さつきのブログ「科学と認識」

福島第一原発、アンダーコントロールで、わざと昨年の2倍の放射能を放出か

科学と認識

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 科学理論を含む全ての言説は、そこで展開される論理を遡っていくと、最後には必ず<自明なこと>に行き当たる。全ての言説は自明なことを出発点にしていると言って良い。そこで前提されていることはあまりにも自明なので、しばしば、明示されることがないばかりか、意識さえされていないこともある。

 例えば交通ルールは、別々の物質は同一の空間を共有することはないという、いわば「実体論的排他律」とでも呼ぶべき原理の下に決められている。この原理に反して人は他の物体をすり抜けることができると考える者はまずいない。走っている車の前に飛び出したらたちまちはねられてしまうことなど直感で分かることだ。「衝突」にまつわる物理学の問題は、この原理が前提とされていることをわざわざ明示したりしない。

 逆にまた、ひとつの物体は別々の空間を占めることはないという、いわば「実体論的同一性律」とでも呼ぶべき原理が自明のこととして受け入れられているので、犯罪捜査においては目撃証言やアリバイが決定的なものとして重要視されている。これもまた、直感において自明なことだ。その直感が経験に由来するかどうかはここでは問わないが、こうした意味での「自明なこと」を「直感的原理」と呼ぼう。

 ウィトゲンシュタインが言うように、「哲学とは、さまざまな科学による証拠なしに真であると想定されるすべての原始命題である」とすれば、本来、原理とはこのような意味での哲学を構成する個々の原始命題のことと考えて良い。相互に矛盾する原理はあってはならず、しかも、本来完全に排他的で、他の原理と部分的にでも重なり合うことはないということ。数学の公理もこれに相当する。ただし、数学はいわば循環論法の体系なので、科学における原理の概念とは何らかの区別を設けるべきかもしれない(注1)。

 バートランド・ラッセルは、「論理学的原理」についてのアリストテレス以来の成果を、同一性の法則、無矛盾律、排中律(注2)の三つにまとめあげている。例えば、「ある事象がある属性を持つと同時に持たないということはあり得ない」という無矛盾律は、特定の言説の矛盾を指摘する際に実社会で普通に用いられている。

 たしかにそれは自明なことではあるが、一般論として言えば、よくよく考えてみて初めて「証拠は無くても真である」と分ることもある。つまり、原理とされているものの中には、直感だけによっては得られないものがあるということであり、「自明」すなわち、「自ずと明らか」なこともまた、必ずしも全てが直感的に直ちに明らかとまでは言えない。したがってここでは、「自明」ということの意味を、よくよく考えてみたら自ずと明らか(その正しさに証拠の必要がないと分ること)である場合に拡張して用いることにしよう。

 本来的な原理から出発した理論で定説の地位を獲得したものに、原理と同等の扱いを受けているものがある。

 例えば、日常的に用いられているほとんどの物理理論は、最後にはエネルギー保存則と質量保存則という独立した2つの法則に行き当たり、これらを、その真偽をいちいち問うことなしに原理として採用している。もちろんそれらは、ニュートン力学の守備範囲内の条件下であることが前提とされている。また、「地質学原理」と称されるものに「(地質学的)斉一説」がある。これは、現在の時点で正しく成立している諸法則、例えば堆積時には新しい地層は古い地層の上に重なるとする「地層累重の法則」などは、過去においても正しく成り立つとする原理であるが、これも無制限の過去にまで遡っての適用はできないことが暗黙の了解事項とされている。

 このように、原理とされているものの中には、暗に、それが自明であり得る適用範囲が仮定されている場合がある。その仮定の妥当性は経験によって確信されているので、このような意味での原理を「経験的原理」と呼んでおこう。その自明性は一般に低い。

 一方、理論物理学のように、宇宙の根本法則や本質論的原理そのものの構築を目指すような分野においては、普遍性の要請から原理の適用範囲を仮定しない。この場合、理論の出発点となる原理は、それ自身、仮説の地位に甘んじざるを得ない。

 例えば、アインシュタインが特殊相対性理論を構築するに当たって根本原理として採用したのは、全ての慣性系に対して物理学の諸法則が常に同じ形で成り立つとする「相対性原理」である。これなど、ニュートン力学ではそもそも自明のこととして前提されているのであるが、それをわざわざ理論の出発点として明示したのは、「原理」とは言いながら、それが正しいものと<仮定した>ということになる。それは、自明ではないと宣言したに等しい。アインシュタインが仮定したもう一方の「光速度不変性の原理」(注3)が正しいとすると、「相対性原理」が正しくない可能性が浮上するからだ。

 「相対性原理」と「光速度不変性の原理」の両者が共に正しいと仮定すると「特殊相対性理論」が導かれる。これを重力場に延長して構築された「一般相対性理論」は、エネルギーと質量の等価則を導き、エネルギー保存則と質量保存則を統一したのであるが、それ自体一つの科学理論(仮説)として検証(反証)の対象となった。それはつまり、前提として採用された二つの原理が共に普遍的に正しいという仮定そのものが、この理論から導かれる種々の帰結を通して検証(反証)に付されたということだ。

 では、「相対性理論」においては、他にもっと根本的で自明な原理は何も採用されていないかというとそうではない。まず、正しい推論のためのいろいろな「論理学的原理」が採用されている。そして何より重要なのは、この理論が、観測事実に反してはならないという原理の上に築かれていることである。「相対性原理」が自明ではないとしても、事実によって検証できるし、事実を頼りにすることができるという原理的発想から出発していると言っても良い。

 これは、全ての科学理論において普遍的に採用されている原理という意味で「科学原理」と呼んでも良いが、それ自体は自明であると言うよりむしろ、そもそも科学とは何かといったことがらに関係しているので、科学以外についての類似の概念を含めて一般化する意味で「存在論的原理」と呼んでおこう。科学について言えば、これこそ科学の本質であると考える唯物論の立場からはその自明生は明らかであるが,実存主義の立場からは,その自明性は個々人の科学観に依存することになる。

 冒頭で、全ての言説は自明なことを出発点にしていると述べたが、倫理的な言説についてはやっかいだ。何を根本原理とするか、また、それが自明なことかどうかは個々人の価値判断に大きく左右されるからだ。

 例えば、「人間中心主義」を根本原理とするにしても、その具体的な内実についての人々の受け止め方は個々に多様である。そのため、人類にとっての多くの不幸は人間が増えすぎたことに原因があるので、時々戦争や災害が起こって人口が減れば不幸の総量は減少するし、種の延命にとっては必要なことであるというアイデアも成立しうる。人類の繁栄のためには劣った遺伝子を積極的に淘汰すべしとする優生思想も成立しうる。それらが私にとって受け入れがたく思えるのは、そもそも「人間中心主義」に反するからではなく、価値判断のバイアスによってその解釈が異なっているからだ。

 この「人間中心主義」から「博愛主義」や「人道主義」を分離して整理し直したとしても、それが「主義」である以上、普遍的で自明な原理とは言い難い。このような原理を「価値論的原理」と呼ぼう。「○○原理主義」とよばれているものは、この「価値論的原理」を行動原理としているが、各々にとっては自明でも普遍性がないので、実社会において争い事の種になる場合が多い。「人道支援」と称した活動に異論が出されるのも、そのせいだろう。

 では、倫理的な言説には、普遍的で自明な原理など何もないのだろうか。倫理的な言説から自明でないあらゆる要素をはぎ取ると、その果てには、「誰でも自分の意見を主張する権利がある」といった、いわば、「言説」そのものの存在理由のようなものだけが残る。これを「実存的原理」と名付けよう。「権利がある」と主張するのである以上、任意の当人にとって「権利がある」ことは自明なのである。この原理こそが民主主義の基盤であるのかもしれない。

 倫理的な問題についての議論が長引くのは、往々にして、明示されているのと異なる原理を立論の前提としていることに気づかない者や、それを故意に隠そうとする者などがいるためである場合が多いようだ。誰でも自分の価値観に基づいてその意見を主張する権利がある。それぞれがどのような「価値論的原理」を採用しているのかについて整理した上で明示することは、議論を有意義なものにするのに効果的だろう。

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注1:このことは、下記のエントリで論じたことと関係している。
「数学は、ある種の言語についての学である」
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/29030326.html

注2:「排中律」とは、全ての事象は、ある属性を持つか持たないかのどちらかであると説明される。「同一性の法則」についてはややこしいので省略。

注3:マイケルソンとモーレーの実験結果は光速度不変性を「原理」として良いかどうかとは無関係。これを「原理」として採用したのはアインシュタインの直感によるだろう。私が参考にしたのは下記:
「光速度不変性の原理の地位」
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kairo09.htm

 以下は、08年11月22日付の「「科学信仰」について」と題したエントリにトラックバックいただいた下記の記事に触発されて妄想を膨らませたものである。

「映画「マトリックス」と主観性の哲学」
http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200711200000/

 かつさんによる上記ブログ「遠方からの手紙」は、他にも示唆に富む記事が多い。

 タイトルにある「宇宙論における人間原理」(注1)は、我々が存在しているこの宇宙がビッグバン宇宙論で説明されるような構造や進化史を有しているのは、それが人類という知的生命体を育むのに相応しいものであったために、結果的にそれが<認識された>からだと説明する理屈である。この「原理」の成立過程においては、宇宙の年齢はなぜ140億年なのかという疑問へ、次のように答えようとすることから出発した。

 宇宙の進化過程のどこかの時点で必ず人類のような知的生命体が誕生し、宇宙の年齢を突き止めることになるだろう。そのためには、宇宙開闢からどれくらいの時間が必要だろうか。先ず、その知的生命体を構成する多種多様な元素が宇宙の中で合成される必要がある。恒星内で起こる核融合反応では鉄までの元素しか合成されないので、超新星爆発によって鉄より重いいろいろな元素が合成されるのを待たなければならない。さらにその残骸から第二世代の恒星が誕生し、その惑星系の中に生命が誕生し、長い進化の歴史をたどる必要がある。その全体に要する時間はざっと見積もって140億年くらいである。結局、宇宙の年齢が140億年であるのは、それを認識し得た人類がこの宇宙に誕生するために必要とされる時間が140億年だったからである。

 この立場は、現在の宇宙論をアプリオリとし、限定的に宇宙の年齢について人間の存在に根拠を求めるという意味で、「弱い人間原理」と呼ばれる。

 この立場をさらに推し進め、「観測内容は、観測者が存在できる条件を満たしている」という原理的な発想に根ざして、宇宙の構造や進化史や物理定数などの細部を含めた全体は人間が存在し得る条件を満たしているために、結果的にそれが認識され、そのようなものとして存在しているのであると結論する発想があり、これを「強い人間原理」と呼ぶ。

 宇宙論にかかわる物理定数としては、プランク定数、光速度、重力定数、単位電荷など多数存在するので、知的生命体誕生の要件としての自由度はかなり大きくて、いろいろな値の組み合わせが可能と思われるかもしれない。ところがどうもそうではなく、物理定数のどれひとつをとってみても、人類(=酸素呼吸をする有機物からなる知的生命体)が生まれるためにはその値をとる以外になく、この宇宙は人類が生まれるために絶妙のバランスを保って進化してきた、ということらしい。

 この「強い人間原理」がかつて注目を集めたのは、提唱者の意図に拘わらず、一般の「宇宙論愛好家」の間で様々な思考実験を喚起したからである。その結果、もしこの原理を受け入れるなら、人類のような知的生命体を育むのに不都合な別の進化を遂げた宇宙があって、結果的にそれが認識されないまま空しく存在していても良い筈であるとする、一種のパラレルワールドの存在を仮定するような議論まで広まった。実際に、私が岩波の雑誌「科学」の紹介記事によってこの説を知った1980年代前半には、そうした議論に接する機会も多かった。ところが昨今は、そうした議論にお目にかかることはない。それはたぶん、そのコミュニティ内において次のような批評的立場が確立されたからではないかと思う。

 パラレルワールド論は、この宇宙と別の宇宙との間になんらかの接点の存在、すなわち相互作用を認める立場と、それらが物質的、空間的、歴史的に全く接点を持たずに、我々は、別の宇宙のことを決して知ることはできないとする立場に別れる。

 前者の立場に立つとき、互いに接点を有する宇宙の集合を一つの「大宇宙」と呼ぶことが出来る。そして、その接点を通してなされる相互作用によって漏れ出てくる「別の宇宙」の情報から、「大宇宙」全体の構造や進化史を従来の科学の延長として研究したり、議論したりすることが可能である。もちろん、現在までのところ、そうしたパラレルワールドの存在をうかがわせるような兆候は得られていないので、この立場からの研究は盛り上がらない。これは、もっぱらSFの対象としてのみ存在していると言って良いだろう。

 一方、後者の立場で仮定されるパラレルワールドは、互いに接点を持たず、なんらの相互作用ももたらさないために絶対的に認識不可能なのであるから、「別の宇宙」とやらは存在しないも同然である。仮に存在し得たとしても、その宇宙のことを実証的に研究することは不可能であるし、この世界(我々の宇宙)に何らの影響も与えないので、議論すること自体が不毛に思える。もちろん未知の宇宙が、少なくとも出発時点においては我々の宇宙と平衡関係を結んでいたと仮定すれば、その未知の宇宙を我々の宇宙との対称性という観点から理論的に研究することは可能かもしれないが、実証不可能な課題に取り組む研究者はいないだろう。そういう次第で、SFの対象にすらならず、この立場からの研究は実際上行われることがない。

 従って、我々は、実質的にパラレルワールド論を気にする必要がない。

 以上のことは、この世界は我々のあずかり知らぬところで神の意思に操られて運動していると主張するような、ある種の宗教に特有の発想にもあてはまる。冒頭に引用したかつさんのブログで採り上げられたキアヌ・リーブス主演の映画「マトリクス」では、人間をあやつる「主」の存在を、かろうじてうかがわせるような兆候が描かれる。つまり、二つの世界に接点があり、相互作用が存在しているのである。そうである限り、我々は、その別の世界を科学の俎上に上げることができる筈だ。

 例えば、「幽霊」が「あの世」からの使者として我々の眼前に現れ、それを目撃することができるとすれば、「あの世」は科学の対象となり得る。そして、「この世」で起こる事実のみによって構築された科学の幅を、より広く、深いものにできる可能性がある。そうしたことは、下記のウェブサイトで正面から主張されている。
「超常現象批判の論理学と病理学」
http://www.02.246.ne.jp/~kasahara/criticism.htm

 上記は、「あの世」や超常現象の存在を示す兆候は十分にあるのだから、それを科学の俎上に上げるべきで、現在の科学がそれを拒んでいるのは頑に過ぎるし、そもそも科学の立場に反するとの主張である。しかしながら、このサイト運営者の科学の作法と手続きについての理解はあまりにもお粗末で、到底受け入れられるものではない。そのことは疑似科学批判の文脈で議論され尽くしているので、ここでは採り上げない。

 さて、話を「人間原理」に戻そう。この、一見奇妙な説は、少なくとも発表当初の一時期ではあったにせよ、一部にある種の新鮮な感慨を呼び起こし、周囲に伝染させる力を有していた。それ自身がなんらかの哲学上の立場に影響を受けて生みだされたものか、逆にそれが思想界にいくばくかの影響を及ぼすことになったのか、そうしたことは知らないが、その発想法そのものは明らかに旧来の科学の枠を超えていた。

 例えばこの「原理」は、理論物理学用語としての「宇宙」を、哲学用語としての「世界」という言葉に置き換えても、一面、有効である。ある哲学者が彼の描く「世界」をそのようなものとして認識するのは、その「世界」そのものが彼自身を育て上げ、彼自身の存在を保証する姿をしていたために、結果的にそう認識されたからであると言うことも可能だ。言わば「哲学における強い人間原理」である。

 この発想は、ある思想家がひとつの世界観を生み出すに至る歴史的・社会的な背景をめぐる巷にありふれた議論と異なって、その哲学が描く「世界」の内側に、その哲学者を生み出す必要条件を閉じようと発想する点で、独特の論理構造を有している。人は間違いをおかしやすい存在であるから、論理だけで構築された「世界」には矛盾が潜んでいる可能性は大きい。彼が構築した「世界」が彼自身の存在を拒絶しているとすれば、それこそ矛盾の最たるもので、「強い人間原理」の立場からは、そのような「世界」はあってはならないものと言うことができる。

 ここで気になるのは、デリダの言う「脱構築」である。創っては壊されるデリダにとっての「世界」とはどのようなものか、というより、ひとつの「世界」から「脱」して、素に戻ったデリダにとって、新たな「世界」を構築する作業の、その足場はどこにあり得るかということが問題になるかもしれない。素に戻ったデリダにとって、少なくともその瞬間、「世界」は消滅していた筈だ。おそらく、フッサールの現象学から出発したのらしいデリダであればこそ、彼の作業は可能になったのだろう。あらゆる「判断停止」の果に残されるのは、生物としてのヒトの「仕様」そのもので、デリダはそこを足場にした。そうであれば、これはもはや、宇宙論における人間原理となんら区別がない。

 我々は、哲学(者)の数とほとんど同じ数だけの「世界」が並立していることを知っている。つまり、パラレルワールドである。しかも、それらのパラレルワールドは相互に接点を持ち、互いに影響を及ぼし合う存在であり、全体として一つの大きな「大宇宙」を形作っていると考えている(筈だ)。結局デリダは、自らの内に構築したパラレルワールドを渉り歩き、「ひとつの大きな世界」すなわち「大宇宙」を俯瞰しようと夢見たのではないか。

 以上は、素人なりに、フッサールからデリダへ至る思想史の系譜の不思議さに魅かれる私の、妄想の産物である。
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注1:「人間原理宇宙論」で検索すると多数のウェブサイトがみつかる。

前回のエントリは、そのコメント欄に書いたように、ぷろどおむさんの下記ブログで採り上げられていることを知らずに書いたもので、関連してはいるものの、ややかみ合わない内容となっているかもしれない。
http://preudhomme.blog108.fc2.com/blog-entry-102.html
;
http://preudhomme.blog108.fc2.com/blog-date-20090528.html

人体への影響は、直接的にはシーベルトで議論すべきとの主張はもっともなこと。ただ、私の最初の記事は「劣化ウランと原発用濃縮ウランの放射能は大して違わない」と題しており、そのスタンスは、各種法令に照らして、劣化ウランは厳しく取り締まるべき放射性物質であることに注意を喚起するためのものである。法令の基準値に合わせて、放射能強度(ベクレル)を計算すれば明らかであるが、人体への影響について素人の私は、それ以上議論しようとは思わない。ここでは、ぷろどおむさんの記述でやや正確さを欠くと思われるところなど、コメントを残しておきたい。

1) 放射壊変の基本式など
放射壊変の基本式は
D* = N0×(1−EXP(-λt)) ----- (1)
D*:放射壊変によってできた娘核種の原子数
N0:もとあった親核種の原子数
λ:壊変定数(単位は1/年、または1/秒)
t:時間(壊変定数の時間単位にそろえる)

t = 1(単位時間)で、λが極めて小さい値である時、
(1−EXP(-λt))=λ
と近似できるので、1秒間に起こる崩壊数であるベクレル(Bq)の計算は
Bq = N0 × λ ----- (2)
と近似できる。
この式はλの小さな(半減期の長い)核種には適用できるが、単寿命核種には(1)式を用いなければならない(注1)。専門家は理解しているつもりでも、素人に誤解を与えることになるかもしれないので注意が必要だ。

また、壊変定数は、半減期(T)を基にλ=ln(2)/Tと計算して得られるが、もともと、壊変定数が実測と同位体存在度などの検討から先に与えられていて、半減期の方が、これを基に計算すべき性質の値である。ウランの壊変定数は次の値を用いることがlUGS Subcommlsslonによって勧告されている。

238U:1.55125 E-10 (1/y) (= 4.919 E-18 (1/s))
235U:9.8485 E-10 (1/y) (= 3.123 E-17 (1/s))
234U:2.806 E-6 (1/y) (= 8.898 E-14 (1/s))

2) シーベルトでの比較
劣化ウランと濃縮ウランの実効線量(単位:シーベルト(Sv))の比較であるが、各種法令では、モル数ではなく質量ベースで諸量が定められているので、私のベクレルの比較もモルではなく質量ベースでおこなっている。そこで、ぷろどおむさんの発想に従って、ウラン1g当たりのα線のシーベルトを計算してみよう。

前回のコメント欄に書いたように、この時、234Uを考慮に入れるべきである。「天然比ウラン」では、その同位体比は0.0055%に過ぎないが、その値は放射平衡に達した結果であり、この僅かの量が主成分である238Uと等しいベクレルの放射能を有する。しかし、劣化ウランや濃縮ウランでは、それが精製された後で放射平衡に達したために234Uが含まれることになった訳ではない。その半減期は25万年と長いので、放射平衡に達するには100万年オーダーの期間を要する。これは、もともと天然のウラン中で放射平衡に達していたものが、六フッ化ウランとして「天然比ウラン」を精製した際に混入したものである。

天然比の状態から、ウラン濃縮のプロセスを経た結果の同位体比をどのように見積もったら良いだろう。最初のエントリで引用した下記サイトでは、ウランの濃縮プロセスでは235Uだけを選択的に濃縮する作用が働き、238Uや234Uの存在度は、その結果受動的に決まるものとしている。
http://kyoto.cool.ne.jp/zebedee/contents.html

上記では濃縮率を235Uが3%としているが、最近の原発の主流であるらしい濃縮率6%を採用すると、それぞれのウランの同位体比、および1gあたりのベクレルとシーベルトは以下のように算出される。

劣化ウラン(平均原子量:238.0415)
 同位体存在度(%)    Bq/g(注2)mSv/g(注3)
238U: 99.69448    12406    70.7
235U:  0.3       237     1.4
234U:  0.005523   12426    84.5
合 計:100       25070    156.7

濃縮ウラン(平均原子量:237.8702)
 同位体存在度(%)    Bq/g    mSv/g
238U: 93.99479    11706    66.7
235U: 6.0       4744    28.9
234U: 0.005207    11724    79.7
合計:100        28173    175.4
劣化ウランとの比     112%    112%

上記の計算は、モルベースではなく質量(1g)ベースである点、および234U を考慮に入れている点を除けば、基本的にはぷろどおむさんによる計算法と同じである。結果として、ベクレルでもシーベルトでも濃縮ウランは劣化ウランよりたかだか12 %高い値を示すにすぎず、「大して違わない」ことに変わりはない。このことは、238U系列に234Uが伴われる一方、235Uには短期間で放射平衡に達する系列核種にα線を放射するものがないこと、および、α線のエネルギーがほぼ同レベルで238U, 235U, 234Uの順に大きくなっていること、また、235Uが0.3%でも6%でも主成分は238Uであるに変わりないことなどを理解していれば、計算せずとも最初から明らかである。劣化ウランの156.7 mSv/gがどれくらい危険であるかは各自で考えれば良い。

3)核分裂など
ところで、「さざ波通信」に登場した大歩危氏のように、238Uの放射能を無視するような言説はウェブ上でありふれているのだが、そうした発想はどこから生じたのだろうか。ひとつには、放射平衡の概念が理解されていないこともあるのだろう。また、235Uは誘起核分裂を起こして原発や原爆のエネルギー原となるのに、238Uは誘起核分裂を起こさないことが狭義の放射壊変と混同適用され、238U は安全な物質との観念が生まれたのかもしれない。

実際は、自然の状態では235Uは一定質量以上集合しないかぎり核分裂を(ほとんど)起こさないのに、238U の方は、自然の状態で8.0E+15年の半減期で自発核分裂を起こす。238Uの自発核分裂による高速中性子が減速されて235Uに捕獲され、それが引き金となって誘起核分裂が起こる。また、238Uの自発核分裂を利用した年代測定法としてフィッショントラック法がある。α線によって鉱物の結晶構造に傷がつくことは(ほとんど)ないが(注4)、高エネルギー核分裂片の飛翔は、ウランを含む鉱物結晶に光学顕微鏡で観察可能なサイズの傷(フィッショントラック)をつけるので、ウランの濃度と傷の密度との関係から、その鉱物が結晶化した年代を知ることができる(注5)。このように、核分裂という点においても238U は無視できない。

核分裂片やウランが中性子を捕獲してできる核種は、そのほとんどが短寿命で、強い放射能を有しているため死の灰と呼ばれる。原発の使用済み核燃料に含まれる多量の死の灰は、再処理工程で取り除かれ、高レベル核廃棄物を生むが、その工程でも劣化ウランが生じる。この種の劣化ウランは、天然のウラン鉱石から最初に濃縮ウランを得る過程で排出される劣化ウランと異なり、僅かではあるが死の灰が混入している。実際、コソボで使用された劣化ウラン弾から天然には存在しないウラン236とプルトニウム239が検出されているという。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/Pub/29.html

この場合、単寿命の核分裂片をも含んでいる可能性があり、たとえ僅かでも危険性が高まる。
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注1:実際、半減期が25万年の234Uのベクレルは、近似式である(2)式で計算すると、本来の(1)式で計算した値より若干大きくなる。ExcelではEXP( )関数の引数が1E-16未満で値が1と返されるので、235Uや238Uの計算に(1)式を用いることができない。

注2:この値は、質量を平均原子量で除した後、核種毎の存在度、アボガドロ数、および壊変定数を乗して得られる。ただし、234Uについては(1)式を用いた。

注3:計算に用いた実効線量係数は、下記の「別表第1」により234Uについて6.8E-3、235Uについて6.1E-3、238Uについて5.7E-3の値を用いた(単位はmSv/Bq)。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/k20001023001/k20001023001.html

注4:厳密に言うと、多量のα放射により結晶構造が壊れ、メタミクト化(非晶質化)がおこることがある。

注5:厳密に言うと、高温の状態ではその「傷」は自然に修復される(焼き鈍される)ので、結晶化した後、焼き鈍しが起きない程度まで冷却された時点から時を刻むことになる。

前回の記事内容についていくつかの誤解や批判が生じているようなので、以下に補足する。今の時点でコメントはないが、いろいろと取りざたされているようなので、取りあえず、今回の補足を(その1)としておこう。

1)放射能の単位(ベクレル: Bq)ではなく、吸収線量(グレイ:Gy)や線量当量(シーベルト:Sv)で議論すべきとの批判について。

まず、放射線関連の単位系について簡単に整理しておこう。
ベクレル(Bq):放射性元素を含む物体が、一秒間に放射壊変を起こす回数(=カウント/秒)。
グレイ(Gy):放射線を浴びる物体が、単位質量当たりに吸収するエネルギー(=J/kg)。
シーベルト(Sv):生体(人体)が放射線から受ける影響の強さ。これは放射線の種類により異なるために、個々の放射線の吸収線量(グレイ)に、放射線の種類毎の放射線荷重係数(R)を掛けて足し合わせたもの。Rは、ICRP(国際放射線防護委員会)の勧告に従って、β線・γ線の1に対し、α線は20と定められている。

つまり、ベクレルが物質の属性としての単位であるのに対して、グレイやシーベルトは空間の属性から派生したものであり、単位時間あたりのグレイ/時(Gy/h)とマイクロシーベルト/時(μSv/h)は、ともに「空間線量率」と称される。同一のベクレルからなる物体が存在したとしても、空間線量率は条件次第で大きく変化し、一義的に定めることはできない。したがって、ある物質の放射性に関わって、その物質そのものの危険性を議論する場合には、空間の属性ではなく、物質の属性としてのベクレルを用いるのが基本となる。

例えば、精製直後の純粋なウランはα線だけを放射するが、α線は大気中で数cm程度しか届かないので、そのウラン塊がどれほど大量に在ったとしても、10cm以上離れると空間線量率はバックグラウンドと等しくなる。だからと言って、その「純粋なウラン塊」が放射性の観点からは全く無害な物質であるという評価にならないのは自明のことであろう。そのため、原子力基本法関連の各種政令では、放射性物質の規制限度量を核種毎の質量またはベクレル単位で定めている。

2)劣化ウランからのα線、β線放射の実態

一方で、ベクレルだけではその危険性を評価できないのも確かである。そこで、放射線防護の観点からは、ベクレルを基礎として、その物体からどのような放射線がどれくらい放射されるのかを具体的に見積もる必要がある。2004年の「さざ波通信」への投稿では、その事に力を注いだ。

この計算で重要な概念として「自己遮蔽効果」がある。これは、放射性物質の内部で生まれた放射線は、その物質自体に吸収されてしまい、外部へ抜け出ることができない場合があるということ。粒子線であるα線やβ線が物質中を進むことのできる距離を飛程と呼ぶが、物質表面から飛程以上の深さで生まれた放射線は、その物質の外部へ抜け出ることができず、実質的に放射されることがない。

α線の飛程は、ウラン238(4.198MeV)、ウラン234(4.775MeV)、およびウラン235(4.679MeV)のいずれから放射されるものでも、密度19.2g/cm^3の金属ウラン中ではわずか2〜3μmほどしかない。
これに対してβ線の飛程は、トリウム234からのもの(0.199MeV)が40μm、プロトアクチニウム234からのもの(2.27MeV)が800μm、トリウム231からのもの(0.389MeV)が100μm程度となる。

結局、放射平衡に達している核種からの各種放射線の放射率は、その放射性物質内部における個々の放射線の飛程の比に等しくなり、そのため、劣化ウランからの放射線の大部分はβ線ということになる。したがって、「劣化ウランは主要にはα線を放射する」というのは誤りであり、そのことを根拠にした言説は無視してよい。なお、1気圧、20℃の大気中におけるプロトアクチニウム234からの2.27MeVのβ線の飛程は、9.1 mである。つまり、β線放射の重要性は体外被曝・環境被爆の問題へ直結するという点にある。

いずれにしても、密度の大きな金属ウラン中では、飛程がこのように小さいことから、α線やβ線の放射は、ウランの質量ではなくその表面積に依存することになる。計算の結果、表面積が24 cm^2(一辺が2cmのサイコロ)の劣化ウラン塊(重さ152gで25 mm機関砲に含まれる劣化ウラン量にほぼ匹敵)から放射されるβ線は、10万 cps(カウント/秒)程度となる。

下記ウェブサイトの”DU in Iraq”のページに、イラクに転がっていた不発弾のサーベイメータによる実測値として、β線が12,000 cps 、α線が12 cpsという値が公表されている。
http://www.llrc.org/du/duframes.htm

私の試算は、一辺が2cmのサイコロ状のものから全方位へ放射される総量を示しているが、サイコロの1つの面にGM(ガイガー・ミュラー)管の窓を当てて測定する状況では、カウント率はほぼ1/6になる(線源効率)。また、GM管の機器効率(エネルギーに依存し、10〜70 %と変化する)を考慮すると、上記レポートの数値は予想される値に一致する。

その放射能が761万ベクレル(147グラムの時736万ベクレル)と算出されるのに比べると、「自己遮蔽効果」のために相当小さくなっているということであるが、これを粉砕して表面積を増やせばいくらでも増大し、α線の放射も無視できなくなるということでもある。特に、その微粉末が体内に取り込まれ、体液に溶け出したら、その分のベクレル値に匹敵するカウント率で放射線を浴びることになる。

3)逆に、原発用濃縮ウランも大した放射能はないということか?

日本国内の通常の場所では、窓の直径5cm程度の一般的なβ線用GM管サーベイメータのカウント率は0.7〜1.2 cps程度となり、花崗岩に当てると2.0〜3.1 cps程度になる。γ線に感度のあるシンチレーションカウンタを用いると、この10倍程度のカウント率が得られることもある。いずれにしても、我々が外部環境から日常的に浴びている放射線の量はその程度のものである。

これに対して、イラクで見つかった不発劣化ウラン弾のGM管サーベイメータによる測定値は12,000 cpsとのことで、環境放射線の約1,000倍以上ということになる。前回書いたように、この数値をもって直ちにどれくらいの危険があるかを言うことはできない。要は、安全性を断定できないということだけは確かであるということだ。それが安全であると主張する者は、そのことを証明する義務がある。

原発燃料の取り扱い指針は、居住区にばら撒くことなどはなから想定してはいないのだが、それでも、厳重に密封管理 されているものでさえ1個が370万ベクレルを越えるものは厳しい規制の対象となる。1発が、その規制値の2倍もの放射能(Bq)を持つ劣化ウラン弾を、他国民の頭上に、何百トンもばら撒く(打ち込む)など、許す事のできない暴挙と考える。

次回はたぶん、ウラン235の誘起核分裂とウラン238の自発核分裂について、使用済み核燃料について、および核原料物質(ウラン鉱石)から直接得られる劣化ウランではなく、再処理工程で排出される劣化ウランの特徴とその危険性について書くことになるだろう。

以下は、私のこのブログの最初の記事「劣化ウラン(DU)の評価についての奇妙なねじれ」(2007年10月6日)のコメント欄で、通りすがりの方から「社会的無責任」を指摘されたので、それに応えるべく書いたものである。タイトルはやや刺激的だが、「トンデモ」と思って喰いついていただけたら幸いと考えてのこと。実際、劣化ウランの本質をうまく表現したキャッチコピーとして有用かもしれない。その表現の正しさについては、後半にふれることにしよう。

さて、今年はイタリア政府が退役軍人への劣化ウラン被害一括補償を閣議決定したとのニュースもあって、ウラン兵器廃絶へ向けた国際的な動きが加速している。私がこの問題にかかわることになったのは、2004年5月に「さざ波通信」主題別討論欄の「イラク戦争欄」と「一般投稿欄」で行われた劣化ウランをめぐる議論に参入したのがきっかけである。
http://www.geocities.jp/sazanami_tsushin/

当時、大歩危と名乗る方が「基本的に普通弾と大差のない劣化ウラン含有弾の残留放射能・・・云々」と主張して、ウラン兵器廃絶に向けた取り組みを「トンデモ」扱いし、「政治的プロパガンダに踊らされている」と批判していた。これに対して私は、147グラムの劣化ウランを含む25ミリ 機関砲の放射能(Bq)や、β線の放射強度(cps)を計算で示すなど、それが誤りであることを科学的に論証し、反論した。議論はひと月以上続いたが、最終的に大歩危氏は私の主張を受け入れ、「さざ波通信」から撤退することとなった。

この議論の過程で私は、劣化ウラン弾の廃絶に取り組んでいる日本国内のグループの多くも、劣化ウランの危険性を正確に把握できていないことを知り、その代表例として中国新聞社のウェブサイト「劣化ウラン弾 被曝深刻」を挙げた。
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/uran/

上記サイトに、「劣化ウランは主要にはα線を放出し・・・」と記述されいるが、これは誤りで、実際にはβ線の放射の方が圧倒的に多い。誤りの本質は、ウランからの中間娘核種の生成と放射平衡の概念など、物質科学的な無理解から、核種の名称であるウラン238と工業的生成物である劣化ウランを混同したことにある。

関係する基礎理論や物質科学的なデータを記載した有用なウェブサイトはいくつもあるが、それらを読んだだけで劣化ウランの危険性を正確に把握するのは困難である。例えば、劣化ウランの99.7%がウラン238からなり、ウラン238はα線を放出するということくらいを知っている程度では、中国新聞社のウェブサイトの例のように、誤った結論さへ導かれる。実際に劣化ウランの危険性について何事か意味のあることを言うためには、最低限、以下の知識が必要だ。(ここでは、疫学的なデータについては言及しないが、その重要性を否定するものではない)

1) 天然ウランおよび劣化ウランの物質科学
2) 中間娘核種の生成とその増大、および放射平衡の理論と計算
3) 放射線の種類と透過能・飛程
4) 放射能や空間線量率、実効線量当量などの単位系とその意味
5) 放射線測定器の種類と機能、使い分け
6) 放射線の生体に与える影響
7) 原子力基本法関連の法律およびICRP(国際放射線防護委員会)の勧告
場合によっては、「放射線ホルミシス効果」やウランの化学毒性についての知識も要求される。

「さざ波通信」での議論ではそれらについて網羅的にふれているので、興味のある方は参照されたい。ただし、私も「劣化ウランの専門家」ではなく、当時、教科書を取り出し、古い記憶を手繰りながら投稿したこともあって、本質的ではないが言葉遣いなどの点でいくつかの誤りがある。例えば、「放射平衡」と書くべきところを「同位体平衡」と書いているし、「永続平衡」との混同もあった。

それにしても、放射性物質の危険性については未解明の問題も多く、十分な知識があったとしても、その危険性一般について断定的な事を言うのは不可能に近い。だからと言って、劣化ウランの危険性について何も言えないかというとそうではない。まず言えることは、劣化ウランは安全であるなどとは誰にも断定できないということだ。これは重要なことで、住民の上にばら撒かれる化学物質については推定有罪の原則が適用されるべきである。この場合、安全であると主張する側にこそ、それを証明する義務がある。

しかし、そう主張したところで、現にそれを使用している者や、大量に溜め込んで、安易な処分を目論んでいる者らが態度を変えることはないだろう。相手は権力だからだ。それを動かすには、我々市民の側の結束した圧力が不可欠となる。そのためには、劣化ウランが、現行の法体系やICRPの勧告に照らして厳しく取り締まるべき放射性物質であることを証明すれば良い。我々は、劣化ウランの絶対的な危険性については断定できないが、法令によりその取り扱いが厳しく制限されている物質と比較することで、その相対的危険性を示すことは可能である。

さて、このエントリの表題の意味であるが、実は、その事は既に下記のサイトに詳述されている。
http://kyoto.cool.ne.jp/zebedee/contents.html

その中の「劣化ウラン」のページには、「「劣化ウラン」、「天然比ウラン」、「濃縮ウラン」の放射能はほとんど差がない。」と記され、付表に、天然比ウランの放射能を1とした場合に、劣化ウランと濃縮ウランの放射能がそれぞれ0.99と1.05となることが示されている。また、それを計算するためのExcelファイルがダウンロードできるようになっている。

このサイトが何時の時点で開設されたのか知らないが、もし2004年当時このサイトの存在を知っていたなら、あの時の議論は半分程で済んだかもしれない。当時私は、話を分かりやすくするために「精製」直後の劣化ウランをウラン238が100%からなるものと単純化し、「精製」後数ヶ月を経た劣化ウランの放射能を天然ウランと比較して、劣化ウランは天然ウランのおおよそ14分の3になることを示し、その相対的危険性について議論した。上記サイトでは、そうした単純化を排し、特にウラン234の存在を考慮して、上記の比が14分の4程度となることを示している。こちらの方が精確である。

ここで、基礎的なこととして、ウラン系列の放射壊変について簡単に整理しておこう。親核種としてのウラン238は14回の放射壊変を繰り返して、最後に安定な鉛206となる。その過程では13種の中間娘核種の状態を経るが、それぞれが固有の放射線を放出する。具体的には以下のようになる。

(以下、α、βは崩壊の型、数値は半減期)。
ウラン238(α:44.7億年) → トリウム234(β:24.1日) → プロトアクチニウム234(β:1.17分) → ウラン234(α:24.6万年) → トリウム230(α:7.5万年) → ・・・(中略)・・・ → 鉛206(安定)

ウラン235を(みかけの)親核種とするアクチニウム系列は11回の放射壊変で10種類の中間娘核種を経て最後に安定な鉛207となるが、詳細は省略する。

 一般に、半減期の長い親核種の放射系列において、全ての中間娘核種の半減期が親核種の半減期に比べて十分に短い場合、それら中間娘核種の半減期の7倍程度の時間を経過すると、それら中間娘核種の個々の含有率はあるピークの値に達し、その後は親核種の減少と共にごくゆっくりと減り続ける。この、ピークに達した以降においては、単位時間に新たに生まれる特定の中間娘核種の数は、それが崩壊する数と等しく、つり合っている。この状態では全ての中間娘核種の個々の放射壊変は親核種の放射壊変と同じ頻度で起こっている。このような状態を放射平衡に達した状態と呼び、天然のウラン鉱石などがこの状態にある。

以下に、ウランを主成分とする物質を4つのカテゴリーに分類し、この業界で流通しているそれらの定義と放射能強度について整理し、まとめとする。

天然ウラン:
天然に存在するウランの意味だが、ウランだけでなく、ウラン起源の種々の中間娘核種を含んだ総体の意味に用いられる。ウランは、ウラン238が99.2745%、ウラン235が0.72%、残りの0.0055%がウラン234からなるが、ウラン234はウラン238系列の中間娘核種で、独立したものではない。天然に長期間放置された結果、全ての中間娘核種が放射平衡に達し、親核種と同じ頻度で放射壊変を起こす永続平衡の状態となっている。その結果、放射能強度をベクレル(Bq)で表せば、ウラン系列についてはウラン238単独の放射能の14倍となり、アクチニウム系列はウラン235単独の放射能の11倍となる。

天然比ウラン:
ウラン鉱石からウランだけを化学的に精製したもので、その同位体比は天然ウランに等しい。精製後数ヶ月を経つと、ウラン系列の中間娘核種であるトリウム234、プロトアクチニウム234、ウラン234、およびアクチニウム系列(ウラン235起源)のトリウム231が放射平衡に達するので、実際上これらの放射性元素を含んでいる。その結果、ウラン系列についてはウラン238単独の放射能の4倍となり、アクチニウム系列はウラン235単独の放射能の2倍となる。

濃縮ウラン:
ここでは通常の原発の燃料として一般的に用いられるウラン235が3%、ウラン238が97%程度のものを指す。主成分は依然としてウラン238であることに注意。これも、天然比ウランと同じくウラン234の他、ウラン以外の3種類の中間娘核種を含んでいる。放射能強度は、各系列について天然比ウランと同様の倍率を考慮する。

劣化ウラン:
濃縮ウランを精製した残りカスとして排出される、いわば産業廃棄物である。ウラン235が0.3%程度、ウラン238が99.7%程度となっており、天然比ウランと同じくウラン234の他、ウラン以外の3種類の中間娘核種を含んでいる。放射能強度は、各系列について天然比ウランと同様の倍率を考慮する。

以上を基礎に、壊変定数から計算されるそれぞれの放射能強度は、天然比ウランの放射能を1とした場合に、天然ウランが3.55、濃縮ウランが1.05、劣化ウランが0.99、となる。すなわち、表題に示したとおりである。原子力基本法では濃縮ウランも劣化ウランもともに「核燃料物質」と定義され、その取り扱いは厳しく制限されている。

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