さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

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 どうも、永らくのご無沙汰でした。(気まぐれで文体を変えます)
 このブログ、放置してもぺんぺん草も生えないようなので、忙しさにかまけていました。

 いきなりですが、長野県上伊那郡中川村の村長・曽我逸郎氏による「中川村戦没者・戦争犠牲者追悼式 式辞」で次のように述べられています。

「・・・なんとか命を永らえて1945年の敗戦を迎えた人たちは、新しい憲法の平和主義、戦争の放棄を心の底から喜びました。戦争の悲惨さ、愚かさを骨身にしみて痛感していたが故の喜びであったに違いありません。
 であるのに、敗戦後68年が経とうとする今、日本国憲法前文において国家の名誉にかけ全力をあげて誓った崇高な理想と目的を忘れ、我が国を、現実妥協的に戦争をする、ありふれた、普通の、凡庸な、志のない国にしようとする人たちが現れています。外交力、政治力で問題を解決する自信を持てずに、軍事力に頼ろうとする人たちであり、戦争の悲惨さ、愚かさを忘れた、まさに平和ボケの人たちだと言わざるを得ません。・・・」

 私もかつて「日本人は平和ボケしているから、軍事力で平和が守られると勘違いする」と書いたことがありますが、まさに我が意を得たりという感を強くします。

 日本国憲法第九条には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と書いてあるのに、自衛隊という名の戦力を保持しています。解釈改憲というやつですね。「文脈」以前の、このような「意図的な誤読」が日本人の得意とするところなのでしょう。

 自民党の憲法改正草案では、この部分が「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。」となっています。もしこのように書き換えられたら、その先にもさらなる解釈改憲が待っていることは火を見るより明らかです。当然、集団的自衛権が正面から主張されるようになり、アメリカの言いなりになって、日本の「国防軍」が海外の戦場へ送られるようにもなるでしょう。国旗・国家の法制化の際にも強制はしないと約束したのに、教育現場などでは現に強制されています。もうだまされてはいけません。

 ところで、日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は、5月13日の記者団との会見の場での従軍慰安婦をめぐる発言に端を発した一連の報道について、文脈を無視した誤報をやられたと憤っているようです。

 5月13日に橋下氏は次のように語っています。

「そりゃそうですよ、あれだけ銃弾の雨、銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で、命かけてそこを走っていくときにね、それはそんな猛者集団といいますか、精神的にも高ぶっている集団はやっぱりどこかでね、まあ休息じゃないけれどもそういうことをさせてあげようと思ったら慰安婦制度っていうものは必要なのはこれは誰だってわかるわけです。」

 これは、後の弁明によると、今は慰安婦制度というものは否定されるべきだが、当時存在していたということは「必要とされていた」ということ、そういう厳然たる事実について述べているにすぎない。だから世界各国の軍隊も慰安婦制度を利用していた訳で(注1)、日本だけが非難される謂われはない、という文脈に位置づけられる発言なのだそうです。

 だとしたら彼は、大変日本語が不自由な人であるのでしょう。「必要とされていた」と言えば、必要とした主体が想定されます。実態に即して言えば、「必要であると(軍の上層部が)判断した」という意味にもなるでしょう。しかし、「必要なのはこれは誰だってわかるわけです」と言えば、「誰だってわかる筈だ」という橋下氏個人の判断を述べていることになります。

 そうすると、この先にも戦争になれば、戦場では当然、「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で、命かけてそこを走っていかねばならない」状況になる。そんな状況下で兵士を休息させてあげようと思ったら慰安婦制度が必要なのは誰だってわかる筈だと、橋下氏は考えるということになります。

 ここは百歩譲って橋下氏の弁明するところの「文脈」に従い、「(女性蔑視の風潮が蔓延し、人権意識の大変低かった)当時は」という言葉を補って、「誰だって慰安婦制度が必要だと考えたに違いない」と続けることにしましょう。

 さて、2013年のただ今現在も、憲法で保障されている筈のいろいろな人権が蹂躙されている実態は、そこここに厳然として存在しています。

 派遣社員や不定期雇用の労働者の人権無視は目に余るものがありますが、正社員であっても賃金不払いやサービス残業の常態化は相変わらずです。「栄養欠乏」、「栄養失調」、「食料の不足」による死亡を加えた広義の餓死者は2011年で2053人に上り、ここ数年増え続けているそうです(注2)。

 「5月16日放送のNHKあさイチ」や6月5日の「NHKクローズアップ現代」でも採り上げられていましたが、文科省の調査によると、住民票を残したまま行方不明になり、学校に行っているかどうか1年以上確認できない小中学生が全国で1191人(平成23年度)にも上り、就学前の子供についてはその実態さへ不明とのことです。「クローズアップ現代」が小出しにしたデータによれば、特にこのことは、橋下氏のお膝元である大阪において深刻なようです。

 仮に数十年後、再び橋下氏のような大阪市長が誕生したとして、その未来の市長もまた、「当時の状況下でそういうことが放置されるのは当然であることは誰だってわかる。日本よりもっとひどい国はいくらでもあった。」などと言うことになるでしょう。

 タイトルに書いた、「憲法を変えたら、さらなる解釈改憲がまっている」というのは、なにも九条に限ったことでもない訳です。

 依然として橋下氏を擁護する意見も少なくはないようですが、日本が人権後進国であることを世界中の人々が知ることとなった、このことが唯一、橋下氏の功績と言えるのかもしれません。

ーーーーーーーーー
注1)制度としての慰安婦が、世界の各国の軍隊にも存在していた主張するのなら、橋下氏はその証拠を提出すべきです。

注2)舞田敏彦さんの「データエッセイ」にある「餓死者数の長期推移」の記事を参照しました。

 これに対して、「千日ブログ 〜雑学とニュース〜」に掲載された「日本の餓死者数2053人は間違い、2011年は45人 過去30年の最高は93人」という記事では、サンケイ新聞の記事をもとに、「食料の不足」による死亡のみを餓死者としています。

 来る10月24日は、1944年、戦艦武蔵がレイテ沖海戦で沈没して1000名余りの戦死者を出した慰霊の日にあたるが、私には戦艦武蔵に強い思い入れのようなものがある。

 過日、学生数名と山小屋のような旅館の一室で酒盛りをしていると「戦艦大和ってかっこいいよね」という話になった。聞けば、呉市にある「大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)」に行ったという。私自身が、子供の頃、まさに「大和かっこいい」と思って沢山のプラモデルを作っていたことを思い出した。大和だけでなく、武蔵も、零戦も、戦車もグラマンも沢山作った。零戦乗りの撃墜王・坂井三郎氏はヒーローだった。

 アジア・太平洋戦争時、私の父は若すぎて、二人の祖父は高齢のため、召集令状(いわゆる赤紙)が来ることはなかった。近い親戚中、誰一人戦場に赴いた者はいなかったので、誰一人戦死していない。ど田舎だったので、大がかりな空襲に遭うこともなかったという。そうした環境も影響してか、私は、戦争を美化する空気の中で立派な軍国少年に育ちつつあった。今でも軍歌の3つか4つを完唱できる。

 そんな私が、「かっこいい武蔵」の表紙に惹かれ、小遣いをはたいて買って読んだのが『戦艦武蔵の最後』という、ハードカバーの立派な単行本だった。著者も出版社も覚えていない。しかし、この本によって私は、それまで誰も教えてくれなかった戦場の悲惨な実態を知り、心に刻むことになった。しばらくは眠れない夜が続いたことを覚えている。その後は、戦争を美化するどのような言葉も空々しく聞こえるようになった。この本と巡り会うことがなかったら、今の私はどうなっていたか分からない。

 大岡昇平の戦記物を読んだのは高校の頃であるが、子供が手にするにはハードルが高いだろう。その点、『戦艦武蔵の最後』は子供が読みやすいように編集されていた。難しい漢字にはルビがふってあって、今にして思うと、子供に読んでほしいとの著者自身の強い願いが込められていたようでもあった。自分の小遣いをはたいて買ったのだから、子供の目にも魅力的な装丁となっていたのは確かだろう。

 そういう次第で、息子が戦闘機などの武器に異様に興味を示すので心配している、などといった親の嘆きを耳にした時など、『戦艦武蔵の最後』を薦めたいと思っていた。ところが、ネットで検索しても、私が読んだのと同じものが見つからない。

 検索にかかった現行の品は次の二点。

(1)渡辺清著『戦艦武蔵のさいご』 (フォア文庫 C 17:初版は1979年) [新書]


 さっそく両者を購入して確かめたが、内容も装丁も、私が読んだものと異なっている。それでも、どちらもお薦めできる内容で、(1)は小学校3、4年生頃から、(2)は、中学になったら読むことができると思う。

 私が読んだ『戦艦武蔵の最後』は、おぼろげな記憶では表紙の絵は(2)に近く内容は(1)と(2)を合わせたようなものだったように思う。(2)の本文最後にある脱稿の日付が1994年6月となっているので、こちらではありえない。そこで、(1)と同じ著者による絶版となった単行本の中古品を取り寄せた。

(3)渡辺清著『戦艦武蔵の最後』(朝日新聞社:1971) [ハードカバー]

 私が入手したのは初版本で、写真のものとは表紙が異なっている。どうやら、内容はほぼこちらのようであるが、表紙の絵が完全に違っている。武蔵の勇姿がないし、もう少しサイズが大きかったように思う。この表紙だったら、軍国少年の私は買わなかっただろうという印象。しかも、私が買ったのは1968年前後の頃と記憶している。しかし、「武蔵沈没二十七周年秋」に書かれた著者の後書きを読むと、この年(1971)になってようやくまとめることができたという意味のことが書かれているので、これ以前に同じ著者による類書は出版されていないようだ。実際、いくら検索しても、これより古い同名の書は出てこない。いやまったく、記憶というものはアテにならないものである。

amazonのカスタマーレビューに、(1)『戦艦武蔵のさいご』について批判の投稿がある。


本当に残念。武蔵に乗艦したという経歴を持っている著者の悪質なプロパガンダ小説である。
その経歴を自らのプロパガンダに利用して戦友に申し訳ないと思わないだろうか。
子供が読めば、著者のメッセージと共に内容が強く心に残るだろう事は当然。
艦上の生々しい兵士の死に行く様が「これでもか」「これでもか」と悲惨に表現されている。
だが、大人(子供でも分別ある読書家)が読めば、「お前は何でそんなところまで知ってるんだ!」「「戦闘中にボケッと一人一人死ぬ様を長時間眺めてたのか!」「沈没前の戦闘中に乗組員の大半が死んでしまったような不思議な書きっぷり」「艦を出たのに、その後の艦内の悲惨な兵士達の様がこれでもか、これでもかと書かれているが、何故状況がわかるのか?」等とツッコミどころ満載。
あの、物議をかもした少年H(妹尾河童)と全く同じ手法である。
また、作品中で共産主義者が乗組員で登場し、「敵はアメリカじゃなく、日本の軍部やブルジョア階級だ」と口にする事から、著者も戦後にそちらの運動に加わった人であろう事が予想され、調べたら反天皇の左翼活動家であった。
つまり、旧ソ連の日本に対する工作活動に沿って、自らの信条・活動のために経歴を利用して宣伝し嘘の小説を書いたのである。
悪質なプロパガンダ書ではあるが、まぁ著者の筆が上手く、読者をひきつける本ではあり、コロっと騙されている人が多い上手い技を感じさせる。
よって評価0のところを1とする。
騙されて私を非難する人は、戦闘中、しかも沈没前に艦を出た一兵士が知りえる内容なのかを注意してもう一度読んで欲しい。

 ここで述べられている「戦闘中、しかも沈没前に艦を出た一兵士が知りえる内容なのか」については、この書の元となった前掲(3)に掲載の渡辺清氏による「あとがき」に触れられているので、冒頭部分を引用しておく。

 この作品はさきに発表した『海の城』の続編ともいうべきものである。『海の城』ではおもに軍艦の内務生活をあつかっているが、ここではレイテ沖の海戦を舞台に海上戦闘がその中心となっている。
 私は当時一水兵として武蔵に乗組んでいたが、本書はそのときの私の体験をもとに、機銃の配置から武蔵の戦闘状況をできるだけ記録的に描いたものである。といっても軍艦内における兵員の戦闘配置はほぼ一箇所に固定されており、他の部署のことはなかなかわかりにくい。これは軍艦のもつメカニックな構造にもよるが、とりわけ戦闘中は他の部署の状況はほとんどわからないといってよい。そこでそういう点については、沈没後コレヒドール島に収容された(武蔵沈没の事実が部外に漏洩することをおそれて、私たち生存者は同島に約一ヶ月間罐詰になっていた)とき、いろいろ仲間から聞いた話や、またその後復員してから生存者に個人的に会ってたしかめたことなどによってその補いをつけた。・・・・

 「右翼」が目の敵にするほど良い本である。戦艦大和や零戦がかっこいいという男の子にぜひとも読んで欲しい。「戦艦大和はかっこいい」と話した学生にもこの本を薦めたが、大学生になったら、もう手遅れかもしれない。

参考サイト:
「戦艦武蔵の最期(抄)」(日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室)
 (3)『戦艦武蔵の最後』の本文の一部と、前掲「あとがき」の全文を読むことができる。
 著者渡辺清氏は日本戦没学生記念会(わだつみ会)元事務局長とのこと。


●「フィリピン・シブヤン海 “戦艦武蔵の最期”NHK 戦争証言アーカイブス)
(2)の著者塚田義明氏による証言

戦艦武蔵の最後(戦争証言project:YouTube)

 戦艦武蔵とは無関係だが、ついでにこちらも
「国体の護持」について(尖閣諸島の事例にも関係して)(中川村「村長への手紙」への曽我村長からの返信)

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 沖縄へのオスプレイ配備に抗議するために普天間基地の野嵩ゲート前に座り込んでいた市民を、県警機動隊が強制排除して3時間以上も隔離・拘束するということがあって、その理不尽さに憤慨しながらも、何もできない自分の不甲斐なさをなさけなく思う日々が続いている。せめてここに、不服従の抗議行動への支持だけでも表明しておきたい。



米海兵隊普天間航空基地、野嵩ゲート、9月30日。私たちは沖縄県警機動隊によって有無を言わさず拘束され隔離され監禁された。私たちとは誰か、MV22オスプレイの沖縄への強行配備に反対する私たちである。沖縄の全自治体議会が反対決議/意見書を可決し、新聞等メディアによる世論調査で圧倒的多数の県民が反対しているMV22オスプレイの強行配備である。あの日、拘束され隔離され監禁された私たちと、そうではない全自治体議会の議員と世論調査にみる圧倒的多数の県民との違いは、あの場にいたのかそうでないかの違いだけである。2012年9月30日夜、野嵩ゲートに民衆を拘束隔離監禁する「野嵩ゲットー」とも呼ぶべきスペースが国道上に現出したとき、私たちは知る、沖縄島そのものが「ゲットー」であることを。

琉球新報の取材によると沖縄県警機動隊は「任意であり、強制ではない」と説明しているらしいが、片腹痛いどころか「南京事件はなかった」「従軍慰安婦は存在しない」「沖縄戦の集団自決はなかった」と強弁する歴史修正主義者が「沖縄戦も第二次世界大戦もなかった」と言ってのけているのと同程度の強弁である。
我々は理由も説明も受けず、機動隊の大型装甲バスと国家権力暴力の手足になった機動隊員と盾に挟まれ、3時間も拘束隔離監禁された。トイレにも行かさない、病人を外に連れ出すことも拒否された。人権侵害も甚だしい、剥き出しの暴力が支配する空間に我々はいた。

「野嵩ゲットー」の中には、国会議員も弁護士も、おじいもおばあも、女性も若者も、ありとあらゆる人々がいた。

この事実を、動画や写真や諸々の媒体もしくは現場にいて拘束される当事者ではなく傍観者として知ることで、彼と我の違いを強固に反対しうる強い人もしくは恐い人と弱い普通の一般人としての私などと線引きし、対岸のものとしてしまうことは、安全圏であると思ってる此岸に遍在する暴力を見失い自らの存在を危険にするだけである。

「野嵩ゲットー」が国道上に現出してしまったイマ、私たちは知らなければならない、沖縄島そのものが「ゲットー」であることを。私たちは現実の中から学び、現実を変革して行くしかない。

同上、「なごなぐ雑記」から:

 以前この記事で、「まさか、オスプレイを「正しく怖れよ」などと言う訳でもあるまい」と書いたのだが、その「まさかの人」が湧いている。

 例えば八重山日報の9月12日の署名記事には、「オスプレイ機反対者は自動車に乗らないのか 大浜 京子」があって、face book の63人が「いいね!」らしい。

 理不尽にも放射能をばらまいて環境汚染の公害を引き起こした営利企業と国家・官僚に対する抗議の声に対して「正しく恐がれよ」と諫めるだけのアホな科学者たちが湧いているこの国にして、あり得べき暗鬱たる情況ではある。

 ところで、共産党の「しんぶん赤旗」が、現地の抗議行動を大きく報道しつつも、このゲート封鎖の直接抗議行動については全く触れないままであるという。

(ペガサス・ブログ版:2012-10-02)

 ブログ主の電話での問い合わせに対して、「ゲート封鎖というのは違法/合法のグレーゾーンで,先鋭的でもあり,戦術として“オール沖縄”で多くの人々を結集させることにつながるか不明である.」「現地の党組織の判断で報道するかどうか決めるが,今のところそのような判断(つまりネガティブ)だと思う.」との答えであったという。現地の共産党組織も「かなり迷っているようにも感じられた」とのことであるが、あきれるばかりで、これでは共産党の存在理由がない。

 もし、この情報に接することがなかったら、このエントリーを上げることもなかったかもしれない。なにしろ、冒頭に書いたように、ひたすら自分の不甲斐なさをなさけなく思うばかりの日々である。タイトルに「不服従」と入れたのは、せめてもの意思表示だが、「連帯を」と書くのはおこがましいとの想いもある。

 しかし、関電前抗議行動では逮捕者もでている。


 これも明らかな不当逮捕であるが、警察が逮捕したというだけで、この国では犯罪者扱いとなる。

警察だけじゃなく、公然と被逮捕者を差別するバカどもとも戦わなきゃならんのは、本当に難儀だよ。この奴隷市民にして、あの勘違い警察あり、だよ。

 直接抗議行動への考え方:

「逮捕されない非暴力」という戦略は、行動の範囲を、逮捕権を持つ者が決めることを認め、合法であるかぎり、何をやっても良いことになる。一方、ガンディーの非暴力は、「法や逮捕は関係なく、自分自身の心にかなう事を、礼儀正しく行う」ということである。「自治(スワラージ)」とはそういうこと。

 これは、その通りと思う。ただ、ガンジーは「非暴力・不服従」を説いた。この「非暴力」と「不服従」を一体のものとして捉えて初めて安富さんの主張が活きてくる。ガンジーが成し遂げたように、多数派の市民の一致した「不服従」こそが権力の横暴を断念させる力となる。沖縄の「民意」は既に明らかだ。

 以前にこの記事この記事などでふれた故小泉文夫は、台湾の、かつて首狩りの風習のあった「高砂族」の音楽を現地で密着取材したレポートにおいて、首狩りは勇敢な戦士の証として行われているとの建前とは裏腹に、その実態は、「られる前にってしまえ」との臆病者の発想にもとづく過剰防衛の行為として行われており、この風習は、アジアのニューギニアから日本へ続く島嶼部に共通の文化としてあると主張した。日本の戦国時代の「晒し首」の風習もその系譜という訳である。もちろんどこでも今では首狩りは禁止されているが、かつての日本の国家としての侵略行為も、そうした「臆病者」のメンタリティに根ざした「過剰防衛」という側面はあるのだろう。

 その結果、太平洋戦争において2000万人の死者を出した。その真摯な反省と総括にたって、いっさいの戦力不保持を宣言した日本国憲法が誕生した筈なのだが、国防の名の下に際限のない軍備拡張が続いている。オスプレイの岩国基地から沖縄普天間基地への配備が完了した今、この問題を「沖縄の問題」としてのみ捉えるなら、歴史は忘れ去られることによって繰り返すということが現実のものとなるであろう。一方でこの問題が、確かに「沖縄の問題」としてあることも見逃してはならない。

お薦めのブログ記事:
オスプレイ(横板に雨垂れ:2012.06.18)

(みずき〜「草の根通信」の志を継いで〜(資料庫):2010/5/7)
(同上:2010/5/7)

追記:赤旗政治記者@akahataseiji の10月1日 - 22:04のツイート

【速報】原子力規制庁は記者会見で、「しんぶん赤旗」の実績を勘案し、原子力規制委員会の記者会見に参加させると表明! 第1報に赤旗編集局内に拍手と歓声が響いた。(J)


あんまりうるさくてしょうがないから参加させてやる、みたいな・・・(10/2)

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 多忙の極みで出遅れたけれど、あまりに酷いのでメモ。


 原子力規制委員会が毎週1回開く委員会終了後の記者会見について、同委員会の実務を担当する原子力規制庁の広報担当者は「特定の主義主張を持つ機関の機関紙はご遠慮いただく」などとして、「しんぶん赤旗」を排除する方針を25日、明らかにしました。さらにフリーランスの記者についても「どういった雑誌に、どういった記事を書いているかを見て、特定の主義主張を持って書かれている方はご遠慮いただいています」と、憲法が禁止する検閲まがいの対応をしていることも明言しました。

 原子力規制委員会の田中俊一委員長は19日の第1回委員会で、「地に落ちた原子力安全行政に対する信頼を回復する」ため「透明性を確保する」と述べ、「報道機関への発表を積極的に行うことで、委員会としてのメッセージを分かりやすく伝える」とする方針も決めていました。委員会で決めた「報道の体制について」では「報道機関を既存官庁よりも広く捉え、報道を事業として行う団体や個人を対象にする」とまで明記していました。

 これまで、内閣府原子力安全委員会後の委員長らの記者会見で、こうした対応はされていませんでした。

原子力規制委、「赤旗」記者の会見出席認めず(朝日新聞デジタル:2012年9月26日22時16分)

 今月発足した原子力規制委員会が、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」記者の記者会見への出席を認めない方針を決めていたことがわかった。26日の田中俊一委員長の会見に赤旗記者は出席できなかった。赤旗は同日、規制委に方針撤回を求める抗議文を渡した。

 事務局の原子力規制庁は、朝日新聞の取材に「政党機関紙は一般の報道機関とは異なる。出席をご遠慮いただいた」と説明している。規制委と規制庁は19日の発足に合わせ、「透明性の確保」を運営方針とする一方、会見に参加できる報道機関を、一般紙や放送局などの記者、こうした媒体に記事を提供するフリー記者などに限るという内規を定めていた。
(以下、略)

赤旗記者の会見排除 規制委は直ちに改めるべきだ(しんぶん赤旗 主張:2012年9月29日)

 19日に発足したばかりの原子力規制委員会が記者会見から「しんぶん赤旗」の記者を排除した問題は、度重なる抗議にもかかわらずいまだに改められず、マスメディアやインターネットなどでも大きな問題になっています。ことは取材・報道の自由とともに、原子力規制委の基本姿勢にも関わる問題です。絶対あいまいにすませるわけにはいきません。

安全に公開性は不可欠
 もともと規制委など公的な機関が公的な場を使って開く記者会見が、新聞、放送など企業所属の記者はもちろん、企業に属さないフリーランスの記者や政党・団体の機関紙の記者など、報道を目的とするものに広く開かれるのは当然のことです。政党機関紙だからと排除されるいわれはなく、戦前からの歴史を持ち、現に多くの読者に読まれている「しんぶん赤旗」を報道機関扱いしないのは、まったく現実を見ない暴論であり、侮辱そのものです。
 とりわけ、今回の赤旗記者の排除で重大なのは、原子力規制委が東京電力福島原発などの重大事故を契機に、これまで一体だった原子力の「推進」と「規制」を分離し、「国民の生命、健康及び財産の保護」などをうたって設置されたことです。規制委員会設置法はその目的や任務を踏まえ、第25条で、「国民の知る権利の保障に資するため、その保有する情報の公開を徹底することにより、その運営の透明性を確保しなければならない」と定めています。都合の悪い情報は国民に隠し、重大な事故を引き起こした教訓に照らし、情報の公開は当然のことです。

(中略)

報道“規制”委なのか
 「しんぶん赤旗」の追及に、規制委の説明は二転三転しています。最初は「特定の主義主張を持つ方は遠慮してもらう」としていましたが、それこそ言論弾圧そのものです。規制委の田中俊一委員長は「独立性」を口にしましたが、委員会の独立性と、記者会見に参加する記者の選別は関係ありません。ついにはいうに事欠いて、スペースがないと言い訳する始末です。

 もし規制委が赤旗記者の排除をあくまで改めないなら、それこそ規制委は「原発なくせ」の主張を敵視する、報道“規制”委なのかとの批判を免れなくなります。

 「赤旗」を閉め出す根拠は、「委員会発足の時点で速やかに決めておくべき事項」と題された資料にまとめられている原子力規制委員会の内部規約だという(17ページ)。要するに、記者会見等に参加を求める報道機関の範囲が新聞協会会員など名指しで限定的に定められているのである。「スペースがない」というのは、共産党の抗議を受けて出てきたことであるが、これまで会見場が一杯になったことはないという。

 共産党は、これまではそのような排除を受けたことはなかったと書いているが、共産党が取材できていたのは、会見後の「突撃」取材や「ぶら下がり」取材といった非公式なものに限られていたとの情報もある(例えば下記)。

(ニコニコチャンネル:2012-09-28 17:00:00配信)

 このことの真偽など実はどうでも良くて、問題は、商業紙(営利企業)や「電気新聞」はOKなのに、国会に議席を持つ公党の機関紙を行政機関の記者会見から排除するという、およそ民主主義のイロハを理解しないその感覚にある。

 この出来事を通してまたもや実感するのは、日本のジャーナリズムの底知れぬ堕落である。ほとんどの一般商業誌紙は事実の一旦を伝えるだけで、まともに抗議の意志を示したのは「東京新聞」くらいではないか。地方紙のほとんどは報道さえしていない。フリーでも例えば江川紹子氏は、「自由新報も公明新聞も来れば入れるってことでいいんぢゃにゃい?」とtweetするだけでおしまい。

 タイトルにある「本性をあらわにする原子力規制委員会」とは、要するに、原子力を推進しようとする者達の本性は、人権感覚や民主主義感覚の欠如と一体のものとしてあるという意味である。

 江川紹子氏が原子力推進派でないことくらいは知っているつもりであるが、この件についての反応が鈍いのも、福島の放射能汚染への対応についての議論で管理者然とした主張を繰り返してきたことと無関係ではないだろうと、妙に納得される。

 それにしても、この件についてのtweet で「赤旗」の排除を批判するのに、「自分は共産党支持者ではないが・・・」というのが、まるで共産党の特定の主張に賛同する際に不可欠な枕詞でもあるかのように多用されるのも興味深い社会現象である。私のこの記事この記事のように、その枕詞抜きで共産党の主張に肩入れしようものなら、党派性に根ざしたねじ曲がった主張だとの奇妙な批判がわき起こるのは周知のことではあるのだが・・・

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 「福島のエートス」という取り組みをめぐって意見が対立している。主催者のウェブサイト(ETHOS IN FUKUSHIMAにある説明(エートス(ETHOS)って何?)によると、その趣旨は次のようなものであるらしい。

住民が自主性を持って、生活と環境の回復過程に関わって行く活動。

地域住民の生活スタイル、食生活、農林水産業での手法、工業生産、社会的または法的制約、援助、補償体制等々を考慮し、住民のそれぞれの視点を共有しながら問題に対処するのが特徴。

地域に密着した、現実的な放射線防護文化の構築。

住民自身が自らのおかれた状況を理解し、計測し、自分なりの解釈をする事ができるようになれば、個人・集団で、放射能汚染への対応をどう改善して行くのかを自分たちで見つけ出し「現実的な放射能との共生」が可能になる。

 同じサイトの、対話集会の記録には次の記述もある。

(5) エートスとの出会い
 〈田人での勉強会→住民参加の必要性〉
  →ICRP111付属書の「エートス」プロジェクトの存在を知る。
  →日本語資料JAEAレビュー2010-022「原子力緊急事態時の長期被ばく状況における放射線 防護の実施と課題」を読む。

 出発点は、「自分たち自身を、福島を、見捨てない」を、ひとつ、形にしてみたいということ。 
見捨てないは、ひとつめに、十分な情報と十分な支援にもとづいて、住民自身が、避難/残留を判断すること。
 ふたつめに、そこで暮らすことを選んだ住民には、住民自身が主体的に判断しながら暮らせる態勢を作り上げる事。 

 これに対する批判は、主に、チェルノブイリ原発事故の後で立ち上げられたベラルーシのエートス・プロジェクトとの関係で論じられている(例えば下記)。

 コリン・コバヤシ氏によるエートス・プロジェクト批判:


 批判は三点に要約される。

 第一に、この運動のモデルとなったベラルーシのエートス・プロジェクトはフランスの原子力ロビーが推進したもので、原子力産業界の利益が損なわれることのないように意図されたものである。その中心的担い手であったジャック・ロシャール氏が頻繁に接触している「福島のエートス」もまた、原子力産業界が国際的に結託して関与・暗躍した結果現れたものである。

 第二に、十分な情報を提供した上で住民自身に判断を委ねるとしつつ、ベラルーシのエートス・プロジェクトでは、健康被害についての重要なデータが実際に隠蔽されてきた。

 第三に、ベラルーシでは、エートス・プロジェクトが開始された頃から逆に健康被害が拡大した。結局これは人体実験だったのである。

 以上の批判はベラルーシのエートス・プロジェクトについては有効かもしれないが、ジャック・ロシャール氏が接触していることのみをもって「福島のエートス」と原子力産業界の密接性を主張するのは難癖にすぎないと感じる。その出自について憶測をめぐらしたところで、主催者の安東量子氏自身が明確に否定し、その直接的な証拠もない以上、無意味である。原子力ロビーとの結びつきに拘った批判は、被災住民自身によって忌避されるだろう。もちろん、ベラルーシのエートス・プロジェクトについての情報は、「福島のエートス」がそれをモデルとしている以上、無視してよいものではない。

 私自身、避難か残留かの選択は被災住民自身の自由意志に委ねられるべきで、その判断は尊重されなければならないと主張してきた。こんな記事も書いたくらいである。汚染地域に残留することを決断した被災住民への支援の必要性については議論の余地はないだろう。実際、被災地の住民を支援する取り組みは、除染や、放射能・放射線量測定や、健康診断・相談など様々になされている。

 そうした中で、なぜエートスだけが批判されてしまうのか。おそらくそれは、この事業が「エートス」という倫理・道徳的な意味の付帯した名を持つことから、個々の課題に対応した被災者支援の事業とは異なり、ひとつの、包括的な戦略をもったムーブメント(運動)とみなされているからであろう。安東氏自身が、ベラルーシのエートス・プロジェクトを活動のモデルとし、ICRPの放射線防護指針を規範としていると述べ、ある種の教育・啓蒙的な活動を展開してきたことから、そう判断して良いと思う。

 「福島のエートス」をこのように捉えるとき、大変気になることがある。それは、主催者のウェブサイトに掲載された主張や活動報告を閲覧して感じることであるが、何か大切なことが抜け落ちてはいないかという危惧である。そのことは、たとえば、togetter「福島エートスについての誤解を解く努力(なぜかここにリンクできないので検索されたい)の、コメント欄を含めての意見を読んで膨らみ、形をなしたのであるが、三点に分けて述べてみたい。

1)過度の自己責任論
 被災住民自身による判断が強調されることで、過度の自己責任論に陥る危険性がある。この先、低線量被曝による晩発影響が疑われる事象が生じても、それを訴える声が、コミュニティの中で自粛されたり、圧殺されたりはしないだろうか。イラク人質事件に際しての自己責任論の大合唱を思い起こすとき、結果責任は全て被災住民自身が負わなければならないとの主張が幅を利かすであろうことは想像に難くない。

 そのとき、この運動の「責任者」はどのように責任をとるつもりであるのか、予めそのことは告知しておいた方が良いと思う。支援者達の顔ぶれをみると、このプロジェクトを実施している地域での放射線被曝による健康被害は絶対におこり得ないと考えているようであるから、逆にそうした告知は簡単になせることではないかと思う。尤も、そうすることで、自己責任を引き受けることから出発するというこの運動の本来の理念が損なわれてしまうかもしれない。この運動自身が本来的に内包する問題である。

 関連して付け加えるなら、「安全か危険か判断を下すのは住民自身」「専門家の先生に『判断は差し挟まないでほしい』と依頼しました」としているが、「勉強会」に招く講師・専門家を選択しているのである以上、結果的に判断基準は選択された専門家の見解に委ねられることになる。そうであるなら、講師の選択もまた、主催者ではなく、被災住民自身の合意によってなされる必要がある。都合の悪い事実を隠すということもあってはならない。例えば次の記事なども大変気になることである。


2)強いられた選択(奴隷の選択)という事実から目をそらす
 避難か残留かの選択は被災住民自身の自由意志に委ねられるべきであることは論を待たない。しかし、「自由意志による選択」という一面を強調して、そこで終わってしまうなら、その選択が、実は強いられた選択(奴隷の選択)であるという事実から目をそらす役割を果たすだろう。

 誰であっても、放射能で汚染された土地で暮らしたくはないであろうし、何らの援助も保障もないまま見知らぬ土地で避難生活をおくることもまた極力避けたいと願うであろう。本来、どちらも選択したくはないその二択を無理強いされているという現実について目をそらさずにいようとするなら、この「奴隷の選択」を強いている元凶は何であるのかということが当然のこととして追求されなくてはならない。そのことは、被災者であろうとなかろうと、この社会を悪しきものから護り、まっとうに発展させたいと願う全ての成人市民がなすべき義務である。

 「エートス」が、ひとつの運動として被災住民を誘導する性格のものであるとしたら、そうした視点の欠落は、「奴隷の選択」を強いる元凶を免罪することに繋がり、その元凶を告発する最大の権利者である被災者自身から、その権利を奪い去る役割を果たすことになるだろう。たとえ原子力ロビーと何らの繋がりもない運動であったとしても、ベラルーシのエートス・プロジェクトと理念を共にするものである以上、結果的に、原子力ロビーの思うツボにはまってしまうのである。

3)自然災害と錯覚させ、責任の追求という課題を放棄させる
 これは、上記2)とも関係するが、その強いられた選択を、止むにやまれぬ選択、他にどうしようもない選択と強調することで、本来人災である放射能汚染という事態を、まるで、どうしようもなく起こってしまった自然災害であるかのように錯覚させるよう作用しないだろうか。

 「原発を廃止しても推進しても、今ある飛散したセシウムの量はかわりません。あなたは、被曝を低減するのに協力するのか、しないのか・・・」

 あるエートス支援者による、一種の脅迫であるが、この言説からは、放射能汚染という事態が人災であるとの認識は微塵も感じられない。この先原発を推進したら再び悲惨な事故が繰り返され、放射性セシウムはさらにこの地球を覆い尽くすかもしれないではないか。そうなれば、今は被災者ではない者も、やがて被災者になる。

 広島・長崎の原爆被ばく者達が、二度と同じ過ちを繰り返さぬようにと核廃絶の運動に立ち上がったのは、人災との認識にもとづく。被団協が、核廃絶の運動と被ばく保障を求める運動とを一体のものとして取り組んできたのは当然の倫理的帰結であった。たとえば水俣病では、水銀汚染の中でいかに暮らしていくかということを運動の中心に据えることなど、そもそも発想され得なかった。沖縄では、米軍機の騒音の中で、「いかにストレスなく暮らしていくか」といった、あるいは墜落などの危険の中で、「いかに自己防衛するか」といったことに重点を置く運動が発想されよう筈もないのと同じである。まさかオスプレイを「正しく怖れよなどと言う訳でもあるまい。

 日本の原子力ロビーからは、東電原発事故は想定外の津波のせい、つまり天災であったとの宣伝が盛んになされているとき、そこに与しようとしているのかとの疑念は拭えない。レベル7の原発事故によって、この地球がグローバルに汚染されてしまったことから、日本人全体が、世界の人々に対して負っている責任というものを考えない訳にはいかない。


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