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追記:NHK番組の文字おこし(その1)のエントリーへ、「赤の女王とお茶を」のsivadさんからトラックバックいただいた記事は、番組で紹介された『オークリッジ・レポート』の邦訳です。その1から、その3まであります。大規模な調査をもとに「黒い雨」の実態についてまとめられた(おそらく)唯一の資料で、大変貴重です。翻訳にあたられた皆様に敬意を表するとともに、御礼申し上げます。(8/20)
8月6日のNHKスペシャル 「黒い雨〜活(い)かされなかった被爆者調査〜」について、前2回にわたって文字おこしを掲載したが、この番組を観ての雑感を記しておく。
番組中のナレーション:「多くの人が放影研の説明に納得できずにいます」の通りで、納得できる人がいたらお目に掛かりたい。それにしてもカメラの前で、堂々とあのような主張ができる放影研・大久保理事長の神経は、想像を超えている。組織を守るために、もっと言葉を選んでも良い筈だ。このままでは、放影研は「アメリカの手先」そのものではないか。そうなのかもしれない。もそもそも、放影研の存在理由とは何か。
「公益財団法人 放射線影響研究所 定款」の「第2章 目的及び事業」には次のように記されている。
なるほど放影研は、「被爆者」と認められている人について研究する機関なのだ。一定以上の被曝線量を浴びたことが<科学的に>確からしいことをもって「被爆者」と認められた人の追跡調査から、放射線の人に及ぼす影響について研究をおこない、「被爆者」と認められた人の健康保持及び福祉に貢献し、もって人類の保健の向上に寄与する。
従って、せいぜいが10〜30 mSvといった「取るに足らない」二次被ばくなど問題にする必要がない。黒い雨を浴びたというだけでは「被爆者」とは認められないのであるから、当然、研究対象外であったという訳である。これに対して、番組中、斉藤医師は次のように述べてこの放影研の姿勢を批判している。
私もその通りと思う。ABCC-放影研の研究を基礎に、現在の放射線防護指針が作成されてきたのだが、その研究姿勢が、そもそも「科学の常道」から逸脱しているのである。
中国新聞の昨年12月の取材で、大量なデータの存在がなぜ分からなかったのかとの質問に、放影研は次のように回答している。
苦しい言い訳である。黒い雨の大規模な調査がなされて半世紀以上、放影研に改組されて37年もの間、この貴重なデータを眠らせたまま、人々の役に立つように利用することをしなかった不作為。
このブログにおいても繰り返し指摘してきたように、黒い雨などの残留放射能による被曝線量の見積もりについては、実測データに基づく理論的な推定値と疫学的な調査に基づく推定値との間に大きな乖離のあることが長年問題視されてきた。それらの被ばく者に顕れたいろいろな急性症状は、理論的・観測的に推定された被曝線量からすると、従来の知見からはとても予想できない深刻なものだったのである。
このギャップを説明するものとして、次の三つの考え方があり得る。
1)残留放射能は、推定されているより実際にはずっと高いものであった。
2)従来の低線量被曝のリスク評価は著しく過小に見積もられていて、被曝の態様によっては数十mSvの被曝でも急性症状が現れる。
3)急性症状があらわれたという被ばく者の証言は噓である。
放影研の大久保理事長は、黒い雨調査のデータを解析せずに放置してきた理由を問われて、次のように語っている。
大久保氏も、長年にわたる「原爆症認定集団訴訟」などを通して、多数の黒い雨被ばく者が複数の深刻な急性症状を訴え続けてきたことを知っている筈であるが、にもかかわらず「黒い雨の影響はそんなに大きなものではなかった」とは、被ばく者が噓をついていると言っている、そう捉えられても仕方がない言い方である。当然のことだが、ただでさえ被ばく者への差別も露骨になされていた1950年代、敢えて黒い雨に遭って被曝症状が現れたと噓をつく者など居る筈がない。
ともかくも、前掲の可能性の内、1)と2)のどちらが正しいのかが問題となる訳であるが、この点について、最近の研究の現状はどうなっているだろうか。「広島“黒い雨”放射能研究会」の研究報告を読むと、黒い雨による放射能量や被曝線量の推定は難航を極めている。
原爆投下直後の測定は、定量性に問題のあるものがほとんどであるが、広島については米軍マンハッタン計画調査団による45年10月3〜7日に実施された調査の結果がやや詳しい。それによると、爆心地から西へ3.7 km付近の己斐・高須地区に30 uR/h(= 0.3 uGy/h)程度のフォールアウトスポットが認められているが、己斐峠を越えた「豪雨地区」のデータはないという。
その後、特に1970年代以降、半減期30年のCs-137に注目した多くの研究があるが、いずれも、核実験によるグローバルフォールアウトのノイズにかき消される程の量しか検出されていない。そのため「研究会」では、グローバルフォールアウトが混入していない試料として、黒い雨の豪雨地帯に戦後の数年以内に建てられた民家の床下土壌に着目して測定・研究を続けてきた。その結果、平均1kBq/m2という値が得られており、核分裂片の収率と化学分別係数から、半減期補正をおこなった全放射性核種による積算被曝線量は、例えば10日間で30 mGyと見積もられた。原爆の放射能は半減期の短いものが圧倒的に多いので、長期間その場所に留まったとしても50 mGyを超えない程度と見積もられている。
NHKの番組では黒い雨による被曝線量について「原爆投下の一ヶ月あまり後の測定などから、被ばく線量は、高いところでも10〜30 mSvと推測されています」としているが、いずれにしてもこの程度の被曝線量では急性症状は出ないというのが従来の定説である。
問題は、この「定説」が、黒い雨を無視した、「科学の常道」から逸脱した研究によって構築されていることにある。前掲2)の、従来の低線量被曝のリスクは著しく過小に見積もられているとの考え方も、無下には否定できないのである。肥田舜太郎氏などは、そう考えているのであろう。ただし、多くの専門家は、9月17日の枕崎台風による豪雨によって、大部分の残留放射能は洗い流されてしまったのではないかと考えているようだ。この点、気になるtweetを目にした。
0.2-0.4 Svというのは急性症状が出てもおかしくない値である。黒い雨についての膨大なデータの存在が明るみに出て、被ばく者自身の請求によってそのデータの一旦が明かされるということになり、放影研としてもさすがにこれを放置し続ける訳にはいかなくなったのだろう。従来の「定説」を変えない以上、前掲1)の立場に立たざるを得ない。
ABCCー放影研による従来の残留放射能の推定値と、被ばく者の証言にみられる急性症状とのギャップを実感し、最も深刻な問題と捉えていたのは、本田氏、斉藤氏、肥田舜太郎氏のような、長年被ばく者の診療にあたってきた現場の医師達であろう。彼らにしてみれば、さらにまた被ばく者自身にしてみれば、低線量被曝のリスク評価がどうあろうと、放射線被曝特有の急性症状が現れたのは事実なのだから、それを原爆症として認め、国家補償の対象にすべきと考えるのは当然のことと思う。
科学的な解明が不完全であることを理由に、現にある謂われのない不幸への対策が先延ばしにされ、当の被ばく者は寿命を迎えている。水俣病と同じ構図である。
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(前稿からの続き)
「女性が被ばくした4930 mの距離では、初期放射線はほとんど受けていない筈だ。女性は市内をさまよっている間、黒い前が降った地域を数回通っている。この領域の放射線量が高ければ、症状が出るほどの被ばくをしていたかもしれない。」女性の名前は栗原明子。取材を進めると、この女性が今も広島に居ることがわかりました。
(広島)
栗原明子さん、86歳です。当時、ABCCに事務員として務めていたため、ウッドベリー博士の調査の対象にもなっていました。原爆が投下された時、爆心地から5 kmの場所にいた栗原さん。その後、市の中心部にあった自宅に戻り、激しい急性症状が出たのです。
栗原氏:「髪といたら、櫛にいっぱい髪の毛が着いてくるから、おかしいねえと思って。だいぶ抜けましたね。」
しかし、残留放射線の影響を疑っていたのはウッドベリー博士だけで、他の研究者に急性症状のことを話しても、全く相手にされなかったと言います。
栗原氏:「怒ったように言われましたね。絶対にありえないって。そういうのは、二次被ばくというのは絶対にあり得ないからって断言されました。もう、矛盾してるなあ思ったんですけど。ほんとにあの、体験して、私も体験して、他の人も体験した人を沢山知ってましたからね。なぜそれはちがうんかなあと思って、不思議でしかたがなかったんですけど。」
ウッドベリー博士が報告書を書いた直前、アメリカは太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行っていました。日本のマグロ漁船第五福竜丸が放射性物質を含んだいわゆる死の灰を浴び、乗組員が被ばく。死の灰の一部は日本にも達し、人々に不安が広がっていました。
ウッドベリー博士の報告書:「最近、日本の漁師が水爆実験の死の灰で被ばくするという不幸な事件がおきた。今、広島・長崎の残留放射線に対する関心は再び高まっている。この問題は、より詳細な調査を必要としているのだ。」
原子力委員会のダナム氏は、こうした主張こそ、東西冷戦のさ中にあったアメリカの立場を悪くするものだと警告します。第五福竜丸事件の後、日本で反米感情と反核の意識が高まっていました。1955年、広島では第一回原水爆禁止世界大会が開かれ、被爆者が、被害の実態と核の廃絶を訴え始めていました。
ダナム氏の手紙:「もし、ここでアメリカが引き下がれば、何か悪い物、時には共産主義の色合いのものまでが、広島・長崎の被害を利用してくるだろう。そうなれば、アメリカは敗者となってしまうだろう。」
被害の訴えに強く対処すべきとの考えは、原子力委員会の中で当たり前になっていたと、ロックウェル氏は言います。
ロックウェル氏:「放射線被害について人々が主張すればするほど、それを根拠に原子力に反対する人が増えてきます。すくなくとも混乱は生じ、核はこれまで言われてきた以上に危険だという考えが広がります。私もアイゼンハワー大統領も考えていたように原子力はアメリカにとって重要であり、原子力開発にとって妨げとなるものは何であれ問題だったのです。」
1958年11月、原子力委員会の会議にダナム氏と広島から呼び寄せられたウッドベリー博士が出席、残留放射線の問題が議論されました。議事録は公開されていません。分かっているのは会議の一ヶ月後、ウッドベリー博士がABCCを辞職したことです。
ウッドベリー博士の報告書には、こんな一節が残されてています。
「この問題は、ほとんど関心が持たれていない。私が思うに、何度も何度も、研究の対象としてよみがえっては、なんら看取られることなく、静かに葬りさられているのだ。」
ウッドベリー博士が報告書の中で残留放射線の影響を指摘した栗原明子さんです。戦後、貧血や白内障など、さまざまな体調不良に悩まされ続けました。しかし、被ばく直後の急性症状も戦後の体調不良も、その後の研究で顧みられることはありませんでした。
1975年、ABCCは組織改正されます。日本も運営に加わる日米共同の研究機関「放射線影響研究所」が発足しました。研究の目的に、被爆者の健康維持や福祉に貢献することも加えられました。ABCCの調査を引き継ぎ、被爆者の協力のもと、放射線が人体に与える影響を研究しています。国は、放影研の調査結果をもとに、被爆者の救済にあたってきました。原爆による病気と認められた人に、医療手当を支給する「原爆症」の認定制度です。
救済の対象は、実質、初期放射線量が 100 mSvを超える 2 km以内。残留放射線の影響はほとんど考慮されてきませんでした。原爆症と認められている人は現在、被爆者全体の僅か4%、8,000人にとどまっています。被爆者は、自分たちの調査をもとに作られた国の認定制度との闘いを強いられることになりました。2003年から全国に広がった、原爆症の認定を求める裁判。その中で被爆者は、半世紀以上も前の被ばくの影響を自ら証明することを求められたのです。
原告の一人、萬膳ハル子さんです。爆心地から2.6 kmで被ばく、黒い雨に遭いました。訴訟が続いていた2005年、原爆症と認められないまま、肝臓癌で亡くなりました。遺族のもとには、戦後の貧しさの中で学校に行けなかった萬膳さんが、国に訴える手紙を書くため、練習していた文字が残されています(注3)。自らの主張を必死に伝えようとしていた萬膳さん。それに対して国は、裁判で、被ばくの確たる証拠を示すようせまったのです。
国側の裁判資料:「黒い雨を浴びたなどと供述しているが、それに放射性物質が含まれていた証拠はなく、肝臓癌の発症に影響を与えるとの知見も存在しない。脱毛などの症状も、客観的な証拠は存在しないうえ、考えられる被ばく線量からすれば、放射線による急性症状とは考えがたい。」
萬膳さんが亡くなった翌年、黒い雨の影響を認める判決が出されました。しかし、それから6年が経った今も、国は、認定制度を抜本的に見直さず、黒い雨の影響についても認めようとしていません。
30年以上、被爆者の治療にたずさわり、医師として原告団を支えてきた斎藤 紀(おさむ)さん。詳細な調査もせず、黒い雨の影響を無いものとしてきた国こそ、責任を問われるべきだと考えています。
斎藤氏:「その、初期放射線で説明つかない、国は説明つかないから被ばくは無かったんだと言ってるんですけども、まさに説明のつかない、放射線にもとづくと思われる症状が多数、被爆者の中には認められていたんですね。その被害が無かったのかどうかは、その調査を突き詰めていくことによって、結果として出てくることであって、その調査を突き詰めないで、被害が無かったというのは、あの、なんて言うか、科学の常道ではない訳なんですね。」
解明されてこなかった、黒い雨が人体に及ぼす影響。放影研のデータが公開されない中、被爆地広島の科学者達が、独自の研究で明らかにしようと動き始めています。広島大学原爆放射線医科学研究所(原医研)の大滝慈(めぐ)教授です。被爆者が癌で死亡するリスクについて分析してきました。大滝教授らは、被ばくした場所によって癌による死亡のリスクがどう変わるか調べていました。すると、意外な結果が得られたのです。初期放射線の量は距離とともに少なくなるため、死亡のリスクは同心円状に減っていく筈です。しかし、結果は、爆心地の西から北西方向で、リスクが下がらない、いびつな形を示しました。初期放射線だけでは説明のできないリスクが浮かび上がってきのです。
大滝氏:「まさか、そのお、同心円状ではないようなリスクの分布があるというようなことは、まさしく想定外だったと思うんですけど。」
このリスクは、黒い雨によるものではないか。しかし、大滝教授らが使ってきた独自の被爆者データだけでは、確認できませんでした。3万7000人について、どこで被ばくしたか調べていますが、黒い雨に遭ったかどうかまでは尋ねていなかったからです。去年、放影研が黒い雨の分布図を公開してから、大滝教授らは、新たな分析を試みました。被爆者が癌で死亡するリスク全体から、初期放射線などのリスクを取り去ります。すると、問題のリスクが姿を現しました。それは、西から北西にかけて爆心地より高くなっていたのです。これを、今回放影研が公開した黒い雨の分布図と合わせると、雨にあったと答えた人が多い場所と重なったのです。
大滝氏:「やはりその、リスクが高くなっている地域というのは、黒い雨の影響を受けたんであろうということが、強く示唆されてるものと考えております。直接被ばく線量以外の放射線の影響というものが、あまりにも軽視されてきたんじゃないかなということが、今回の我々の研究で明らかになってきたんじゃないかと思っています。」
今年6月、大滝教授らのグループは研究成果を学会で発表しました。黒い雨によるリスクをさらに明確にしたい。大滝教授は、放影研が持つ黒い雨のデータを共同で分析したいと考えています。
放影研は、ABCCが作成した9万3000人の調査記録をもとに、全ての被爆者を追跡し、どのような病気で亡くなったか調べています。国から特別な許可を得て、毎年、全国各地の保健所に、新たに亡くなった被爆者の調査表を送り、死因の情報を入手しているのです。黒い雨に遭ったと答えた1万3000人について、死因の情報を分析すれば、黒い雨の人体への影響を解き明かせるのではないかと、大滝教授は考えています。
大滝氏:「黒い雨の影響を研究する上で、世界に類を見ない、貴重なデータだと思います。まあ、可能な限り広い見方ができるような状況で、解析をするということが、データから真実を引き出す、必要条件だと思います。そうするとデータは、自ずと語ってくれるようになると思います。真実をですね。」
こうした指摘を放影研はどう受け止めるのか。共同研究については、提案の内容をみて判断したいとしています。しかし、黒い雨による被ばく線量が具体的にわからない限り、リスクを解明することはできず、データの活用も難しいとしています。
放影研の大久保理事長:「可能性があるというところまでは、ああそうですかということで、もちろんそうかもしれない。そうかもしれないだけで、それ以上のことは言えませんので、(リスク分布が)歪むには歪むだけの、リスクの、死亡率の違いがある訳ですから、その違いを証明できるだけの、被ばく線量を、なんでも、推定値でもなんでいいから、それを出して頂かないとですね、放影研として一緒に、同じ土俵で議論することはできないということです。」
今、私たちは新たな被ばくの不安に直面しています。去年起きた原発事故です。子供の頃、母親の背中で黒い雨をあびた佐久間邦彦さん。福島などから広島に避難している母親達に、自らの体験を語り始めています。佐久間さんが繰り返し訴えているのは、事故の時、どこにいて、どう避難したのか、自分と子供の記録を残すことです。被ばくの確かなデータがなければ、子供を守ることはできない。母親が答えてくれた、自らの黒い雨の記録を見せながら、語りかけます。
広島・長崎で被ばくし、癌などの病気で苦しんできた被爆者達。長年にわたって集められた膨大なデータは、放射線に傷ついた、一人一人の身体を調べることによって得られたものです。半世紀の時を隔てて明らかになった命の記録。見えない放射線の驚異に正面から向き合えるかが、今、問われています。
(おわり)
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注3)画面を通して、切実、願い、言葉、流産、子供、泣、失望、内蔵、苦しみ、忙しい、脈、程 などの文字を認めることができる。
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前々回の記事で注意喚起しておいた8月6日NHKスペシャル 「黒い雨〜活(い)かされなかった被爆者調査〜」を観て、いろいろな意味で琴線に触れるところがあったので、テキストとして残しておきたい。TV番組を再現するのは不可能だが、誤解されるようなことはないと思う。
なお、当番組全体の概要はこちらのTogetterでも文字起こしされているので参照されたい。
導入部:
広島に住む女性が大切に保管しているものがあります。無数の黒いシミの残るブラウスです。原爆投下直後、広島に降った黒い雨。67年前の確かな痕跡です。アメリカが、広島、長崎に投下した原子爆弾。キノコ雲には爆発でまき上げられたチリや埃とともに大量の放射性物質が含まれていました。それが上空で急速に冷やされ、雨となって降りました。いわゆる、黒い雨です。原爆資料館に保管されている雨垂れの痕。原爆の材料となったウランなどの放射性物質が検出されています。しかしこれまで、雨がどこに降り、どれだけの被ばくをもたらしたのか、詳細なデータがないために、分からないままになっていました。
ところが、去年12月、国が所管する、被ばく者の調査を行う研究所に、大量のデータが存在していたことが明らかになりました。公開されたのは、広島と長崎、合わせて一万人を超える被ばく者が、どこで黒い雨に遭ったのかを示す分布図です。丸の大きさは、雨に遭った人数を表しています。データは戦後、被ばくの影響を調べる大規模な調査の中で集められたものでした。
突然明かされた新事実。黒い雨を浴びて、癌などの病気になっても、その影響を認められてこなかった人たちに、衝撃が広がっています。このデータをもとに、黒い雨の実態解明をすすめる動きもおきています。最新の研究で、雨が多く降った場所で、被曝者が癌で死亡するリスクが高まっている可能性が浮かび上がってきたのです。黒い雨のデータは何故活かされてこなかったのか。それは、今の時代に何を語るのか。被ばくから67年。始めて明らかになる真実です。
(長崎市)
今回公開された黒い雨のデータ、その存在が明らかになったきっかけは、長崎のある医師が抱いた疑問でした。長崎市内で開業している本田孝也(こうや)医師です。黒い雨をあび、体調不良を訴える患者を長年診てきました。黒い雨をあびた患者の中には癌や白血病などの病気になった人も少なくありません。しかし、詳しいデータはなく、どうすることもできませんでした。何か資料はないのか。様々な文献にあたる中で、昨年気になる報告書を見つけました。広島と長崎で被ばく者の調査をしていたアメリカの研究機関ABCCの調査員が内部向けに書いたものでした(注1)。そこには、黒い雨をあびた人に被ばく特有の出血斑や脱毛などの急性症状が出たことが、集計された数字とともに記されていました。元になったデータがあるのかもしれないと、本田さんは思いました。
本田氏:「そんなこと聞いたことがなかったので、それほどのデータがあったのかなと、ずっと昔から研究されている研究者の中で話題にならなかったのか、っていうのが、最初不思議だと思ったことですね。」
本田さんは、当時報告書を書いた調査員が居た研究所に問い合わせました。アメリカの研究機関ABCCを引き継いだ放射線影響研究所、放影研。国から補助金を受けて被ばく者の調査を行い、そのデータは、被ばくの国際的な安全基準の元になってきました。
本田さんに対する放影研の答えは、確かに黒い雨についての調査は行ったが、詳細は個人情報であり、公開はできないというもでした。その時渡されたのは、調査に使った空の質問票でした。どこで被ばくしたか、どんな急性症状をおこしたか、具体的な症例のチェック項目など数十の質問が並んでいました。1950年代、ABCCが、放射線の人体への影響を調べるために、広島と長崎の被ばく者9万3000人におこなった聞き取り調査でした。「原爆直後雨ニ逢イマシタカ?」Yes□ No□ Unk.□、何時、期間、地域 といった黒い雨についての調査項目もあました。放影研は、本田さんとの数回に及ぶやりとりの末、1万3000人がYesと答えていたいたことを、はじめて明かしたのです。
本田氏:「ほんとかなという、実感が湧かなくて・・・ なんか、ありそうじゃないじゃないですか、そんな膨大なデータは、今どき、そのままにしてるっていう・・・ そこからは、何かが出る筈だろうし、なんで今まで、出さなかったのかっていう、まあ、ちょっと、険しいやりとりにはなったんですけど、うん」
(広島:放影研の記者会見)
マスコミから問い合わせが殺到し、二ヶ月後、放影研は分布図だけを公開しました。これまで公開しなかった理由について、隠してきた訳ではなく、データの重要度が低いと判断したからだとしています。
その根拠は何か。放影研が重視してきたのは、原爆炸裂の瞬間に放出される初期放射線です。その放射線量は爆心地から1km以内では大半が死に至るほど高い値ですが、2km付近で100 mSvを下回ります。100 mSvは健康に影響を及ぼす基準とされている値で、放影研は、それより遠くでは影響は見られないとしているのです。しかし、被ばくはそれだけではありません。黒い雨や地上に残された放射性物質による残留放射線です。原爆投下の一ヶ月あまり後の測定などから、被ばく線量は、高いところでも10〜30 mSvと推測されています。放影研の大久保利晃(としてる)理事長は、残留放射線の被ばく線量は研究の中で無視してよい程度だったとしています。
大久保氏:「集団としてみた場合には、黒い雨の影響はそんなに大きなものではなかったと思います。影響ないとは言ってませんよ。影響はもちろん放射線の被ばくの原因になっているというのは間違いない事実だと思いますけれども。それは相対的に、直接被ばくの被ばく線量と比べて、それを凌駕する、あるいは全体的に結論を変えなければいけないよいうな量であったかという質問とすれば、それはそんなに大きなものではなかったと・・・」
公開された分布図を見ると、黒い雨にあった人は、爆心地から2 kmの外にも多くいたことがわかります。それなのに、なぜ黒い雨の影響を調べなかったのか。多くの人が放影研の説明に納得できずにいます。
爆心地からおよそ2.5 km 、広島市の西部、己斐地区です。黒い雨が激しく降りました。しかし,一人一人が黒い雨を浴びた確かな証拠はありません。佐久間邦彦さん67歳です。当時生後9ヶ月だった佐久間さんにとっても、黒い雨を浴びたことを示すものは、自分をおぶっていた母の話だけでした。
佐久間氏:「聞いてるのは、最初、パラパラッときて、それからザーッときたっていうふうには聞いてますけどもね。」
佐久間さんは、幼い頃から白血球の数が異常に少なく、小学生の時には、腎臓と肝臓の大病を患いました。母親の静子さんは乳癌を発症、しかし、黒い雨を浴びた確かな証拠はなく、その影響を強く訴えることはできませんでした。佐久間さんは、放影研のデータの存在を知り、自分のデータはあるのか問い合わせました。二週間後、送られてきた封筒には調査記録のコピーが入っていました。調査に答えていたのは、母静子さんでした。母が答えた調査記録があるのに、なぜ国は病気のことを調べてくれなかったのか。病気と黒い雨との関係を明らかにできなかったのか、疑念が湧いてきました。
佐久間氏:「そのままにしておかれたのかっていう、私たち被爆者の立場から考えたら、もう、何の調査もされていないということは、これはもう、憤り以外何物でもないですよね。」
私たちは今回、被爆者の承諾を得て、53人分の調査記録を集めました。被爆者自身初めて目にする黒い雨の確かな記録です。中には、発熱や下痢など複数の急性症状が、爆心地から5 kmの場所に居たにもかかわらず、強く出ていたとの記録もありました。調査をおこなったABCCは、黒い雨のデータを集めておきながら、なぜ、詳しく調べることなく眠らせていたのか。私たちは調査を主導していたアメリカを取材することにしました。
(アメリカワシントン州)
ABCCに資金を提供し、大きな影響力を持っていたのが原子力委員会です。戦時中、原爆を開発したマンハッタン計画を引き継ぎ、核兵器の開発と原子力の平和利用を同時に進めていました。
被爆者の調査が始まったのは1950年代。「核分裂物質が人類の平和のために使われるだろう」アイゼンハワー大統領の演説を受け、原子力の平和利用に乗り出したアメリカ。しかし、核実験を繰り返した結果、国内で被ばくへの不安が高まり、対処する必要にせまられていました。原子力委員会の意向を受け、ABCCは、被ばくの安全基準を作る研究に取りかかります。被爆者9万3000人について、被ばくした状況と健康被害を調べてデータ化する作業が一斉にはじまりました。
当時の原子力委員会の内情を知る人物が取材に応じました。セオドア・ロックウェル氏90歳です。戦時中、広島原爆の開発に参加したロックウェル氏は、原子力委員会で原子炉の実用化をすすめていました。安全基準を一日も早く作ることを求められる中で、黒い雨など残留放射線について調べるつもりは初めからなかったと言います。
ロックウェル氏:「被爆者のデータは絶対的な被ばくの安全基準を作るためのものだと、最初から決まっていました。残留放射線について詳しく調査をするなんてなんの役にも立ちません」
さらに私たちは、残留放射線の問題に対する原子力委員会の強い姿勢を示す資料にいきあたりました。
「これは原子力委員会からの手紙です。1955年12月のものです」
手紙を書いたのは原子力委員会の幹部だったチャールズ・ダナム氏。調査を始めるにあたって、学術機関のトップに、こう説明していました。
「広島と長崎の被害について、誤解を招く恐れのある根拠の希薄な報告を押さえ込まなければならない」
ダナム氏が押さえ込もうとしていた報告とは何か。ちょうどそのころ広島のABCCで残留放射線の影響を指摘する報告書が出されていました。「広島における残留放射線とその症状」、報告書を書いたのはローウェル・ウッドベリー博士。広島のABCCで統計部長を務めていました。
報告書の中で、博士はまず、黒い雨など、残留放射線の値は低いとした当時の測定結果に疑問を投げかけています。原爆投下の一ヶ月後、巨大な台風が広島を直撃(注2)。ほとんどの調査はその後行われ、測定値が正確でなかった可能性があると指摘しています。
論文から:「台風による激しい雨と、それに伴う洪水によって、放射性物質の多くは洗い流されたのかもしれない。」
ウッドベリー博士は、実際の被ばく線量は健康被害が出るほど高いレベルだったのではないかと考えたのです。その根拠として、ある女性の調査記録を示しています。下痢や発熱、そして脱毛など九つもの急性症状が出たことをあげ、黒い雨など、残留放射線の影響ではないかと、指摘しています。
(続く)
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注1)英文タイトル:"An examination of A-Bonb survivors exposed to fallout rain and a comparison to a similar control population"
Hiroaki Yamada, T.D. Jones
注2)昭和20年「枕崎台風」のこと。9月17日、鹿児島県枕崎市付近に上陸して日本を縦断。長崎も広島も豪雨に見舞われた。特に広島の土石流災害は深刻で、この時、広島を訪れていた京都大学の「原爆災害総合研究調査班」にも11名の死者を出している。後年の測定によって検出された残留放射能が理論的予測よりかなり少ないのは、この時の豪雨によって死の灰が洗い流されたからだと考える研究者は多い。
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8月6日、1945年のこの日にいたる、そしてこの日に引き続くできごとにふれ、人類世界が「核時代」というものに変質してしまっていたことを悟って項垂れた人々も少なくはなかったであろう。とりわけ感受性に優れた文学者達は、このことに関わる<事実>や、心象世界をどのように記録したであろうか。
1981年、大江健三郎氏は『核の大火と「人間」の声』の中で次のように書いている。(注1)
広島の原爆ドームの傍らに、ひっそりと原民喜の碑が佇んでいる。そこには彼の詩の一節が刻まれている。
「遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻」
大江氏の記述にもかかわらず、原民喜は実際には戦前から作家としての活動を始めていたのであるが、広島や長崎で直に被爆した体験を持つ作家は希であろう。そのことにもまして、彼の「かけがえのなさ」は、その文学者としての優れた資質にあるというのが大江氏の評である。
代表作とされる『夏の花』は、8月6日と、その翌日までの体験を元に書かれた短編である。
大江氏も書くように、朝鮮戦争が始まった翌1951年3月13日、国鉄中央線の吉祥寺駅 - 西荻窪駅間で鉄道自殺する。遺稿は『心願の国』から抜粋。
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注1)『核の大火と「人間」の声』(岩波書店、1982:『図書』1981年7月号初出)
ここで大江は、死んでしまった<大きな作家>として、原民喜の他に、中野重治、武田泰淳、高橋和巳をあげている。
原 民喜(はら たみき、1905年(明治38年)11月15日 - 1951年(昭和26年)3月13日)、俳号は杞憂。
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観ました。録画したので、もう一度見直して記事をあげようと思います。(8/6)
NHKが8月6日、午後8時00分〜8時49分に、「黒い雨」についての、やや重要な番組を放送します。
(以下略)
関連情報:
中国新聞
「黒い雨」データ公開を 放影研が1万3000人分保有(2011年12月5日)
1万3000人の「黒い雨」 データの意義を聞く <上>(2011年12月14日)
1万3000人の「黒い雨」 データの意義を聞く <下>(2011年12月15日)
「黒い雨」拡大 否定的見解 厚労省検討会(2012年5月30日)
RCC中国放送のニュース
私なりの見どころを記しておきます。
広島の黒い雨についての調査・研究は、放射化学(放射線物理学)、放射線医学、地球化学、気象学などの専門家集団からなる研究グループにより、組織的・学際的になされてきました。実際上それは、「広島“黒い雨”放射能研究会(世話人:京都大原子炉の今中哲二さん、広島大原医研の星 正治さん)」の活動として集約されており、最近までの研究成果の集大成ともいえる報告書が2010 年5月に出版されました。その後も研究は継続されています。
「広島原爆“黒い雨”にともなう放射性降下物に関する研究の現状」(pdf:19.3 MB)
また、広島市は独自に、黒い雨による健康被害補償の対象地域について国に見直しを求めるため、2010年に「広島原爆による放射性降下物等実態検証に係る関係者協議会」(Hiroshima Study Group on Re-construction of Local Fallout from A-bomb in 1945:略称HiSoF)を立ち上げ、2011年7月に"Revisit The Hiroshima A-bomb with a Database Latest Scientific View on Local Fallout and Black Rain"と題する英文の報告書を公開しました。この報告書の内容は、HiSoFのHPにあるDatabaseサイトから閲覧できます。
上記二つの組織は、目的は異なるもののかなりのメンバーが重なっていて、後者の報告書には前者の研究成果が数多く反映されています。そして、それらの研究には膨大な時間と労力、経費が費やされています。上記報告書は、読めばわかる通り、実に涙ぐましい努力の結晶です。そうした労苦を要した最大の要因として、被爆直後のデータに乏しかったという事情があげられるでしょう。
ところが、ABCCが1950年代に黒い雨についての大がかりな調査を行い、後継組織である放影研がそのデータを「隠し持っていた」ことが、昨年11月に発覚しました。当然ですが、上記二つの報告書にはこのデータは反映されていません。
前掲中国新聞などの報道によると、厚生労働省の有識者検討会(座長:日本アイソトープ協会専務理事の佐々木康人さん)は、本年5月29日、「黒い雨の降った地域を確定することは困難」、「原爆放射線による健康影響の根拠は見いだせない」などとする報告書案をまとめたようです。被爆者の証言は嘘であると言うに等しく、このままでは、黒い雨の援護地域拡大を求める広島市の要望は門前払いとなります。
ところで、「広島“黒い雨”放射能研究会」には、放影研のメンバーが参加しています。共に活動してきた今中さんたちは騙されていたということでしょうか。「活(い)かされなかった被爆者調査」と書くNHKが、どこまで突っ込めるか、注目したいポイントです。
なお、黒い雨は、原爆の爆発によって直接生成されたとの誤解があるようですが、これは、被曝後広島市街に発生した猛烈な火災が主な原因というのが専門家の一致した見解です。この点では、Wikipediaの記述も不十分です。
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