなる世界に相互理解の輪を広げることだった。この方法だけが、地域ナショナリズムにこもる危険を回避しつつ、平和の内にそれぞれの文化を豊かに発展させる唯一の道であるに違いない。

 冒頭に掲げた宮城康博氏の著作にも、根のところである種共通するものを感じた。

 宮城氏は、80年代を東京で演劇生活などをしながら過ごしたあと、90年代初頭に沖縄名護へ帰り、行政の地域計画策定や市役所の広報をつくる仕事に従事する。まもなく、米軍の普天間飛行場返還の代替え施設として、名護市に新基地建設の話が降り掛かった。そこから、新基地建設の是非を問う住民投票実現の運動の先頭に立ち「積極的に「政治」にコミットしていった」。

 本書では主に、それらのことにかかわって、歴史的な事実や、安保条約や日米地位協定の条文や、各種行政文書、憲法や国際法の視点も交えて、「地方自治の本旨」と平和構築の思想が語られる。圧倒的事実が地域ナショナリズムを超える論理を紡ぎだしているという意味で、本書は、沖縄問題の資料集の一つとしての価値も大きい。

 さらに、本書の価値を高めているのは、問題の所在を論じる確かな視点にあると、私なりに思う。例えば、第三部 「地球の万人へ」を読めばあきらかである。ことに、「われらはみな、アイヒマンの息子」と題された短い章に凝縮されていると感じた。政治的な選択においては、私たち自身がその選択肢を主体的に準備できないまま、お上によって提示された選択だけを強制されることがある。そのことを宮城氏は「奴隷の選択」と表現する。沖縄は、そうした「奴隷の選択」を永い間強いられ続けてきたのだが、それは何も沖縄に限ったことではない。

 ユダヤ人虐殺を「職務を忠実に果たしただけ」と語ったアイヒマンの「悪の凡庸さ」は、宮城氏が指摘するように、ホームレスを見殺しにする市役所社会福祉部職員だけでなく、ジュゴンの海の環境破壊に無関心でいられる多くの人々の心の中にも潜んでいるかもしれない。「職務に忠実だっただけ」というのは、「職務ではなかっただけ」と同義だ。「奴隷の選択」は、私たち自身が、「アイヒマンの息子」であることから抜け出さないかぎり、続いていく道なのである。

 石垣島のガマの一つに花束が供えてあるのを見た。眼前に広がる透きとおったコバルトブルーの海とのあまりのコントラスト。しかし私は、この島で何がおきたのか具体的には知らない(注4)。「沖縄」の問題は、おそらく、世界中でおきている平和を脅かすいろいろな問題と繋がっているに違いない。また、平和のうちに暮らすことのできる環境という意味での「環境問題」とも繋がっている。私は、「沖縄」から考えることを始めようと思った。
 僭越ながら、本書をぜひ多くの方々に読んでいただきたいと願うものである。

---------------------------------
注1)1972年には、米軍による激しい北爆が再開されたが、これは、既にベトナムからの撤退を決意していたアメリカにしてみれば、その後の和平交渉を有利に運ぼうとの思惑に基づくものであったのだろう。翌73年にパリ協定が締結され、米軍がベトナムから完全撤退する。その後、南北両ベトナムの「正規軍」の戦いとなり、75年4月30日のサイゴン陥落をもって、ベトナム戦争は終結する。

注2)小泉文夫は、世界中で最も「音楽的な地域」として、北インドと日本の沖縄および津軽地方をあげている。いずれの地域の音楽も本来「即興性」というものが重要視されているようだ。彼の著作中、沖縄音楽にふれたものとして、次のものがある。
 『民族音楽研究ノート』(青土社 1979)
 『小泉文夫 フィールドワーク』(冬樹社 1984)

注3)小泉の、命を削るような活動のその情熱の源泉は、若い頃キリスト教に入信するというような彼の心性と無縁ではないと思う。

注4)沖縄戦において八重山群島では鑑砲射撃と空爆がなされたものの上陸戦はなかったとされている。一方で、軍命による強制移住がきっかけとなり、悲惨なマラリア禍が発生し、数千人の犠牲を生んでいる。
http://kyoto-getto.hp.infoseek.co.jp/okinawa/war/war_idx.htm#war2
http://www.okinawatimes.co.jp/sengo60/kako/19820625_01.html

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