さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

社会のこと

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 安倍晋三首相が9月28日召集の臨時国会冒頭で衆院を解散した少し前頃から続いていた政界のドタバタがようやく落ち着き、総選挙に臨む陣容もほぼ固まりつつあるようなので、この間、印象深く思ったことを記しておきたい。

 先ず、この解散は、6月22日に民進、共産、自由、社民の野党四党が、憲法五十三条の規定に基づき提出した加計学園問題の真相解明のための臨時国会召集の要求書を無視する憲法違反の暴挙であることを確認しておく。「森・加計隠し」の解散であることは明らかだ。

第五十三条【臨時会】
 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

 この点についてのジャーナリズムの追求姿勢はかなり弱く、立憲主義が蔑ろにされているとの強い危機感を持った。

 安倍首相が臨時国会を召集して冒頭解散する意向だとの最初の情報がもたらされたのは9月17日だったと思う。批判が強まり、土壇場で撤回するのではないかとの観測も流れる中、9月25日になると小池百合子東京都知事が「希望の党」結党を発表する。私は、そのあまりの手際の良さに、細野豪志氏らの民進党離党も含めて、政権側と内通して画策された既定路線だったのではないかとの疑念さえ持った。

 しかしながら、反安倍陣営の中には安倍政権打倒への道筋ができたとの期待が膨らんだ。26日夜には、民進党代表に選ばれて間もない前原誠司氏が小池氏と極秘に会談し、民進党の無条件合流について調整に入ることで合意がなされたという。翌27日には希望の党の旗揚げと党綱領や基本政策が発表されたが、これとは別に民進党の合流も発表された。私は、民進党の中に期待を寄せる議員も少なからず居たので、ここから始まる民進党の迷走を注視した。

 ここで特に驚いたのは、前原氏が党内の議論を経ずに勝手に小池氏と「密約」を交わしたことに対する党内からの批判の弱さである。事後的に執行部会のようなもので了承すれば良いというものでもないだろう。本来なら党代表の罷免に値する行為だと思うのだが、党規約はどうなっているのか。もとより私の民進党に対する期待はそれほど大きくはなかったので、失望というよりは、ただただ唖然とするばかりであった。昨今は、大学でも学長選考で教授会の投票でトップになれなかった人が理事会で逆転指名されたりする事態が相次ぎ、トップダウンの意思決定が日常化してしまっている。そのせいかどうか、政治学を専門とする大学人からの批判は期待に反して弱かった。こちらの方は、私にとっては大きな失望であった。

 さて、本題はここから。
 民進党の希望の党への合流は、その後の両院議員総会において全会一致で採択されたという。この時点で、これまでの民進党の主張と行動は、希望の党の基本政策、特に憲法改正や安保法へのスタンスにおいて真っ向対立するものであったことは誰の目にも明らかだったので、またまた唖然とした。当然ながら、政権党が憲法改正を目玉と位置づける総選挙で、その改正の方向性に異を唱えないのは政権補完勢力に他ならないとの批判が沸き起こった。

 これに対する民進党「リベラル」勢力からの反論(言い訳)を要約すると、批判はもっともであるが、先ず、小池氏の人気を背景に大きな支持が期待される希望の党に合流して選択肢を絞ることで安倍政権の打倒が可能になる。また、野党で最大の現有勢力の民進党のメンバーが新政権の中で影響力を行使することで、その健全性が保たれる。これが、この政局におけるベストな選択である」というものであったと思う。政治理念や具体的な政策上の不一致についての批判に対しては、「トロイの木馬」という言葉もあちこちから飛び出した。私の驚きは、もっぱらこの点にある。ことに民進党左派を支持する市民の中にも一時的にであれ同じ論調があったことに大きな失望を禁じ得なかった。

 選挙民の空気や政局の風を読み、その場凌ぎの受けの良い政策を前面に立てて信を問い、権力を手に入れ、その上で本性を露わにするというのは、かつては「マヌーバー」という一言で、少なくとも左派の中では一蹴されてきたやり方だ。この言葉が最近力を持てなくなっているのは、一つには「マヌーバー」そのものが、本来、「うまく立ち回る」といったような良い意味・積極的な意味にも用いられることの多い言葉であることにも依るのだろう。「面従腹背」がウケるのもそうした背景があるかもしれない。

 しかし、マヌーバーはポピュリストの常套手段であり、少なくともこれを選挙に際して用いることは、民主主義を破壊する行為に他ならない。選択された結果が内実と乖離してしまうからだ。選挙によって何が選択されたのか、誰が正しく判断できるだろう。そうした策略は、一時的に成功したとしても絶対に長続きすることはなく、その後の反動は目を覆うばかりのものとなるだろう。この間の日本の政治の劣化・反動化がそれを証明している。トロイの木馬だとかなんだとか裏でコソコソしないで、自分が正しいと思うことを真正面から主張し、行動しないと、きっと何処か知らないところへ連れて行かれるような気がするのである。

 9月30日になると、小池氏は、民進党の丸ごとの合流を拒否し、踏み絵をもとに基本政策が一致しない場合は「排除する」と宣言した。10月2日、これに反発した民進党左派の支持者達に後押しされて、枝野幸男氏が「立憲民主党」を立ち上げ、民進党は、参院民進党を残して事実上解党することになった。かねてより、民進党の中には水と油が同居していると揶揄されていたので、私はこれでスッキリして良かったと思っている。その政策も支持者の思いを最大公約数的に満足するものになっていると思う。

 ところで、立憲民主党の理念として立憲主義が強調されるあまり「民主」の方が置き去りにされている気がするのは杞憂であろうか。近年は、ことにかつてのヒトラーの率いるナチス党が民主的なヴァイマル体制のもとで選挙によって選ばれて台頭したものであるとの認識が広がり、立憲主義が健全な政治体制に必要不可欠なものであるとの考えが定着してきた。しかし、立憲主義だって、規定に従って改悪された憲法のもとでは悪政に正統性を与えるのである。そのような改悪を阻止する基礎は、単なる多数決主義に基づく劣化版民主主義ではない「本来の民主主義」というものにある筈で、戦後民主主義と呼ばれた時代に、左翼は、行動(試行錯誤)を通して民主主義とは本来どうあるべきかという議論を積み重ねてきた筈ではなかったか。

 10月6日には希望の党の政策が発表されたが、これこそまさに、いっそ清々しいほどのポピュリストの行うマヌーバーの典型例である。こういうものに騙される選挙民が多いとすれば、それもまた、これまでリベラル・左派がマヌーバーに対して警戒感が足りなかったツケなのではないかと思う。この間の民進党の解党のドタバタに際して垣間見えた民主主義を破壊するものへの無警戒は、民主主義の価値そのものが忘れ去られようとしているのではないかとの危惧を抱かせるに十分なものであった。

 ついでに書いておくと、日本共産党が、名前を変えたら人気が出るだろうとの声に押されて本当に名前を変えてしまうなら、それもまたマヌーバーだ。共産党が野党共闘に熱心なのは、戦前から続く講座派と労農派の日本革命の展望をめぐっての論争において、講座派が主張する二段階革命論を形を変えながらも基本的な部分で継承しているからであろう。当面の「民主主義革命」が日本共産党にとって、目下の最優先の政治課題であり、かつて弾圧を受けた歴史を持つだけでなく、今も破防法に基づく公安調査庁の監視対象団体として指定されている状況下で共謀罪が成立してしまった今、現憲法を護れと主張するのは強い危機感の現れでもあろう。共産党の危機は健全な市民社会の危機でもある。私は、一市民として、単に声援を贈るだけでは足りないのではないかと思い始めている。

 「民主主義」という言葉を発する時に決まって金芝河の詩「灼けつく渇きで」(注)を思い出す。複数の訳が出回っているが、最後に、一所不住さんの「抵抗の詩人 金芝河(キム・ジハ)」から引用しよう。

「灼けつく渇きで」
夜明けの裏通りにて/お前の名を書く 民主主義よ/わが念頭からお前が去ってすでに久しい/わが足がお前を訪なうことを忘れて あまりにも久しい/ただ一筋の/灼けつく胸の渇きの記憶が/お前の名をひそかに書かせる 民主主義よ 明けやらぬ裏通りのどこか/足音、呼子の音、扉を叩く音/一声長いだれかの悲鳴/うめき声、哭き声、ため息、そのなかに、わが胸に/深く深く刻まれるお前の名の上に/お前の名の孤独な輝きの上に/よみがえる生の痛み/よみがえる青あおとした自由の想い出/よみがえりくる 捕らわれて行った友らの血まみれの顔 震える手 震える胸/震え こみ上げる怒りをこめて板ぎれに/白墨で、ぎこちない手つきで/書く 息をこらしむせび泣きつつ/お前の名をひそかに書く/灼けつく渇きで/灼けつく渇きで/民主主義よ 万歳

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注)この詩はポール・エリュアールの「自由」の盗作であるとの疑惑が提出されているが、私は、影響を受けているかもしれないが完全に独立した作品として読めるものだと思う。

特攻について

 前回の記事で部分文字起こしをしたBS日テレの「深層NEWS」で8月19日に放送された番組『「海軍反省会」の証言 特攻作戦の真相』について、感想など書き留めておく。

 番組は、「戦後長らく、特攻作戦は第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎中将が発案し、作戦を立案する軍令部はそれを追認したと考えられて来た」との前提で進行しているが、この前提が正しくないことはかなり以前からわかっていたことだ。大西中将が見送った最初の特攻出撃は1944年10月25日、海軍「敷島隊」の5機の零戦に250キロ爆弾を装備して敢行された。しかし、番組でも触れられているように、人間魚雷回天の試作は既に1944年2月には始まっており、同年9月には本格的な訓練が開始されている。陸軍によって着想された遠隔無線誘導対艦ミサイルが、人が乗り込んで操縦する生還の見込みゼロの人間巡航ミサイル「桜花」に変質していく過程を海軍上層部が黙認していたのも1944年の夏頃のことである。

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 他にも、軍上層部が巧妙に責任を回避しながら、実質的には特攻作戦を推し進めていたことを示す数々の事実は、戦後しばらく経った頃から少しずつ暴かれていた。大西中将は1945年8月16日に割腹自殺して、死人に口なし。特攻作戦に関係した多くの軍幹部達は、何らの責任も取らずに口をつぐんだまま、全ての責任を大西氏に押し付けた、というのが既に定着している大方の見方ではないかと思う(例えば、保阪 正康  著『「特攻」と日本人』 講談社、 2005)。

 このようなことを調べようとするときに常々思うのは、アカデミックな文献をネットで検索してもヒットするのは断片的な情報ばかりということ。国立公文書館のアジア歴史資料センター  には膨大な原資料が蓄積されており、ウェブ経由で閲覧・ダウンロード可能であるが、素人の手に余る。結局、一般向けの書籍や雑誌の記事に頼る他ないということになる。

 前回の文字起こしではゲストのなかにし礼氏の発言で割愛した中に幾つか鍵になると思われる指摘があった。私がなるほどと思ったのは、負け戦がなぜ長引いたのかについて、「聖戦」扱いになってしまったことで軍として引っ込みがつかなくなったからという主張。天皇の戦争責任という問題に帰着する訳だが、アカデミズムの場でこれを回避するような風潮があるのでないかと思う。

 なお、毎日新聞の栗原俊雄記者は、角田和男著『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』(私は読んでいない)を引いて、大西中将が特攻作戦を敢行したのは、その「作戦」を続けていれば、いずれ昭和天皇が停戦を指示するだろう、という期待があったと書いている。しかし、Wikipediaの「大西瀧治郎には、終戦間際の「8月13日、大西は「我々で画策し奏呈し、終戦を考え直すようにしなければならない。全国民2000万人犠牲の覚悟を決めれば、勝利はわれわれのもの」と主張した。内閣書記官長迫水久常のもとにも現れ、手を取って「戦争を続けるための方法を何か見つけることはできませんか」と訴えた。」と記されている。これが事実なら、栗原氏や角田氏の推論は成り立たない。

 また、栗原記者は、「戦争でなくなった人たちの尊い犠牲の上に、今日の繁栄、平和がある」という歴史観を「『尊い犠牲=今日の繁栄と平和』史観」と呼び、「この歴史観に同意するが、そのフレーズには危険性があることも感じている」と書いている。

 私は、そもそもなぜこんな妙チクリンな「史観」に同意することができるのか、とんとわからない。尊いのは命であって、それが失われることが尊いことであるわけがない。命が失われることは、ただただ悲しいことだ。「尊い犠牲の上に、今日の繁栄、平和がある」とは、あなたが生きていれば貢献できた筈のことより、死んでしまったことの貢献が大きかったよと言っているようなものである。まるで、死んでくれてありがとうと言っているようなものである。

 これを言う人のほとんどは、そんなつもりは毛頭ないと反発するだろう。しかし、慰霊の場で(死者に向けて)これを言うなら、意図の有無とは無関係に、その言葉には「死んでくれてありがとう」と言う意味が付いてまわるのだ。「尊い犠牲の上に、今日の繁栄・・云々」などという言葉は、決して発してはならないのである。

 BS日テレの「深層NEWS」で8月19日に放送された番組『「海軍反省会」の証言 特攻作戦の真相』  が日テレNEWS24で期間限定の公開になっているので、こちらを観た。内容に関しては、実際のところ新事実の発掘に類するものはない。例えば毎日新聞の栗原俊雄記者の著書『特攻―戦争と日本人 』 (中公新書)や、講談社「現代ビジネス」に掲載されている同氏による「特攻三部作」  などを読めば、この番組で指摘されていることをはるかに凌駕する内容があるし、日付なども正確な記載がある。それでも、当事者達の肉声の記録は貴重なので、その部分を重点的に文字起こししておきたい。

 その前に、番組のイントロ部分でポイントとなるところを要約しておく。まず、「海軍反省会」は、かつての海軍上層部、といってもトップクラスではなく中堅の指導的立場にあったメンバーが、戦後35年、70〜80代になって記録を残しておきたいということで集まって開催されたもの。1980年から12年間、会は131回を重ねた。音声を記録したカセットテープは200本を超え、400時間分くらいあるとのこと。番組のゲストである戸高一成大和ミュージアム館長は、この会の裏方として世話をした縁でテープを預かり、その文字起こしを続けて来た。(その内容は『[証言録]海軍反省会』のシリーズとしてPHP研究所から刊行され、まもなく第11巻を持って完結する)

 戸高氏によると、海軍の当事者が高齢になって、自分たちの体験を残しておかなければ消え去ってしまう記録があるという危機感の中で行われた。忌憚なく、個人を非難するということもあえて躊躇しないでやろういう気持ちで始められたとのこと。当然のことだが、個人的な怨みつらみや保身によるバイアスもあるであろう。特攻作戦について取り上げられたのが、131回の「反省会」中わずか数回に過ぎなかったということが象徴している。

 番組ではもう一人、作家のなかにし礼氏がゲストとして招かれている。なかにし氏の実兄は学徒出陣で陸軍に入隊し、特攻隊に配属されたが終戦になった由。

 内容は二部構成で、前半は特攻作戦が発案された経緯について、後半は特攻隊員は本当に志願したのかについて、となっている。以下、発言中の括弧書きは番組による注釈である。
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第一部:特攻作戦はどのようにして発案されたのか

ナレーション:1980年、終戦から35年後、東京原宿に海軍の元将校たちが集まっていました。海軍反省会、メンバーの年齢は70代から80代、太平洋戦争の真実を語り、残しておこうと開かれました。この反省会は12年に渡り、131回行われましたが、特攻作戦について議論されたのはわずか数回だったといいます。

反省会の司会者:それではただいまから第11回の反省会を始めさせていただきます。

ナレーション:海軍反省会が始まって1年、この日(1981年(昭和56年)2月13日)初めて、特攻についての議論が行われました。口火を切ったのは、鳥巣健之助元中佐。特攻作戦を現場で担当していました。鳥巣元中佐は、海軍の作戦構想が練られていた軍令部の中で特攻作戦が計画されていたにもかかわらず、その関与を認めてこなかったと批判しました。

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鳥巣健之助元中佐:ちょっとあのー、今お配りしました、これちょっと見ていただきたいと。実はあのー、中澤さんが水交会で講演をやられて、その時に、特攻については中央から指示したことはないということを最後に言ってましたな。私は、冗談じゃないよと。これはね、中澤さんはですね、誠にその点けしからんと私は思うんですよ。

ナレーション:軍令部は予算や人事を司る海軍省に対して、作戦を立案する機関でした。鳥巣元中佐が名前をあげた中澤とは、この軍令部で第一部長を務め、作戦を統括する立場だった人物、中澤 佑(たすく)元中将です。鳥巣元中佐の指摘に対し、軍部で航空作戦を担当した経歴のある三代一就(みよ かずなり)元大佐は、特攻作戦は軍令部の発案ではないと反論します。

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三代一就元大佐:僕の知っている範囲においてはね、特攻隊の生みの親の大西さん(大西中将)がねえ、あの、赴任する前に軍令部に来たわけです。軍令部の方では、総長と次長と部長と、これがおられたわけです。それで(大西中将が)「もう日本海軍の航空兵力の連中の実力が到底敵を攻撃するなんてできないから こりゃ体当たりでもやるほか手がないでしょう」と、そうしたら、みんな黙っちゃったと・・・

ナレーション:最初の特攻作戦は軍令部の指示ではなく第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎中将が発案し、軍令部は認めただけだと語りました。これは戦後長らく通説とされてきました。しかし、そこに異議を唱えたのが鳥巣健之助元中佐でした。

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鳥巣健之助元中佐:いやそれはあくまでですね、飛行機だけの話であってですね、とにかく特攻作戦をやれということがもう出てですね、すでに神風特攻よりずっと前にですね、回天(水中特攻)をね、採用しているわけです、中央で。


ナレーション:鳥巣元中佐は軍令部が立案した作戦を現場で実行する第六艦隊で人間魚雷と言われた特攻兵器「回天」の作戦を担当、現場で隊員たちを送り出していました。

鳥巣健之助元中佐:回天はですな、もうすでに兵器として計画採用して、神風よりは遅くなったけどもですね、実際の計画はもう、中澤さん(軍令部第一部長)がおらるる時にやっとるわけですから。それをね、俺は中央で指令した覚えはないなんていうことで、それ自体おかしいんですよ。

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三代一就元大佐:時期が違うんじゃないかと・・・





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鳥巣健之助元中佐:違いませんよ。





ナレーション:この鳥巣元中佐の発言を受けて、重要な証言がありました。特攻作戦が始まった時に軍令部にいた土肥一夫元中佐です。

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土肥一夫元中佐:今の問題ね、三代さん、ちょっと待ってください。今のお話の大西さんとの話じゃなくて、その遥か前にですね、回天も桜花もマル四艇(「震洋」水上特攻)もみんなね、海軍省で建造始めてるんですよ。そうすっとね、特攻をね、えー、(軍令部)一部長ともあろう者がね、知らないというのはおかしいと、こういうふうに言うとる。

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鳥巣健之助元中佐:そうなんですよ。





ナレーション:土肥元中佐が語ったのは、神風特攻作戦が開始される以前に、海軍省で特攻兵器で製造されていたというもの。さらに、海軍の組織である海軍省が進める特攻兵器の開発を、軍令具が知らないはずはないというものでした。海軍反省会に当時もっとも若いメンバーの一人として参加した市来俊男元大尉(98)は、特攻作戦に関する議論について、当時の様子をこう記憶しています。

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市来俊男元大尉:特攻作戦についてはですね、やっぱり、代償がいろいろ・・作戦とはいえない、やっちゃいけないというのはみんな認識していました。ところが(海軍は終戦まで)ずっと特攻隊でいって、人間が弾になって飛び込んでいく・・、結局は頭、トップの問題ですよね。


ナレーション:終戦まで続けられた特攻作戦、この作戦で、五千人以上が命を落としたと言われ、その多くは、十代や二十代の若者達でした。

(ここで、スタジオに戻る:この部分は一部のみ文字起こし)

なかにし礼氏:葉隠なんかにね、武士道とは死ぬことと見つけたりという言葉がありますけど、多分、こういうの見てますとね、なんか死に方の研究のようなね、回天で死ぬのか、桜花で死ぬのか、なんか死に方の研究をしているようでね、戦争で勝つという研究はね、なされてないとしか思えませんね。

司会のアナウンサー:防衛省防衛研究所に残されている資料に軍令部の第一部長、中澤元中将の直属の部下で、軍令部にいた源田実元大佐が、神風特攻隊が初めて作戦を実行した12日前(1944年(昭和19年)10月13日)に作った電報の案文が残されているとのこと。その文面に次のようにある。

神風隊攻撃の発表は全軍の士気昂揚並びに国民戦意の振作に至大の影響を関係あるところ 各隊攻撃実施の都度 (中略) 適当の時期に発表のことに取り計らいたきところ・・・


第二部:特攻隊員は本当に志願だったのか

ナレーション:海軍の軍令部に所属した源田実元大佐、戦後、神風特攻隊の慰霊碑の碑文には、「青年が自らの意思に基づいて赴いた」と記しています。出撃は死を意味する特攻作戦、隊員達は本当に自らこの作戦に志願したのか、この作戦に従事し、奇跡的に生き残った特攻隊員達の貴重な証言があります。そのひとり、海軍航空隊に所属し23歳の時に出撃した柳井和臣(よしおみ)さん、

(筑波のパイロットが)120人ね、特攻隊はそのうち50人選ぶから、お前達が希望するしないはお前達(の判断)なんだから書いて出せと、だいたいみんながね、希望すると出したんじゃないかと思います。お役に立つにはね、特攻隊しかないんじゃないかと、いうことだったんですね。

ナレーション:人間魚雷「回天」の搭乗員だった中川荘治さん、特攻隊員になった経緯についてこう語っていました。

それで特殊な仕事があるんやけど、希望者どうや?いう募集があって、もうほとんどみんな応募しています。(兵器が)何かいうことは言われんかった。特殊な兵器ということは言われた。それで死ぬとか死なんとかいうことは覚えないですけどね。

ナレーション:中川んさんは、特攻兵器と知らされないまま、特攻隊員になったと話しました。
人間爆弾「桜花」の特攻隊に所属した長浜敏行さん、

決してこれは命令じゃないけれど、もう、お前達を心から信頼して頼むと、どうかこの攻撃方法についてくれと、決してこれは命令じゃないぞと。命令じゃないけど、お前達にしか頼むものはおらんのじゃ、そう言われたら嫌とは言われんですもんね。それでみんな特攻隊員になったんですね。だから、命令じゃないけれども行かざるを得ないようにしむけられたと、いう感じですね。

ナレーション:16歳の時、海軍予科飛行練習生の試験に合格した桑原敬一さん(2015年当時89歳)は、予科練での訓練の最中、

練習航空隊は解散して特攻隊を編成する。ついては、特攻隊を希望するかどうか、誰にも相談しないで書いて出せと、いう、命令が出たわけですよ。それで、あのお、みんなにね、聞いてみたんですよ。お前なんて書いたと。そしたらね、熱望なんて書いたの一人もいないわけですよ、私らのクラスはね。もう、命令のままだとかね。まあ、私は、命令のままと、書きましたよね。

ナレーション:1987年(昭和62年)10月30日に行われた94回目の海軍反省会。この日、現場の隊員達は本当に特攻作戦に志願したのか、議論が行われました。現場の航空隊にいた小池猪一(いいち)元中尉が語り出します。

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小池猪一元中尉:特攻に関するいくつかの質問事項を用意して参りましたので、えー、大所高所から先輩諸公のご意見を承りたいと思っております。



ナレーション:小池元中尉は、海軍兵学校で養成された幹部ではなく、1943年、大学生から学徒出陣で動員、飛行予備学生として海軍の航空隊に配属されました。小池元中尉は、同期が特攻隊員として出撃する姿を見続けてきました。戦時中は、口をきくことも許されなかった上層部を問い質しました。

小池猪一元中尉:航空特攻の場合はですね、志願という形はとっていますが、これは命令で、要は編成という形で命令をされているんで、戦闘機に爆装して、えー、攻撃隊を編成したというのはどういう根拠から、いわゆる上層部がそれを命じたのか、

ナレーション:軍令部で航空作戦を担当した経歴のある三代一就元大佐が応じました。

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三代一就元大佐:僕はね、あんたがいろいろ言われたけれどもね、これはやっぱり人の性格によると思いますから、性格とそれから時の情勢ですな。



ナレーション:現場からの問いに、三代元大佐は、特攻作戦への参加が軍令部の命令かどうか、明確には答えませんでした。しかし、この日の反省会では、海軍の幹部自ら、特攻作戦を作り出して、おこなった、その組織の体質を問う意見がありました。

中島親孝元中佐:人間を自動操縦機の代わりにするんだと、こういう思想があると、これがですね、日本海軍を毒した最大のものだと私は思います。

平塚清一元少佐:日本海軍の上層は、それに頼りすぎていたんじゃないかという考えです。人の命は消耗品だと、いう考えが、あったんじゃないかと・・・万やむを得なかったというならば、これは、私は一億総玉砕の思想そのものじゃないかと・・・

(ここでスタジオに戻る:この部分は一部のみ文字起こし)

戸高一成氏:私自身はですね、あの当時のパイロット100人以上に話を聞いていると思うんですけど、やはり、基本的にはもう、選択肢のない中で回答を求められているというところがあるんですね。ですから、よほど自信のある人以外は拒否できないんですね。ただ、あの、本当に、中にはですね、ホントに純粋に、もう、自分の命を持って特攻に行きたいという人も、まあ僅かですけど、ありますけど、ほとんどの人は、命令であれば止むを得ない、というような形が多かったように思いますね。

アナウンサー:その、選択肢というのも、極めて限られている。

戸高一成氏:当時のパイロットに話を聞いてですね、自分たちは、要するに今日死ぬか明日死ぬか、来月死ぬかと、どこかで必ず死ぬのだから、それが早いか遅いかにすぎないというふうに感じてたという人は割合多かったですね。ですから、そういう中で手段を求められたということですね。

 以上
 8月16日に「水銀に関する水俣条約」が発効したことを受けての熊本日日新聞の同日付社説「水俣条約発効 まず日本政府が被害直視を に、この条約の発効を手放しには喜べない現実が書かれている。以下に一部を引用する。

 ただ、水俣病患者や支援者らの中には、発効を歓迎する一方で「水俣病が既に解決済みの問題として世界に誤解されてしまうのではないか」という懸念が強くあることも忘れてはならない。いまだに多くの人が健康被害や差別に苦しみ、訴訟も続いている現実があるからだ。

 患者らが強く求めている不知火海沿岸住民の健康調査も実施されておらず、被害の全容は解明されていない。水銀を含む未処理の汚泥が封じ込められた水俣湾の埋め立て地の問題もある。

 公式確認から61年が過ぎても多くの問題がなお山積みの状態だ。そうした現状から目を背けたまま条約への対応を進めてきた日本政府に対し、患者らはもどかしさと割り切れなさを感じている。

 7月1日、水俣市で一足早く開かれた発効記念行事。国連環境計画や環境省の関係者が顔をそろえる中、水俣病語り部の会の緒方正実会長は「水俣病は解決していない。公害が起きれば、人々は長い間向き合わなければならない」と訴えた。一般参加者として式典を見守った水俣病被害者互助会の佐藤英樹会長も「いまだに苦しんでいる被害者がいることを多くの人に知ってもらいたい」と注文した。いずれも、条約発効が水俣病問題の幕引きに利用されることを警戒してのことだ。


 これはもっともな主張だと思う。国連環境計画のウェブサイトに条約の英文  があり、外務省のサイトにはその邦訳  がある。その「第一条 目的」には「The objective of this Convention is to protect the human health and the environment from anthropogenic emissions and releases of mercury and mercury compounds.:この条約は、水銀及び水銀化合物の人為的な排出及び放出から人の健康及び環境を保護することを目的とする。」と記されている。水俣病のように、既に起こってしまった被害の救済は目的外なのだ。実際、条文を読んでいくと、主体は国際的に水銀を管理する方策についてのものであり、起こってしまった被害の救済に関わる項目はない。やや関係するかに思われる「第十六条 健康に関する側面」、「第十八条 公衆のための情報、啓発及び教育」も、主に予防的・啓蒙的な措置にかかわる内容である。

 Wikipediaの「水銀に関する水俣条約」 には、この条約の発効に日本国政府が主導的役割を果たしたこと、正式名称を「水銀に関する水俣条約」とすることを日本政府の代表が提案したことが書かれている。名称に「水俣」を入れながら、当の水俣で現に続いており、世界の各地にも発生している被害の救済に繋がるような条文が一つもないのはなぜか。

 熊日の社説が述べるように、当の水俣病の患者達は今も健康被害と差別に苦しんでおり、水俣とその周辺地域には何らの救済措置も受けないまま長い間苦しんできた多数の未認定患者がおり、地裁レベルでの訴訟も続いている(注1) 。患者とその支援者らが求めている不知火海沿岸住民の健康調査は、日本国憲法第二十五条が保障する、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」に基づくささやかな希望である。国はそれを一顧だにして来なかった。日本国政府は、水俣病の発生当初から一貫して企業の利益を代弁してきた。幾らかの譲歩は、裁判の結果を受けて止む無くなされたものか、あるいは、原因企業チッソの主張に何らの正当性もないことが白日の元に晒され、頑なであり続ければ企業の利益そのものが損なわれるとの功利的判断に基づくものであったろう。

 水俣病の被害が世界史的なレベルで拡大してしまった原因について、日本国政府として全く総括を試みなかった訳ではない。例えば、環境省の水俣条約の特設サイト  の中に「水俣病の教訓と日本の水銀対策」と題する冊子が置かれていて、その「第1部 水俣病の経験と教訓」には水俣病史の概略と簡単な「反省の弁」が述べられている。しかし、これを読めばわかるように、課題は書かれても具体的な「教訓」に相当することは全く書かれていない(注2)。

 熊日の社説の末尾にあるように、まっとうな総括があれば、そこで得られる教訓こそ、世界の水銀被害防止にも役立つはずだ。この条約の成立と発効に主導的役割を果たしてきた日本国政府は、まるで患者らが一人残らず死んでしまうのを待っているかのようである。このままでは、水俣条約が発効したことで一区切りとされ、水俣病そのものが終わったものと誤解されかねない。

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注1)水俣病に関わる裁判の歴史と現状については「ノーモア・ミナマタ第2次訴訟弁護団」  のウェブサイトの「裁判の歴史」のページによくまとめられている。

注2)環境省作成の「水俣病の教訓と日本の水銀対策」の「第1部 水俣病の経験と教訓」に「水俣病被害の拡大が問いかけるもの」と題して次の記述がある。

水俣病の拡大を防止できなかった背景には、チッソ水俣工場が雇用や税収などの面で地元経済に大きな影響を与えていたことのみならず、日本の高度経済成長への影響に対する懸念が働いていたと考えられます。
また、熊本、鹿児島にとどまらず、さらに後年、新潟で第二の水俣病が発生したことで、原因究明と初期対応の大切さが改めて問われることとなりました。
水俣病を発生させた企業に長期間にわたって適切な対応をなすことができず、被害の拡大を防止できなかったという経験は、時代的・社会的な制約を踏まえるにしてもなお、初期対応の重要性や、科学的不確実性のある問題に対して予防的な取組方法の考え方に基づく対策も含めどのように対応するべきかなど、現在に通じる課題を私たちに投げかけています。

 要するに、総括をなし得ていないのであり、具体的な教訓は何も引き出されていないことがわかる。
 今朝の毎日新聞の「広島平和宣言70年」と題する特集ページに、「1969年 初めて「ヒロシマ」と片仮名表記が宣言文に盛り込まれる」とあった。大江健三郎さんの『ヒロシマ・ノート」(岩波新書)が出版されたのは1965年。かつてこのブログの記事「東電原発事故による被曝影響を心配するのは差別に繋がるのでやってはいけないという奇妙な論理」に書いたように、被爆者はいろいろな差別に直面していたので、「ヒロシマ」をことさらに取り上げて言い募ることへの反発もあったに違いない。「ヒロシマ」に込められた一切の出来事が世界史的な意味を持つものであることを、当の広島市民自身が自覚し、この表記が受容されるのに20年ほどを要したということで、それは、二度と同じことが起こらないようにとの想いが込められた積極的な意味を持つ表記として受け入れられたということであろう。

 「フクシマ」の表記をめぐっても同じように差別を助長するという趣旨の非難の声が続いてきた。最近もまた、ビキニ環礁での水爆実験による被曝影響を取り上げたテレビ朝日の本日の特集番組「ザ・スクープスペシャル ビキニ事件63年目の真実」の予告サイトに、副題として「フクシマの未来予想図」とあったことで「炎上」して、この副題が削除されるということがおこった。例えば江川紹子さんの次のtweet がある。

これはひどい!なぜビキニ環礁における水爆実験による汚染や被ばくの問題が「フクシマの未来予想図」と結びつくのか。わざわざカタカナで書くところにも、悪意を感じる。テレビ朝日は、異なる2つの問題を無理に結びつけて、新たな福島差別を作ろうというのか…

 また、毎日新聞の斗ヶ沢秀俊さんも次のようにtweetしている。

福島県民の被ばく量はロンゲラップ島民よりもはるかに低く、被ばくによる健康影響は出ていません。健康被害に苦しむ島民が福島県民の未来であるかのような誤った表現をメディアはすべきではありません。また、何のために「フクシマ」とカタカナ書きをするのか。

 他にも、田原総一朗さんの公式サイトにある記事「福島」を「フクシマ」と呼ぶのは、もうやめよう!」  では、福島では「「放射能に負けない農業」「原発事故に負けない農業」を彼らは目指して、懸命に努力した」結果、もう、相当程度復興している。「僕たちが目を向けるべきは、「フクシマ」から「福島」へ変わろうと努力を重ねている人びとの前向きな姿ではないのか。」・・・「「福島」を「フクシマ」と呼ぶのはもうやめる時期にきている」と、2012年4月2日の時点で主張されている。

 一方、このことにかかわって、このブログの前回の記事に引用した早稲田大学松岡俊二さんのウェブサイトに「「フクシマ」という表記について」 という文章が置かれている。これは東京大の森口祐一さんとのメールでのやりとりを記録したもので、2015年3月2日にアップされている。松岡さんは結論として次のように述べている。

私自身は『フクシマ原発の失敗』の最初の方に書きましたが、自分の学者人生の中で福島原発 事故には特別な思いがあります。福島を、福島としてだけでなく、「フクシマ」として人類史上 に位置付けることが必要であり、福島の教訓を明らかにし、それを今後の人類社会に活かすことが重要であり、そうしたことが出来れば、「フクシマ」という表記をあえて使う必要もなくな るだろうと考えています。

 これに対する森口さんの返答も含め、多くの方に読んでいただきたい文章である。また、私のように「フクシマ」という片仮名表記を積極的には用いて来なかった者でも能川元一 @nogawamさんの次のtweetは普通に頷けるものである。

「フクシマ」という表記に噴き上がっているアカウントをいくつも見かけたのだが、現代日本語ではカタカナの主たる用法は外来語の仮名書きであり、日本語の単語(固有名詞含む)をカタカナ書きするのはその単語が指示するものが普遍的な問題を提示している、という含意だよね。

 例えば、You Tubeの ドイツZDFフクシマの嘘  を観ればいい。原題は “Die Fukushima-L?ge”だが、これを「福島の嘘」と訳したら翻訳者として失格だろう。”Fukushima”は、地名ではなく、福島第一原子力発電所で起こったレベル7の原発事故と、その後に引き続く様々な出来事の全体が世界史的な意味をもつ固有の現象であることを象徴的に示すために用いられているからだ。しかもこのZDFの番組は、事故がおこる前から、日米の「原子力ムラ」がその事故を準備してきた過程についても切り込んでいて、その一切が “Fukushima-L?ge” に込められているのである。

 どんなにあがいても、世界が「フクシマ」をそのように認識し、位置付けていることは厳粛な事実である。福島でおこった事故の影響は世界へ波及し、原発という事業そのものが立ち行かなくなり、少なくない国々が脱原発へと舵を切った。こうしたことが世界史的な出来事でなくて何であろう。

 不思議なことに当の日本は原発を次々と再稼働し、新たな建設計画さえ復活しようとしている。もう原発事故などなかったかのようである。しかし、現実の福島はどうだろう。福島県のウェブサイトの「避難指示区域の状況」 のページにある「避難指示区域のイメージ」(下図)を見ると、浪江町、双葉町、大熊町を中心に、広大な「帰宅困難区域」があり、今も6万人ほどが避難生活を余儀なくされていると言う。



 また、Googloマップで浜通り周辺の航空写真を見ると、「帰宅困難区域」だけでなく避難指示が解除された区域にもいたるところで除染廃棄物置き場が目につく。下に示すのは富岡町小良ケ浜にある一例であるが、脚注1にはざっと見渡して目についた廃棄物置場の緯度・経度を示している。

イメージ 1


 Google 航空写真にみる福島第一原発の様子から、これらの画像取得は1〜2年ほど前と思われ、今はどこも満杯で、現状はさらに逼迫していると考えられる。人の住むすぐ傍でこのような風景が日常化している地域が地球上のどこにあるだろうか。ところが、「フクシマ」の表記に異を唱える人たちの中には、まるでそうした問題が、もう片付いてしまった過去のことであるかのように言う人が多い。甲状腺癌の多発も決して認めたくないようだし、復興に何の役にも立ちそうにない「復興オリンピック」に異を唱えることもない(注2)。現実に起こっている被害を無いことのように言うのは人権蹂躙に他ならない。

 本来、差別を心配して「フクシマ」の表記を用いることに慎重になることと、現実の福島の被害を認識することとは別のことである筈なのに、なぜだろうか。冒頭に引用した過去記事に書いたように、事故がおこった初期段階において被害を過小評価する言説を振りまいて、福島の人々に取り返しのつかない無用な被曝をさせてしまったことを自覚しているが故の、その罪を逃れるための悪あがきなのではないか。そうした行為は福島の人々に分断を持ち込み、却って事態を悪化させるだろう。世界史に記録された以上、悪あがきは無駄だと悟り、願わくば、もう黙っていてほしい。

―――――――――――
注1)除染廃棄物置場の位置。下記の緯度・軽度をコピーし、Google Mapの検索窓にペースト入力する。これらは航空写真をざっと見渡して目についたものであり、一部に過ぎない。

相馬市
37.777048, 140.713914
飯舘村
37.664093, 140.737646  37.615532, 140.747028
南相馬市
37.521453, 141.002150  37.523185, 141.028709  37.535498, 140.931428
37.560953, 141.021082  37.566028, 140.923466  37.578126, 140.941158
37.631523, 140.939258  37.663945, 140.906243  37.686791, 140.923529
 浪江町
37.477166, 141.031658  37.485070, 141.018747  37.485575, 141.010374
37.492859, 141.027146  37.495940, 141.032497  37.503046, 140.988110
37.506628, 140.985813  37.515687, 140.953813
葛尾村
37.510054, 140.700522  37.499077, 140.762477  37.535458, 140.820521
双葉町
37.455163, 141.029662  37.462252, 141.024783  37.437939, 141.016395
大熊町
37.399251, 140.872941  37.382227, 140.966334  37.395372, 140.963556
富岡町
37.321318, 141.004792  37.324151, 141.020149  37.363083, 141.014887
37.355843, 141.017504  37.337414, 141.023928  37.324408, 141.020211
楢葉町
37.278994, 141.012102  37.291921, 141.019029  37.309577, 141.018914

注2)ただ、江川紹子さんは、昨年11月のtweet  で、「だから、オリンピックなんか招致しなければよかったんだわ。当時の都知事の世界で一番安上がりの五輪という言葉を信頼し、それなら、そして、そこまでやりたい人たちが多いなら、仕方ないか……と思ってとことん反対しなかった自分の甘さも反省する」と述べてはいる。


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