さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

社会のこと

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1超宗教・超宗派の宗教者の連携による声明「宗教者は原子力発電所の廃止を求めます」7/13 http://www.windfarm.co.jp/blog/blog_kaze/post-11211 … 薬師寺長老安田暎胤、カトリック大司教池長潤、臨済宗妙心寺派管長河野太通、金光教羽曳野教会長渡辺順一他よびかけ人51名。

原発については科学的に議論すべきな人は、どう感じるのでしょうか?

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[本][物欲]日本の数学の教科書を英文で読むと遥かに平易で理解が進むと気づいた時、世界が変わったのを思い出す。今度は日本語で喘いでみたい。 / “数学は言葉 - hiroyukikojimaの日記” http://htn.to/kLXpB8 

若い頃にそんな経験をしたかったなあ。
この記事の導入部分に書いた事と関係あるのかも。(7/28)

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アメリカの軍産複合体の巨大ビジネスの「顧客」になり、平時における自国民をも危険に晒す。日本国の属国ぶりは底抜け。オスプレイの事故率や危険性だけが問題なのではない。この底抜けさ加減。そのおかしさが問題とすら認識されない異常さ。オスプレイで惹起した問題を「沖縄問題」にする酷さ。

「オスプレイ問題」の本質(7/24)

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Jun Makino@jun_makino
かなり今更感。

 これは、森口祐一さんのこのtweetへの感想。
私の5月28日のエントリー忘れてはならない東京電力の隠蔽工作でもふれた、「3月20、21日の放射能大量放出」についてのtogetter2011年3月21日に放出はあったかについての感想でもあろう。

この中で早野さんは「3/21に放出があった.その明確な証拠」として、これをあげている。
早野さんはかなり早くから認識していたのに、情報として共有されることの重要性について、どの程度の認識があったのかわからない。(7/12)

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Shibata Takaya ‏@sivaprod
”わたしは24歳まで、「ピロシキ」を「ピロツキ」だと思い込んでいた。” ツとシを書き分けないひといるよねー。この人のブログいいなあ。http://bit.ly/NsITiz

 これは,言いまつがいではなくて,書まきちがいでもなくて,書き分けないのはなし.
ピロツキ,じゃなかったピロシキは,日本の「ツンドラ」とか「トナカイ」とか,「バーニャ」とかのロシア料理店ではナイフとフォーク付で出されることがあるけれど,ロシア農民の弁当なので,手に持って喰うとそこはかとないロシア情緒も味わえる。(7/7)

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さつき ‏@novluno
子どもを守るとか子どもを盾にするなとかどっちもキモい。子どもといえどただ小さいというだけで、この社会の一員なのだから汚いところ含めて見るべきだし、大人は大人で汚いものを作ることに加担した自分の責任についてもちゃんと向き合わずして何ができるんでしょうね。
御意
あっ、この人、私とは別人です。(7/5)

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デモで音楽をかけるかどうかは、それ自体、合理的でもなんでもないですから。かけなくてもいいのにかけるというのは、それが嫌な人を排除しているわけですが、それに気づかなくてもしかたありません

それは、デモに参加しようと本気で考えた者が言うことじゃないかなあ。
この人はどうなんだろう。(7/4)

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http://twitter.com/anmintei/status/219231307971043328
「逮捕されない非暴力」という戦略は、行動の範囲を、逮捕権を持つ者が決めることを認め、合法であるかぎり、何をやっても良いことになる。一方、ガンディーの非暴力は、「法や逮捕は関係なく、自分自身の心にかなう事を、礼儀正しく行う」ということである。「自治(スワラージ)」とはそういうこと。

了解 (7/1)

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反差別を旨をしてたはずのリベラル陣営が、原発事故で「政治的に正しい差別は許容される」という理論を暗黙のうちに認めた事は大きい。

えっ、そうなの? 「リベラル陣営」のメンバーって誰? (6/15)

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とりあえず目に止まったのでひとこと。

犯罪に走るヤツは走るわけだし、いい加減一般人に武器の携帯を許可してくれないかな。丸腰じゃなかったら止められる人もいたかもしない。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120610- …

犯罪者は一般人の中から生まれるのだけど・・・

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だまされゆく人達


 毎日新聞の5月24日のスクープ要約すると、内閣府原子力委員会の、「核燃料サイクル技術等検討小委員会」において、4月24日、原子力推進派ばかりを集めた秘密会議が開かれ、そこに、委員にはまだ公開されていなかった報告案の原案が配布され、検討の結果、その原案が書き換えられた最終案が作成されたというもの。今後の使用済み燃料の処理方法について、原案では「全量再処理」「全量直接処分」が総費用において優位」と明快に言い切っていたのが、書き換え後は、「優位になる可能性が高い」と後退する一方、「再処理・直接処分併存(併用)」の利点を強調する表現に改められたという。

 冒頭にリンクしたtogetterでは、毎日新聞斗ヶ沢秀俊記者のまとめに対して、小委員会の座長を務め、「秘密会議」にも出席していた鈴木達治郎氏が反論、途中から、江川紹子氏なども加わってインタビュー形式のやりとりとなる。

 翌25日には、一連の鈴木氏の反論をまとめたような内容の「見解」が、内閣府原子力委員会のHPにおいて公表された。鈴木氏側の主張の要点は二つある。

1)「秘密会議」ではなく、最終報告書のとりまとめに必要なデータを関係者に提示してもらうための作業部会である。データを持っているのは関連行政官庁と事業者に限られるので、当然あのようなメンバー構成となる。こうした会合は技術的な問題のからむ政府答申のとりまとめに際しては不可欠のもので、この小委員会に関係しても過去20回以上開催されている。何らやましいところはない。

2)秘密の会合で報告書案が修正されたというのは事実ではない。報告書案はすべて検討小委委員の確認を経て作られていくので、特定の立場を反映するような運営はしていない。

 この間の経緯は、「見解」において、次のように説明されている。

 4月24日の会合に提出した資料の中に、「総合評価案」と題するものが含まれていたのは事実ですが、これはその後何度か用意された原案の一つです。実際、4月24日の会合の後、小委員会の委員のご意見を踏まえて改めて別の原案が作成・修正された上で会議に提出されました。その過程は以下の通りです。4月27日の検討小委で座長は、5月8日の会合にむけて、「総合評価案」作成のための意見書を5月2日までに提出するよう各委員に依頼しました。その意見書を踏まえて、座長は原案を作成し、会合前の5月7日に小委員会委員にそれを配布し、コメントをいただき、最終原案を5月8日の小委員会に提出しました。 

 5月8日の会議(公開)では、提出された最終原案の審議が行われ、その後、座長は委員各位のご意見をできるだけ反映した最終報告書案を作成し、全委員に修正内容を確認していす。また、この作業は5月16日の会議の後にも行っています。したがって、この検討小委員会の報告書を、「特定の事業者や立場に有利なように書き換えた」ということは事実無根です。 

 さて、twitterを通しての「インタビュー」において江川氏は、4月27日の検討小委員会では「原案」は示されなかったという重要な事実を引き出している。事業者側にはそれより前の24日の「秘密会議」において「原案」が配布されたのに、27日の当の委員会では、「原案」が委員に提示されないまま5月2日までの意見書の提出が求められたというのである。これは調べればすぐにわかることなので江川氏の功績というには値しないが、このtogetterの最大の山場ではある。


 当然、この事実は、鈴木氏側にとって大変具合が悪い。もし私が委員であったなら(あり得ないが)、毎日新聞のスクープと上記の「見解」を読んだら激怒しただろう。原子力推進側だけは、予め「原案」の理路を知らされ、これに修正を加えるべく自らの主張に都合の良いデータを十分な時間を使って収集し、作戦を練ることができたのに、慎重派や反対派は場当たり的な対応に追われることになったからだ。慎重派や反対派も単なる素人ではなく、それなりのデータを持っているのだから、予め「原案」の理路を知っていれば、より的確な意見書を準備することができた筈だと考えるのが常識的な理解であろう。

 そこで苦し紛れの弁明がなされる。上記に引用した「見解」では、「4月24日の会合に提出した資料の中に、「総合評価案」と題するものが含まれていたのは事実ですが、これはその後何度か用意された原案の一つです」と書かれている。

 これは大変奇妙な日本語である。「原案の一つです」という文言からは、いくつも併存する(数ある)「原案」の一つに過ぎないとの印象を受ける。しかし、「その後何度か用意された原案の一つ」という表現をよくよく吟味してみると、これは、時系列的に書き換えられて行く途上にあるものということになる。事実として、この事案に対して「原案」は一つしか存在しなかった。それを、「原案の一つです」と書くことで、大した書類ではないとの印象操作をおこなっているのだ。

 報告書案が、すべて検討小委委員の確認を経て作られたというのも欺瞞である。5月2日の期限で提出され、5月8日の会議で配布された「原子力発電・核燃料サイクル技術等検討小委員会メンバー からの提出資料」には、原子力資料情報室の伴英幸委員の意見書が収録されているが、この意見などは、最終案にはほとんど反映されていない。「委員の確認を経て」というのは、単に、「意見は意見としてお伺いしました」というほどの意味にすぎない。

 親委員会「新大綱策定会議」の委員である金子勝氏の5月24日のtwitterから引用しておく。

藤村官房長官は秘密会議を認めたが、電気事業者による修正はないと発言。だが4月24日の新大綱策定会議で、核燃料サイクル技術小委員である伴委員が、政策転換費用を加えないと委員長らが言っていたのに修正されたと指摘。私は財務の視点から問題を指摘。


 鈴木氏側の「見解」には、「公正な運営に最大限尽くしてきた」と書かれているが、このような欺瞞に騙される者などいない、と、思っていた。ところが、件のtogetterのコメント欄を読んで唖然とした。ほとんどが、鈴木氏と江川氏の「冷静なやりとり」に感心し、毎日新聞の記事を誤報扱いし、この事件に怒っている飯田哲也氏を揶揄している。鈴木氏の反論にすっかり感化され、そうだそうだと大合唱している。まんまと騙されているのである。

 むしろ、これを極秘にしておかなければならない理由と、それが発覚してしまったことの重大さを正しく理解しているのは、ほかならぬ近藤駿介委員長だ。毎日新聞によると、近藤氏は、「(報告案を配っているなら)度を越えている。私の監督責任にかかわる問題」と述べたという。ところが、その近藤氏も、「秘密会議」に出席していたことが発覚する。こうした「秘密会議」は現行の原子力政策大綱作成準備期間中の04年にも頻繁に行われ、出席した近藤氏は「表に出た瞬間にやめる」と発言したとされる。

原子力委:04年にも秘密会議「露見なら解散」(毎日jp 2012年05月26日 02時30分)

 本日はまた、本体の「新大綱策定会議」の議案も、既に2月16日、秘密会議で事前に配布されていたことが発覚した。


 内閣府原子力委員会が原発推進側だけを集め「勉強会」と称する秘密会議を開いていた問題で、原子力委の「新大綱策定会議」で使用する議案の原案が2月16日、秘密会議で事前に配布され、その後内容が追加されていたことが分かった。核燃サイクル政策を論議する小委員会への関与は発覚していたが、原子力政策全般を対象にした策定会議への影響が判明したのは初めて。問題が小委員会にとどまるとの原子力委の説明は虚偽で、批判は一層厳しくなりそうだ。

 原子力委は毎日新聞の報道で秘密会議の存在が発覚した翌日の5月25日、「見解」と題した文書をホームページにアップし「(秘密会議は)小委員会の資料準備のための作業連絡」の場と説明。近藤駿介原子力委員長も5月29日の策定会議で「小委員会の作業をするため、小委員会の座長である鈴木達治郎・委員長代理に提案して(秘密会議を)設置した」と述べ、自らが議長を務める策定会議との関係を否定していた。

 これが露見してしまったことの重大さを理解している原子力委員会は、そのHP上で、6月5日に予定されていた次回の新大綱策定会議(第21回)の中止を告知した。一から出直すべきだ。

 さて、件のtogetter のコメント欄の、毎日新聞のスクープを誤報扱いする諸氏はどうだろう。原子力政策に特別に重く課せられた「自主・民主・公開」の原則の意味を理解せず、なし崩し的に再処理政策を温存しようと目論む原子力推進派の、その策動に荷担する世論の担い手となり、これに反対する意見を持つ者を攻撃しているのである。

 仮に彼らが、「またもやだまされた哀れな人達」だとして、何の罪もないだろうか。自分は元より原子力推進派であると主張するならまだしも、騙した方が悪いとの言い訳は社会人としては通用しない。もちろん、一番悪いのは騙した方である。
 以下は、一つ前のエントリーに再掲した樹々の緑さんのコメントへの返信です。重要な指摘に満ちたコメントをありがとうございました。

 ご指摘のことは、もしかしたら、最近の私のいくつかの記事に確固とした統一的な視点が見いだせないことへの戸惑いが発端となっているのかもしれませんね。福島大学の「副読本」を紹介したエントリーへの、png*96*さんのコメントにそうした戸惑いが表明されています。

初めまして。ニセ科学関連からこちらを知り拝見するようになりました。
http://www.yasuienv.net/index.htmlもよく読んでおり、この中で副読本についての批判があります。(肥田本その2内において)

両ブログとも信用できるサイトと思っているので、反する意見に戸惑っています。
2012/4/10(火) 午後 2:05 [ png*96* ]

 このpng*96*さんの戸惑いは、樹々の緑さんの戸惑いとは異なる視点からのものと思いますが、いずれにしても私は、ある時は「デマ狩りには熱心でも、地震の多い日本でも安全な原子力発電は可能だとの最大のデマには口をつぐんだままであったりする」科学者達の姿勢を批判したり(2011/5/14)、「「倫理」の上に「科学」を置」いてはならない(2012/2/16)と主張したりしながら、一方で「デマ狩り」に類する記事を沢山書いてきたりした訳ですから、そうした戸惑いが生まれるのも無理からぬことと思います。

 ひとつには、私なりに物事の優先順位を設定しつつ、問題の難しさ故に、実際にはその通りの表出が出来ていなかったということがあります。「デマ狩り」は簡単なんです。もう一つ、前提として書いておかなければならないのは、このブログは、私の専門性を離れて、あくまで一市民としての意見表明の場であること、また、トラックバックを送らない、バナーを貼ったり相互リンクしたりしないという運営方針(このブログについて)で、社会的な影響力を行使することを目的としていないということがあります。それでも、一市民として何ごとかを主張するにあたって、基本姿勢を鮮明にしておくことには意味があるでしょうから、いろいろな方のまとめを拝借しながら、この点について述べておきます。

 例えば、ウエブ上の数少ない巡回先で私の基本姿勢に最も近いのは、「シートン俗物記」Dr-Setonさんの「「正しく怖れよ」な人には水を引っかけちゃいな」に書かれている立場です。このブログの読者の中には意外に思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、ベースとなるところは、既に私の水俣病についての記事の中で明らかにしていることです。


 何より、原発推進派の倫理観の欠如には怒りを覚えますが、「デマ狩り」ばかりに熱心な自称中立の科学者達にも同様の倫理観の欠如を感じ、いらだちを覚えます。私はtwitterを使用していないし、他人のtweetもほとんど参照していなかったのですが、この間検索して参考になったまとめとしては、例えば、池田香代子さんとの対話〜脱原発とニセ科学批判があり、これをまとめられたA_laragiさんの立ち位置にも近いと言えるでしょう。この方は、「原発業界御用学者リスト @ ウィキ」にコミットしたことで大阪大の菊地誠さんに研究者としての倫理観のなさを批判されたりしたのですが、私には言いがかりとしか思えません。

 私は、いわゆる「ニセ科学」批判に熱心だった方々の中に、この間の原発事故の見通しや時々の現状認識に関して多くの科学的判断ミスや過誤があったと認識しており、そのことが遠因となって生じたかもしれない災厄についての反省が不十分であったと考えています。そこで、この1年間、「科学者はなぜ間違え続けるのか」ということをずっと考えてきたのですが、ずいぶん後になって、たとえば東工大の牧野淳一郎さんのように、一貫して正しい見通しと現状認識を示して来た「栄光なき天才たち」も居たことを知りました。

 また、東京大の押川正毅さんが、早くから「ダメ科学」という言葉を用いて問題提起をされていたことも知りました。

 さらに、この点についての回答の一端は、既に震災前の2008年、名古屋工業大市村正也さんの「リスク論批判:なぜリスク論はリスク対策に対し過度に否定的な結論を導くか」と題する論文の中で明らかにされていたことも知りました。

 市村さんはその中で、狂牛病BSEや水俣病の問題を例に引きながら、科学的な議論の中ではあまり意識されることのない、関係者がルールを破るリスクや、専門家が故意に噓をついたり情報を隠蔽したりするリスクが大きいことを指摘されています。良い機会なのでついでに触れておくと、あまり知られていないかも知れない「隠蔽」の一例として、「2011年3月20日、隠蔽された3号機格納容器内爆発」があります。ブログ主の岡田直樹さんのご専門は現代フランス哲学とのことですが、むしろこうした解析は専門の科学者こそが取り組むべき課題でした。「ニセ科学」批判クラスタがこうした問題をスルーして来たのは何故かという点も大変重要ですが、この問題にはここではこれ以上立ち入らないことにします。

 さて、上記市村さんの論文のサイトに貼ってある、「遅ればせながら、2011年3月11日の震災をうけてのつけたし」の中に重要なことが書かれていますので、引用しておきます。

 専門家にだまされるリスクがある、ということが論文の主張の一つだったが、あの原発事故を経験した今では、多くの人にとってそのことはすっかり自明のことになってしまった。事故の解説でマスメディアに登場した○○大学教授たち(特に、東京大学教授たち)は、明らかに嘘を言って私たちをだまそうとしていた。情報がなくてわからなかった部分もあったのかもしれないが、そういうときはわからないといえばいいものを、彼らはわかっているふりをして解説をしていた。私はそう考えているし、同じように考えている人は多い。

(中略)

 専門家の言葉を人々が信じなくなったことで、食品やがれきの放射能に関する安全基準も信用されなくなり、問題の解決策を見出せなくなってしまった。やっかいなことに、この安全基準に関しては、本当の正解を実は誰も知らない。にもかかわらず、専門家たちは「安全だ」あるいは「危険だ」と強く断定的に主張している。はっきりわかっていないはずのに専門家が断定しているときは、実はなにか隠れた意図がある。私たちはそのことを震災によって学習した。だから、専門家たちが主張の言葉を強めれば強めるほど、人々の専門家に対する疑いの念は強まっていく。
 では、どうしたら専門家が信頼を取り戻せるのだろう。あらゆる専門家たちにとって、この問題は切実な問題のはずだ。実のところ、私もいちおう太陽電池の専門家である。ネット上で太陽電池に関して間違った意見や説明を見つけることがあるが、仮にそこで「私は太陽電池が専門の大学教授です」と名乗って何かを書き込んだとしたら、はたしてその内容を信じてもらえるのだろうか。どうせ企業からお金をもらっているだろうから(実際、少しもらっている)、都合の悪いことは隠そうとしているに違いない、と思われてしまうのではないだろうか。

 私には、この専門家不信に対して、はっきりした解決策を示すことはできない。一度失った信頼は容易には取り戻せない、というのは陳腐な紋切り型であるけれども、どうしようもなく真実だと思う。唯一、私に言えることがあるとすれば、「専門家はまず口ごもるべき」ということだけだ。自分が疑いの目で見られていることを自覚する。自分の言葉はかならず裏を探られると意識し、それから口を開く。それは、原発推進派だけでなく、原発や放射能の危険性を訴える側も同じだ。放射能の安全基準のような問題に関しては、自分は間違っているかもしれないということを、はっきり表明したほうがいい。それは一見自分の主張を弱めるようであるけれども、自分の弱みもおもてに出し、自分には他人を操ろうとする意図がないことを納得させて、それでようやく人々は専門家の言葉に耳を傾けてくれるのではないだろうか。(2012年4月)

 私は、この市村さんの主張に賛同します。また、科学的にはどんなに正しくとも倫理的に間違った主張は社会的に許容されないことは、優生思想を引くまでもなく自明のことです。科学の上に倫理を置くべきなのです。

 しかし、これらのことはなかなか科学者の中で理解されないという現実があります。たまたま目にしたブログ記事の中から一例をあげると、例えばbloom@花咲く小径さんの記事、「続・生物学者のリスクの見積もり方:冷徹な科学こそが優しい(1)」では、「思想や感情を排した科学こそが人々に優しい」と主張しつつ、中川恵一さんや山下俊一さんの正しさを説き、児玉龍彦さんの誤りを指摘されているのですが、中川さんや山下さんの、そしてご自身の活動がほんとうに「思想や感情を排し」たものであったかという点については検討されていません。しかもコメント欄を閉じたまま類似の記事を連投されていて、これでは仲間内だけには支持されても、市民の中には科学者不審を助長していくばかりではないかと危惧します。

 市村さんは、「それは、原発推進派だけでなく、原発や放射能の危険性を訴える側も同じだ」と書かれていますが、私は、市村さんの指摘は、科学者だけでなく、政治家やジャーナリストや団体代表者のような、社会的影響力のある全ての立場の方々に意識してほしいと考えています。私が「デマ狩り」の対象としたのは、そうした方々です。実際、原発や放射能の危険性を訴える側の中にも、そして、敢えて言えば専門家ではない市民の中にも、単に専門家に騙されたでは済まされない倫理観の欠如を見いだすことができます。私がそう判断するのは、実際に対話を通じて、相手がどのように対応するかを手がかりとしています。

 しかし本質的な問題は、当の被災者である方々の中に、事実と異なる言説や、倫理的にも問題のある言説が見いだされ、それが実際に被災者支援の障害になっているように見える場合、そう感じた者としてどう対処したら良いかというところにあり、この点が樹々の緑さんのコメントの核心であったろうと思います。この点、私が、福島大学の「副読本」がすばらしいと書いたのは、それへの回答の一端が示されていると考えたからです。

●放射能のことを心配し過ぎる方が,健康によくない 
 ・・・このような見解は,放射線の被ばくによる健康影響の原因を,被ばくした人の心の不安,つまり「被害者側」に帰着させます。そこには,「加害者の責任を見えにくくし,被害者へ転嫁する」という,倫理的問題があります。・・・

 それは、樹々の緑さんが次のように書かれている事に通じるものだと思います。

不安を持って事実に向き合っている人に、「(トータルな意味での)不安は正当である」と言わないままに、「あなた方の事実認識は間違っている」と言ったところで、それが正しくても受け入れてもらえることは困難です。ウェブ上のやり取りは、無味乾燥な文字列に依拠するものですから、ことさら言わなければなりません。

 そして、冒頭にリンクしたシートンさんの記事は、この問題を正面から採り上げていると感じる訳です。そこで一歩引いて口ごもることも必要かもしれない。少なくとも専門家はそうすべきかもしれない。しかし一市民としての私は、対話を通じて解決の糸口を見いだす努力も無益ではないと考えています。憲法記念日の記事に書いたことは、私の努力目標です。
 以下は、前回のエントリーへの樹々の緑さんによるコメントです。この間の東電原発事故にかかわる様々な議論についての大変重要な指摘に満ちていると思います。ご本人の了解を得ていませんが、ここに再掲させていただきます。一部、読者への便宜のために、リンクを貼るなど加工していますので、不都合があればご指摘下さい。

 私も、基本的にはこの樹々の緑さんの問題意識を共有しています。私の立ち位置に関してはいくらか補足が必要ですので、私の返信は、別エントリーとして投稿します。

さつきさん、「toriiyoshiki'sBlog」における激しいやり取りを参照しました。あれは疲れますね。

論争者らにおいて説明されていることを充分理解したとはとても言えないのですが、南相馬市議氏が「取り憑かれているように」主張していることや、専門家の見解に対する基本姿勢(=危険性を肯定する方向での片面的な支持と引用)に対しては、単なる偏見・無知無理解というような対応では解決がつかないだろうということは、よく分りました。

ですから、反原発にせよ脱原発にせよ、あるいは福島やその他の放射線被害が及ぶべき地域にいる人たちの生命・健康を守るにせよ、力を合せて行くためには克服しなければならない課題がそこにあるのだという認識こそが、要求されているように思います。

なぜ、彼らはこれほどまでに頑なに危険性をいうのか。

おそらく、最大の問題は、低線量内部被曝の危険性について、疫学的見解が一致していない(いわゆるホルミシス効果をいう者から、ペトカウ効果をいう者まで)ことが、根底にあると思っています。
実は私も、心情的には彼らに近い印象を持っているのです。もっとも、科学的論理性を放棄する意思は毛頭ありませんからご安心下さい。事実認識において客観性を貫徹することが、すべての出発点ですから…。

しかし、いままで何十年の間、政府・東電や「御用学者」らは、末端の「原発ジプシー」と呼ばれる原発労働者の被曝労働を使い捨てにし、放射線の危険性をあからさまにしては来なかったわけです。それでもいままでは、原発労働者やごく限られた範囲の関係者だけの話だったのですが、今回の原発事故で、そうは行かなくなってきたわけです。

しかも1960年代以来、グローバルフォールアウトの人体への影響について、おそらく何らの緻密な研究も蓄積されてこなかったのでしょう。私にしても、原子爆弾による「遅効性」被害(いわゆる“晩発性障害”)に関して、そのメカニズムを基本的に知ったのは、原爆症認定集団訴訟があちこちで提起され始めてからのことだったように記憶しています。私の亡くなった叔父(被爆者)は、晩年になってからあちこちの臓器に原発性(非転移性)の癌ができて苦しみましたが、それが「晩発性障害」でないと断言できる根拠はありません。

そういう経緯に照らして考えると、少なくとも政府・東電やそれ寄りの学者らが「危険性はない」と言っていても、信用できない、となるのは自然なことです。

翻って、こうした政府系の人物のごまかしとたたかってきた研究者らに対する“素人”としての信頼についてはどうかというと、まさにさつきさんが言われるように、

> 結局のところ原発の事故を許してしまった、その根本の問題は、
> 私たち自身が、自らの問題として厳しく問わねばならないので
> はないか

という「問い」から、これら研究者らも逃れられないように思います。
もちろん、さつきさんの上の「問い」は、良心的な研究者らに向けられたものではなく、“素人”である個々の国民に向けられたものだとは承知した上で、そう言っています。

「ずっと以前から、社会のごくごく片隅で、自分たちは正しいことを言っていた、だから君たちがいまごろになって無知を曝け出して慌てふためくのなら、自分たちの言うことをよく聴いて理解しなさい」という態度で彼らに接する限り、どんなに「誠実な」研究者であっても、説得力は持ち得ない、ということを、厳然たる事実として受け止める必要があります。

それが、さつきさんが先日紹介された福島大学教員有志による『放射能副読本』においても、「低線量内部被曝の問題は、科学的事実の問題ではなく、倫理の問題として扱うべきだ」としていることに繋がると思います。すなわち、「効果が分らない以上、『正しく怖がる』ということもありえない」ということです。

「検出されているプルトニウムは、グローバルフォールアウトのレベルと有意差はないから、ことさらに危険視する必要はない」という言い方が反発を買うのも、そこに根源があると思います。要するに、「低線量内部被曝の人体に対する効果が『分っていない』のに、なぜ『ことさらに危険視する必要はない』と断定できるのか」ということです。

プルトニウムにしがみつくのも、内部被曝におけるα線やβ線の威力を彼らが知っているからだろうと思っています。そこに、「検出された」という情報が加わると、その分量が極微量であっても、「経気道的ないし経口的に体内に取り込まれる可能性は絶対に無い」と「証明」されない限り、安心できないのでしょう。
それに対して、実際に「蒙を啓く」つもりでいくら解説を重ねたとしても、「絶対」を求める彼らの心理に届く見込みはありません。

そこで結局のところ、1)環境中に先行して存在していた放射性物質による内部被曝の危険性をどう考えるか、2)今回の原発事故によって加重された(かも知れない)、環境中に存在する放射性物質による内部被曝の危険性をどう考えるか、という2点と、同時に向き合って結論づける必要があると思います。

ここで想起されるのが、先日参加した福島大学での研究交流集会分科会で、地元参加者から総反発を受けた医師(この人は、被爆医療に長年携わってきた人で、しかも福島市内在住の方です)が、たしか昨年6月に放映されたNHKの番組(たしか、“クローズアップ現代”)で、開口一番に言ったことです。

この医師がその時何を最初に言ったかというと、「放射能により確率的に発生する晩発性障害は、医学の発達により確実に克服できます。ですから、継続的な検査を受けていれば安心です」ということでした。

私はそれを聴いた時に、率直に言って、“素人”が関心を持つ一番肝腎なことを避けて「正しいこと」を言っている、と感じました。

要するに、「原発からの放射性物質の拡散によって、一定割合でこれを体内に取り込んだ人が晩発性障害を生じることは、状況から考えてもはや避けられません。しかし、」というような、本来発言の冒頭に来るべき言葉が省かれていると思ったのです。

この医師は、この発言から1年近くが経った先日の集会でも、「低線量内部被曝の効果は、分りませんねー」と、割合とぼけた様子で発言していたのですから、本当に「確率的に危険だ」とまで言ってしまうのに躊躇したのでしょう。
しかし、一旦体内に入ってしまえば、児玉龍彦氏が国会で言ったように、内部被曝との関係ではホールボディーカウンターでさえ無意味なのですから、放射性物質が集まりやすい臓器を中心とした「継続的な検査」が唯一の健康管理となるわけです。そのたくさんのデータ集積がなされて初めて、「疫学的エビデンス」が得られるわけです。
3月頃のNHKの番組で、南相馬市の住人が「自分たちはモルモットになるわけだ」と自嘲気味に話しているシーンがありましたが、一定の条件下では、それはかなり現実的な表現になると思っています。

これに関連して、相双地域への帰還の能否を考える際に、空間線量率のみを考える態度で構わないのか、ということが、いまだに疑問としてあります。
児玉氏などの言われていることを注意深く見ると、氏は、除染が意味を持つ放射線レベルの地域において、ホットスポットなどを極力無くして行く活動の重要性を強調しているだけで、除染に対して決して幻想を振りまいているわけではありません。
現に、3月24日放映のNHKスペシャル「故郷か移住か〜原発避難者たちの決断〜」の中では、浪江町の人たちに「年間50ミリシーベルトを超える地域は、ダムの底に沈んだと考えて下さい」と明言し、除染は無理だし、したがって帰還も諦めざるをえないと指摘しています。

これを考えるときに、「では、より低線量率(例:年間20ミリシーベルト未満)の地域は帰還できるとして、そこでの内部被曝の危険性についてはどう考えるのか」が、いま一つ不分明なのです。核種としてセシウム137があるため線量が高いとすれば、仮にこれが1ミリシーベルト以下であっても、「安全だから安心して住んで下さい」と言えるのでしょうか。

とくに、「自然放射能」と比較することは、問題を混乱させているように思います。セシウム137などの人工放射性物質は、人類が種として形成される過程で遺伝的に獲得した放射能耐性とは無関係の、ここ65年くらいで環境中に振り撒かれた物質に過ぎず、しかも、体内に取り込まれた場合の振る舞いについては充分に解明されていないと思うからです。

それともう一つ、除染の「賽の河原の石積み」性について、どのように考えるのかも、よく分らない点なのです。

例えば、先日第53回科学技術映像祭内閣総理大臣賞を受賞したNHKスペシャル「知られざる放射能汚染〜海からの緊急報告〜」では、事故から時間が経過した後になって、銚子沖や江戸川河口から数キロ上流の汽水域などでのホットスポットの存在を示していました。

番組中では、銚子沖については那珂川などの海に注ぐ「河川流」のなせる業であるという説明でしたが、利根川由来のものでないのか、疑問があります。というのも、江戸川の場合、上流から放射性物質が流れてきたとしか考えられないからです。番組でも、上流から流れてきたものが「凝集」によって汽水域の一定地点に沈殿したという説明でした。

山間部に降った放射性物質が、河川の流れによってこの汽水域にもっとも大量に沈殿するに至るのは、およそ2年強を経た後のことだろう、とこの番組では言っていました。

しかしだからといって、それまで手を拱いて待っているわけにはいきません。その間にも、水棲生物濃縮は進行してしまうからです。「除染」ということを考えるとき、海中・水中に対するものの困難はもとより、地上についても、地表水を経由して集積する放射性物質の除去の「賽の河原の石積み性」を考えざるをえない気がするのです。

南相馬の某市議のように、ある一点だけに突出して、しかも、客観的事実を誇大化し場合により歪めてまで危険性を喧伝するのは問題ですが、さりとて、彼らがいま述べたようなトータルな状況下に居続けることを余儀なくされていることも事実です。
結局、「あなたが言っていることは荒唐無稽であり間違っていますよ」という指摘が、本来力を合せるべき人たちの間でなされるとしたら、指摘する側も、相手が置かれている状況をトータルに把握しようとしているのだ、ということを示さなければならない、ということが、現時点での私の感想です。「その道の誠実な専門家が言っていることを理解できず、あるいは信頼しないなんて、とんでもない人たちだな」という態度では、結局、「自分たちこそが正しい」という自己満足の表明と、大した隔たりは無い結果となるでしょう。

両者の言い合いが、消耗な平行線を辿る根本原因は、私が見る限り、こうした「何が真実か」の領域とは別個の「事実に向き合う姿勢」にあると思います。
不安を持って事実に向き合っている人に、「(トータルな意味での)不安は正当である」と言わないままに、「あなた方の事実認識は間違っている」と言ったところで、それが正しくても受け入れてもらえることは困難です。ウェブ上のやり取りは、無味乾燥な文字列に依拠するものですから、ことさら言わなければなりません。
しかし、そのような意味での「誠実さ」は、あのやり取りの中では感じ取れませんでした。
さつきさんが、5月3日のエントリーの末尾で言っていらしたことは、おそらくそういうことに関係するのではないかと、感じました。

 前回、劣化ウランについての誤解について書いたが、関連して、ちょっと古いけれどもひどい記事を目にしたのでコメントしておく。

 未来バンク理事長田中優氏のウェブコラム「環境はエンタメだ!」の第二十八回「『流言飛語』という流言飛語に次のくだりがある。

3.11地震の直後、千葉のコンビナートにあるコスモ石油の液化天然ガスタンクで爆発が起こり、有害物質が降ったとのチェーン・メールが流れた。それに対しコスモ石油は「爆発により有害物質が雲などに付着し、雨などと一緒に降るという記載がありますが、このような事実はありません」と述べ、新聞も追従した。しかし6月30日の千葉県議会で、「隣接する劣化ウラン保管施設も延焼していた」ことが明らかになった。
デマ呼ばわりした報道のほうがデマだったのだ。しかし多くの人は気づかないまま、今でも劣化ウランの延焼はウソだと思っている。被曝してるかもしれないが、残念ながらα線の測定はほとんど困難。福島の汚染地帯では、α線の測定器は持ち込みを禁止されていた。

 この中にある、「残念ながらα線の測定はほとんど困難」というのも、「劣化ウランはα線しか出さない」という流言飛語に騙された結果出てきた言説であろう(前回の記事参照)。

 もっと深刻なのは、「福島の汚染地帯では、α線の測定器は持ち込みを禁止されていた」の部分。これを信じた人は、情報リテラシーの欠如を反省した方が良いと思う。法的にも、実効的にも禁止できる訳がないではないか。何を目的にこんなウソをつくのか理解に苦しむ。α線専用のサーベイメータは、一般のシンチレーションカウンターやガイガーカウンターに比べたらかなり高価だが、それなりに出回っているし、かの大山こういち南相馬市議も、これを持ち込んで、せっせと「不安煽り情報」を発信している。

 過去記事にもまとめたように、文科省も福島県で数ベクレル/m2になるくらいの量のプルトニウムの放出を認めているのであるが、いくら測定しても、このレベルを大きく超えるα核種が検出されないのは周知の事実である。その事実が知れ渡ったら何か不都合なことでもあるのだろうか。

 極めつけは、「しかし多くの人は気づかないまま、今でも劣化ウランの延焼はウソだと思っている」の部分。延焼したのは劣化ウラン保管施設である。イコール「劣化ウランの延焼」ではない。確認されている限り、劣化ウランそのものへの影響はなかった。


 ウソだと思うなら、安物の放射線サーベイメータで良いから付近を測定してみたらよい。危険な量の劣化ウランが飛散していれば簡単に検出できるから。

 劣化ウランそのものへ延焼したと主張するなら、その証拠を提示すべきだ。当局の発表を信じたくないのは勝手だが、その場合には「信じたくない」と書くべきで、「事実」を捏造してはいけない。

 人知れず大変なことが起きている、しかし検証は不可能だ・・・
これで陰謀論の一丁あがり。副題は「今のぼくらは幾重にもウソに囲まれている」とのことだが、これはいわば、「『流言飛語』という流言飛語」という流言飛語である。環境はエンタメなんかではない。こんないい加減な言説を信じてしまった者は、原発の安全神話に騙され続けてきた己の、その根本の問題をいまだ克服できずにいることに気付くべきだと思う。


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