さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

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宗教について

 前回「科学信仰」について書いたが、このような議論は不毛だとの想いもいくらかあって、やや投げやりな書き方になったようだ。

科学もまた信仰であるかどうかについて、客観的な証拠(具体例)をもとに論理的に展開して説得的に語ろうとすることは可能だと思われるかもしれない。ところが、客観的な証拠をもとに論理的に展開すること自体が「科学の方法」に他ならない。この議論は、「科学の方法」そのものを相対化できなければ成立し得ない議論である筈なのに、相対化し、なおかつ分析的に取り扱おうとするその態度そのものが議論の対象となっているのである。

 だから前回の記事ではゲーデルの「不完全性定理」を持ち出して論理的な議論は不能であると書いた。私たちは、<他者との議論>に際して、無自覚に「科学の方法」に従おうとしがちなのかもしれない。前回、「科学の方法は、たとえ洗練されてはいなくとも、却って自覚を困難にするほど私たちの日々の暮らしの中に空気のように染み渡っている」と書いたのは、このようなことを指している。私には、ヒトのこうした習性は、その脳の構造に依っており、正常な社会生活を営む上で不可欠なヒトの「仕様」として獲得されたものに違いないとの漠然とした<予想>がある。

 件の議論は、お互いの主観的な感想を述べ合っておしまいにした方が良いと思う。誰でも、さしたる証拠もなしに確信することはある。宗教への帰依もそうした確信に依るのだろう。そうして、さしたる証拠もなしに確信に至りがちな人が、さしたる証拠もなしに「科学もまた信仰である」との感想を持つのは、ある意味自然な成り行きである。そのような感想に接した際には、その人となりを理解する手がかりと思うだけである。

 私は、そうした個人の主観に基づく意見を披露し合うことが無意味だとは思わない。また、特定の宗教への帰依を、一般論で一括りにできないことも知っているつもりである。むしろ、生きるために信仰を支えとしている者の心の内を、「科学への信仰」と同列に扱うのは安易すぎるし、大変失礼な議論だというのが私のホンネなのだ。

 これまでに読んだ数少ない宗教書に、林田茂雄氏の『般若心経の再発見』がある。その中で林田氏は、「できないことさえしたがらなければ、人間は、いつどこででも自由である」と書いていた。単に「人は自由にできる範囲で自由である」と言っているのではない。彼は、戦中、共産党員として獄中にあった。そこで『般若心経』と巡り会い、その徹底した唯物論と革命的発想に心をうたれたのだと言う。獄中で悟った境地を語る言葉として大変含蓄に富んでいる。人はこのような言葉と出会い、そこに別の救いを感じることもしばしばある。実行可能なことだけを問題としよう。そのためには、何が「できないことか」を見極める目を研ぎ澄まさねばならない。

 シャカの教えが元となった仏教が、世界宗教になるまでに広まることができたのは何故か。もちろん彼の哲学に、人々に熱く迎えられる力が備わっていたということもあるのだろう。しかし、苦行の末に獲得された深淵な思想が、庶民に容易く理解され・感動を与え、そのことだけでこれほどまでに広まっていったとは考えられない。私の知る範囲でも、シャカの哲学をきちんと語ることのできる仏教徒はほとんどいない。

 私が聞いた、古代仏教の専門家の見解はこうだ。
 シャカの死後、その死をあまりにも深く嘆き悲しんだ弟子たちが、その悲しみを乗り越えるために始めたいろいろな行為・手続きが儀礼として広まった。大衆化された仏教は、そうした身近な者の死の悲しみを乗り越えるための儀礼・儀式の体系として大衆に伝承されたもので、肝心のシャカの思想・哲学の方は、かなりデフォルメ・簡略化されたものが教義として付随して広まったに過ぎない。教義内容が、その素晴らしさ故に一人歩きするように広まることはあっても、それが爆発的に広まるためには儀礼は不可欠な要素であるらしい。事実、全ての宗教には儀礼の体系が備わっていて、しばしば、教義内容よりも儀礼様式の方が重要視される、ということのようだ。
 だから、宗教弾圧に際しては、その宗教固有の儀礼の禁止が一義的なものとされ、弾圧から逃れ、隠れて信仰を守る者は、その儀礼様式をこそデフォルメさせながらも守り伝えようとするのだろう。

 1981年2月、当時のローマ法王ヨハネ・パウロ二世が来日し、長崎の教会でミサを主催したことがあった。その際、江戸初期のキリシタン弾圧で九州の北西島嶼部に逃れていた「隠れキリシタン」の末裔達が、自分たちもカソリック信徒としてそのミサに列席させてほしいと願い出た。ところが、彼らの儀礼様式があまりにも本来の形からかけ離れていたので、再洗礼を条件に参加が認められたのだという。隠れるために長年に渡って儀礼をデフォルメさせながら伝承していく内に、本来の様式が忘れ去られてしまったのは無理からぬことではあるが、宗主としては、儀礼様式の正しさこそが主要な問題だったのである。

 「島原の乱」(注)で殉教した「キリシタン」は、3万6千人ほどであったという。この「乱」に参加した老若男女のほぼ全員が覚悟の死を遂げた。「覚悟の死」というのはつまり、彼らにとっては殺傷そのものが教義上許されないことだったからだが、それでも幕府軍にも2,000人ほどの戦死者が出ている。「乱」直後、天草諸島の中心部は「もぬけの殻」状態で、しばらくして幕府直轄地(天領)となった。赴任した代官は、そこに再びキリスト教が芽生えないよう、曹洞宗を手始めに、その後は浄土宗なども動員して仏教の布教に努めた。ある宗教に対抗するには別の宗教をもって制するほかないとの判断があったのだろう。そうしたことにニュートラルな科学にとって出番はないし、儀礼のパワーの前では、科学は実際上無力である。

 仏教だけでなく、おそらく全ての宗教は、教義の中で「死」というものの占めるウエイトが大きいし、死後の世界についての固有のイメージを提供してくれる。一般論として言えば、私たちは死後の世界について客観的な証拠をもとに議論することができないので、その教義を信じるか否かを他の何かを頼りに選択する他ない。もちろん、この世界に生起する「客観的事実」を基に、「あの世」の存在を否定することは簡単である。しかし、宇宙論の中で議論されている「人間原理」同様、現世の法則から来世を語ることはできないとする宗教の論理を否定することは不可能だ。このように、宗教の教義は、実証も反証も不可能な体系としてある。

 養老猛司氏は、死後の世界のことは死んだら分かるのだから、生きている今の時点であやふやな議論をするのは不毛である、という意味のことをどこかに書いていた。私もそう思うが、この生をどう生きるかは、死後のことをどう考えるかということと無関係ではない。だから、養老氏がそのように言い切るのも、彼の(あやふやな)死後観と無縁ではないだろう。

 宗教は、客観的な証拠がなくても死後の世界についての「物語」を、確信を持って提供してくれる。「信じる者は救われる」とは、本来そうした限定的なことについて語られていると解すべきだ。

 自然科学者であった私の恩師は、80歳になった頃にカソリックの洗礼を受けたが、そのことは、死期が迫っているとの自覚の芽生えと無縁ではなかったろう。科学はそうしたことに何も口を挟めないし、それで不足はないのである。

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「島原の乱」(島原・天草の乱:1637年12月11日〜1638年4月12日):歴史家の間では、宗教弾圧への抵抗(宗教戦争)というよりも、むしろ過酷な年貢取り立て等の圧政への抵抗運動(百姓一揆)としての性格が強かったとの見解が一般的。ただ、殉教覚悟の彼らの「戦い」ぶりをみるかぎり、宗教色が色濃かったことも事実のようである。

 ある日の夕食の後、ロシア人達と砂糖たっぷりのお茶(チャイ)を飲みながら文学や映画などとりとめのない話をした。「最近観たロシア映画の中では『キンザザ』が一番おもしろかった」と告げると、彼らはとても喜んで、「“クー”と言って挨拶するのは日本語ではどう訳すのか」などと聞いてくる。もちろん日本語でも“クー”である。「あの映画はソ連時代の作品でしょう?」と聞くと、「その通り、ソ連時代には良い映画が沢山作られた」との返事。ところが、日ソ合作でつくられた黒沢明の『デルス・ウザーラ』のことを訊いても誰も知らない。この作品はモスクワ映画祭の大賞とアカデミー賞外国語映画賞を受賞したのにどうした訳だろう。

 バレーだけでなく、映画も文学もロシアが一番で、外国人の作品はワンランク下に見ているのだろうと思った。私は、ロシア文学と言えば、チェーホフの戯曲三部作と、トルストイの『アンナ・カレーニナ』しか読んだことがない。というより、他の名だたる文豪の長編作品にもチャレンジしたことはあるが、いずれも、途中でつまらなくなって止めてしまった。そんな話をしたら、ロシア文学はチェーホフとトルストイだけで十分だと言われた。特に、チェーホフ人気は知り合いの全員に共通していた。狭い付き合いというものはとことん狭い考えに凝り固まるものである。もっとも、チェーホフは、取材旅行でロシアの隅々まで旅をしていて、あちこちの「ド田舎」に足跡をとどめていることにも人気の秘密があるのかもしれない。

 日本の文学に話題を振ったのはロシア人達からで、意外と良く読まれているようだ。特に村上春樹の人気は格別であった。ド田舎の漁師も読んでいた。日本人作家には二人の「ムラカミ」が居ると言ったが、リュウのことは誰も知らなかった。他に好きな日本人作家として、芥川龍之介、太宰治、安部公房、大江健三郎、の名が揚がった。もう一人のノーベル賞作家、川端康成は話題にならなかった。

 他には、スウェーデンの童話作家アストリッド・リンドグレーンもロシアでは人気が高いらしい。かってエリツインがスウエーデンを訪問した際には、滞在先のホテルに唯一人彼女だけが招待されたとのこと。彼女の作品としては、出世作となった『長靴下のピッピ(長靴下ピッピの冒険)』がスウエーデンでテレビ番組化されて、かって(15年ほど前?)NHKで放送されていたのを、ほぼ欠かさずに観た事を思い出した。「ピッピ」の名を告げると、こちらも、知っていてくれてありがとうと歓声が上がった。

 スウェーデン映画では『やかまし村の子供達』、『やかまし村の春夏秋冬』などの「やかまし村」シリーズも大好きなのだが、この原作者ももしかしたらリンドグレーンではないかと思って訊いたが、話が通じなかった。私の「やかまし村」の英訳がどうもトンチンカンだったらしい(私はロシア語ができません)。で、帰国後に調べると、原作者はやはり彼女との事。「やかまし村」シリーズを監督したのは、スウェーデンを代表する(?)映画監督、ラッセ・ハルストレムで、このシリーズを観たのは、彼の出世作となった『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』を先に観て、監督つながりで捜してのことである。当時は原作者のことまでは気に留めなかった。

 ちなみに、漫画家いがらしみきおのエッセイを読んだら、ことのほか「やかまし村」シリーズの映画がお気に入りである事が書かれていた。その事は、彼のライフワークと化している作品『ぼのぼの』を読むと、しみじみと納得される。その『ぼのぼの』の登場動物に「プレーリードッグくん」というのが居る。シベリアの原野の中で「プレーリードッグ」そっくりのユーラシカと呼ばれる動物を見かける度にその事を思い出した。

 さて、映画や文学や音楽についての話題が尽きると、おきまりのように、宗教、そして政治の話題に移っていく。

 詳しい実態については知らないが、ソ連時代、宗教は、特に弾圧されていたということはないらしい。が、やはり、ひっそりとしてはいたようだ。主に、ロシア正教会が地域に根をはっていて、ソ連崩壊とともに一斉に勢力を増して来た。あちこちのド田舎にも新しい教会が次々と建てられている。モスクワから来た一人は、今、ロシア正教会が中央政界に影響力を及ぼし、政治がねじ曲げられていると憤慨していた。ちなみに、私の友人達に聞いてみると、誰一人として、特定の宗教に入信している者はいなかった。皆、一様に、自然こそが自分にとっての神であると言う。これもまた、私の身の回りの狭い世界だけの話なのだろう。

 あるド田舎の町に差しかかって、アパート群に大きな文字で標語のようなものが書かれている。モスクワから来た40代の男に、あれは何と書いてあるのかと聞くと、「コミュニズム」との答え。田舎ほどコミュニストの率が高いのはうすうす感じていたことで、別段驚きもしなかったが、モスクワはどうなのだろう。この村の住人の大半は今だにコミュニストなのかと聞くと、その男はニヤリと笑って「我々の最終目標だ」と返した。どこまで真面目に応えているのかはわからなかった。

 そんなことがあって、特に親しくなった60代の男に、あなたもコミュニストなのかと聞いたら、その昔は共産党員だったが今は離れているという。一方、今のロシアの新自由経済主義的な政治には、露な嫌悪感を示した。ド田舎を旅すると、中央政界に見捨てられ、困窮に喘いでいる人々が否応なく目にはいる。キューバの方がもっとマシだと彼は強く言い放った。何度もキューバを訪れたことがあるとのこと。

 そこで、チェ・ゲバラのことに話題を振った。彼は、ゲバラを、ことの他敬愛しているようで、目を輝かせながらこまごまとしたエピソードを沢山語ってくれた。彼の話っぷりから、一種ステレオタイプな日本のゲバラファンとは別格であることが知れた。そして、(その1)の冒頭に貼った写真である。彼は言う、「自分は、キューバで笑った顔のレア物のゲバラの写真を手に入れた。素晴らしく人間臭い笑顔だ。ぜひ、お前にコピーを送ってやるよ。」帰国後にメールに添付された写真を見て、彼が言いたかったのは、神格化されたものより、リアルなものにこそ価値があるということだと、深く納得した。
(その3は、あるかどうかわかりません、しばらく不在です)

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 この記事は、私のブログコメント欄においで下さる、Chochonmageさんのナイジェリア滞在記に触発されて書いたものである。先ずは、下記から始まるシリーズをお読みいただきたい。
http://chochonmage.blog21.fc2.com/blog-entry-17.html

 私は、ロシア辺境の地に、都合4回、延べ6ヶ月ほど滞在したことがある。思えば、私には日記を書く習慣というものがなく、この年になるといろいろと体験した記憶もぼんやりとして、それが悲しい。という訳で備忘録に加えておきたいと思い至った。何年ものナイジェリア駐在の経験を基に書かれたChochonmageさんの記事とは比肩すべくもない。ここに書いたことは、実際に見聞したことではあるが、片寄った情報にすぎない。

 さて、導入として写真を一つ。このニヤけたむさ苦しい男の写真は、ロシアの10才程年長の友人の秘蔵の品であったのを、私が帰国後にスキャン画像をメール添付で送ってもらったものだ。その道(どの道?)のツウならすぐに分かる筈。今は亡きこの人物はアルゼンチン人であるが、ロシア人だけでなく日本人にもファンは多い。(追記:当初アメリカ人と記していましたが、私の勘違いで、正しくはアルゼンチン人です。2009年1月26日)

 私のロシア訪問は、時期的にはソ連崩壊の混乱が尾を引いていた97年が最初で、昨年が最後である。これまで、いろいろな国の同業者と仕事の上で生活を(時には生死を)共にしたことがあるが、ここでは本業に直接かかわることは書かないことに決めている。それはともかく、私にとって一番気が合うのはロシア人で、次は韓国人とイタリア人。もちろん個人差があるので一概には言えない。総じて言えばロシア人はシャイで、親切で、遠慮深く、時には熱くなる。つまり、演歌調な訳である。演歌調でも「肴は炙ったイカでいい」の方。

取りあえず、私が印象深く思ったことを箇条書きにまとめることから始めよう。

●ゴルバチョフ
日本人に人気のゴルバチョフは、ほとんどのロシア人には極端に不人気である。この傾向は田舎ほど顕著で、諸悪の根源のように言われている。ソ連崩壊前後のドサクサは、多くの日本人にはあらすじくらいしか解らないが、ロシア人にとっては、最初にして最後のソ連大統領となった彼の采配の全てが死活問題へと直結した。些細なミスも許し難く思われたのだろう。

●物価
2年ほど前、世界の大都市の中でモスクワが一番の物価高になったと発表された。地方では、モスクワ程ではないにしても、総じて言えば日本の田舎よりは物価が高い。例えば、カフェテリア形式の大衆レストランで昼食を採ると、1000円くらい。贅沢品はとことん高額で、生活必需品はとことん安価である。航空運賃は高いが電話代や市内バスは安い。若い女性はオシャレにたいそうな金をかけているが、美容院は意外と安い。冬に冠る、あの、ふかふかの毛皮の帽子は、2万円くらいから。

●公務員の給料
モスクワ大学の教授で他に役職がなければ月給10万円くらいか。世界一の物価高の都市で信じられないくらいの安月給だ。特に、特別のプロジェクト研究を持たない文系の教員などは7〜8万円の月給で、幼子をかかえた既婚者も当然のように共働き。それでもアルバイトなしでは生活できない。モスクワ大学の学生・院生のほとんどは実業家を目指していて研究者のなり手はいない。優れた研究者は国外へ脱出している。この国の先行きが不安である。

●レーニン像
ソ連崩壊の象徴的な出来事として、モスクワのレーニン像が引き倒された映像は、その印象だけが記憶に残っている。しかし、私が訪れた地方都市の駅前広場には、例外なくどこにもレーニン像が残っていた。モスクワ市内だけでも十数体はあるレーニン像の中で、当時引き倒されたのは二体だけで、残りは健在とのこと。地方都市だと、90〜95%くらいは残っているだろうとの話。レーニンの出身地である北東シベリアのチュコートゥカ自治州のアナディールという町には、アパートの壁画に若きレーニンが描かれていて、その人気は今だ健在のようであった。

●貧富の差
市場経済に移行して、当然のように貧富の差が拡大しつつある。事業に成功して金持ちになったロシア人はニューロシアンと呼ばれていて、郊外に豪邸を建てて高級車を乗り回している。多くの公務員が失職し、ニューロシアンに雇われている。そうした貧乏人は郊外に畑を借りて食費を節約している。一番貧しいのは、国境を超えて浮浪しているジプシーで、ウラジオストクでは公園のレーニン像のたもとで物乞いをしていた。困窮者の収入が日本と単純に比較できないのは、生きて行く上での最低ラインが保障されていることにある。例えば風邪をひいて病院へ行って診察してもらい、薬を処方してもらってもタダか、タダ同然である。ただし、特殊な手術や治療にはお金がかかるらしい。

●コルホーズとソフホーズ
市場経済になった今でも、不思議と両方とも健在なのであった。特に田舎では、一種の互助組合としてコルホーズ(集団農場)が根を張っている。自然環境の厳しいシベリアなどでは、助け合わないと生きて行けないのだ。それにしてもソフホーズ(大規模国営農場)は、どのようにして生き長らえているのだろう。

●方言
ロシア人に聞くと、少数民族には独特の訛りがあるが、ローカルダイアログとしての方言はどんなド田舎でもほとんどないとのこと。ソ連時代は、モスクワ近辺から多数のスラブ人が辺境の地の開拓に移住して(させられて)来て、モスクワ標準語が浸透したためであるらしい。また、ロシア人は行動範囲が広く、生活の拠点を変えるのを厭わないようで、人の行き来が活発なのも影響しているのだろう。夏休みには、ロシア政府の「体験教育事業」として、大都市の小学生達が親元を離れて大挙してシベリアへくり出す。

●自然
まあ、自然は豊かと言ってしまえばそれまでだが、むき出しの自然である。日本で言えば尾瀬ケ原に似た湿地帯のお花畑を平気で踏みつぶしながら装甲車が走り回る。彼等は、そうしたものは無尽蔵にあると思っているようだ。北極圏においては、地球温暖化の影響が如実に顕われている。極域での気候変動の大きさが、中・低緯度地域のそれの数倍に増幅された形で現われることは、地質時代の古気候解析から明らかにされているが、確かに、日本で感じるぼんやりとした温暖化とは訳が違う。ツンドラ地帯が森林化し、年をおうごとに拡大しているのだ。永久凍土が融けて、ピートモス(泥炭)が腐食を始めて二酸化炭素やメタンの大規模な放出が始まっている。温暖化の正のフィードバックである。「ツンドラ」という響きは、ロシア人にとって特別のものであるようだ。そこを生活の拠点にしているあるロシア人は、このツンドラに自分の神が棲んでいると言った。しかし、日本の九州島のハカタという町に「ツンドラ」という名前のロシア料理店があると言ったら、大笑いされてしまった。

●動物
リスとユーラシカ(プレーリードッグにそっくり)はいつでもどこでも目に入って、とてもかわいい。他に、ヒグマも目撃した。オオカミ、アムールタイガーは足跡だけ。鳥は、カモの類いの他に、鷲鷹の類が目立った。海にはアザラシと白イルカ、川には鮭とハリオスとヤマメ。山の中で白い熊を目撃して写真におさめた友人が、その写真を専門家に観てもらったところ、シロクマとヒグマのミックスとのこと。温暖化で春に北極の氷が融けて離岸するのが早く、シロクマが陸に取り残されることから起こることで、近年問題になっている。

 こうしたことを書くととりとめもなくなるが、仕事の付き合いとは言え、一ヶ月以上も寝食を共にし、それなりの信頼関係が築かれると、お互いがくり出す話題は、家族の事、宗教の事、歴史や文学の事、政治や哲学の事へと及んで行く。次回はそうした話題を書く予定。ただし、しばらくネット圏外へ旅するので、更新は早くても10日後か。

このブログについて

私のブログにおこしくださいまして、たいへんありがとうございます。
このブログは、「備忘録」として始めたものです。
公開の目にさらすことで、緊張感をもって文章を書く訓練になると考えました。

「さつき」は、学生時代から使用している私のペンネームです。
ときどき、皆様のブログへおじゃますることもあるかと思います。
そんな時に、名刺代わりになるような自分のブログを持ちたい、とも考えました。

「備忘録」なので、トラックバックを送ることは基本的にはしないつもりです。
トラックバックは受け付けていますので、応答は鈍いですが、遠慮なくどうぞ。
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リンクは自由です。特に連絡いただく必要はありません。
転載も自由ですが、引用が正しいか確認したいので、できればコメント欄へ連絡下さい。
バナーを貼ったり、相互リンクしたりすることはしないつもりです。

御覧のように、昨年10月6日に開設して、それまでに書きためておいた文章を立続けに3本アップした後、今年の5月中頃まで開店休業、とまあ、こんなペースでこれからも続けるつもりです。
更新が途絶えたら「長考」に入っているか、「インターネット圏外」を旅しているとお考え下さい。

 私は「日本国憲法」は、なんとなくであるけれども自分の「気持ち」としっくりと馴染む気がする。それは、小さい頃からそうした教育を受けてきたからなのだろうか。でも、幼稚園から大学まで一緒だった幼なじみも、私の両親もきょうだいも親戚の大半も改憲論者だ。特に、憲法九条を大切に思っている私は、郷里に帰れば四面楚歌状態だから、この話題を持ち出すのには勇気がいる。それでも私は、社会生活上のいろいろな問題が話題になる時には、できるだけ憲法にからめて自分の考えを言うことにしている。これは私の習慣のようなものになっている。当然のことながら、ほとんど全ての社会問題は憲法と深い関係がある。

 日本国憲法前文の精神は、ひとことで言えば「人間なんだから、とことん話し合いましょう」ということだと思う。若かった頃、赤いヘルメット姿の恐そうなおニイさんのアジ演説に納得のいかないところがあり、彼のアジトに乗り込んで小一時間ほど話し合った事がある。彼の思想からすると私の主張は間違いなく打倒すべき対象であったろう。当然のようにその「議論」は、最後まで平行線だったが、それでも不思議と、とても和やかなものだった。また、私自身いくらか勉強にもなって、問題の認識も深まったし、相手も私に対して時々は相槌をうっていたように思う。ちなみに「議論」の主なテーマは「差別と糾弾闘争」の問題だった。

 私は団塊の世代より下だから、当時、内ゲバで人が死ぬようなことはなくなっていた。上の世代の大学紛争の頃の古い映像を観ると、ゴジラの映画を観ている時と同じ気分になる。記憶違いでなければ、同じようなことを浅田彰氏が言っていた。「右」も「左」も話し合いなど論外で、すなわち日本国憲法の精神などこれっぽっちもなかったという印象を持っている。

 この世界が、理念と、権力と、欲望だけでできているとすれば、どれをとってみても「陰謀」の肥やしばかりである。そうだとしたら、憲法九条の生きる余地はないし、私にとっても、この世界を生きる価値がないということになる。少しばかりの「愛」の存在とその力を信じていられるから、九条を捨て難く思う訳なのだ。ここで言う「愛」とはカート・ヴォネガットの言う隣人愛のようなもの。だから、九条を大切にしたいという願いは、「陰謀論」に熱中する思想とは相容れない。しかし現実には各地の「九条の会」の中で陰謀論が蔓延している。

 憲法九条を本気で護ろうとするなら、理念の奴隷になることを拒否して、改憲論者の主張に真摯に耳を傾ける必要がある。今の「九条の会」の取り組みに決定的に欠けているのはそのことだと思う。誰でも自分は正しいことを主張していると思っているのだから、思っていること自体は何ほどのこともない。憲法の精神を大切にしたいなら、それを実践に移すことで自らの血肉としなければならない。異なる考えの人と、とことん話し合うべきだ。それが疎かになることと、陰謀論が流行ることとはどこかで繋がっているという予感がある。整理がついたら改めて書きたい。

08年8月10日、追記
カート・ヴォネガットは「愛は失敗するかも知れないが、親切ならうまくゆく」と言ったのでしたね。「隣人愛」ではないので訂正です。

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