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今朝の毎日新聞に、「書き写す憲法9条」と題して、憲法の前文と9条を書き写して条文の真意を考える学習教材のことが紹介されていた。『えんぴつで憲法練習帳』というのらしい。企画したのは奈良県大和郡山市の児童文学作家、溝江玲子さん。「声に出して読み、書くことで、平和と人権の尊さを訴える内容をくみ取ってほしい」とのこと。
私もかねがね、声に出して読むことで理解が深まると考えていたので、自分で実践してみた。とりあえず、日本国憲法前文(脚注)を声を出して読んでみる。
冒頭の一文は長くて複雑な構文だけれども、たしかに声に出して読むと、大事なことに気づく。最初に一番大切な心構えを書きつつ、憲法の「確定」を宣言しているのだな。「われらとわれらの子孫のために」と書いてある。そうだ、ちゃんと子孫のことにも配慮して「今」のことを考えよう。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」とある。主権が国民にあることも、この、冒頭の一文で宣言されている。
憲法というものは、「国家権力への縛りとして定められている」という言い方があるが、この前文を読む限り、そういう感じはしない。確かに、近代国家にとっての憲法というものには、そうした役割がもともとあったのだろうと思うし、そうした存在は必要でもあるように思う。けれども、日本国憲法の前文を声を出して読んでみると、これは明らかに、憲法制定当時の日本国国民の決意として書かれているのであることがわかる。
二つ目の文章には、その主権者たる国民の信託によって国政は運営されるべきこと、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、と書かれている。これは、横暴な国民に由来して横暴な国家権力が生まれ得ることをも暗示している。だから、憲法前文では、戦争の惨禍を生き延びた者としての忘れてはならない初心・決意を記録し、国民の日々の覚醒を呼びかけているように感じられる。
そもそも国家権力は、憲法に何が書かれていようと、破ろうと思えば簡単に破ってしまう存在である。権力とはそういうものだ。だから、「憲法は国家権力への縛りである」と言ったところで、実質的な意味は乏しい。それより、そうした横暴な国家権力が、横暴な国民に由来して生まれるとすれば、国民の大勢が横暴にならないようにすることの方が大切だ。
最後の一文は決定的だ。この憲法には、日々の努力によって将来達成されるべき、「崇高な理想」が書かれている。主語は日本国民、したがって、その目的達成のために日々努力すべきは、我々日本国民である。「崇高な理想」は、その前のいくつかの文章に書かれていることだろう。
我々は、憲法を護れと主張するだけではダメだ。憲法が求めている日々の努力を惜しんではダメだ。日本国民は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。要は、相手を人として扱い、とことん話し合いましょうということだ。
さて、私は、この憲法の精神をどれだけ我が身のこととしていただろうか。気に入らない者をバカ者扱いして安易に排除したりしていなかっただろうか。そうだとしたら、私自身が、日本国憲法前文および「九条」の理念の普遍的価値とその実効性に、そもそも信頼を寄せていないということになる。そうではない筈だ。しかし、なかなか難しいことが書いてあって、意外と奥が深いぞ、我が日本国憲法は。
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社会のこと
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私が中学の頃は、戦地から引き揚げてきて教壇にたった教師もまだ残っていて、その一人が、しばらくぶりに故郷に辿り着いた時の事を次のように話してくれた。
いよいよ我が家まであと数km。あちこちには親戚や幼なじみの家々も見えるというところまで来たとき、なぜか我が家に直行するということをせずに、少年の頃に駆けまわった山野や海岸べりを、誰にも会わないようにして2時間ほどかけてゆっくりと巡り、その後、家族のもとへ向かった・・・
この話は大変印象深かった。私自身、中学を卒業して郷里から離れるということがあって、しばらくぶりに帰郷した際にも同じふうであった時に、その教師の話を思い出していた。しかも、そのだいぶ後にも、誰だったかは思い出せないが、ある作家のエッセイにまったく同じことが書かれてあり、それを読んでアッと思った記憶がある。
もちろん、戦地から命からがら引き上げた者と、平和な時代に親元を離れただけの者の帰郷を同列には扱えないし、おこがましい話ではある。それでも、この感情は都会育ちの人にわかってもらえるだろうかと、子供の頃から山野を駆け巡り、農作業の手伝いにあけくれた田舎育ちの私などは疑問に思ってしまう。
それは、福島の、年間にして10 mSvを超える、場所によっては20 mSvを超えるホットスポットの点在する汚染地区に一貫して住み続けた人や、避難先から戻ってくる人が居ることを、「安全神話」に騙されているのであると信じて疑わない人々が多いことを思っての疑問である。
原発震災で避難している9万人あまりの福島県民のうち、帰宅できない主な理由が放射能汚染であるという住民はどれくらいだろうか。昨年11月の福島県大熊町の町長選では、「ふるさとに戻ることが原点」と主張した現職の渡辺利綱氏が、「帰れないことを前提に取り組む」と訴えた新顔の木幡仁氏を破って再選された。福島第一原発をかかえる大熊町は、全域が警戒区域で全町民の避難が続いている。
しかし政府は、地上から高さ1メートルの年間放射線量が20 mSv未満を「解除準備区域」、20〜50 mSv程度を「居住制限区域」、50 mSv以上を「長期帰還困難区域」とわけることにしていて、この4月をめどに地区ごとの選定を明らかにするのだという。しかも、この「長期帰還困難区域」では、将来国が土地を買い上げて核廃棄物処分場を建設するという案まで出されている。
私などは、原発を受け入れることそのものが故郷を捨てるに等しい行為だと思うが、地方切り捨てと並行してなされた国策の結果でもあり、であればこそ、事故をおこした東電と、この事故を準備して来た国家官僚や政治家達に、怒りがふつふつとわき上がるのである。
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橋下徹大阪市長は、2月9日、「労使関係についての調査」を野村修也大阪市特別顧問に依頼し、全職員に対して2月16日を期限として同調査に回答するよう職務命令を発した。
橋下氏が何をやろうとしているのか、マスコミの報道は全く不十分であることが良く分かると思うので、「橋下徹」の署名入りの調査依頼書の全文を注意深く読んでいただきたい。
これに対しては、当然のように、法曹界から強い抗議の声明が出されている。
民主法律協会
大阪弁護士会
自由法曹団
大阪だけの問題ではない。
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橋下徹氏率いる大阪維新の会が、次期衆院選の公約として策定を進めている「維新版・船中八策」の骨子が13日、判明した。しかし、その中には「脱原発」は含まれていない。これは当然のことで、彼は、「脱原発」などハナからやる気がない。本当に「脱原発」を考えているのなら、この1年間にやるべきことはいくらでもあった筈だが、彼は何一つやってこなかったことでも明らかだ。
もともと橋下氏は「維新の会」という名称を使用するにあたって、かつて「平成維新の会」を立ち上げた大前研一氏に直接了承を打診してきたという。
橋下氏は大前研一氏に心酔しているらしいし、大前氏も「橋下市長を全面的に応援している」と明言している。昨年10月28日、大前氏が立ち上げたプロジェクト・チームが「民間の中立的な立場からのセカンド・オピニオン」としての報告書「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」をまとめ、細野豪志環境相兼原発事故担当相に提出したとのことであるが、「中立的な立場」とは聞いてあきれる。
大前氏は、米MITで原子力工学博士号を取得し、日立製作所で高速増殖炉「もんじゅ」の炉心設計に携わった経歴がある。私は随分むかし、大庭里美さんに「もんじゅ」の冷却剤がナトリウムと聞いて、ひっくり返るほど驚いた。2兆円近い税金をドブに捨て続けた、あの「もんじゅ」である。現在の大前氏の原発に対するスタンスは、一言で表現すると「再稼働を早くしろ派」である。
「再稼動の決断が遅れ、「全原発停止」で電力不足の長期化も」では、「「40年で廃炉」は絶妙な年数設定」とか、「40年未満の原発について再稼動プランを示せ」などと主張されている。
「脱原発」で「大阪維新の会」に期待させるようなニュースもあった。
これはこれで、ぜひやっていただきたい。しかし、ここで提言されていることは全て、関電やそのとりまきの政治家に対する、そしてあらゆるものに優位性を確保しようとする、彼の権力欲からきている。政治家のパーティー券購入実績の開示を求めることなど、特にそうである。どこにも「脱原発」など謳われていない。
「橋下市長、原発20年延長に反対 関電への株主提案で」という記事においても「原子炉等規制法改正案で原則40年とする原発の運転期間を例外的に最長で20年の延長を認めた政府の規定に関し、関西電力への株主提案で反対する意向を明らかにした」とのことであるが、これは大前氏の主張と同じで、40年の稼働を認めるということである。
彼が東電原発事故後に「脱原発」をほのめかしたのは、大阪市長・府知事選挙をにらんでの票集めのための詐術でしかない。くりかえすが、橋下氏が本当に「脱原発」を考えているのなら、この1年間にやるべきことはいくらでもあった筈だが、彼は何一つやってこなかった。この期に及んでも橋下氏に「脱原発」を期待している人が居るらしいが、まことにもって、だまされる人は何度でもだまされるものである。「おそらく今後も何度でもだまされるだろう」。
それにしても、「維新」だとか、「船中八策」だとか、「脱藩」(民主党議員が「維新の会政治塾」に応募したことをさすらしい)だとかの言葉がニュースのキーワードとなっている世情をみるにつけ、この国はまもなくマンガ的な結末を迎えるのではないかという漠然とした不安がよぎる。
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原発震災」の復興を、単なる復旧に終わらせずに、新しい日本を創出していこうという気運も興ってきているときに、一方で、もっと古い日本へ逆戻りするような動きもあって、暗鬱たる気分です。ちょっと時宜を逸しているのですが、メモ書き程度に触れておきます。
「愛しなさい」と強要されて、「では愛しましょう」という人を知りません。普通は、愛しなかったら罰するぞと脅されたら引いてしまいます。ますます愛せない存在になるでしょう。
つまり、このような形で国旗や国歌を強制する人達は、国旗や国歌を誰にも愛されない存在へと貶めていく役割を担っている訳です。 国旗や国歌が愛されない存在に堕ちていくこと自体は、私にとってはどうでも良いことですが、これを強要され、従わなければ罰せられる立場になってしまった教職員の身になってみれば、どうでも良いと済ます訳にはいきません。これは、形を変えた「不敬罪」です。 国旗や国歌に忠誠を誓わなかったら罰せられるのは世界の常識として引き合いに出されるのは、決まってアメリカです。 しかし、鴻上尚史さんも書いていますが、「国旗への強制的な誓いが裁判になり、州レベルでは合憲と判断されながら、連邦最高裁判所では粘り強く違憲判決が出続けているのが、アメリカという国です。」(SPA 6 14・21合併号「ドン・キホーテのピアス」) という訳で、「模範」とすべき相応しい国は他に求めなければならないようです。「首領様」をいただくかの国など思い浮かびますが、実情は良く知りません。いずれにしても、そうした強制は、とても「世界の常識」とは言えないと思います。それが常識として通ってしまうような国にはなってほしくないとも思います。 仕掛け人の一人、橋本徹大阪府知事の主張は
ということのようです。
しかし、職務命令以前に、行政・公務員は憲法を遵守する義務を負っています。憲法に違反する職務命令は、そもそも出してはいけないのです。地方公務員の長である府知事がそれを守れないなら辞めるのがスジだということです。
憲法では、基本的人権の尊重(十一条)、個人の尊重(十三条)、思想および良心の自由(十九条)などの定めがあり、主権は国家・行政府ではなく国民にある(一条)ことも明示されています。弁護士出身の橋本氏がそれを知らない筈はありません。 橋本氏は、
とも述べています。 これはおかしな話です。君が代を歌わない「式典」などいくらでもあります。卒業式では君が代を歌わなければならないという決まりの方がおかしいのです。また、「朝起きたらおはようございますを言う」のは習慣であって、「人から何かしてもらったらありがとうございますを言う」のは礼儀です。 習慣に従わないことで罪に問われる社会は、大変恐ろしい社会です。また、卒業式で君が代を歌うのは礼儀でもないので、誤った比喩と言うべきです。 繰り返しますが、国旗や国歌を愛しなさいと強制されたら、ますます愛せなくなります。かつては、祝日に国旗を掲げた民家は多かったのですが、今ではあまり見かけなくなりました。そうした風潮を一番恐れているのは天皇です。 2004年10月28日の園遊会の席上、東京都教育委員の米長邦雄氏が、「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と述べたのに対して、天皇が「日の丸・君が代」について、「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と意見したことは、象徴的です。つまり、国旗や国歌の強制は天皇の意向にも背く行為です。 今や、国旗や国歌を強制する人達は、これを国民皆が心から愛するようになってほしいなどとは心にも思っていないことは明らかです。彼らは単に、自分が気に入らない考えの持ち主をあぶり出し、追放するために、踏み絵やリトマス試験紙のように国旗や国歌を利用し、もてあそんでいるに過ぎません。憲法違反の思想統制を、おおっぴらにできるようにした訳です。 国歌斉唱の際に起立を拒否する勇気のない人は口パクで歌えばよい。口パクがバレたら、「強制されていると思うと緊張のあまり声が出なくなりました」とでも言っておけばよいと、私は思います。 |



