さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

社会のこと

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 タイトルの通り、「私はリニア新幹線には乗らない」と宣言します。
誰か気の利いたステッカーでも作ってくれないかなあ。
同じように宣言する人がどんどん増えて、計画が中止になればいいのになあ。
理由は・・・

1)すごくあぶなくて怖いと思う
2)原発を止めさせるためにがんばって節電しているのに、わざわざ電気を浪費する乗り物をつくるなんて許せない
3)これ以上自然を破壊してほしくない
4)周りにも絶対に乗りたくないという人が多いので、リニアはきっと赤字になり、そのせいでJR東海は破綻して、不良債権が税金にまわされてくるに決まってる
5)在来線への乗り換え時間やセキュリティチェックのことを考えたら、時間短縮にならないに決まってる
6)沿線の地域活性化につながるというのは嘘で、逆に東京一局集中を加速することにしかならないと思う

 以下のウエブサイトで勉強しました。

 特に心配なのは、東海地震の想定震源域が近いので、地震時の緊急停止が間に合わないということ。

 沿線域は四つのプレートがひしめき合って、日本でも一番地震ポテンシャルの大きな地域です。それを図にしてみました。太平洋プレートはこの図には表現されていませんが、南東側から沈み込んで地下に存在しています。

(↓「糸井川」となっていたのを「糸魚川」に訂正しました。9/20)

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 まず産総研の地質情報総合センターが運営している「地質図Naviのサイトでgoogle航空写真の上に活断層(赤線)だけを表示させたものをコピーして、その上に、リニア中央新幹線ルート案(2013.08.26改) のページに示されている予想ルートをトレースしました。さらに、プレート境界(オレンジの線)や主な構造線(茶色の線)、東海地震の想定震源域、マグニチュード6以上の歴史地震の震央(ピンクの円)を『新編日本の活断層』から拾ったものなどを重ねました。

 こんなところに掘ったトンネルの中に超高速列車を走らせてはイカンでしょう。ホントに正気の沙汰ではないと思います。

 軍事ジャーナリスト黒井文太郎氏による「「どこの国でもいいから助けてくれ!」シリア国民の悲痛な叫びを聞いてほしい」と題する9月9日付の記事を無批判に拡散している人がいるが、有害だと思うので手短に異論を表明しておきたい。

 2011年1月から続いているシリア国内におけるアサド政権軍と反体制派の武力衝突は、国連などにより「事実上の内戦」と評される危機的状況に陥っており、先頃のG20においてもアメリカ主導の軍事介入の是非をめぐって激論が交わされた。アメリカが軍事介入すべきだと主張する(表向きの)理由は、アサド政権が市民に向けてサリンなどの化学兵器を使用し、罪もない子供たちが大勢犠牲になっているというもの。

 特に、8月21日の政府軍によるまとまった攻撃の最中に起こった化学兵器使用の強く疑われる惨状の現場写真や動画がネット上にアップされるに及んで、国際世論の中にアメリカ主導の軍事介入を待望する論調が台頭してきた。黒井氏の記事は、日本国内におけるその最も典型的なものである。

 一方、化学兵器が「使用」されたこと自体は認めつつも、誰がそれを実行したのかについては様々な憶測を交えた異論もまた根強く主張されている(末尾にリストした)。こうした見解は、アサド政権側が、国際的に大きな批判がわき起こるであろうことを承知の上で化学兵器を使用するメリットは何もないという状況認識や、イラクへの軍事介入の際にも大量破壊兵器の存在が理由とされたが、実際には嘘であったことが明らかになったという経験に発しているだろう。

 私は、ここで事の真相についての私見を語るつもりはないし、もとよりそうした能力もないが、黒井氏の記事を読む上で注意を払うべきことが二点あると思うので、そのことだけを書いておきたい。

 第一に、軍事介入によらずに「内戦」を終結させる道が完全に閉ざされている訳ではないということ。たとえば、黒井氏の記事がアップされるより10日前、反体制派主要組織「シリア国民連合」のハティブ前議長は、毎日新聞のインタビューに応え、「交渉による解決こそが最善の道だ」と述べている。

 また、Avaazキャンペーンは、8月に就任した穏健派のイラン大統領ロウハニがシリアでの化学兵器使用を非難し、米国などとの対話に前向きな姿勢を見せていることから、オバマ大統領とともに紛争当事者も含めた交渉を始めるよう要請する国際署名活動を始め、短期間に 90万人以上の署名を集めた。署名者は今現在もさらに急速に増え続けている。

 第二に、「内戦」を止めさせるための軍事介入が不可避になったとして、それが、武力を後ろ盾とした調停作業という性格のものになるのか、それとも、アサド政権をたたきつぶすための戦争になるのか、そのどちらであるかは介入の理由によって異なってくるということ。そうである以上、化学兵器をどちらの側が使用したかは、無視できない論点になってくる。

 ここで、黒井氏の記事から共感を集めていると思われる箇所を引用しよう。

 少なくとも政府軍による空爆や砲撃に日常的に晒され、肉親や友人を殺害され続けている側のシリア国民にとって、外国軍の軍事介入こそが望みの綱だ。彼らにすれば、別に米軍でなくても構わない。どこの国でもいいから助けてほしいのだ。

 アサド政権の同盟者であるロシアの拒否権により、国連安保理が機能を停止しているから、米軍などによる軍事介入は確かに国際法の裏付けがない。しかし、そんなことは、日々殺され続けている人々にとっては関係ない。

 仮にここでアメリカが手を引けば、アサド政権は「何をやっても、結局はアメリカは手を出せない」と判断し、それこそ無制限に化学兵器を乱用し、無差別砲撃や空爆をさらに拡大するだろう。外国軍が軍事介入しないとなれば、さらなる大虐殺が行われることになるのだ。「アメリカが勝手に他国を攻撃していいのか?」という見方には、こうした現地事情への視点が欠けている。

 かつてベトナムがカンボジアに侵攻したことで、同国の国民はポルポト派の大虐殺から救われた。ルワンダでは、ウガンダがツチ族ゲリラを支援したことで、フツ族民兵による大虐殺にストップをかけることができた。誰でもいいのだ。とにかく進行中の虐殺を止めることが、最も重要なことなのではないか。

 仮に黒井氏の主張がこれだけであったとすれば、完全には同意できないながらも、私としてあえて異論をさしはさもうとは思わなかっただろう。だが黒井氏は、この10倍以上のスペースをアサド政権への非難に費やしている。シリア市民の悲痛な叫びを代弁するかのごとき体裁をとりつつ、ジャーナリストらしからぬ一方的な決めつけの多い内容だ。かくも一方的に、アサド政権だけを非難する論調をもとに軍事介入が行われるとすれば、それは、アサド政権をたたきつぶすための戦争という形になるだろう。第二のイラクになるのは必至である。

 「第二のイラク」という言葉で私がイメージするのは、終わりの見えない暴力の連鎖である。戦争とその後のテロによるイラクでの民間人死者は現在も増え続けている。2003年の開戦以来、民間人の犠牲者をカウントし続けているIraq Body Countの集計によれば、本年6月までの合計の死者数は114,407 〜125,381人とのことだ。しかも、2010年に年間死者数4,109人まで減ったものの、その後は増加に転じ、今年は6月中途の段階で既に2,760人に達している。戦争によってもたらされた貧困・飢餓・疾病による間接的な死者は65万人とも120万人以上とも言われている。

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 この事実だけでも、武力によって平和は守れないということがわかる。その意味では武力に頼った反体制側にも責任の一端はあるのではないかと思う。私の身近にいるシリアからの留学生も同じ意見だ。

 最後に、黒井氏の記事とバランスをとる意味で、反体制派側が化学兵器を使用したと主張するサイトなどを紹介しておきたい。

1)藤永茂氏(注1)の『私の闇の奥』の「もう二度と幼い命は尊いと言うな」と題するブログ記事(8月30日付)



4)念のため、泥憲和さんの投稿[CML 026353]では、8月21日には36カ所にも及ぶ化学兵器攻撃が実施されたとあり、これは上記3)で主張されている「誤爆」説では説明困難な情報だ。


このブログ内の関連記事:護憲派はパレスチナ問題をどう考えるか(2009/1/26)

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注1)私が院生であった80年代、カナダの大学に在籍されていた藤永氏は、岩波の『科学』に「かえで通信」というコラムを連載されていて、私はこれを愛読していた。この連載が終わると、研究上のコミュニティが異なることもあって、その後接点はなくなっていたのだが、2年ほど前に偶然ウェブ上に『私の闇の奥』を見つけ、ご健在であることを知り、また、そこに書かれている記事内容に共感を覚え、再びこれを愛読するようになった。
 動物行動学のエドモンド・モリスは、ヒトは自分で自分を動物園にとじこめ飼育している奇妙な動物であると指摘した。モリスの「科学」には幾分怪しげなところもあるが、この奇妙な動物が、自らは望まぬ窮屈な社会の出現を、他ならぬ自分自身の手で後押ししている例は枚挙にいとまがない。

 身近なところでは私の住む地域の自治会に奇妙な決まり事が沢山ある。世帯構成は高齢化著しいのに、炎天下に地域清掃行事が敢行され、不自由な体をおして老人達がぞろぞろと歩きながら空き缶などを拾い集める。どんな理由であれ、これに参加しないと一世帯あたり1000円を拠出しなければならない。これは年中行事のひとつとして毎年の自治会総会の場でその実施が決定されている。ところが自治会役員を含む4、5人に訊いてみたところ、皆がこのボランティア行事の継続をほんとうには望んでいないふうなのだ。これに異を唱えるなら、きっと周りから白い目で見られるだろうとの消極的な考えから賛成したが、案の定満場一致だ。自治会役員としては、これを中止したら長年続けられてきた立派なこころざしの慈善事業の火を絶やした代として記録されることになるので、毎年、行事案に組み入れてしまう。こうして、多数の人々が望んでいないことが物理的に不可能になるまで続けられることになる。

 こんなことを考えているうちに、常野雄次郎さんの『催涙レシピ』にある、ちょっと古い次の記事を思い出した。


 そこにスラヴォイ・ジジェクによる小咄が引用されている。

 あるところに、自分が米粒だと信じ込んでいる男がいる。彼は今にもニワトリに食べられてしまうのではないかという恐怖に怯えている。精神科医の治療により、彼は完全に治癒し、退院する。ところが男はすぐに医者の所に逃げ帰ってくる。「ニワトリに襲われる」と叫んでいる。
 医者いわく、「あなたはもう完治したじゃないですか。あなたは自分が米粒じゃなくて人間だということはわかっているでしょ」。
 男が答えて、「もちろん俺は人間だ。俺はわかっているよ。だがニワトリはそれをわかっているだろうか?」。←オチ
(注1)

 落語をやっている知人に話したら、このオチは、粗忽噺に多い「間抜けオチ」という最上級のオチに分類されるものらしい。最上級との評価は、単なる間抜け話に終わらないからなのだろう。この男は私たち自身でもあるのだ。

消費者「無くなる前に食べておこう。俺が食べなくても、どうせ誰かが食べる」
漁業者「無くなる前に獲っておこう。俺が獲らなくても、どうせ誰かが獲る」
行政「規制を断固阻止して、業界を守ります」
メディア「規制をすると、ウナギが高くなる」
ウナギが減るのも当たり前。

 「原発を輸出しよう。日本が輸出しなくてもどうせ他の国が輸出する」という発想もまた同じだ。

 原発推進論者はもっとストレートで、こうした後ろ向きの発想は、たいがい、「将来の脱原発」を漠然と望む者がいだくものなのである。その行き着く先が、多国籍化した原子力産業の利権を肥大化させ、行き場のない核廃棄物をますます増大させ、ウナギの絶滅と同じく抜き差しならぬ状況へこの世界を導くものであることは誰にもわかる筈のことであろうに、こうして一見常識的な人々が自らの首を絞める道を選択することになる。

 トルコにしろインドにしろ、政府レベルでは原発を輸入したがっているとしても、そうした国にも必ず原発に反対する運動がある。インドの立地予定地周辺での反対運動のように、中には深刻な例もある。そのような運動との連帯を通して、世界中から原発をなくす道を模索しようと考えず、脱原発を望みながらもどうせどこかの国が輸出するのだから日本が輸出した方が良いとするのは、結局、そのどこかの国の不正義を盾に、自らの不正義を合理化する発想である。常野さんの言う「不正義のアウトソーシング」とは、そのような発想を表現したものであろう。

 今すぐ原発をなくしてしまえば困る人が居るからなくす訳にはいかないという主張も、困るであろう他の誰かのせいにして終わるという点では、同じ構造を持っている。困る人が居るなら困らない人がサポートするのが人間らしい社会だと思うのだが、原発の稼働が続けばやがて困らない人まで困ってしまうことになる。そうなったらもう破滅しかない。

 世界中の反原発の運動と連帯しようとせず、原発がなくなっても困る人が出ないような方策を考えようともせずに、ついには自らの首をしめてしまうような道を選択してしまう、そうした発想はどこから出てくるのか。その根底には、他の国、他の人々をまるでニワトリのように理解不能で連帯不能な存在だと思ってしまう、ある種の諦めがあり、そのニワトリが自分のことを米粒のように思っているのではないかという怯えがあるだろう。

 しかし、ニワトリがどう思おうと、自分は人間でありたいと願うなら、人として振る舞うことでしか救われる道がないのは自明のことではないのか。たとえそれ以外に道があったとしても、そうして生き存えた世界はもはや人の世ではない。このことはかつて、次のブログ記事にも別の視点から書かれていた。

(過ぎ去ろうとしない過去:2010年3月10日)

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注1)原文を読んだことはないが、この中の「米粒」を「穀物の種」と訳してあるものもあった。ジジェクが東欧出身であることを考えれば「米粒」は不自然だが、意訳としては「米粒」の方が良いかもしれない。

 カート・ヴォネガットが唱えた「芸術家の炭坑のカナリア理論」(注1)とは、以下のようなものとして理解されているだろう。

 つまり・・・
 感受性に優れた芸術家に社会的な役割・使命のようなものがあるとすれば、世の中に「悪い空気」が忍び寄って来た時、それをいち早く察知して、炭坑のカナリアよろしく卒倒してみせ、人々に危険を知らせることだ。

 私はこの「理論」を、学生時代、大江健三郎氏の著作によって知ったのだが、おぼろげな記憶によって、『核の大火と「人間」の声』(岩波、1982)に収録されていたのではなかったかと思い、読み返してみたら、あった。少し長くなるが「10 核状況のカナリア理論」(p285〜309)から引用する。初出は『世界』1981年10月号とのこと。

 僕はかつてヴォネガットのインタヴューの一節を、文章に引用したことがありました。それは当時アメリカのキャンパスでもっとも人気高いといわれていたこの作家が、ソヴィエトの学生たちにも好んで読まれていることを知った1973年のことで、僕は旅行にたずさえて行ったかれの新作を、モスクワの学生に贈ったのでしたが、その長編小説は、この世界のすべての悲哀(サドニス)にたいする、無力な優しさの表現として、涙が流されるところで終わっていました。ヴォネガットはいまいったインタヴューで、その作品をつらぬく笑いと涙についてこう語っていたのでした。 ≪・・・笑いというものはフラストレーションへのひとつの感応なのだ。涙がおなじくそうであるように、そして笑いはなにものをも解決しない、やはり涙がなにも解決しないように。笑うこと、あるいは泣くことは、ほかになにひとつできない時に、人間がおこなうところのことなのだ。≫ そのように笑うこと、あるいはそのように泣くことしかできぬ人間として、作家というものをとらえているのらしいヴォネガットに、僕は鮮明な印象を受けていました。

 それから数年して出たヴォネガットの新しい本は、多様なジャンルの作品を集めたものでしたが、僕はそのなかでかれが作家の役割をもっと意識的に語っている文章を見出しました。横浜会議で、僕が直接しばしば思い出したのが、この講演記録でした。ヴォネガットの性格、その仕事のしぶりからいって、この講演は充分に準備された文章であって、つまりはひとつの作品として、かれが書いたものだと考えてよいはずですが、それは一九六九年に行われた「アメリカ物理学協会」への講演」として本に採録されています。("Wampeters Foma & Granfalloons" Delacorte Press)

 ヴォネガットはそこに集まった、おもに物理学の教師である聴衆の前で、いったい芸術の有効性とはなんだろうと、みずから問うのです。

 ≪これについて私がいだくことのできる、もっとも積極的な考えは、芸術の「炭鉱のカナリア」理論と私が呼ぶものです。この理論が示すのは、芸術家たちが社会にとって有効であるならば、その理由はかれらがきわめて感じやすい者たちだということです。かれらは徹底して感じやすい。かれらは有毒ガスが満ちてくる炭鉱のカナリアのように、より躰の強い者らが危険を認める前に、卒倒してしまいます。/今日の集まりに来る前に、私が卒倒していたとしたら、それは私にできたもっとも有効なことであったでしょう。他方、毎日何千人もの芸術家が卒倒してはいるのですが、それに誰ひとりわずかな注意もはらわぬのです。≫

 作家をふくむ芸術家の社会的な役割をこのように定義してから、ヴォネガットはそのような人間の考えとして、現代の科学者はもはや古き善き時代の科学者のように無垢(イノセント)でありえぬこと、たとえば戦争のための新しい武器の開発をもとめられた若い科学者は、新しい原罪とでもいうべきものを自分がおかすのではないかと疑わねばならぬといい、救済への希求と絶望のからみあった、いかにもかれらしい響きをこめて、次のように講演をしめくくっているのでした。God bless him for that.

 大江氏は、このヴォネガットの「充分に準備された」アイデアを日本に広めるべく、その後幾度となく引用した。たしか、1984年にヴォネガットが来日してNHKで対談したときにも、この話題が出されたと記憶する。

 ところで、これを読んだ当初からの疑問として、芸術家が炭坑のカナリアよろしく卒倒するとは、どういう状況のことを指すのかということがあった。ヴォネガットは、「毎日何千人もの芸術家が卒倒している」と語ったが、具体的なことは書いていないようだ。大江氏の『持続する志』(文藝春秋、1968)を読めば、大江氏自身はとても他人より先に卒倒したりするような作家ではなさそうに思えるのだが、では、大江氏は、卒倒している(した)作家として、典型的には誰のどのようなふるまいを想定していたのだろうか?

 思い当たるところは、同じ『核の大火と「人間」の声』の別の章で語られた原民喜くらいだ。ここに書いたように、原民喜は、朝鮮戦争が始まった翌1951年3月13日、遺稿『心願の国』に「破滅か、救済か、何とも知れない未来にむかつて……。」と書き残して、国鉄中央線の吉祥寺駅 - 西荻窪駅間で鉄道自殺する。たしかに原民喜の自殺は、世の中に「悪い空気」が忍び寄って来たことで卒倒した典型例かもしれない。しかしそれは、多くの人々に覚醒をせまるほどのものであったろうか、というのが、私の疑問として残った。自殺した作家は多いが、そのことで「悪い空気」が忍び寄って来たことを人々に察知させることができなかったとしたら、「炭坑のカナリア」失格である。

 そこで、いろいろ考えた末の私の結論は、三島由紀夫こそが炭坑のカナリアであったというもの。

 三島は「1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、面談中に突如益田兼利総監を、人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした直後に割腹自決した」(Wikipedia: 三島由紀夫)。

 これは逆説でも何でもなく、間違いなく、一人の芸術家が「卒倒」してみせた典型例に違いないと思う。おそらくこの事件は、「世の中に悪い空気が忍び寄って来た」ことを人々に覚醒させる力があったのではないか。たとえ原民喜が「正しく卒倒」し、三島由紀夫が「醜悪に卒倒」したという違いはあったとしても、我々凡人は、彼らが身を挺して発したシグナルを注意深くキャッチして、世の中に忍び寄りつつある「悪い空気」のほんとうの正体を見極め、どう対処したら良いかを考えるべきだと思う。そしてまた、感受性に優れて卒倒するのはなにも芸術家に限らないということも気にとめておくべきだろう。

 以上のようなことを考えたのは、例えば福島で東電原発事故がおこったことで、現に今も、「毎日何千人もの人々が卒倒している」のではないかと思ったからだ。冷静で分別のあることを自認するある種の人たちは、それらの人々を、精神に異常を来した者とでも考えているのか、例えば「放射脳」といった悪罵を投げつけて揶揄する。あるいは、「行動免疫システムの誤作動」などという、巧妙な科学の粉飾でもって同質の評価を下す人もまた後を絶たない。

 つまり冷静で分別のある彼らは、今にも卒倒しそうな人々のその感受性の内面でおこっていることについて理解できずにいるため、その「不思議な現象」を科学の力で解明しようとしているのだろう。冷静で分別のあることと感受性に優れていることは矛盾しない筈だと思っていたのだが、私の判断は間違っていたのだろうか。

 1969年にカートヴォネガットは、ほかならぬ物理学者達にむかって、この「芸術家の炭坑のカナリア理論」を周到な準備のうえで語った。彼が、もっとも語りかける必要のある人々だと判断したからだろう。God bless him for that.

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注1)当初、この「炭坑」を、大江氏に倣って「炭鉱」と表記したが、「炭鉱」は、石炭の濃集した鉱体や、鉱山のことなので、「炭坑」と改めた。なお、私のMacにインストールされている辞書には、「炭鉱」について、「石炭を採掘する鉱山。慣用として『炭坑』と書くこともある」との説明があるが、少なくとも専門家は、石炭を採掘するために掘った穴としての「炭坑」と区別している筈。(7/9)

参議院選挙雑感

 明日7月4日に参議院選挙が公示されるので、思うところを書いておきたい。選挙というと、かつて(2009年11月)このブログに次の記事を書いた頃を思い出す。



 ちょっとした苦い思い出だが、水面下では、2007年の東京都知事選挙をめぐって、元宮城県知事の浅野史郎氏を推す市民グループが、票の分散を避けて石原三選を阻止するために共産党は立候補を取りさげるべきだという主張をしていて、この点をめぐっての対立があり、私としてそうした不可解な「論」に対する反発もあった。不可解な「論」というより、選挙への出馬において現下の世論の支持を何より優先する発想は、民主主義の自殺行為にほかならない。全ての言説はおおかれすくなかれ政治的な意味を持ち、全ての政治的な言説は、世論の趨勢を変えることをこそ目的としてなされる。このことは、ごく常識的なことではなかったか。

 当時、「票の分散」を批判していた者達は、先の東京都議会選挙で共産党が第三党になったことを受けて、今後は、共産党以外の弱小党派に立候補の取り下げを進言したりするのであろうか。きっとそうではないだろう。共産党に対する強いアレルギーのようなものが見え隠れする。

 私自身も、共産党に対するいろいろな疑念はある。なによりこの党には、反核運動の分裂を招いた前科と、原発推進に荷担した前科がある。だから、それまでの選挙では共産党にしか入れたことがなかったのに、1980年代に「緑の党」系列の複数の政党が結成された時に、そのどれかに一度だけ期待して投票したことがある。しかし、それらの党派は離合集散を繰り返して、糸の切れた凧のようになってしまった。

 「緑の党」が掲げる政策が実現されるような世の中になることは、革命的な出来事である筈だ。しかし、それらの党に集う人々に、革命を起こそうとの気概を見出すことはできなかった。だから最近「みどりのナントカ」という政党が結成されても、またかと思うだけである。

 私は大学教員だから、当然のこととして、各政党の大学政策、科学・技術政策がどうなっているかが気になる。そして、かつての自民党政権がおこなった国立大学の法人化や、民主党政権が追認してきた、基盤研究費を減らして競争的資金に回すような政策は間違っていると考えている。では、どの党の政策が良いかと調べると、共産党の掲げる政策が一番優れていると考えている。というより、他の政党のこの分野についての政策は貧困過ぎて、比較にもならない。


 もちろん、それだけで投票先を判断する訳ではないが、自分が良く知る分野について、各政党がどのような提言を行っているか調べ、比較することは、投票先を決めるにあたって必要なことではあろう。

 次に気になるのは、「日本維新の会」がどれくらいの支持を集めるかという点である。この点については、「きまぐれな日々」のkojitakenさんによる次のブログ記事に賛意を表明しておきたい。


 6月7日に拙ブログにて、橋下徹氏を批判する記事をあげたが、その後、6月23日の沖縄の慰霊の日の式典に押しかけた橋本氏は、浦添市での講演会で「(当時内務省は)特殊慰安施設協会を作って沖縄にも置いた。沖縄県民の女性がその多くの女性や子供たちを守るために、まあある意味防波堤みたいな形になってそこで食い止めてくれる。(略)それを米軍が利用していたことも事実。」と語った。これは二重、三重に犯罪的な妄言である。



 もはや橋下氏の語る言葉は全てが支離滅裂であることからすると、この人と「維新」は、やがてマンガ的な仕方で自滅するだろうと思うのだが、願わくばその日が早く訪れますように。

 ところで、「維新」の参院比例区から立候補予定のアントニオ猪木氏であるが、YouTubeにアップされている佐高信氏の講演でとんでもないことが暴露されている。


 20年程前の青森県知事選挙で、原発反対派、一次凍結派、推進派の候補が争ったが、一次凍結派が150万円でアントニオ猪木氏を応援演説に頼んだ。ところが、電事連がバックにいる推進派は、もっと報酬をはずむからこちらの応援演説を頼むということになった。アントニオ猪木は、その誘いを聞いて、あわてて150万円を返して推進派の応援にまわった。さて推進派はいくら払ったか。なんと一億円だという。法律のことは良く知らないが、これは公選法違反にならないのだろうか。いずれにしても酷い話だ。


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